CAGE
今、水戸洋平がここに座っていることにどんな意味があるのか。
「……それじゃ、お前本当に高校行かないつもりなのか?」
担任の理科教師がほぼ私室として使っている生物教官室は、夕日に照らされて一番心地よい雰囲気を醸し出している。この時間のこの部屋はそれほど嫌いじゃなかった。ホルマリンに漬けられた色素の抜けた蛇の死骸が、きらきら屈折する硝子に閉じ込められて虹色に輝いている。並べられた実験器具はさながら未来都市のオブジェの様相。椅子に腰掛けて肘をつく洋平が虚構の世界に引き込まれそうになると、目の前に座った若い担任教師は必ずと言っていいほど邪魔をするのだ。
「お前は成績もそれほど悪くないんだ。お前の仲間の桜木や大楠なんかも進学するそうじゃないか。あいつらは知ってるのか? お前が卒業したら就職するつもりだって」
意味のない会話。意味のない世界。洋平には全てがうざったく、無色だった。実験器具の織り成す色とりどりの世界の方が、なんと魅力的なのだろう。
「……聞かれねえし」
一言だけ、洋平はつぶやいてみる。次の担任の言葉は洋平には十分予測可能だった。同様の会話は中学三年になってからというもの幾度となく交わされてきたのだから。
「ご両親は知ってるのか? ほら、お前の父親は私立高校の理事長をやってるそうじゃないか。お父さんの学校へ行こうとは思わないのか? お前が将来お父さんの跡を継ぐつもりなら、お父さんの学校へ進学するのが一番の進路だと思うんだけどな」
最も洋平が逃げ出したいと思う現実を、担任教師は突き付けてくる。この人間には判っているのだろうか。自分の一言がどれほど洋平の心に深く突き刺さっているのかを。
それを親切に知らせてやるつもりは、洋平にはなかった。それを悟られるのは更に屈辱的なことだった。
「帰ってもいい? お袋今病気なんだ」
その洋平の言葉が真実ではないと教師が思い込むのに、爪の先ほどの障害もなかった。だが、それなりに生徒の信望も厚く、自らもつい最近まで教師の謀略に苦しめられてきた若い教師は、あえて洋平の嘘を指摘することを躊躇った。労いの言葉と捨て科白でそれに代えた。
「そうか。遅くまで悪かったな。進学についてはもう一度ご両親とよく相談しなさい。お母さんをおだいじにな」
洋平が席を立つ。まるで何事も感じていないかのように然り気無く。
教室の中に、夕闇が深い影を落とし始める。
昇降口を抜けると、夕日を背に大きなシルエットが立ちつくしていた。赤い髪をした親友は洋平を見つけると駆け寄ってくる。洋平の顔もそれまでの憂鬱な時間を忘れたかのようにほころぶ。
「なんだよ。待ってたのか花道」
「居残りでレポート書いてたんだ。お前の靴まだあったから」
「勉強熱心でいいこったね」
「やらなきゃ卒業できねえってゴジラが脅すからよ。仕方ねえ」
花道の明るさはいつも洋平をほっとさせていた。もしも今ここで花道に会わなかったら、洋平は今日の残りの時間を憂鬱なままで過ごすことになっていたことだろう。クラスが違ってしまって三か月、洋平は花道のいない無機質な時間に自分の中でのこの男の存在の大きさを再認識していた。
並んで歩きながら校門までたどり着く。門の前に遠慮がちに立つ男に、花道は反応した。
「あれ、北中の伝書鳩じゃねえ? 白鳩かな」
「シカトしてろ」
北中は和光中とは同盟校の一つだった。もう少し言えば桜木軍団の傘下の中学の一つということになる。おかしいと思いながらも花道は洋平の指示に従ってまるで見えないふりしながら通り過ぎた。恨めしそうに洋平達を見送った気弱そうな男は、そのまま洋平達のあとを遠慮がちについてきていた。
「いいのか? 用があるんじゃねえのかな」
「地区の代表としては気になるか? まあ、ほんとに用があるなら話しかけてくるさ。気にするこたねーよ」
「……洋平がそういうならいいけどよ」
元々細かいことにはこだわらない性格である。その単純さに、洋平は幾度となく救われていた。
「それよりな、今日オレ、クラスのミカさんに話しかけられてよ。ミカさんてなんていうか、ぽちゃぽちゃっとしててかわいいのな。同じクラスにあんなにかわいいコがいるなんて知らなかったよ……」
