砂の墓標



 出発の朝、流川は悪夢に目を覚ましていた。
 広大な、どこまでも続く砂漠。重なりあうおびただしい数の死体。そして一つ、離れたところに仙道が血まみれで横たわっていた。その目は見開かれたままぴくりとも動かない。流川は叫び声を上げたつもりだった。が、実際はわずかな声を上げることもなく、意識は現実に引き戻されていった。全身汗びっしょりでその身体は恐怖に震えたままだった。
 仙道は死んだ。証拠は一つもなくとも、流川は確信していた。見た夢が現実であるかどうかなど流川には判りはしない。ただ仙道がこのまま生きて自分の前に現われることはないということ、ただそれだけを確かな実感として感じていただけだった。
 汗に濡れた身体を洗い流すために、流川は手拭を持って井戸に向かった。すると、まるっきり同じ目的で井戸にいた桜木と出くわす。桜木の目は充血していて、一晩中眠れなかったらしいことは明らかだった。
 朝のあいさつが流川に何の感銘ももたらさないことを桜木は知り過ぎるほど知っていたから、既に目的を果たした自分の身体を井戸から遠ざけることでそれに代えた。流川も井戸の前で桜木と同じように裸になり、馬穴で身体に水をかけはじめた。
 そんな流川の様子が普段と変わりないことを感じて、桜木は恐る恐る声をかけてみる。
「流川……お前、俺と話すの嫌か?」
 どうやら桜木が一晩中寝ずに考えていたことがたかがそれだけのことなのだと知った流川は、その意外なまでの繊細さに思わず驚きを隠せなかった。
「なんでてめえはそういう無駄なことに体力使うんだ。今日から五日間は歩かなけりゃならねえんだぞ」
 こんな戦場の中にいて、桜木の感覚は平和ずれし過ぎている。楽天家というわけではないのに、自分の命が危険にさらされていることをこれだけ感覚の外に置くことができるというのは流川には不思議だった。そんな桜木に苛々させられると同時に、ある意味で救われている自分を知るのは一種の快感だった。
「無駄なことかよ。だって話すの嫌な奴と何日も歩かなけりゃならねえんじゃお互い気分悪いじゃねえか」
「好きだろうが嫌いだろうが二人きりしかいねえ。てめえはどうなんだ。俺といるのが嫌なら一人で行けよ」
「俺は……」
 答えに窮して口ごもった桜木を流川は一瞥したあと自分の用事は済んだとばかりにさっさと服を着始めた。
「一時間したら出発する。食料と水五日分用意しとけ」
「五日分でいいのか? もっと持てるぞ」
「必要な分だけでいい。あの倉庫の食料は必要量以上減らさねえ決まりだ。次に来た奴が困る」
 次にここを訪れるのは仙道かもしれない。桜木はそう思って言いかけたが言わなかった。代わりに流川の背中に言った。
「俺は嫌じゃねえ。だからお前も嫌になるな」
 桜木の言うことはむちゃくちゃだと流川は思った。だが、決して悪い気分ではないと、流川は足を早めていった。

 二人が再び歩き続ける生活に戻って、最初の夜を迎えていた。
 うとうとしかけていた流川が物音に目を覚ますと、少し離れたところでいびきを立てているはずの桜木は近くに見当らなかった。不審に思ってあたりを見回す。ぼんやりとした月明かりの下に桜木は背を向けてしゃがみこんでいるところだった。
 気分でも悪いのかもしれないと流川は心配になって近づいてゆく。が、背後まで迫って、桜木のしていることがどういうことなのか理解することができていた。気配に振り返った桜木は恥ずかしそうに顔を赤らめている。流川が知る限り、桜木の今までの表情の中で一番おとなびていた。
「……来んなよ。てめえには関係ねえだろ」
 流川にも経験がある。肉体の生理現象に伴って変調をきたせば、それを処理するのは男として生まれたからには当然のしきたりだった。
 このまま黙って素知らぬ振りをするのが本当だったのだろう。だが、流川はそうしなかった。逆に桜木に近づいて、肩越しに手を伸ばしながら言った。
「動くな」
