CAGE
洋平が片桐につれてこられたのは、築年数は花道の住まいにも匹敵するだろうと思われるようなアパートの一室だった。
西向きの、今の時間では日もあたらない六畳一間。口内の洗浄を済ませる頃には、洋平の内臓はだいぶ落ち着きを取り戻していた。改めて、片桐の姿を見遣る。薬箱から取り出した胃腸薬をテーブルに置いたところだった。
「使用期限過ぎてるから薬の効用はないけど、スッキリはするはずだ。飲んどけよ」
どこへつれてゆくのかと聞いたとき、近くのアパートだと言った。安全な場所だと。花道が探している。早く待合せ場所に向かわなければならないと思った。だが、片桐はそれを許さず、また、ここに辿り着いてからも洋平は胃痛に苦しめられていた。片桐の手を振り払ってまで逃げる気力は洋平にはなかったのだ。
感謝はしていた。だが、片桐がしたことのおおよその部分は余計なお節介の域を出ない。洋平が万が一礼など言ったら、片桐はおそらく『困ったときはお互い様だよ』などと言うのだろう。そんな当たり前の言葉の前で、洋平は楽に呼吸することができなかった。背景に見える一分の影もない光の前で、いつも隅に追いやられている気がする。
テーブルに置かれた胃腸薬を素直に飲んだ。片桐が言うようにいくぶんスッキリした気がする。
「本名、名乗ってたな。どうしてだ」
ずっと黙ったままだった洋平の、初めての言葉だった。回復に向かっていることが自然に片桐をほころばせる。
「嘘をつくときは嘘を重ねちゃだめだ。その中に一つ真実があるかないかで与える印象が格段に違う。大事の前の小事、ってやつかな」
「困らねえか、あとあと」
「平気だろ? オレは業者テストではいつも十位以内に入ってるし、同じ学校の山田君だって五十位には入ってる。それにオレ、あの学校受験する気ねえし」
「……サイテーの学校だ」
胃袋が軋む。いったい誰が想像しただろう。あの行為こそが、あの男の愛情だったなんて。
悪い奴は最後まで悪い奴でなければならなかった。悪い人が弱い人であることを知ったら、傷つけられていた者はただ吐き続けるしかなくなるのだ。
「割り切っちまえば? 結局のところ親だって人間だろ?」
片桐の言葉に急激にわき上がってきた感情の名前を、洋平はうまく言葉にはできなかった。幸せな家庭に育った、何も知らない幸せな男。片桐が口にしていい言葉じゃなかった。
「てめえ……何を調べた!」
「調べてねえよ。学校案内もらいに行っただけだ」
「何も知らねえ奴が知ったような口きくんじゃねえよ! 何様のつもりだてめえ!」
「落ち着けよ。神経性胃炎が悪化するぜ」
片桐の言うとおりだった。胃袋がどうにもできないくらいキリキリと痛む。悔しさに涙さえもにじんでくる。まるで同情するように心配そうな視線を向ける片桐は、洋平が掴みえなかった幸せの象徴のように思えた。
「ぬくぬく生きやがって、幸せな顔しやがって! 同情なんかできるはずねえだろ! 気持ちは判る、ってかぁ? ふざけたこと言ってんじゃねえよ! 頭で考えて判ることだらけなら誰も苦労しねえんだよ!」
「ああその通りだ。判ったから落ち着け。あいにくこの部屋には使用期限過ぎた胃薬しかねえんだ」
思いがけず激してしまった照れ隠しもあって無意識に煙草を取り出す。火をつけようとするところ、横から取り上げられていた。
「コラ! こういうもんに頼るから胃にくるんだよ。それにこの部屋は禁煙だ」
「てめ……説教なら聞きたくねえ。ひとをガキ扱いしやがって。幸せ一杯に生きてきた奴にいろいろ言われたかねえんだよ。恵まれた家庭でのうのうと生きてきた奴に異常な家庭が判るか」
「判らねえよ。それに、説教たれる気もねえ。オレは幸せな家庭の長男で、母親は専業主婦で愛情に不自由した覚えもねえ。小学校中学校いじめにあったこともねえ。勉強もできるしスポーツも得意だ。オレより幸せな奴ってのはどこ探したってそういるもんじゃねえよ」
話しながら、片桐は洋平から奪い取った煙草をゴミ箱に放り込んだ。その理不尽さは洋平を呆然とさせるに余りあるものがある。仲間たちにはいないタイプの人間だ。
「幸せな奴には判らねえ事は多いさ。だけど、幸せな奴だから判るって事もあるぜ。家庭の事情なんてどこも似たりよったりだ。そういうもんを自分で割り切ってかねえと、囚われっぱなしで一歩も進めねえだろうが。自分から絡まってっから神経性胃炎で吐く羽目になんだよ」
