CAGE
最初は、一人の男。
派手な戦闘服に身を包み、チェーンをぶらさげた律儀な男は、回りを見回して誰にともなく溜息を吐く。
「なんだよ、トップかよ」
約束の時間は十五分も先である。これだけ早ければしばらくは一人で退屈な時間を過ごさなければならないだろう。
「ちぃっ! ……あーあ、早くこねえかな」
チェーンをぷらぷらやりながら、通る人になにやら奇異な視線を向けられて、男は待ち続ける。その意味も自分の役割もほとんど理解できぬまま。
三十分後、皇華学園高校前に集う人数は約三百倍に膨れ上がる。
「待ちたまえ! いったいここをどこだと思ってるんだ! お前達のような不良が出入りするようなところじゃないんだぞ!」
禿げかかった副理事長の言葉は二人に何の感銘をも与えなかった。目指す場所は把握している。いずれ自分のものになるかもしれなかった部屋。
「外の奴らはお前らの仲間だろう。何のつもりだ。止まらないと不法侵入で警察に通報するぞ! 仲間達が補導されてもいいのか!」
もとより力には格段の差があった。言葉以外の静止行動がこの臆病な男に取れるはずもない。さして遠くないドアに辿り着く。金文字のむかつくレイアウトが更に戦闘意欲を掻き立てていた。
「入ってはいかん! そこは理事長室だ……アッ!」
長身の馬鹿力がドアごと男を押しのけていた。転がる男になど興味はない。二人の視線は既に、部屋の中に立ちつくす一人の男に向けられていた。
「……やっぱりお前か、洋平」
男は眉一つ動かさなかった。あらかじめ予測していたのか、それとも、そう振る舞うことに慣れ過ぎているのか。
「田嶋君、心配はいらないようだ。彼は私の息子でね」
頭を押さえておき上がった男はその顔に追従の笑みを浮かべていった。
「ご子息で……それはそれは、なかなかに利発そうな……」
「これまで親に反抗することのなかった子だ。少しこの子と話がある。しばらくは誰も取り次がないようにしてくれたまえ」
「承知いたしました。……あの、さし出た振る舞いを……」
「気にすることはない。知らないでしたことだ。私はいずれこの子を跡取りにと考えている。よろしく頼むよ」
深々と頭を下げて、副理事長は退出した。下げた頭の向こうにある表情は隠して。
この部屋の窓から、正門は一望できた。二百人近い正門に集った仲間達は何か行動を起こすでもなく立ちつくしたまま威圧感を与える。
「初めて見るな、お前の友人というものを。髪を赤く染めて、力だけに頼るくだらない男のようだ。回りの人間を見れば、お前がどういう男なのかわかる。回りにどう思われているのかもな。学園に来たらそういう友人は作らんことだ」
本人を目の前にしてなお侮辱してみせる男。誰が最初にこの男を崇高な教育者だと言ったのだろう。僅かに反応した花道を、洋平は気配で抑えた。余計な弱みを見せればすぐさま足元を掬われる。
「外見でしか判断できねえ男には外見しか見ねえ奴しか寄ってこねえってことか。あの田嶋とかいう奴が、オレをただの不良少年としか見なかったようにな。オレがまだガキの頃、あいつはよくオレにお菓子やおもちゃを持ってきやがった。理事長の子供っていう記号にケツを振る最低な奴だ」
「ふん……なかなかに手厳しい。だがまあ、あの男は学園には必要な男なのだよ。何を考えているか判り易い。尊敬もされない」
「自分に自信のねえ奴ほど回りを無能な奴で固めたがる。取って替わられるのがそんなに怖いか」
初めて、男がぴくっと反応を示した。それでもまだ、洋平に対する態度を決めかねていた。押し殺した声で言う。
「お前、何をしに来た」
ポケットから無地の茶封筒を取り出して、無造作にテーブルに投げ出しながら洋平が答える。
「住むところを決めてきた。親権者の欄に署名と捺印。それから、オレが成人するまでの生活費として一千万、明日の四時までにこの番号に振り込んでおけ。たいした金額じゃないはずだ、あんたにとっては」
「な……」
目の前にいる少年は誰なのか。飼い馴らしてきたはずだった。その身体に奴隷の落胤を記して。
