CAGE



「……そうは言うけどいつまでも放っとく訳にゃいかねえだろ。北中の奴らじきキレるぜ」
 大楠の言葉に、洋平は煙を吐くことで答えた。洋平にはなにもかもが灰色に見える。それは煙草の煙の向う側にある世界だから。
「にしてもよく花道が何も言わねえな。他校(ヨソ)の地区の奴らにチョッカイ出されてんだ。真っ先に乗り込んでいきそうなもんじゃねえ」
 今日この場所に来たのは大楠の方が先だった。誰もいないならその方がいいと思う。でも、大楠は洋平には楽な相手だった。少なくとも花道よりは。
「知ってたら今頃皆殺しにしてるんかもな」
「お前……花道に話してねーのかよ!」
 いわゆる花道達のシマの北側に隣接する地区の連中が、このところ北中にチョッカイを出してきているのだ。それもかなり派手に。その噂は地区内におおっぴらに広まっている。てっきり花道も知っているものだと大楠は思っていたのだ。
 花道が代表になってから今まで大きな諍いがなかったのはひとえに花道の人並み外れた強さのおかげだった。もちろんその裏にある洋平の努力の賜物でもあるのだが。
「どういうことだ、洋平。花道は代表なんだぜ。あいつが知らねえじゃ済まねえだろうが。……週末には集会もある。北中の奴ら、花道に直訴するぞ」
 見上げる洋平の目に異様な輝きを感じて、大楠は息を飲んだ。時々洋平は恐ろしい視線を自分に向ける。まるで何を考えているのか判らないような視線を。
「言うなよ。バレたときゃ全部オレに罪ひっかぶせてかまわねえから」
「お前……何考えてんだよ」
「何にも。……今んとこはな。それにオレ、片桐信て奴を知ってるし」
 煙草を踏み消して立ち上がる。もうこれ以上話すことはないというように。洋平は変わったと大楠は思った。いつからだろう。去年同じクラスで花道とバカやってたころには感じなかったことだった。
「北中の白鳩がうろついてっからおかしいとは思ったんだ。いずれバレるぜ。時間稼いだ分キレた時の花道は最悪だ」
 判ってる。だからこそ時間を稼ぐ必要があったんだ。今花道にキレられる訳にはいかないから。
 夏休みには代替え。それまでにコトをきれいに片付けるのは、副代表の洋平の役目になる。

 時々、夢を見る。
 武骨な張りのなくなった肌が洋平を弄る夢。真っ白い弛んだ肌が狂喜する夢。交互に現われては洋平を恐慌に陥れる。逃れることのできない現実と何一つ変わることのない夢。
 叫ぶこともできないまま揺り起こされていた。うっすらと目を開けるとそこには心配そうに息を弾ませる親友がいる。一瞬、どちらが現実なのか判らなくなる。もしかしたらどちらも夢なのかもしれない。
「洋平……大丈夫か?」
 穢れを知らない洋平の宝石。騙されていることを知ったら花道はどうするのだろう。ずっと言わなかった。父親との異常な関係のことも。
「……朝か? 暗いけど」
「うなされてんだよ、このところずっと! いつからだ? 何抱えてんだ?」
「ああ……」
 まだ十分に若い手が洋平の二の腕をつかむ。この力強い腕は将来どんな女を抱くのだろう。
「わりい。明日からヤサ変える」
「いいかげんにしろよ、洋平。マジで怒るぞ」
 夢と現実の狭間でややピントをずらしていた洋平の意識も、ようやく実情と合ってくる。腕を掴む花道の力が強くなる。このまま怒らせてしまえば、自分のこの想いから解放されることができるのだろうか。
 洋平は希薄な表情でわずかに微笑んだ。そしてゆっくりと花道の握り締める手を外した。
「目え覚めちまった。煙吸ってくる」
「洋平! 逃げるなよ!」
「大声出すなよ。お袋さん起きるぞ」
「かまうか!」
 置き上がろうとしていた身体を再び掴まれ、引きずられて組み敷かれる。驚きに見上げた親友の目はどこかが違っていた。真夜中の薄闇のせいかもしれない。
「花道……」
 洋平の宝石。万に一つ手に入れることが叶ったとしても、洋平には粉々に砕くことしかできないだろう。
「目え覚めてるか? オレは愛しのミカさんじゃねえぞ。それともほんとにオレとやりてえとか思ってんなら−」
「それでお前のこと全部判んならとっくにそうしてら」
 冗談で言ったつもりだった。その冗談に返ってきた意外な反応に洋平は呆然と意味を掴み損なう。視線が銀色の矢のように鋭く洋平の胸を射貫く。そのまっすぐな視線ほど、洋平を苛立たせるものはないのだ。
「……寝呆けてんじゃねえよ」
「マジだ。言ってること全部」
「たわごと言ってるうちは聞かねえからな。もう寝ろ」
「洋平!」
「いいから寝ろ。オレも寝る」
 無防備に目を閉じた洋平をそれ以上花道は追及しなかった。押さえていた手を返し、諦めて隣に寝転がる。うっかり漏らしてしまった一言はいつまでもお互いの心にひっかかってはなれずにいた。
 しばらくの時間、二人に寝たふりを演じさせて。