 片方の手を肩に乗せ、もう片方でそれに触れる。桜木の息を飲む気配が伝わって来る。流川の存在に驚き少し萎え始めていたそれは、触れられて再び元の勢いを取り戻していた。
(流川……)
 今流川の顔は桜木のすぐ近くにあった。伏し目がちなその瞳はまっすぐに桜木自身を見つめていた。頬に流川の息づかいがある。その心地良い空気の流れに我を忘れ、流川のわずかに開かれた唇から桜木は目を離すことができなかった。
 流川の手が感触を運んでくる。しかしその感触よりも桜木は流川の唇を欲した。輪郭線をたどり、少し潤んだ唇に吸い寄せられて困惑する。流川の視線の先にあるのは桜木自身の秘所。自分以外の誰にも見せたことのない閉ざされた姿だった。
 人前で射精するなど恥ずかしいことだと思っていた。だがそんなことを感じる暇もなく、桜木はすでに達していた。そしてその時初めて流川は桜木の目を見て言った。
「一度でいいか」
 流川の視線に慄いた桜木は一瞬答えるのが遅れる。
「……ああ」
「早く寝ろ」
 言い捨てて、流川は何事もなかったかのように立ち上がって自分の寝床に戻ってゆく。離れてみて初めて桜木は流川と身体を密着させていたことに気がついていた。急に寒くなる。しかしそれとは逆に、桜木は心の中に熱い何かを感じていた。

 翌日、流川は桜木の様子がおかしいことに気がついていた。到底気づかない訳にはいかなかった。桜木という男は心の欝屈を隠すことなどできないのだから。いつも何かと騒がしい桜木は朝から一言も口をきかなかった。いつもは流川の先に立って歩いているというのに、今日は遅れがちに流川について来るだけだったのだから。
 昼休憩に砂の上に腰をおろした二人は、食事を摂りながらも寡黙だった。もともと流川はめったにしゃべることのない男である。さらに桜木が口をきかなければ、この二人の間に会話の成立するはずがなかった。
 昼ごろにもなれば桜木も回復するだろうと流川は楽観視していたのだ。だが相変わらずの桜木の様子に流川も調子を狂わせて、どうにもしびれを切らせて聞いてみる。
「桜木、……お前、寝てねえのか」
 桜木は流川をまともに見ることができなかった。風に流される砂を見つめながら短く答える。
「……たいしたことねえ」
 この言葉が今日の桜木の第一声となった。昨日までしつこいほどに聞かされていた声を今日初めて聞いたのだと気づいた流川は、改めてこの異常事態に驚いていた。
「遅れても待っててやらねえぞ。食料はきっかり五日分しかねえんだからな」
 ここで遅れることは二人の死活問題になりかねない。食料と水が尽きることはこの砂漠では死を意味するのだから。桜木にもその程度のことは判り過ぎるほど判っている。その上桜木は仙道を救うという大義名分も背負っているのだ。
「判ってる。指図すんじゃねえよ」
 声を聞けたことで心配の少しを解消できた流川は、それ以上桜木に話しかけようとはしなかった。桜木も人間だ。調子のでないときもあるだろう。昨日のことなどすっかり忘れてそう思った流川であった。
 桜木は覚えている。再び歩きはじめ、流川の背中を見ながら桜木はずっと考え込んでいた。昨夜の状況を何度も何度もたどりながら、ずっと繰り返していた。どうして、なせ、流川は自分に触れたのだろうかと。
 密着した身体の感触が残ったまま消えなかった。肩に乗せられた手も、部分に触れられた指も。流川の息づかいが耳をついて桜木は目が冴えたまま眠ることができなかった。流川の手前寝たふりをしていた桜木の耳にやがて眠ってしまったであろう流川の寝息が響いてきた。その寝息はさっきまでの息づかいに重なって桜木に不思議な興奮をもたらした。その興奮が先程の心地よさに重なって、若さはますます何かを求めて身体を喘がせていた。
 昨日の夜、桜木が達したのは流川の存在だった。流川の瞳、流川の唇。流川のすべてが桜木を高め、その身体を開放させた。桜木が感じたのは流川だった。本来ならそうであるはずの女性ではなく、今はたった一人になったしまった戦友、れっきとした男性の流川なのだ。