「何を言ってるんだ。お前が家を出て暮らせる筈がないだろう。馬鹿な真似は止めるんだ。だいたいお前はまだ中学生なんだぞ。親の庇護なしで暮らせる年齢じゃない」
―― コロシテヤリタイ…… ――
「どこへ行って、何をするつもりだ。どうせお前にできることといえばたかが知れてる。このまま親元を離れて働き口がそんなに簡単に見つかるか。金を食いつぶして、末路は決まったようなものだ。−ここにいればすべてが手に入るんだ。いずれは学園はお前のものになる。金と、名誉と、教養ある友人。いったい何が不満だ。
……許さんぞ洋平。お前は私が育てたんだ。私のたった一人の息子だ。お前はほかの不良どもとは生きる世界が違うんだ」
父親の言葉の何一つとして、洋平の心にかかるものはない。金と名誉と教養ある友人。教養が悪いとは思わない。ただ、それは人を測るための材料にはならない。傷ついた洋平を暖めたのはいつも、成績は最低の親友だった。地元の公立高校を出ただけの、親友の母親だった。
口を開いたのは洋平ではなかった。赤い髪をした、洋平の宝石。
「三百人からの兵隊が洋平の一言でタマるんだ。オヤジ、てめえが相手にしてんのはそういう男だ」
男の視線が初めて花道に注がれる。
「お前は……そうか。お前か」
「今、授業中だろ? ここから洋平が合図送りゃ、奴ら突入して来るぜ。試してみるか? シンガクコーコーのリジチョーさんよ」
二人を見比べて、いささかわざとらしく演技じみた素振りで男は笑い出した。神経を逆撫でする。
「確かに私はお前に教えたな。ナンバーツーとしてトップを動かすやり方を。……この男と犯ったか。−だろうな。お前にそこまでの性根はないはずだからな」
―― コロシテヤリタイ…… ――
「好きにすればいい。この男の名前も調べればすぐにわかる。今何かことを起こせば、補導することくらいどうということもない。愛しい男が捕まってもお前は構わないというわけだ」
―― コロシテヤリタイ……! ――
「いい、味だったろう? 私の洋平は。手とり足とり私が教えたのだよ。初めての私を洋平が忘れられるだろうかね」
花道が怒りにまかせて殴りかかろうとするところを、洋平は制していた。同じ気持ちでいるのだと掴んだ腕に込めて。最初から判っていた。あの日初めて抱かれたときから、この男との関係は破綻するしかなかったのだ。必要なのは、洋平の勇気だけ。
ポケットから、何かを取り出してテーブルに放り投げる。ちょっと眺め見た男はやがて勢いよく手に取って凝視した。顔色が変わる。
「これは……洋平!」
安ホテルの前。忠が撮ってくれた九枚のうちの三枚。
「洋平……お前は……!」
「言い訳は得意だろう、あんたは。だけど、他人をカンチガイさせることくらいはできるぜ」
「馬鹿な! これを公表すればお前だって無事には済まんぞ」
「失って悲しいものなんてオレにはねえんだよ」
それまでの会話を、男は思い出して呆然とした。テープに撮られていたとしても、あるいはそうでなくとも、もはや勝ち目はないだろう。すべてを失って放り出されるには、男は年を取り過ぎていた。顔を上げてそれでもまだ気力を振り絞って言う。
「闘い方を教えた覚えはない」
洋平が知る男はいつも、こんなに老けて見えただろうか。
「子供は成長するんだ。あんたはいい反面教師だったよ」
「……母親は、どうする」
「そろそろ許してやれよ。……まあ、いまさら相手にされるかどうかは知らねえけどな」
生まれるはずだった妹。彼女が生きていたら、あるいは何か違ったのだろうか。
それは判らない。幸せな家族の肖像など、始めからなかったような気がする。
のろのろとした動作で、男は書類にサインをする。その時だった。遠くでサイレンの音が鳴り始めたのは。
「洋平!」
一瞬、困惑した表情の二人の視線が絡む。まだ判が押されていない。だがこのままでは仲間達が−
「逃がしてくる! 待合せ場所で待ってるかんな!」
最良の手だった。洋平一人であればどうでも逃げられるだろう。男が自分を警察に引き渡すはずもない。窓を乗り越えてゆく花道をそれ以上は見なかった。
「オレだけ捕まえようとしてもムダだぜ。帰らなければ写真は適当な場所に郵送する手筈だ。封筒の表書きも書いて切手も貼ってある」
