砂の墓標



 視線を感じる。
 昨日も今朝も、流川はずっと桜木の視線を感じていた。その意味は判らない。ただ、絡みつくような視線が自分の身体をねっとりと包み込んでいることだけを意識していただけだった。
 昼間、食事中に会話を交わしてから、その視線は更に不思議な雰囲気を纏った。今、二人しかいない世界。その視線の意味は、流川には図りかねた。それまでの桜木は自分をこんなに見つめたりはしなかった。また、そういうことをする人間には見えなかったというのに。
 この戦場という名の精神的刺激に対する防衛反応が出始めていることは明らかだった。たぶん、おかしくなりつつある。桜木も、そして流川も。精神的圧力を伴うところで主に使用される非常食には、ある種の精神安定剤が含まれている。流川はその非常食を通常の半分に抑えたことから、精神的にやや不安定になりつつあった。
 桜木の視線。それはどんどん複雑な意味が絡みついている。もしかしたら流川が過敏に反応しているだけなのかもしれない。どちらにしても、桜木の様子がおかしいことには変わりない。
 いつもの時間になって、流川は足を止めていた。この野営地には砂以外のものはない。たぶんもう少し歩いたところで風景は変わらないだろう。
「ここで休む」
「……一時間余分に歩くんじゃなかったのか?」
「疲れるだけだ。それより、今日は火が焚けねえ。覚悟しろよ」
 砂漠の夜は寒い。防寒具は持っているものの、厳しい夜になることは言うまでもない。
 食事を半分しか食べない流川にとって、更に厳しい夜だった。桜木に気付かれないように早々に食事を終えた流川は、防寒具にくるまってさっさと横になった。摂取した熱量と消費すべき熱量との折合が悪く、更に寒さを運んで来る。こういう夜は早く寝ることに限るのだ。が、桜木はそんな流川をいつまでも見つめ続けているだけだった。
 寝床に入ろうとしない桜木のことが流川は気になっていた。その視線に耐えられず、やがて起き上がって言う。
「どうした。……眠れねえか」
 今の流川は、半月の明かりの下で不思議に魅惑的だった。桜木の中にはここ数日間に感じたさまざまな流川が浮かび上がる。自分に触れた流川も。
 桜木の部分が形を変える。この疼きがどうすれば癒されるのか、桜木は既に知っていた。
「桜木」
 寒さに肩を竦める流川。まっすぐに見つめる視線。その瞳にはなんの作為もない。引き込まれた。わずかに開かれた唇に。
「ルカ……」
 欲するままに唇を重ねた。突然の重力に耐えかねて流川が後ろに倒れ込む。その頭の下で乾いた砂が風に舞った。
 唇から雪崩れ込むような欲情に桜木は我を忘れる。その激しさに流川の唇から呻きが漏れた。ほんの数瞬前までお互いに誰も触れた事のない唇だった。触れられた今になっても、それが現実のこととは流川には思えなかった。
 自分を嫌いなはずだった桜木。
 流川にはその桜木の行動が、死の恐怖に切れた姿なのだと思えた。
 他に欲望の対象のない荒野。荒れ果てた砂漠に熱い血を通わせた人間はお互いしかいなかったのだから。
「桜木……お前……」
 唇が自由になったとき、欲望を剥き出しにした桜木の視線を受けて呟く。
「俺……だめだ、流川」
「判ってるのかてめえ。同性愛は死罪なんだぞ」
 流川の言葉にわずかに含まれた侮蔑。それでも、流川は抵抗しなかった。
「赤木大尉と宮城少尉もやってた!」
「だから死んだじゃねえかよ」
 死の恐怖。自分は死ぬのかもしれない。でもそれだからこそなおさら流川が欲しかった。赤木達がお互いを求めたときも同じだったのかもしれない。
 桜木が大尉達のことを知っていたなどと、流川は気付かなかった。それは本人達の問題で、誰もなにも言わなかったことだった。おそらく仙道は察していただろう。だがそこまでの洞察力を持たない桜木の口からその言葉が出るのは意外だった。
 偶然見たのかもしれない。だとしたら衝撃だったことだろう。