なにも知らない奴が簡単に吐く言葉は、それ自体が屈辱だった。胃の痛みさえなかったら今すぐ飛び出して二度と片桐には会わないと天に誓ったことだろう。割り切るために父親に会ったのだ。認めたくはない。片桐の言うことはおおよそ真実に近いのだと。
負けを認めることだった。屈辱の中で傷つけられてきた自分が、のうのうと幸せに包まれている人間に、現時点で負けているのだと。父親よりも、片桐の方がより洋平に屈辱を感じさせる。
「不幸な自分に甘える奴はオレは嫌いだ。うしろむき過ぎる。自分が幸せだって事に気づかねえ奴もな」
「……なんだかんだ言って説教してんじゃねえかよ」
「そうだな。わりい、もう言わねえよ」
そもそも初っぱなからペースを崩されまくっていた。ここまでばかにされて一言の反論もできないのは胃の痛みのせいなのだと思う。それに輪をかけて片桐は変な奴だった。ほとんど初対面に近い人間に対してここまでずけずけ言いたい放題言う人間も、ほかでは見ないタイプだろう。
「……どうしててめえみたいな奴が地区の総長なんだよ」
洋平の溜息混じりの問いは、片桐にとっては既にお馴染みの質問だった。そもそも不良少年からは嫌われる優等生である。誰が見ても不釣合な人事だろう。
「どっちかって言うと強制指名の雇われ総長に近いな。対立してたもう一人の候補がけっこう危ない奴でさ、そいつにタイマンで勝てる奴がオレしかいなかった。おかげで最初は連中の半分にはシカトこかれたけど」
「だろうな」
普通の神経を持った奴なら、こういう頭が上にいたらさぞかしやりにくいことだろう。
洋平が無言の意思表示で理解を示すと、片桐は少し遠い目をした。そして、思い出したようにぽつりという。
「タイマン、張れるかと思った」
上目遣いに見上げた片桐の目は、今日今まで見た限りでは一番あの夜に近いものがあった。
「あんとき、お前と決着つけられるんじゃねえかって。バカな期待しちまった。……水戸洋平が副代表なら必ずそういう方向にもってくはずだって。オレの見当違いか?」
あの夜、洋平が花道に授けた作戦は、確かにそうだった。まるめ込んだと思った洋平の誤算。
「もってったさ。だけど裏切られた」
―― だからお前は幸せなんだよ。
その言葉を、片桐は口にはしなかった。早く洋平が気づけばいいと思う。片桐と同じくらい、幸せな自分を抱えていることを。不幸であることが必ずしも幸せでないことではないのだと。
窓の外に視線を感じて、片桐は軽く手招きをした。その数十秒後、安アパートのドアから一人の男が駆け込んできたのだ。
「洋平!」
「花道……?」
一足飛びで近づいてきた花道が有無を言わさず洋平を抱きしめる。考える暇もなく、洋平は花道の力強い腕の中にいた。一瞬、意識が溶けてなくなりそうになる。花道の匂いにすべてを忘れる。
「洋平、よかった……! オレ、お前のこと探して……待合せ場所にはこねえし、つかまっちまったんじゃねえかって。まさかとか変な心配までしちまって……あんま心配かけんなよ馬鹿野郎!」
「……おい、よせよみっともねえ」
「一人じゃねえって、お前もっと判れよ! みんなお前のこと心配してんだ。お前がいなけりゃ、オレ……」
いつしか、すべてを忘れた。ここがどこであるのかも、今目の前に誰がいるのかも。花道の後ろから遠慮がちに入ってきたこの部屋の正当な持ち主には気づかずに。
「参ったよ、信。洋平を探せの一点張りでさ。ここじゃねえかって見当つけてきたんだけど、正解で助かったわ」
「悪かったな、心労かけて」
「いや。あんとき学校の中に走ってったのお前だけだったし、今までの行動パターン見てりゃどうせお節介やいてるに決まってるからな。……ほんの数十分一緒にいただけで判ったよ。総長としちゃお前は変わってるけど、あいつもそうとう変わってる。よく今まで何事も起こさずにやってこれたもんだ」
一学年下の、片桐の副総長。本当はタメなのだと知ったときから、二人は親友になった。
「好きなんだろ、水戸のこと。同じ立場ならオレだって命張ってる。水戸にしたって今まで一年間、桜木が暴走しねえように命かけて抑えてきたんだ。そういう想いの強さには勝てねえって」
「……利用されるってのも、そう悪い気分じゃねえな」
共にあること。ただそれだけを求める季節がある。
彼らが地区のトップという重責から開放される日は、一週間の後に訪れようとしている。
よく晴れた、暑い日だった。
一回り部屋の中を見回す。ほとんどの荷物はそのままだった。掃除を済ませて、自分で買った物とこれから必要な物だけを運び出した。夏の日差しにわずかに埃の舞う部屋。どれだけの時間を過ごし、どれだけ多くの慰めを受けたことだろう。