でまかせであっても、知る手段はない。男は完全に負けたのだ。
「親を捨てるか。……お前ならどうしたと言うのかな。軍人上がりの厳格な親に育てられて、その親も早くに亡くして、一代で築き上げた。愛され方も愛し方も知らなかった。遅い結婚でやっと授かった子供を、お前ならどうした。お前なら……」
震える手を強引に上から抑えつけて捺印する。それで終わりだった。ここに留まる理由はない。
サイレンの音が近づいている。西門から出るのが得策だろう。理事長室のドアを開けたとき、男が言った。
「……反面教師か」
サイレンの音に聞こえないふりをして廊下へ出る。終わったのだ。仲間達がくれたチャンスを、洋平はものにすることができたのだ。
それなのに ――
どうしてこんなに胸が苦しいのか判らなかった。胃がねじ切られる程の痛み。緊張の時間は終わって、あとはもう捕まらないように逃げるだけなのに、洋平の足は思うようには運ばなかった。それでも気力を振り絞ってようやく渡り廊下まで来たとき、洋平は足を踏み外して地面に転がり落ちていた。
「水戸!」
叫んで駆けよって来たのが誰だったのか、洋平に確認する余裕はなかった。踞り、胃の中のものを吐き出す。痛みに対する生理的な涙がこぼれて、汚物と一緒に地面に吸われていった。
「大丈夫か、しっかりしろ」
背中をさする動きに誘われて、胃の中のものはとめどなく逆流していく。すぐに吐き出せるものはなくなって、このままでは胃袋そのものが裏返しに出てきそうに思えるほどの苦痛に見舞われていた。そんな中、ふいに背中をさする手の動きが止まる。耳元でささやく声が聞こえた。
「しばらくそのまま吐いてろ」
隣にいた男が立ち上がると、駆けよってくる足音とともに別の声が聞こえていた。
「何をしている! お前達、うちの生徒ではないな!」
この学校の教師だ。外にいた不良達の仲間だと判れば、洋平ですらも否応なしに補導されるだろう。
洋平は改めて頭を巡らす。先程からそばにいたこの男の声は、確か−
「すみません。彼が急に気分が悪いって言い出したので、とりあえずここまでつれてきたんです。汚したところはちゃんと掃除しておきますので」
教師はおやっと思って目の前の少年を見る。見るからに頭のよさそうな少年である。礼儀も正しいし服装も割にきちんとしている。だが、中学生であることは間違いないだろう。疑いを解いた訳ではなかった。
「いったい何をしているんだね。どこの中学だ?」
「学校見学に来たんです。夏休みで。来年たぶん受験することになりそうなので、その下見に。僕は北浜中学の片桐信と言います。彼は山田君で……この騒ぎで怯えてしまって、神経が細いらしくて」
言い終わってすぐに踞る洋平に山田君大丈夫かい、と声を掛けた。育ちのいい片桐の言葉は真実味を帯び誠実だった。誠実で頭がよく、神経の細い学生はこの学園に多いタイプの生徒である。本物の受験生であれば、対応を間違えばよからぬ噂の原因にもなって生徒数が減る事態になりかねない。教師はいくぶん顔を青くして言った。
「こんなことは初めてでこちらも驚いていたんだが、君達も驚かせてしまったね。山田君は保健室の方に運ぼう。手を貸すよ」
近づいて来る教師を、できるだけわざとらしくならないように遮った。洋平の顔や服装を見られる訳にはいかないのだ。
「ありがとうございます。でも、山田君の家はこの近くの筈なので、このままつれて帰ります。もう、あの人達も帰ったみたいですから。先生もお忙しいんですから、任せてください」
それ以上何も言わせないように、片桐は洋平に手を貸して立ち上がらせる。洋平も素直にしたがっていた。幸せな家庭に育った男にしかできない収拾の仕方に奥歯を軋ませて。
「気をつけて帰りなさい。外にまだいるかもしれないから」
「はい」
片桐の一番素直な声が、洋平の胃袋に変調を呼び戻している。
いったい何にむかつくのか、改めて理解しながら。
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