砂の墓標



 中天に達した太陽が照りつけていた。
 砂の上に、二人分の短い影を落とす。サラサラした砂に足を取られて、二人の男は思うように歩くことすらままならない。それでも彼らは歩き続けていた。立ち止まることは死を意味する。その死は二重の意味を持って、男たちの心に更に深い影を落としていた。
 広大な砂の海を歩くことにもう意味は一つもないのかもしれない。単調な砂の景色は人の根本にある生命欲すら既に失わせようとしていた。このまま歩き続けてどうなるというのだろう。命が助かっても、その時には彼らの祖国はもうないかもしれないというのに。
 前を歩いていた男が不意に振り返った。そして、表情を変えることなく同じ速度で歩き続ける後ろの男に呼かける。
「流川。こんなにのんびりでいいのかよ。食料も水も今日までの分くれえしかないんだぜ」
 振り返った男は赤い髪をしていた。その赤い色を、流川は不思議になつかしく思った。
「我慢できなきゃ先に行け。このまま南へまっすぐ行きゃ本部だ。道に迷うなよ」
 流川は速度を変える気は少しもないようだった。赤い髪の男、桜木も諦めて歩き始める。
「てめえみてえな無口野郎でもいねえよりましだ。……この頑固男!」
「……どあほう」
 聞こえない程度まで離れたと思ったとき、流川は低くつぶやいた。どうして桜木には判らないのだろう。万が一、仙道達が生きていたとしたら、同じこの道をあとから追いかけて来るかもしれないというのに。
 それとも本当は判っているのか。仙道達が生きていないことを、自分よりはっきり現実的に察しているのか。
 歩く動作に合わせて揺れる赤い髪を見ているだけでは、桜木の心の中まで読み取ることはできないようだった。

 二人が国境の戦場を離れてから、既に三日が経とうとしていた。
 桜木にとっては突然の宣戦布告。敵国との国境にいて国境警備を仰せつかっていた五人は、そのまま敵国兵士と戦って死ぬはずだった。だが、流川は宣戦の布告される一週間ほど前から既にその情報を手に入れていた赤木大尉に、桜木をつれて逃げるよう命令を受けていた。赤木大尉と仙道中尉、そして宮城少尉の三人は国境で死ぬから、せめて二人だけは助かるようにと。
 反発がなかったとは言わない。かりにも流川も桜木も少尉だった。祖国のために死を厭わないと軍隊に志願したのだ。ほかの多くの若者がそうであるように、流川も何かのために戦いたかった。軍隊に入って国のために奉仕することは、一人の国民として男として絶対に間違いのない進路だったのだ。
 表向き、流川達は特務を受けている。国境に宣戦布告が出されたことを国境警備本部に報告するという。しかし国境警備のお偉方は既にそのことを知っていたし、今向かっている本部も今は古代遺跡の砦の方に移動していた。言うなれば二人の今の行動はまったく無駄なのだ。しかし軍や国にとっては無駄な行動であっても、二人にとっては必要な行動だった。生きて帰って戦犯として裁かれないためには、国境警備本部を求めてさまよい歩いたという実績が必要なのだ。
 その日の夜、偶然たどりついた林の近くで、二人は燃えるものを集めて火を灯しながら最後の食事をとった。水もわずかである。太陽に照らされながらの強行軍ではあと一日ほどしか持たないだろう。
「流川、聞かせろ。国境警備本部まであとどれくらいだ。いつまで俺はメシ我慢しなけりゃならねえんだ」
 流川がなにも語らないことから、桜木は不安で一杯だった。もともと喋り好きでもあるのだ。無口な男と旅をするのにこれほど適さない男もなかったかも知れない。
「明日の夕方には着く。あと一日我慢しろ」
「本部には誰も残ってねえって言ったよな。食料あるのか?」
「なければ餓死だ。日頃の行いがものを言う」
 桜木は自分の日頃の行いを点検しかけて、不意に心を止めた。流川と出会って一月半にもなろうというこの日まで、流川が冗談を口にしたのはこれが初めてだったことに気づいたからである。
「お前の冗談て笑えねえ。国はどこだよ」
「関西だ」
「ますます笑えねえ」
 そう言いながら桜木は大笑いした。関西といえばお笑いという図式があるが、関西といってもそうとう広い。流川は笑わなかった。桜木につきあって笑う必要はないと思っていた。
 人は笑うことで不安を吹き飛ばすという。精神医学でも立証されたその事実は、そのまま桜木の場合にも当てはまっていた。
「ああ、何か笑ったら眠くなってきちまった。お前も寝ろよ、流川」