 桜木の手が防寒具を剥がす。流川は身体を固くしたが抵抗しなかった。桜木に抵抗することなど流川にはできなかった。また、する必要はなかった。
  ―― 桜木花道
 いつからだろう。流川が桜木を特別に思い始めたのは。今から二か月と少し前、流川の前に現われた赤い髪。桜木は今まで一年間過ごしてきた国境という名の地獄を一瞬にして変えた。よく言えばおおらか、悪く言えば傍若無人なその性格は、それまでの四人の軍人達の荒涼とした心の中までも一変させた。
 全面戦争が始まれば自分は一番先に死ななければならない。そんな寂寥感は桜木にはなかった。子供のままの桜木。たぶん誰もが思っていた。たとえ自分が死ぬとしても、桜木だけは死なせてはいけないと。
 ずっと居場所をさがしていた。楽に呼吸のできる場所を。流川にとってのその場所は家庭にはなく、軍人としての生活にも見出せなかった。国境は必ずしも求めていた場所ではなかったけれど、少なくともそれまでの生活よりははるかにましだった。たいていの我が儘は許してくれる上官。自分が異質なのだと感じさせないほどに軍部では異質だった人間達の集まり。ここが辿り着くべき場所なのだとしたらそれほど後悔はなかっただろう。たとえこの先には死という結末しかなかったのだとしても。
 誤って死地に迷い込んだ子供。死と隣合わせの国境にあって、ただ一人生の匂いを運んできた子供。
 どれだけ桜木を憎んだか判らない。自分に得られなかったものすべてを持つ桜木を。だが、現実に死に直面したあの時、桜木を守るという役目を与えられて、流川の憎しみは無償の奉仕に変わった。なぜなら、桜木には流川が必要だったから。人並み外れた生命欲を持つ桜木も、流川がいなければこのまま死ぬしかなくなってしまうのだから。
 自分のものにしたかった。自分だけのものに。たった今呼吸を乱して自らの軍服を脱がせる作業に焦る桜木に、抵抗などできる訳がなかった。いつかこうなることを望んでいたのは流川の方だったのかもしれない。
(桜木のものになることで手に入れられるのならそれでいい)
 はだけた胸にじかに触られる嫌悪感に身を固くしながら、流川は心の中で呟く。
(誰にも奪わせない。敵兵にも、憎むべき日本軍にも……)
 体温の低い肌が乾いた冷風にさらされて凍る。
(……仙道の亡霊にも!)
 煩わしい軍服を脱ぎ捨てた桜木の視線とまともにかちあった。互いの肉体が露になる。視線を合わせた一瞬、桜木の目に躊躇いが走った。流川は何度も目にしたことがある。流川の真っ直な視線はほかの流川でない人間にとって様々な意味を秘めていたからだった。
 その視線を、桜木は拒絶と取った。流川の何もかもを見透かすような瞳は見つめられた人間の一番弱い部分を容赦なく突いてくる。
「責めたいなら責めろ。おまえがあんなことしなけりゃ俺は……」
「……寒い」
 言いながら、身体を起こす。桜木の言うことは流川には理解できた。あの夜、なぜ流川が桜木に触れたのか、明確に説明しろと問われても出来なかった。気後れも罪の意識もいらない。後ろめたさなんか持って欲しくはない。
 桜木の頬は熱かった。息を飲む唇に触れる。一瞬の口付けが生み出した効果は絶大だった。
「あっためろ、桜木」
「流川……!」
 桜木が力一杯流川を抱き締める。桜木の熱さは流川の皮膚に吸収される。その体温の交換に流川は鳥肌が立った。一分の隙間もないほどに密着した桜木の胸。背中を弄る腕が流川の神経を掻き立てる。他人に身体を委ねるという嫌悪感は喩えそれが桜木であっても決してなくなりはしなかった。身を固くしながら、それでも流川は精一杯耐え続けていた。
 流川の名前を呼びながら、桜木は流川の胸に顔を埋めた。冷たく綺麗な、人形のような身体。桜木にとってはそこにあるだけで、触れられるだけで十分だった。拒絶されているのだとしても、欲しいものは手に入れる。抵抗感はものともせずに、流川の身体を開かせた。
 自分の身体が他人のものになる。
