CAGE



「……とにかく放ってけるような状態じゃねえんだ。ケガはたいしたことねえんだけど、かなりの量飲んだらしくて。……判ってるさ! おい、忠! てめえこのまま洋平のこと見捨てろってのか! カンバンがなんだってんだよ! ……あ、目え覚めたみてえ。切るからな」
 声に目覚めて寝返りを打つと、胃袋が内臓の中を転がるような不快感に襲われていた。目を開けて、心配そうに見守る花道の視線と合う。いちど目を閉じて、もう一度開けた。花道はまったく同じ瞳で洋平を見つめていた。
「すまねえ、起こしちまったか?」
 少し頭がぼんやりするけれど、アルコールはほとんど抜けている。もともと洋平はそれほど弱い質ではなかった。
「……今何時だ?」
「九時ちょいかな。三十分くれえしか寝てねえよ。気分わりいか?」
「水、飲みてえ」
 かなり落ち着いていた。自暴自棄になって大量のアルコールと一方的に殴られることに逃げたあの時の状態とは比べ物にならない程度には。身体を起こすと、シャツのボタンは全部はだけられ、ベルトも外されファスナーも下りていた。花道が持ってきた水は少しの温もりが残っていて湯冷ましだと判る。少しずつ流し込みながら、花道の気遣いを再認識していた。
「どうしてそんなになるまで飲んだんだ。どこで」
 始めの質問には答えられなかった。言葉を選んで、二つ目の質問にだけ答える。
「駅裏のエリーって飲み屋。今でも茶碗一杯百円で飲ませてくれる」
「日本酒かよ。どのくらい飲んだんだ?」
「さあ……カウンターに万札置いて飲んでたから判んねえ」
「洋平……!」
 軽く、あくまで軽く、花道は洋平の頭を抱き寄せる。まるで自分の顔を洋平に見せたくないかのように。
「ちゃんと話せよ! ……お前、自分じゃ見えねえだろうけど、首筋まであざがついてる。こんな殴られ方して、どうして何にも話さねえんだよ! いったい誰のこと庇ってんだよ! 話さなけりゃ判らねえんだよ!」
 フクロにされるときの殴られ方くらい、身体が覚えてる。それはキスマークって言うんだ花道。
 今日が週末の集会の日だった。花道も洋平もいない集会で、仲間達は隣の地区からの理不尽な攻撃に対する不満ぶちまけ会をしているのかもしれない。
 自分は卑怯だ。花道に心配をかけることで、花道を独占している。
「服脱がして抱きしめて、そのあとどうするんだ? オレが動けねえのいいことに犯るのか? それとも酒くせー口にキスでもするか?」
 勢いよく洋平を引き離した花道の目は奇妙に光っていた。怒りと悲しみがない混ぜになる。
 母親は仕事に出かけた。猥らにはだけられた傷の残る胸と、あと一息で触れることのできるくらい開放された腰は、眠る洋平が苦しくないようにとさっき花道の手で行われた所業。誘っているのは誰だ。目の前で皮肉に笑いかけて花道を怒らせようとしているのは。
「ふ……ふざけんな!」
 相手がケガ人であることも構わず、強引に押し倒していた。紫色の内出血の広がる胸に顔を埋める。痛み以外のものに、洋平は低く呻いた。熱い息が胸を吸い上げ、同様の痣をさらに増やしていく。
 背中をまさぐる腕に抵抗する力は洋平にはなかった。流されかけて、だが不意に弾かれるように花道は洋平から飛びのいていた。
 見開かれた花道の目には畏れがある。抱いてしまったら最後のような気がした。胸を張って洋平の親友だと言う資格はなくなるだろう。
「花道……」
「……怒ってるんじゃねえ。オレが思ってたみたいにお前がオレのこと親友だと思ってねえのが悲しいだけだ」
 たとえば、忠や大楠にだったら言えることがある。同じ事が花道には言えない。それを花道が親友でないからなのだと思うならば、まさしく洋平は花道を親友だとは思っていなかった。花道にだけ特別な何かを求めている。まったく同じものを、花道にも求めて欲しかった。
  ―― 親友だなんて思って欲しかねえ。
 その言葉は、今は洋平の口から漏れることはない。

 洋平が隣地区の総長、片桐信を知ったのは、幾つかの偶然が重なったに過ぎない。