 その身体はいつも洋平を真に満足させることはなかった。
 数々の経験と実績を備えたその手にはむだはない。上手に洋平を高め、しかし最後の最後、手前で止めることを忘れはしなかった。珍しくも洋平の希望で安ホテルの逢瀬を終えた男は、満たされずにいる洋平を見遣ると、冷たい笑いを漏らしてベッドを離れた。
「一本もらうぞ」
 父親の腕に抱かれても満たされぬ身体。このあと最初に洋平がすることはいつも、自分の手で満足させることだった。
「ただじゃねえんだからな」
 今まさに火をつけようとしていた男は、洋平の言葉を受けて財布を取り出した。無造作に一万円札を取り上げてテーブルに置く。そんな父親を洋平は見てはいなかった。早く帰ればいいと思う。
 あの日、血迷った花道。どうしたら沸き上がる希望を捨て去ることができるだろう。忘れるために父親を呼び出した。だけど結果は父親の腕に花道を重ねあわせてしまっただけだった。
 身体の熱さが消えない。一刻も早く放出してしまいたい。
 再び近づいてきた男は、洋平のあごに指を当て、わずかに顔をあげさせる。そして、唇を重ねたとき、洋平の肺に強引に流れ込んできたのは密度の濃い煙草の煙。
「グッ……ゴホッ……!」
 肺ごと吐き出してしまいたくなるような苦しみだった。涙をにじませながら幾度も噎せ返る。父親のそのサディスティックな振舞を、洋平はどこかで容認している。
「洋平……こうしてほしいのか……?」
 父親の指が洋平自身に触れる。集まってゆく感触が洋平にすべてを忘れさせる。痺れてゆく身体に洋平はそれ以上のものを欲した。見えない鎖に繋がれた虜の存在を。
「ふん。いつの間にか大人の身体になった。……生まれたのが男の子だと判ったとき、私は喜んだよ。私だけではなく和子も」
 このまま、すべてを吐き出して真っ白になりたい。それがたとえ父親の手に委ねられた屈辱的な絶頂だったとしても。
「この身体でお前は和子を抱くのか」
 その瞬間、洋平の中からはそれまでの快楽におぼれた性のすべてが消え去っていた。一瞬の空白の後、洋平の身体を震わせたのは激しい憎悪。これほどまでの剥き出しの憎悪をこの男に感じるのは初めてだった。どれほど屈辱的な扱いを受けたときにも感じなかったというのに。
 いつのころからか少しずつ洋平を束縛し続け、長い年月で雁字搦めにしたこの男。どうにもならないのだと思っていた。自分から鎖を断ち切ることなどありえないのだと思っていた。
 洋平はベッドから跳ね起き、驚く男の手を振り払った。その目には怒りと憎悪に涙さえ浮かべていた。
「……オレに触るな」
 重苦しい沈黙のベールにつつまれる。一瞬にして洋平は父親の人形ではなくなっていたのだ。
 相対する視線の間に生まれる圧倒的な緊張。その緊張に耐えられなくなったのは父親の方だった。父親はたった今の自分の失言を悟り、自分が洋平を甘く見過ぎていたこともわずかに悟っていた。だが、それでもまだ、男は我が子をみくびっていた。時をおけば洋平はもう一度自分の人形に戻ることを疑ってはいなかった。
 父親が部屋を出るまでの間、洋平は少しも動くことができなかった。そして、ドアの閉まる音を聞いて、わずかに身体の力を抜く。倒れてしまいそうだ。自分はあの男の助けがなければ立ってもいられないほど弱い人間だったという事実に。
 息子の身体を媒体にしてSEXする夫婦。その二人の間にはわずかにでも愛情と呼べるものが存在するのだろうか。ほかにどうすることができたというのだろう。愛情に飢えた洋平を揶揄する資格など、あの男には絶対にないはずだった。
 服を着て外に出る気力を蓄えるには、もう幾許かの時が必要になる。