 心が安らかになれば眠くなるのも自然の摂理。桜木の単純さは天然の営みにそっていて精神科医にとっては理想の被験者なのかもしれない。
 桜木の寝息を聞きながら流川も横になる。頭の上には満天の星が輝いていた。
 三日前の満月も少しずつ欠け始めていた。

 次の日の午後、ほんの数滴の水に辛うじて命を長らえた二人は、やっとの思いで国境警備本部に辿り着いていた。
 まるで踊り上がらんばかりに駆け出して行こうとする桜木を、流川は無言で制していた。
「んだよ。引っ張るなよ!」
「てめえの辞書には警戒って言葉はねえのか」
「誰もいねえよ! そう言ったのはてめえだろうが!」
 そうは言ってみたものの敵軍が潜んでいる可能性に行き当たって、桜木も足をゆるめる。しだいに建物が近づいてきて、人の気配のないことがありありと判ったとき、桜木も流川もほっと胸をなでおろしていた。
「見ろよ、いねえじゃねえか」
 勝ち誇ったように言った言葉も、その裏には誰も存在しない建物への不安がよぎる。二人はいつもの互いの距離よりもほんの少し近い距離を保って、建物の入り口を入っていった。本部の建物の中には猫の子一匹存在しない。二人は武器庫の方は無視して、食料庫の方へと歩いていった。
 ドアを開けた桜木はこれ以上にはないという大げさな動作で落胆の意を表した。
「何にもねえ」
 倉庫はがらんとしている。流川も溜息を吐いたが、それは桜木とは別の理由からだった。
「てめえは三か月の研修期間になに習ったんだ」
 軍人として志願すると、軍のあらゆることを勉強するために三か月の訓練期間が設けられているのだ。精鋭軍人でない二人はその研修期間を経て最初は二等兵になったという経歴を持っている。
「何って、銃の扱い方とか行進のやり方とか」
「そういう実地訓練じゃなくて、学科の方だ。講義聞いただろ」
「学科のときはたいてい体力回復してた」
 流川は倉庫の奥に向かいながらもう一度溜息を吐いた。
「だからてめえは甘ったれだって言うんだ。自分の命は自分で守るしかねえんだぞ」
「んだと流川! もういっぺん言ってみやがれ!」
「ああ、何度でも言ってやる。てめえは甘ったれのどあほうだ。軍隊の学科は小学校の算数じゃねえ。それを聞いてるか聞いてないかで命にかかわるんだ。俺が一緒じゃなかったらてめえはこのまま餓死するはめになってるんだぞ」
 桜木はまた怒って文句を言おうとしたが、流川の言葉に食料がなかったことへの落胆がないことと、その言葉の最後の部分の本当の意味に気づいてそのまま言葉を止めた。
「……食料、あるのか?」
「いいか桜木、よく覚えとけ。食料庫の奥には必ずつまみが付いた扉がある。……これだ。ここへ来てよく見ろ」
 言われるままに桜木は流川の側まで行く。と、そこには流川が言った通りの金庫のような扉があった。
「まず、右に回しながらつまみを一にあわせる。次に左に三回まわして二にあわせる。今度はまた右に二回まわして三だ。そのあと左につまみが止まるまで回して、取っ手を傾ける」
 流川が言いながら言葉の通りの操作をすると、がちゃんという音とともに扉はゆっくりと開いていた。
「おお、食料!」
桜木は流川の言った言葉などまるで聞いていなかったに違いない。食料を見つけると両手に持ちきれないほど抱えて引っ張りだしていた。
「食べる分だけにしとけ」
「半日以上絶食だったんだぜ。食えるだけ食って腹一杯にしてえよ」
 そんな桜木はほとんど無視して、流川は倉庫の端の方においてある樽の方へ向かっていた。ふたを開けて溜息を吐く。そのころになると両手に食料を抱えた桜木が流川の行動に気づいて声をかけていた。
「それ、水か? 俺にも飲ませろ!」
「飲んでもかまわねえが腹こわすぞ」
「なんで!」
「腐ってる」
 桜木が今度こそ本当に絶望的な表情をしてその場に座りこんでいた。
「そんな……食料があっても水がなけりゃ俺達は乾き死にじゃねえかよ……ここまで来て……」
 今笑った烏が何とやらだな、と流川は思う。正直に表情をコロコロ変える桜木を見ながら、流川は意味もなく桜木に意地悪をしていた赤木大尉達の気持ちが判ったような気がしていた。桜木には人をそういう気分にさせる何かがある。ただ、今この状況で水がなければおだぶつなのは桜木だけではないこともよく判っていたから、流川は別の方法を求めて出口へと歩きかけた。
「どこ行くんだよ、流川」
「井戸を捜しに行く」
「井戸? ま、待てよ! 俺も一緒に行く!」