連続フラれ記録更新中の親友の言葉に、洋平はまたかと思って苦笑しただけだった。今度は何日でフラれるのか。どちらにしても後ろからついてくる白鳩のことから気を逸らせたのならそれで構わなかった。
洋平の家の前まで差しかかったとき、それまでミカさんのいいところを大げさに語っていた花道の喋りに割り込んで言った。
「今日もゲーセン行くだろ?」
「おう! 今日こそ釣り上げてやるからな。あの不気味なカエル野郎」
「着替えてくるから待ってろよ」
風景は夕闇を通り過ぎ、夜の闇に向かいつつある。そんな中を、洋平は一歩家の中に足を踏み入れた。真っ暗な家の中に、台所のテーブルの上で踞る一つの黒い影。洋平は見ないふりをして階段を上がった。できるだけ足音を立てないように。
「洋平……なの?」
聞こえた気がして洋平は背筋を凍らせた。しかし、それ以上の言葉はない。眠ってしまったのかもしれない。それならばいい。
軽い荷物をもって出てきた洋平に、花道はちょっといぶかしんで声をかけた。
「どうした?」
「花道、今日もお前の家泊めてくれ」
「いいのかよ。もうずっと帰ってねえじゃねえか」
「迷惑か?」
意地悪そうに言った洋平の言葉に、花道は型通りの反応を示していた。
「そんなこと言ってねえだろ。……何日だってかまわねえよ。お前に頼られるのは嫌いじゃねえ」
「そのうち菓子折でも持ってアイサツに行くよ」
花道の赤い髪は夜目に紛れず現実味を帯びない。そんな親友だからこそ、洋平は心許せるのかもしれなかった。
心から追い出したいものほど、洋平の心の奥底に突き刺さって残り続けている。
花道とクラスが違ってしまったことが、自然に洋平を一人にした。狭苦しい教室に押し込められた同じ目をしたクラスメイト達。愉快に笑い合う彼らのいったい何割が心の底から笑っているというのだろう。たぶん、洋平自身も同じ一人なのだ。ただ一つ違っていたのは、冗談に心から笑って見せる事が他の奴らよりもほんの少し苦痛に思えること。
授業を抜け出して喫煙することが多くなっていた。洋平達の決まった喫煙所は校舎の裏手の袋小路だった。一人、今日三本目の煙草に火をつける。煙草をおいしいと思ったことはなかった。ただ、人目を避けなければできない行為を、洋平は無意識に求めていた。煙草を吸うために一人になるのではない。一人になるために洋平は煙草を吸い続けたのだ。
誰か、気づく人間はいるのだろうか。洋平が今、ここにたった一人でいるという事実を。
たぶん誰も気づかない。洋平一人がいないところでクラスはどうにもならない。たとえ今ここで洋平が自殺を企てようとも、一週間と経たないうちに学校は元に戻るだろう。父親は教育という名の事業を続け、アルコールに飲まれた母親はその依存度をほんの数パーセント上げるに過ぎない。親友は……気づくのだろうか。洋平の内面にある複雑な思いを本当に理解することができるのだろうか。
それを苦痛に思うわけでもまた、期待するわけでもない。ただ、洋平の回りに起こるさまざまな複雑怪奇な出来事は、すでに洋平の手に負える範囲を越えようとしている。進路のこと、両親のこと、そして親友達のことも、洋平一人で負うにはあまりに大き過ぎる問題だった。
今日の放課後、洋平は担任教師に呼ばれていた。関係者から多大な尊敬を集める崇高な教育者である自らの父親とともに。
洋平をこの袋小路にしゃがみ込ませる張本人の ――
「洋平、……なんだよ。こんなところにいたのか」
声にぎくりとして見上げると、目の前には赤い髪の親友。
「さがしたぞ。ったく、一人で抜け出すなんてずるいじゃんか。クラス違っててもかまわねえから声かけろよ」
隣に座りこむ親友は真夏の太陽を浴びて眩しい。花道は洋平の宝物だった。きれいに磨き上げられる前の原石の美しさを洋平は花道に感じた。どうして花道はこんなに眩しくいられるのだろう。
「またゴジラに説教されるぞ」
「ゴジラが怖くて世界征服ができるかよ。……今日ミカさん休みでさ」
「そういうときこそチャンスなんだよ。今日の授業のノートとって届けてやりゃ株もあがるって寸法さ」
「そうだったのか」
眩しくて、眩しすぎて、穢してしまいたくなる。この無垢な魂も、無垢な身体も。
「オレ、戻るけど」
「なんだよ洋平。オレが来たからって逃げる事ねえだろ?」
図星を突かれて、珍しく洋平はうろたえた。言い訳がましい言葉を口にする。