 安ホテルの前で待っていた野間忠一郎は、出てくる洋平の姿を確認するとシャッターを三回切った。その姿は多少疲れて見えるもののいつもとそれほど変わらなく思える。ゆっくりと近づいて、やや遠慮がちに声をかけた。
「洋平……大丈夫か?」
「……」
 顔をあげて、洋平は友人の存在を確認する。忠がここにいる理由を思い出して、わずかに微笑んでいた。
「悪かったな、変なこと頼んで。……撮れたか?」
「ああ、二人で入ってくところと一人ずつ出て来るところ三枚ずつでよかったんだよな。すぐに現像に出す」
「サンキュー」
 その理由を、忠は聞き糾したくてたまらなかった。だが、それを洋平が望まないことも忠には痛いほど判るのだ。洋平の父親の顔は知っている。そして、二人が中で何をしていたのか、察することもできる。それを逐一確認して、いったいどうなるというのだろう。誰でも触れられたくない傷の一つや二つは抱えている。
「バイク借りてきてる。乗ってくだろ?」
 なにも聞かない忠を、洋平はこの上なくありがたいと思った。だからこそ思う。このまま忠を頼ったら、洋平はおそらく忠に身体を委せてしまいたくなる衝動に駆られることだろう。今の自分の危うさは洋平には判っていた。誰でもいい。人肌の温もりだけを欲しがってる。
「一人で帰らせてくれ。……大丈夫だから」
「洋平」
 心配だった。それなのに洋平は微笑む。
「ちゃんと帰る。だからしばらく一人にしといてくれ」
「……帰れんだな」
「ああ」
「 ―― 判った」
 うしろ姿を見送る。心配で、だけどなにもできない自分に腹が立った。側にいることならできる気がする。だが洋平はそれを必要とはしないのだ。
 逢魔ヶ刻が、洋平を捕らえ始める。

 心持ち乱暴に安アパートの扉が叩かれたのは、花道が今すぐにも出かけようと腰を浮かせた時だった。
 口の中で返事をして、扉を開ける。倒れ込んできた身体を反射的に受けとめることに成功したのは、花道にとっては幸運だった。
「洋平! ……どうしたんだよお前!」
 身体に残る無数の傷。そして鼻につくアルコールの匂い。酔っ払って誰かと喧嘩をしたらしいことは一目瞭然だった。乱れた前髪の間から覗く僅かな目の光は、花道を見上げ、虚ろに漂う。
「……吐きそ ―― 」
「待て、便所まで我慢しろ!」
 慌てて洋平を抱え、便所まで誘導する。倒れ込むようにして洋平は胃の中のものを吐き出していた。少し吐き出しただけですぐに出なくなる。ここに到達するまでにもかなりの量を路上にまき散らしてきたのだろう。
「お前……いったい誰にやられたんだ。言ってみろ!」
 涙が出る。いっそ胃袋なんか切り取ってしまいたい。
「……知らねえ」
「んな訳ねえだろ! どこの中学だ!」
 言いながらも母親にコップの水とふとんの用意を頼む。差し出された水を洋平に手渡して、背中を擦る花道は怒りに震えていた。
「ちくしょお……っ! ぜってー許さねえ!」
 思わぬハプニングだった。今夜この時に洋平が一人でうろついていた事が全ての原因だった。地区に起こっている異変を花道に悟られるつもりはなかったのだ。だが、あの両親の待つ家に平然と帰ることができるほど、洋平は大人ではありえなかった。
 必要以上に弾む息が苦しくて涙が出る。流し込まれた水道水に微量に含まれた塩素が吐き気を誘う。
「……わりい、花道。……もう一杯……」
「ああ、待ってろ」
 支えを失った身体は壁にもたれて動かなくなる。無数に打ち込まれた拳も蹴りも、洋平をそれほど打ちのめしはしなかった。あの男の中にひとかけらの愛情もなかった事実を知って、初めて気づいた。洋平自身の中に確かにあった、男への思慕に。
(殺してやる……)
 瞼の裏で背を向ける男に向けられた憎悪。
  ―― コロシテヤル ――


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