 桜木は手にした食料を床に転がして流川のあとを追った。のどが渇いて死にそうなのは本当だ。空腹でもあるのだがこのまま食料だけを詰め込んだところで乾燥した非常食がすんなりのどを通るわけもなく、まずは水を探すのが先決だろう。桜木の頭でそんな計算が働いたわけもないのだが、ほとんど本能的に桜木は水の方を選んで倉庫を駆け出して行った。
 建物の周辺をくまなくさがし、やがて二人は裏の林の手前で奇跡のように井戸を発見していた。手扱ぎのポンプ式のものである。流川は少し動かしてみたが、水が出て来る気配はなかった。
「涸れてるのか?」
 不安になって、桜木が言った。流川は何かを考えているようにじっと地面を見つめている。
「流川……」
「桜木、呼び水って知ってるか?」
 珍しくも流川が聞いて来る。
「なんだよそれ。それも軍隊の講義か?」
「そうじゃねえ。……ただ今ふっと死んだばあちゃんの言ったこと思い出した。呼び水は物事をひき起こすきっかけの事を言う言葉で、その由来は井戸にあるってな。……みろよ、ここに馬穴(バケツ)がある」
 流川の言うことは桜木には少しも理解できず、仕方がないので黙って聞いている。
「この馬穴には取っ手がねえ。だから水を運ぶのに使うんじゃねえんだ。たぶん使ったあとここに水を溜めといて、次に使うときの呼び水にするんだ。この井戸はたぶん呼び水がねえと水が出ねえんだ」
「……水なんか入ってねえじゃねえか」
「この炎天下で何日もほっときゃ乾くさ。とにかく呼び水やってみる」
「呼び水もなにも水がねえだろ」
「飲むんじゃねえんだから腐っててもなんとかなる」
 そう聞いて、桜木は頼まれもしないのに馬穴を持って倉庫に走っていった。少なくとも桜木は流川よりは体力がある。それを自覚していた桜木は、流川に体力をつかわせるよりは自分が肉体労働を引き受けるべきだということをすでに体に覚え込ませていた。肉体的な意味では流川は桜木の無意識の庇護者なのだ。
 かくて桜木が苦労して運んできた腐った水は呼び水の役割をしっかりと果たして、流川が手扱ぎする井戸からは水があふれ出していた。
「うわ、冷てえ!」
「服脱いで身体洗え」
「おお」
 丸四日間も汗と砂にまみれた身体を桜木は洗い始めた。流川はその間ずっと水を出し続ける。まるで子供のようにはしゃぎ回って水をたらふく飲む桜木のために流川は一滴の水を欲しがるでもなくただ井戸の水を出し続けていた。
 やがて桜木がはしゃぎ疲れたころを見計らって、流川は建物の方に歩いていった。戻ってきたときには数枚の手拭とさっき桜木が散らかした食料のいくつかを抱えていた。
「身体ふけ」
「おう! なんか俺すっげー腹減ってる」
「食いながらでかまわねえから水出せ」
 言ってみれば、今までの二人は極限状態だった。極度の疲労と死の恐怖、食料と水が底をついていたことへの不安。その不安はほんの少しのきっかけで恐慌にまで発展する可能性があった。その可能性を芽吹かせることがなかったのは流川が思いのほか冷静だったためだ。その冷静さに助けられて、桜木はぎりぎりのところで恐慌を起こさずに済んだのだ。
 そしてすべてが満たされようとした今、流川はそれらに桜木を優先させた。自分は一かけらの食料も一滴の水も欲しがることなく、桜木が満たされるのを待った。そうすることで仲間同士が争うという事態を避けたのだ。桜木もようやくそのことを理解していた。流川が未だ一滴の水も口にしていないという事実を。
「ああ、わりい」
 流川が持ってきた食料を桜木は食べなかった。せめて流川が身体を洗って水を飲み、服を着る間は待とうと思った。そのくらいなら待てる。流川はもっとつらい状態で自分を待ってくれたのだから。
 いろいろな意味で桜木は、改めて流川のことを見直している自分に気づいていた。

 本部の建物の中にはけっこういろいろなものが残っていた。手拭や下着、それにお茶の葉や瓦斯なども。二人は下着を替え、湯を沸かして茶を飲んだ。適当な隣合った寝室に寝台を用意しその夜は大変機嫌よく眠る。次の朝目覚めて早速旅立ちの用意をし始めた桜木に、寝起きのよくない流川はそれでも精一杯目を見開いて言った。
「今日は一日ここで過ごす。砦に向かうのは明日だ」
 すっかりしたくを整えて流川が目覚めるのを待っていた桜木は拍子抜けして抗議した。
「なんでだよ。砦までは五日くらいかかるんだろ?」
 食事も取りたっぷり睡眠も取った桜木は元気をもてあましていた。一刻も早く本土の軍に合流したかった。