 本当に自分が望むものが何なのか、流川には判らなかった。本当に抱かれることを望んでいたのかも。その基準は自分自身の中にはなかった。桜木が望むもの、桜木が望むことをすべて与える。それが流川そのものだった。入ってくるならば受け入れる。首を絞めるならば黙って従う。生命欲から切り離された自分の存在を ――
「ウァ……!」
 入ってきた瞬間、痛みに流川は身体を仰け反らせた。無意識に逃げようと蠢く。その肩を抑えられ、桜木の一部分はまるでそれ自体が一つの生物であるかのように、流川の入り口をさぐり当てて無慈悲に侵入してきていた。身体の下で乾いた砂が崩れ落ちる。同じ砂に塗れた桜木の部分は、ざらざらした感触で流川の身体を痛みに悶えさせた。
 切り裂かれる身体。幾度となく突き上げる桜木に巻き込まれ侵入してくる砂の粒。それらは体液と混じり合って内部に取り残される。流川の頭の中にあるのは激しい痛みに正気を現実につなぎ止めることだけだった。桜木の息づかいが流川に生の息吹を運んでくる。
 その時に初めて流川は理解したのかもしれない。自分が生きようとしていることを。
 ずっと居場所を探していた。探し続けて国境にたどり着いたとき、流川は自分が探していたものが居場所ではなく死に場所だったことに気づいた。死ぬために生きていた国境警備隊員達。彼らは本当は生きたかったのか。それとも死にたかったのか。たぶん生きたかったのだろう。生き残ったのは一番死にたかった自分だった。
 だけど今、自分は生きようとしている。それが不思議だった。桜木のために生きようというのではない。自分自身のために生きようとしている自分がいる。
 痛みを、痛みとして感じる。痛みに対する回避行動が無意識に出る。それは流川の生命欲だ。生きる場所を ――
「流川……!」
 動きを止めた桜木を、これほどありがたいと思ったことはなかった。息をあらくして流川を見つめる瞳がある。流川はちょっと目を細めた。ほんの少しその眼力を弱めた流川に許されたような気がして、桜木はその白い身体を抱き締めていた。
「流川……お前、俺のこと嫌いじゃねえよな」
 流川の口付けがきっかけだった。それよりもその前の流川の桜木に対する行動が根本のきっかけだった。だけど流川の身体は桜木のすべてを受け入れたとはいくら桜木でも思えなかった。嫌いじゃないのだと思う。だからこそ答えが聞きたかった。
「どうして」
「だってお前……今だってこんなに身体固くしてる」
「……触られるのが嫌いなんだ」
「そうなのか? 俺、触られるの好きだ。触るのも触られるのも」
 桜木はそうなのだろうな、と、ややぼんやりした頭で流川は思う。回りに愛されて育った人間は人に対する恐怖心がないのか。
「触られることだけか? ほんとに俺のこと……」
「てめえはどうなんだ。嫌いかどうか判るのか」
「俺は……」
 愛しかった。自分を受け入れた身体が。愛しいから抱き締めた。ほかにどうすることができただろう。
「お前が俺のこと餓鬼扱いするのは嫌いだ。冷たいこと言って俺を突き放すお前も。だけど俺、たぶんお前のこと嫌いじゃねえ。絶対嫌いじゃねえ。どこがとかそんなの判らねえけど、お前が側にいて、ここにいるだけで俺、それだけでいいんだ」
 流川の居場所。ただ居るだけの場所。楽に呼吸のできる場所。桜木を手に入れたかったのは流川の方だ。
「俺には判らねえ」
「だったらどうして俺に接吻した」
 これ以上桜木が悩む姿を見たくはなかった。だけどそれを桜木に説明することは流川にはできなかった。
「寒い、桜木」
「……ああ、待ってろ」
 脱ぎ捨てた防寒具を二重にして流川と自分の身体に巻きつける。その中で桜木は冷たい流川の身体を抱き締めた。流川の震える身体を。
「俺の側にいろ、流川」
 暖かいのだと思う。だけど流川には恐怖があった。いつか、この桜木も自分を切り捨てる。やがて古代遺跡の砦に着いて、そのあと本陣を追って無事に辿り着いたとき、流川の役目は終わるのだ。ひとときだからこそ夢は甘く暖かいのかもしれない。