 小学校六年生のその時期、洋平はたまたま児童会の副会長をやっていた。父親のほとんど強制的な命令。たまたま同じ時期に片桐信は児童会長を務めていた。そして両校の児童会顧問がたまたま親友同士だった。同一市内であるとはいえ遠く離れた二つの小学校が合同児童会を開いたのは、まさしく偶然以外のなにものでもなかった。
 明朗快活な相手校の児童会長。両親の愛情を余るほどに受けて育てられたことは明白だった。彼はおそらく疑うことすらないのだろう。両親の愛情も、これからの人生の成功も。
 その時間はひどく息苦しかった。すべてを持った片桐信の存在を肯定することは、洋平自身を否定することだった。息苦しくて、逃げ出したくて、なのに目が離せなかった。魅かれている自分を、結局最後まで認めることはできなかった。
 憧れていたのかもしれない。だが、憎悪を抱くにはあまりにかけ離れた存在だった。中学で花道を知って、洋平は自分が憧れるべき種類の人間を悟った。ほどほどの幸せとほどほどの不幸を抱え、それでも幸せそうに笑える人間。友情はやがて何か別のものに変わり、唯一無二の宝物になってゆく。自然に笑える自分を知ったことだけで、桜木花道が価値ある存在だと思えた。
 隣地区の総長が片桐信であることを人伝に聞いて、その時自分がどう思ったのか明白に思い出すことはできなかった。
 だが今でも洋平の脳裏には、明朗快活なままの片桐信が住みついている。

 もう、十分努力したと思う。二週間前に初めて北中の白鳩に話を聞いたとき、誤解からはじまった出来事であることは判っていた。意味もなく総長の片桐信が攻撃を仕掛けてくる事などありえないと思ったから。あのとき幸せに満ちた笑顔で、洋平すら無意識に幸せにしようとしていた片桐信が無意味な抗争を望むとは、天地がひっくりかえろうとありえないことだったから。
 困惑した北中の連中に独断で待機を命じた。そして、花道への情報を操作しながら、片桐が間違いに気づくことを祈った。すべてがバレて花道に恨まれるのは構わないと思った。花道が平穏無事に卒業して湘北高校に入学するためなら、自分が悪者になることくらい少しも惜しいと思わなかった。
 あと一か月で、花道は無事に代表を下りる。それから先どうなろうと知った事じゃない。だが、花道が総会に出席しなかったことは、その後の展開を早めていた。誰が最初に直訴したのかは判らない。洋平の預かり知らないところで、花道はいくぶん尾ヒレのついた事実を知らされたのである。
 その日学校にこなかった洋平を、花道は洋平の行動範囲を割り出して張っていた。そして地区の集会の場所にもなっている公園のベンチで一人煙草をふかす洋平を見つけたのは、そろそろ日も暮れかけているころだった。
 逢魔ヶ刻、洋平が出会ったのは真っ赤な髪の鬼。その形相は怒りに染まってどす黒くさえ見える。
「どうして、黙ってた」
 事実を聞いて真っ先に洋平を問い詰めに来たことこそ、幸運であるのかもしれなかった。花道がここへは来ずに隣地区に乗り込んでいっていたとしたら、もはや洋平には止める手段はなかっただろう。
「何のことだ」
 言いながら立ち上がって反対方向に歩き始める。追い掛けて、花道はその背中に言う。
「白鳩がさんざん直訴したのにお前が握りつぶしたんじゃねえか! オレにはシカトしろとか言いやがって。北中の奴らが何人やられたのか聞いたぞ! 仲間見捨てる奴は最低だ!」
 見捨てた、と言えるのだろうか。その横暴ぶりはすでに身体で味わっている。
「人の話ちゃんと聞けよ!」
「聞いてる。それで?」
「知らなかったのオレだけだ! 代表のオレが知らねえじゃシメシがつかねえだろうが! オレのメンツとか、お前にとっちゃどうでもいいことかもしれねえ。だけどそこまでバカにされるとむかつくんだよ!」
 本当は、花道は最後の最後まで信じたかった。洋平が自分をないがしろにして、代表の座を脅かしているのではないのだと。誰かがそう言ったとき、花道はそいつを殴り倒した。信じたくて、だから洋平の釈明が聞きたいのに。
 強く出られないのは、洋平に嫌われたくない思いがあるから。ここで花道が洋平に対して怒ることは当然の権利なのだと理解している。それでも、最後の一パーセントの花道は気弱な子供にすぎなかった。
「なんとか言えよ洋平!」