 前を歩く流川に、桜木は今まで感じたことのない感慨を覚えた。何度も見たことのある流川の身体。その身体が今では別のものに映った。日に焼けないその肌も、後れ毛に見え隠れする首筋も、その肩から背中に流れる線の滑らかさも桜木の視線を釘付けにする。桜木は流川を今までの一月余りの時間を合わせたよりも長い時間見つめていた。その後ろ姿に服を脱いだ流川を重ねあわせて、桜木はどんどん現実感を失っていった。
 そしてその夜、野営した木陰で流川は言った。
「てめえ、餓死するつもりか」
 今日の予定の距離が思いのほか伸びなかったことは桜木にも判っていた。そしてそれが自分の邪な想いのせいなのだということも。
「どのくらい遅れた? 取り戻せるか?」
「これから先一日一時間多く歩かなけりゃだめだ」
 流川の視線に魅惑がある。桜木は見つめたまま、今初めて気づいたように流川を綺麗だと思った。
「今日はちゃんと寝ろよ。寝ねえときつい」
「明日取り戻すさ」
「てめえの身体のこと言ってんだ」
 流川は言い捨てると焚火を掻き回した。流川の言葉に桜木は慄然とする。そうだ、流川はいつも自分を心配していた。なんだかんだと世話をやいては自分をいい状態に保ってくれた。もしかしたら昨日のこともその延長なのかも知れない。桜木はそのことに改めて気づいて、そして保護され続けていた自分を情けなく思ったのだ。自分は流川のお荷物なのかも知れない。流川に子供のように扱われている自分に腹を立てたと同時に、そんな風に扱った流川を筋違いだと知りながらも恨みに思った。
 桜木は流川の前で庇護者にはなりたくなかった。そんな自分の感情に名付ける術も知らずに。
「俺は餓鬼じゃねえ。てめえにそこまで心配される筋合いじゃねえよ」
「だったら心配されるようなことするな。今度遅れたらそのまま置いてくからな」
「こっちの科白だ! 体力なしの軟弱野郎!」
 これ以上流川の言葉を聞きたくなかった桜木は、強引に会話を終わらせると少し離れたところに寝転がって背を向けた。その背中に、呆れたように溜息をつく流川の視線が感じられる。そうして流川はいつも自分を莫迦にしたように見る。それが桜木には耐えられなかった。こんな気持ちは仙道中尉や赤木大尉、それに宮城少尉にも感じたことはなかったのに。
 明日こそ流川を見返してやる。
 そんな桜木の感情が、流川の挑発による奮起なのだと桜木が気づくのに、今しばらくの時間が必要だった。

 行軍の際に軍から支給される非常食は、人体に必要な栄養素を概ね含んだ固形食品である。その一箱がだいたい女性の一食分の量にあたる。桜木や流川など若く体力を必要とする軍人達には二箱程度が一食分としての基準となった。腹を満たそうと思えば四箱は食べなければならないというものだが、今回は全て徒歩での移動でもあり、二人は一日につき六箱で、五日分の三十箱を携帯して出発した訳である。
 その食料もすでに十八箱になっている。翌朝目覚めた二人は朝食に食べ慣れた携帯食料を必要分だけ流し込む作業をしていた。さすがに二日間も眠れなかった桜木も昨夜はよく眠れたらしく、いくぶん精神的にも落ち着いて元気を取り戻している。ただ、流川に対する昨日の感情はそのなごりを残していたので、その流川が朝食に携帯食を一箱しか消費しなかったことは、桜木の気付くところではなかった。
 歩き始めのころ、やや流川より速い速度で出発した桜木は、遅れがちな流川に合わせるように速度を落とした。すると桜木にも同じ速度で歩けば疲れがたまりにくいことが判ってくる。そして意外にも流川の歩調は桜木の身体にぴったり合っていたのだ。桜木はほとんど流川に並ぶような位置を取り、その歩調に合わせるように一定速度で歩き続けていた。