「お前、関西だって言ったよな。家族は?」
「……母親と、母親の旦那と、そいつの子供が四人」
 その流川の言葉を理解するのに少しの時間がかかった。
「お前の母親が後妻に入ったのか? いつ」
「五年前」
 無口な流川。人に触られることを嫌う流川。その生活が流川にとってけっして幸せではなかったことを、桜木は理解していた。
「俺、お袋と二人暮らしだ。……もし、戦争が終わって、その時ちゃんと生きてて、お前にその気があるなら、俺のところに来いよ。関東だから遠いけど新幹線ですぐだ。友達もいっぱいいるしみんないい奴だ。お前も絶対気に入る」
 流川は驚いていた。だがすぐに判る。今の桜木の言葉に嘘がないのだとしても、それは一時の気の迷いなのだと。
「ああ」
「ほんとだな?」
「ああ」
「よかった……!」
 その約束を守る前に消えること。桜木を無事に送り届けたあと、流川は死ぬことを決めた。本当に手に入れたかったのはひとときの夢だった。桜木の描く夢の住人になりたかったような気がする。
「流川、俺が軍人になるって言ったら、回りの奴らはみんな祝福してくれた。頑張れって言ってくれた。俺も軍人はかっこいいって思った。だけど一人だけ、鼻で笑った奴がいたんだ」
 うって変わってまじめな口調で話し始めた桜木を、流川は初めて見るように見つめた。そこにはおとなびた桜木の顔。
「そいつは最初から戦争を笑ってた。うまれたときから日本は戦争をやってて、俺達国民は一丸となって敵国に勝つんだって学校の授業もせせら笑ってた。戦争なんて馬鹿な奴らがやることだってさ。それなのにそいつは戦争で儲けてたんだ。俺、ずいぶん反発した。戦争で私腹を肥やすなんて非国民のすることだって思ったんだ」
「……弾丸でも作ってたのか」
「いや。親父さんと一緒に靴下作ってた。軍と契約して二等兵が履く夏冬両方の」
 そういえば流川も二等兵時代に履いていた覚えがある。丈夫で長持ちするのはいいのだがよく蒸れて水虫持ちにはえらく評判が悪かった。そのうえ何回か洗濯するうちに左右の長さが違ってくるのだ。妙に変わった粗悪品だった。
「そいつが言ったんだ。戦争をまじめにやる奴なんてまぬけだ。軍人なんて遠征が続きゃ風呂にも入れねえで汚ねえし、上官はまるで幼稚園みてえにうるさく型にはめようとする。ぴりぴりして敵国と戦って死ぬ恐怖におびえて、そのくせたいした給料もねえ。死んで帰って来たって最初はだれもが手を叩いてくれるけど、そのうち忘れられちまうだけだ。結局何にも残りゃしねえ。……俺が軍人になろうって時に言われて、ほとんど喧嘩別れみてえに出て来ちまった。だけど俺、今ならあいつの言うこと判るんだ。あいつはあいつでたぶん、俺のこと心配して言ってくれたんだって」
 軍にとって、軍人の命は数字だった。国境には五人の将校がいる。敵軍に二百人。勝てるわけもないし五人程度助けたところでたいした戦力にもなりゃしない。よし切り捨てよう。 ―― 流川達はそうして切り捨てられた。一人一人の人生も感情も夢もすべて数字として。
「帰ったら俺、そいつに謝ると思う。お前の言う通りだったって。それから言うんだ。それでも絶対無駄じゃなかったって。……お前のことつれて帰って、一緒に砂漠を生き抜いた戦友だって自慢してやる。籠球やってみせて教えてやる。お前がせっせと靴下作ってる間に俺はこんなすごいことやってたんだって自慢してやるんだ。そんで奴らと籠球の組を作って……」
 涙声を押し殺して ――
 その桜木の涙の意味は、だれにも判りはしなかった。流川にすらも。嗚咽に震える桜木の身体に、いつしか流川は自ら肌を寄せていた。今、流川は感じていた。自分の生命欲を。自分は桜木を守りたい。桜木を守るために、自分は生きたがっているのだと。
 守らなければならないからそれまで生きようというのではない。守りたいから生きたいのだ。戦争で傷つけられた桜木の純粋さを取り戻してやりたい。生きていたい。桜木のそばで。