「……灰皿知らねえ?」
「おま……どれだけはぐらかしゃ気がすむんだ。お前にとってオレはなんなんだよ。お前の手の平の上で踊ってる人形かよ!」
 思わず口をついて出た言葉は今までの物事の本質を見事に言い表している気がした。二人の間に緊張を孕んだ沈黙が流れる。そんな沈黙がいたたまれなくて、再び、洋平は歩き出していた。右手にはすっかりとぼれて消えてしまった煙草を挟んで。
「どこ行くんだよ!」
「こっちにあったよな、便所。とりあえず吸い殻捨てねえと」
「お前……オレと吸い殻とどっちが大切なんだ!」
「お前に決まってんだろ。バカなこと聞くなよ」
 洋平が意図的にはぐらかしているのがもはや誰の目にも明らかだった。中一の時、初めて友達になった。それから二年以上の時を経て、親友と呼んでもおかしくない程度には洋平のことを知っていると思っていた。クラスが離れてたった三か月で、ここまで洋平のことが判らなくなるなんて……。初めてだった。こんなにも洋平が他人に見えたのは。
 なぜ、どうしてはぐらかすのか、花道には判りはしなかった。だがこれは明らかに洋平が悪い。トイレを見つけ、洋平が一番奥の個室に吸い殻を投げ込むところまで待った。それ以上はどうにもならなかった。
「……あれ、流れねえや」
 洋平を突き飛ばしてドアを閉め、鍵をかける。気に入らない奴にヤキを入れるときによく使われる手だった。ドアを背にしている限り、相手は逃げることができない。
「いってーな花道。オレがおバカになったらどうすんだよ」
 洋平の身体を壁に押しつけて迫る。
「てめえ……オレのこと影で操って、楽しいのか」
 楽しいと思ったことなど、一度もなかった。
「……だったらなんなんだよ」
 グリースの光った前髪を掴んでさらに壁に押しつける。痛みに洋平の眉が寄る。
「オレは信じてた! だれがなんて言おうとぜってー洋平はオレのこと裏切ったりしねえって! おまえはオレのためにならねえことやるはずねえって! それを……」
「じゃあなんで最後まで信じねえんだよ……」
 このとき初めてまっすぐな視線で自分を見つめた洋平に、花道は魅了され動けない。洋平の目はまるで幼女のように怯えを隠そうとすらしなかった。絡まりあい、火花を散らす。それは喧嘩の一撃の前の一瞬の睨み合いにひけをとるものではなかった。
 怯えに象徴される弱さと、相反するように生まれる激しさ。肉食動物の前になす術もなく糧になろうとする草食動物の目を、花道は洋平に感じていた。もしかして草食動物は喰われる瞬間、そうして肉食獣を誘うのかもしれない。
「お前が、判らねえ、オレ」
 その衝動はこれ以上抑えが効かないほどに大きくなる。
「教えてやるから、放せ」
 洋平の指が抑えつける腕に触れ、徐々に外してゆく。もう片方の指は耳の後ろからその赤く映る髪の間に差し込まれていった。日が落ちかけたわずかな光に照らされる洋平はどこか現実とはかけ離れて見えた。その不自然さに幻惑され、気づいたときには唇が優しく触れられていた。
 捉まったのだと思った。もうすでに親友とは呼べぬ一人の男に。
 生々しく煙草の匂いのする唇に、花道は強引に身体ごと押しつけていった。まだ傷の治りきらない洋平の身体がその扱いの激しさに悲鳴をあげる。痛みではない何かに震えながら洋平の手が背中から花道のシャツをたくし上げ、ジーンズのボタンを外してファスナーを下ろす。その性急さを指摘するだけの意志も経験も、花道にはなかった。
 酸欠のような甘い目眩に息を弾ませながら顔を上げると、同様に虚ろな目で見返す顔。視線を受けて、うっすらと微笑んでいた。
「洋平……」
「オレのこと、欲しいだろ? お前の身体が言ってる」
 直接触れられた指が、確かめるように高めるように花道を翻弄する。止まる理由はなかった。それが洋平の意志であるならば。
「だけどお前、カラダ……」
「心配すんな。初めてでもねえし、ひとケタでもねえ」
 その言葉が決定的だった。片腕で強引に身体を抱き上げ、足を浮かせたままもう片方の手でベルトを外し引き下げた。擦れた痛みに僅かに漏れる呻き声が余計に欲情を掻き立てる。理性のすべてが、花道の中から千切れて四散する。