最後の荷物は肩かけかばん一つだった。出口で一度振り返って、笑顔で別れを告げる。この部屋が好きだったから。たくさんの想いがこの部屋に落ち、知らずに吸い込まれて洋平の色に染まっているこの部屋が最高に好きだったから。
階段を降りると、台所で背を向けてグラスを傾ける母がいる。母は何も言わなかった。自分の弱さを忘れるためにアルコールに頼る母に、洋平も何も言えなかった。自分が好きだったもの、その数を数え上げれば、その中に一番最初に数えられるのはこの母だった。穏やかにそう思える自分が、一番幸せな気がする。
夏の強い日差しが好き。その向こうに最高の光で輝く赤い髪も。
「洋平、荷物、それだけか?」
「ああ、これで最後」
鞄を花道に手渡して、洋平はもう一度振り返った。生まれて育った家に最後の別れ。この家も好きだった。それは本当にたくさんの苦しみの源だった家だけど。
好きな物。好きな人。そして、一番好きなこと。数え上げるたびに一歩ずつ幸せに近づいてゆく気がする。その事実に、洋平は新鮮な驚きを感じていた。嫌いな物、傷つけられた思い出を数えていたときにはまるっきり思いもつかなかった。あのころの洋平は一つ数えるたびにどんどん不幸になっていった気がするのに。
あれから何度も片桐の言葉を思い出した。無遠慮で尊大だったというマイナスイメージが薄れると、その言葉の一つ一つがすっきりと心の中に入ってくる。その中のいったい何が洋平を動かしたのかは判らない。幸せな奴を知り、幸せにつつまれた人間に初めて触れて、自分が幸せになる方法を見つけたような気がするのだ。
不幸であることは、必ずしも幸せでないということじゃない。
本当に幸せな人間は、自分が好きな何かを知っている人間だと思った。だから洋平は好きを数え続ける。好きがたくさんある自分を発見する。
「おお、よかった。間にあったじゃん」
声に振り返ると、なにやらたくさんの荷物を抱えた親友達がいる。洋平は数える。三人の仲間達を。
「ほとんど荷物持たねえって聞いたからよ。うちで余ってる食器とかのたぐい持ち寄ったんだ。まあ、一人暮らしじゃいらねえだろうけどな。オレらのたまり場になりそうな気もするし」
言葉に続けて大楠が手持ちの巨大な紙袋を軽く持ち上げてみせる。洋平は自然に顔がほころんでいた。
「サンキュ、珍しく気が利くじゃん。そっちは? こたつか?」
高宮と忠がかついできたのは見ての通りのこたつであった。どう見てもこたつである。
「意外と重いんだぜこれ。……軽トラか。まだ乗るよな」
「おめーらばっかじゃねえの? 何で真夏にこたつなんだよ」
花道の揶揄に勢い込んで反論したのは高宮。
「こたつを甘くみるんじゃねーよ! これから受験体勢に入るんだぜ、洋平は。夏はテーブル、冬はやっぱこたつだ。頭寒足熱にゃこれが一番! ふとんの方は時期になったらまた運んできてやっから」
「サンキュ。助かるよ」
「洋平は受験体勢になんか入らねえよ。オレんちで勉強見てくれる約束だ」
「……え? 洋平受験勉強しねーの? お前なら勉強すりゃけっこういいとこ狙えんじゃん」
「洋平はな、オレと一緒に湘北行くんだ。そうだよな、洋平」
花道の言葉と仲間達の視線に、洋平はうなずいていた。得意になって肩を抱く花道がいる。顔を見合わせて自然に笑う仲間達がいる。
「そーか! 洋平も湘北か! そしたらオレらまた三年間一緒じゃねえ」
「桜木軍団全員で湘北に乗り込むか!」
「でもそれすらあぶねえ奴が一人。……こいつが落ちたらお笑いだな。桜木抜きの桜木軍団!」
「おい、てめーらそういう不吉なこと言いやがって。オレには洋平というつえー味方がいるんだ。この天才に不可能はねえ」
笑顔がこぼれる。どこにも力の入ってない、一番自然な笑顔が。
一番好きなことはこの仲間と共にあること。それに気づいたとき、幸せになることは意外に難しく、意外に簡単であることを知った。気づかせてくれたのは、たくさんの人達の好きという想い。洋平に対する、仲間達の『好き』だった。
好きな人がいる。最高に居心地のいい仲間が。それだけでも十分幸せでいられる気がする。一番の宝物の赤い髪と、一番の親友達に囲まれて。
ただそこに存在するだけで意味のある自分。
了
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