「流川……俺、生きたい」
 抱き締める。その熱さに、流川は接吻した。
「その自慢話、俺がさせてやる」
「お前も一緒だからな。死んだら承知しねえ」
「死なねえ」
 密着した身体を伝って、桜木の熱い心が流川に注がれてゆく。にじんだ涙を拭きとって、桜木は流川の顔を覗き込んだ。不安が心をよぎる。流川を儚いと思ったのは今夜が初めてだった。
「本当だな、流川。絶対お前、死なねえよな」
「死なねえよ」
「お前が死なねえとか言っても信用できねえ。お前って……どうやっても捕まえられねえ気がする。絶対俺のものにならねえ気がする。一瞬、ふっと目を離したら、そのまんまどっかに消えちまいそうだ。どうしたら俺、お前のこと捕まえられるだろ。たとえ百回約束してもらっても、俺は……」
 桜木の言葉を流川はどこかで納得していた。桜木の直感はあたっている。いつか、桜木が自分以外のものに目を移したら、その時が流川にとっての生きる意味の消えるときだった。
「そうだ。お前、したいこととかねえか? 生きて本国に帰れたらしたいこととか、欲しいものとか。俺、お前が欲しいもの手に入れるために力貸す。そしたら一緒にいられる気がする。なんか、ねえか?」
 一つしかない。欲しいものは。
 手を伸ばして、流川は桜木の頬に触れた。そのまま唇をなぞり、顎をなぞる。不思議そうな顔で流川のすることを見つめていた桜木は、やがて気づいて目を見開いた。そして、少し目を細めて、言う。
「お前の欲しいもの……俺、か……?」
 眉に触れる。その赤い髪にも。耳の形も覚えておく。穏やかに、安心したように見返すその微笑みも。
「俺、お前のものになる。お前だけのものになる。そしたらもうお前がいなくなるかもしれねえって心配しなくてもいいよな。自分のもの、捨てたりしねえよな、お前」
 目を閉じて、桜木の顔を瞼の裏に焼き付けた。やっと手に入れた。憎んで憎んで、でも一番欲しかったものを。
 身体の奥から暖かくなってゆく。楽に呼吸のできる場所。これで眠れる。誰かの傍らで眠ることなど、自分にはできないと思っていたけれど。
「流川、眠ったのか……?」
 その言葉はもはや流川には届かなかった。腕の中で眠る男に、愛しさがあふれて止まらなくなる。ほんの少し前に抱き締めたときより、言葉を交わしていたときより、一瞬一瞬どんどん好きになる。そんな自分の心の変化に自分自身がついていけなくなるほどに。
 今なら、判る気がするのだ。仙道中尉達を見捨てようとした流川の気持ちが。流川を大切なのだと思う。本当に最初から、流川は自分を一番大切だと思ってくれていたのだ。最初から一つを選んでしまった流川。流川が選んだのは、ほかならぬ桜木自身だったのだから。
「あのときのお前の言葉が俺、やっと判った。お前がほんとに俺のこと考えててくれたことも。仙道中尉達とお前とどちらか選べって言われたら、俺もお前のこと選ぶ。お前のこと危険な目にあわせるかもしれねえって思ったら助けになんか行けねえ。だけど、そういうのって……」
 その、辛い気持ちを、桜木は人知れず噛みしめていた。一つの命を切り捨てなければならない痛み。見捨てたくなんかないのに、自分の心のためにはどうすることもできなかった。流川だって同じ気持ちだったはずだった。そんな流川を桜木は責めてしまったのだ。薄情な奴だと言って。
「俺、後悔すると思う。真夜中目え覚まして頭かきむしって。一生自分に納得させながら生きてく。お前のためだったんだって。……俺、お前のものでいていいかな、流川」
 吹き荒ぶ風が、やがて歌を運んでくる。遠く離れた国境の戦場から、本国の遠い空から鎮魂歌を。生きているもの達は砂に墓標を刻みつける。鎮魂歌は子守歌に。生きているもの達が誰も後悔しないように。
 心の傷がすべて癒されるその日まで。



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