 自分が何を思うのか花道には判らなかった。既に誰かの触れた身体。誰に対して怒っているのか、何が悔しいのか。欲情を抑えつける見えない歯止めは一つの翳りとてない純粋な想い。嘲笑うように頭の中に響き渡るのは花道の知らない誰の声なのか。
「洋平……洋平……!」
 悲痛なまでに繰り返される声は花道の心の叫び。洋平の中に奇妙な高まりをもって迎えられる。花道の宝石を穢したのは自分なのだと心に刻みつけた。花道は今自分を動かすものが激しい嫉妬だと知ることがあるのだろうか。
 そうさせたのは洋平だった。砕かずにはいられないほどの眩い光を放つ洋平の宝石。皮肉にも欲情に溺れて稚拙な手付きで洋平を求める花道を見るのは快感だった。息を荒くする首に腕を回して、戸惑う花道を導き入れる。
(あぁ……)
 ほとんど抵抗なく入ってくる身体を受けとめる。気の遠くなるほど長い間、父親に記され続けてきた落胤だった。一瞬動きを止めた花道が激しく突き上げる。その動きに痛みを感じずにいられるのも自らが男としてきたことの証明だった。
「洋平……誰だよ。誰なんだよ……!」
 二桁ですらないのだろう。繰り返し刷り込まれた男の身体。花道の身体に男の身体が重なる。あの身体を好きだったことも、洋平にはあったのだろうか。
 花道の身体に母の身体が重なる。あの身体が好きだったことは、確かにあったのだ。遠い昔に洋平の手を引いて歩いたその手も、幼い洋平に乳を含ませたその胸も。父に叱られれば必ず逃げ込んだ。あの暖かい手が既に存在しないのだと知ったのは、いったいいつのことだっただろう。
「誰だよ……お前のこと犯ったの」
「……花道」
 ……誰でもいい。今ここにいる花道が自分のものになるのなら ――
 腕を回して花道の身体に凭れかかった。一つ一つ感触を確かめるように。広く厚い胸にぴったりと胸を合わせると、息づかいがシャツを通して伝わってくる。若く溌溂とした同じ身体の肋骨同士がぶつかって痛みを伴う。体臭のきつい肩に顔を埋めると、洋平は少し安心することができる気がした。花道の匂いを確かめる。誰でもない花道という男の肩を感じて、洋平は鋭く噛みついていた。
 失ったら、どうなるのか。口の中に鉄の味を感じて洋平は夢に落ちかかる。打ちひしがれて呆然と立ちつくすのか。それとも、殺してでも手に入れたいと願うのか。
「洋平、洋平……」
 背中を抱き締められて溶けてゆけるような気がした。力強く求められることこそ原始の業。一つになりたいと、どれほどの夜に願ったことだろう。溶けてなくなり汗と流れ落ちて花道のすべてになる−
「あぁー……!」
 何も見えなくなる。動きを止めた花道に抱えられて、洋平の視界はすべて閉ざされていた。頬につく湿ったシャツの感触が花道の汗なのか別のものなのか洋平には判断できなかった。首筋に埋められた花道の口から呻くように囁くように言葉が漏れる。
「お前のこと、犯った奴。そいつから奪い取ってやる……」
 汗なのか、それとも、別の何かなのか ――
「誰にも何にも言わせねえ。お前にも嫌だとか言わせねえ。殺してでも手に入れる、お前のこと」
「……お前、災厄みたいな奴」
 抱き締めていた手を返して、花道が洋平を覗き込む。
「……なんだって?」
 洋平の頬は何かに濡れていたけれど、その瞳はここ数か月のうちで一番穏やかに見えた。
「何でもねえよ。……マイナスかけるマイナスはプラスだっての、本当かもしれねえなって」
「……どうしてよりによって数学なんだよ」
 渋い顔を作る花道に、洋平はそっと近づいていた。そして、への字に曲げた唇に接吻する。そこには誰の影もなかった。奥底に沈んで隠れてしまう。異常なスタイルを保ち続けた、ある夫婦の肖像。
 犠牲者では、あったのだと思う。だがそれを望んだのはほかならぬ洋平自身だった。異常であることを知りながら言いなりになることしかできなかった弱さが洋平を地の底まで落していった。このまま肉食獣に頼ることは死をさえ意味するだろう。
 まだ、迷っている。花道を穢したことは生涯忘れはしない。
 夕闇に浮かび上がる赤い髪が、少しずつ現実味を取り戻し始めている。


扉へ     前へ     次へ