「バーカ。んなんじゃねーよ。そろそろ二時間目終わるだろ。次はオレもゴジラの授業だ」
立ち上がりかける洋平の腕を花道が掴む。振り返った洋平が目にしたのは花道の真剣な視線。
「お前、何か悩みごととかねーか」
悩みごと? そんなものは慢性的過ぎてどれが悩みなのかよく判らない。
「なんで」
「お前、夜中にうなされてる。カラダ固くして」
「……起こして悪かったな」
「謝って欲しいんじゃねーよ!」
追及なんか欲しくない。親友であるならなおさらだ。
「洋平……オレ、お前の親友だよな」
「あたりまえだろ。放せよ」
「なに一人で抱えてるんだ」
「たいした事じゃねえって。それよりお前、湘北行くんだろ? あんまオレのオベンキョーの邪魔すんなよ」
まだ知られたくはなかった。洋平が進学しないことは。
嘘はついてない。勘違いするのは花道の勝手だった。少し照れたような笑いを漏らして花道は言った。
「オレの方があぶねえんだよな。内心点期待できねえし」
「夏休みに代表引退したらオレも勉強見てやるよ。心配すんな」
もしも道が分かれてしまっても、花道は自分を親友と呼んでくれるのだろうか。
そんな思いも、今は洋平の中に然したる意味を持って存在することはない。
ある種特定の人間しか入ることのない学校のVIP室を出て、洋平はいったん父親と別れて昇降口へ向かっていた。校門で再び合流する。ずっとあとをつけ続けているらしい北校の白鳩を横目で見ながら、促されるまま父親の運転する黒塗の車に乗り込んでいた。
上品な進学校の理事長と物判りのいい父親とを演じきった男は、やや父親に反抗的なだけのごく普通の不良少年に扮した助手席の洋平を見遣る。その目にあるのはもはや品がいいなどとは間違ってもいえないほどの陰媚な視線だった。全身を舐め回すように洋平を見る。洋平には耐えがたい時間だった。
「成績は悪くないそうだな」
オートマティックのギアを切り替えて発進する。前を見つめながらも片手は洋平の足に伸びる。
この男は洋平の成績など気にも留めてはいないというのに。
「お前は名前だけ書ければ入学も卒業もできる。一流大学に入ることもな。そのどこが不満だ」
「……全部だ」
手探りでファスナーをまさぐる手に洋平はびくんと反応した。父親という名の男はわずかに唇の端を上げた。
「湾岸のホテルの最上階に部屋を取ってある。眺めのいいところだ。おまえも気に入るだろう」
器用にベルトを外し、慣れた指が洋平の内部を侵食してゆく。父親との異常な逢瀬はいつも同じ始まり方ではなかった。
目を閉じてその猥らな愛撫に身を任せながら、洋平は自然に幼い自分へと心を戻してゆく。
その日のことを、洋平は明確に記憶していた。
洋平にとって、父親は緊張と我慢とを強いる存在だった。甘えを許さない父。それは教育者ゆえであるのだと母は言った。
父の前では無邪気に笑うことすら許されなかった。声を荒らげることはない。いつも冷たく見つめるだけの父。父親に愛されている気はしなかった。何が悪いのかは判らない。ただ、自分の何かが父親を苛立たせる。どうすれば父親に許されるのか、そればかりをいつも考えていた気がする。
突然の、母の入院。
真っ白なベッドの上で、母は何度も父に謝った。自分が悪いのだと。不注意だった自分が悪かったのだと。
その夜、父は初めて洋平に笑いかけた。初めて見る父親の笑顔だった。洋平をまっすぐに見つめ、洋平のためだけに笑う父。どうしてなのか判らなかった。ただ、初めて父親に認められたのだという思いが、それまでの父もそれからの父もすべて許していた。
母とは違う武骨な手が、洋平の身体を撫で、裸にした。母にはないしょだという父の言葉は、幼い洋平を甘やかな秘密の罠へと陥としていった。どうして拒むことができただろう。洋平は確かに父親の愛情を欲していたのだから。
十にも満たない子供はやがて成長して知ることになる。自分と父親との関係がどれほど異常であるのか。しかしそのころには洋平は修復できない泥沼に嵌まっていた。
あの日入院した母は洋平の妹になるはずだった子供を流産し、二度と子供の産めない身体になっていた。
洋平はそれ以来一度も手を触れない母親の身代わりであることを知っている。
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