 横に流川の息づかいを感じる。桜木はその息づかいに自分の呼吸を重ね合わせた。同じ歩幅で同じ調子で歩き続ける。そうしているうちに桜木は自分がまるで流川の一部になってしまったかのように思った。影のように、あるいは鏡に写したもう一人の流川のように、その身体と一体化してゆく。その感覚は桜木に新たな感情を呼び覚ましていた。
 流川の身体は桜木と同じくらい高く跳べる。比較的背の高い桜木と同じだけの体格を持ち、瞬発力も動く速度も変わらない。それはバスケットボールを通じで桜木が知った流川の規則だった。こうして、同じ動きでいるとはっきりと判る。二人が持つ規則が、まったく対等に重なり合っていることが。
 同じ規則を持つ二つの身体は、もしかしたらまるっきり一つのものなのかもしれない。鏡の中のもう一人の自分のように、流川はもう一つの自分の姿なのかもしれない。
 もしも今ここに流川がいなかったら ――
 想像して、桜木はぞくっと身震いしていた。もしも一人で戦場を後にしていたら、たった一人で砂漠に放り出されたのだとしたら、おそらく自分は一日たりとも生きてはいられなかったことだろう。方角も距離も何一つ判らず、運よく国境警備本部にたどり着いていたとしても、食料も水も手に入れることはできなかった。これが逆の立場なら、流川は全てを手にいれることができただろう。自分のために行程を遅らせることもなく、煩わしいおしゃべりに悩まされることもなく……
 自分は今負けている。戦士として男として、流川という男に。
 流川が自分を子供のように扱うのは当然のことなのかもしれない。莫迦にすることも、必要以上に世話をやくことも、一昨日の夜のように顔色ひとつ変えずに桜木の身体に触れることも。桜木はそんな流川が嫌だった。世話なんかやいてくれなくてもいい。遅れたならそのまま置いてっても構わない。ただ、対等に扱って欲しかった。一人の男として同じ立場で扱ってもらいたかった。
 自分自身が、流川の本当に必要とする人間になれるのなら ――
「休憩する」
 足を止めて、流川は予告なく言った。ここの太陽は熱い。桜木と同じように歩きながらも、流川の目は木陰を求めて彷徨っていたのだ。
 負けている自分。こんな些細なところにも差は現れている。
 流川の向かいに腰をおろした桜木は、しばらく非常食に手をつけずにいた。迷いがある。だが、二人しかいない世界で気取って見せることはないのかもしれない。
「流川……」
 既に様子のおかしい桜木には慣れっこになっている流川である。黙々と食事をしながら、目だけを桜木に向けた。
「流川、お前……俺のこと必要か?」
「……どあほう。いったい何を言ってる」
「答えろよ! 俺にだって誇りがあるんだ! お情けで一緒にいてもらいたくなんかねえんだよ!」
 昨日は寝ていたようだった。いびきを確認していた流川は割に安心していたのだ。どういう経緯でこんなことを言い出すのかはわからない。ただ流川に言えるのは、自分が今感じているそのままの気持ちだけだった。
「桜木、俺はお前が期待してる言葉なんか知らねえ。てめえの誇りも判らねえ。だけどこんな戦場でただお情けでてめえみてえなどあほうに付き合ってるほど俺は物分かりのいい人間じゃねえんだ」
「流川……」
「てめえは必ず俺が本土に連れていく。俺はそのことしか考えてねえ。判ったらしっかり食って体力蓄えろ。時間内に食い終わらなかったら今度こそ置いてくからな」
 まるで矛盾するような流川の言葉であったが、桜木は気付かなかった。そんなことよりも今の言葉の真意を掴みかねて呆然とする。自分を本土に連れて行くことしか考えていないと言った流川。それは裏を返せば、流川自身が生きることは少しも考えていないということではないだろうか。
 嘘も社交辞令もまったくない言葉。もしも桜木がいなかったとしたら、流川は生きることすらしなかったのかもしれない。
 桜木のなかに不思議な感情が芽生えていった。それは流川の見せた初めての弱さのせいだったのかもしれない。


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