 そんな桜木の気持ちを判らない訳ではなかった。ただ、流川には流川の考えがある。いたずらに桜木を危険な目に合わせる訳にはいかないのだ。
「筋書きはこうだ。体力のない流川少尉は熱射病にやられて脱水状態に陥った。風通しのいい涼しい場所での静養が必要。ゆえに丸一日本部で体力の回復を行った」
「お前……熱射病なのか?」
 心配そうに桜木が言う。流川はとかく気に入らない奴ではあるが、病人となれば話は別だ。
「尋問を受けたときはそう答えるって話だ。俺はそこまでやわじゃねえ。だがてめえが熱射病にかかるよりは多少信憑性があるだろ」
 心配した分、桜木はよけいに腹を立てていた。
「病気でもねえのにどうしてそういうしちめんどくさいことしやがんだ! 俺にはてめえの考えてることはさっぱり判らねえ。一日でも早く砦に辿り着いた方がいいんじゃねえのかよ! もしかしたら仙道中尉殿だってまだ生きてるかも……」
 言いかけて、桜木は口をつぐんだ。何も考えていないように見える桜木であったが、注意して仙道達のことは口にしないようにしてきたのだ。未だに後悔がある。あのとき彼らを置いて逃げてきてしまった自分に。
 桜木は早く本土の軍と合流して、仙道達を助けに行きたかったのだ。流川にはそれは無理なのだと判った。だが、桜木はそれができると信じて疑わない。たった一人の少尉の頼みを軍が聞き届ける訳などないというのに。
「生きてりゃここに来る。たとえ一日でもここで待ってた方が会える確率は高いぞ」
「だけどもしかしたら怪我でもして動けねえかもしれねえじゃねえか」
「生きてるか生きてねえか判らねえ奴らよりも、俺はてめえの方が大切だ」
 生きてるか生きてないか判らない仙道中尉達よりも、今ここに生きている桜木の方が流川には大切だった。今まで逃げて来る過程で、追われているという気配は感じなかった。ということは、仙道達は全滅とは言わなくてもかなりの打撃を敵軍に与えたことになる。敵がそれだけの打撃を受けていれば古代遺跡の砦の攻防でもかなり日本軍にてこずるだろう。流川は生き残るために、砦が落ちて敵軍がすべて進行を開始してから砦に到着しなければならなかった。そのためにここで一日を待つのだ。だが桜木は流川の言葉にはっきりと反感を抱いていた。流川の言った『てめえ』という言葉を、桜木は流川自身のことを指していると思ったのだ。
「そんなに自分が大切かよ」
 その勘違いを流川はあえて訂正しなかった。
「ああ」
 桜木の目が血走る。怒りに両手の拳を震わせていた。
「だったら勝手にしろ! 俺は一人でも砦に向かう!」
 言い放ってそのまま流川の部屋をあとにした。あんなに冷たい科白を吐く流川は信じられなかった。どんなに腹の立つ事を言っても、心のそこでは信じられる奴だと思っていたのだ。
 部屋を出ていく桜木を流川は見送らなかった。四日間の旅の疲れはそのまま流川を再び深い眠りへといざなっていった。

 その深い眠りから流川が目覚めたのは、ほんのわずかな物音が原因だった。
 目を開けた流川の前には桜木がいる。ぼんやりした頭で流川は眠る前に桜木と交わした会話のことを漠然と思い出していた。
「……出かけたんじゃなかったのか」
「思い出した。お前が別れ際に仙道中尉殿に言ったこと」
 珍しく桜木が自分一人で悩んでいた事を知って、流川は不思議な気持ちになった。
「お前、仙道中尉殿に殺してやるって言った。生きて返らなかったら殺してやるって。あれ、どういう意味だ」
「そんなことで戻ってきたのか。……別にたいした意味じゃねえ」
「なんだよそれ! お前、仙道中尉殿のことが嫌いだったのかよ! だから助けに行こうとしねえってのかよ!」
 見ると桜木は目に一杯涙を溜めていた。そんなに桜木は仙道のことが好きなのか。仙道は桜木にとって最も出会うべきじゃない人間だったかもしれないというのに。
 仙道は桜木を自分の身代わりにしたかもしれないというのに。
「嫌いならどうだってんだ。そんな事聞くためにわざわざ戻ってきたのかてめえは」
「中尉殿は俺とお前に籠球を……バスケットボールを教えてくれた。お前だって楽しそうだった。もっとうまくなりてえって俺が言ったらお前はうなずいてた。戦争が終わったら一緒に籠球の選手になりてえって……」
 もしも仙道が桜木に籠球を教えさえしなければ、流川は今こんな気持ちで仙道の来るのを待ち続けたりはしなかっただろう。生きて帰らない仙道など流川には憎むべき対象でしかない。籠球を桜木に教えた仙道は桜木の中でいつの間にか神格化されるだろう。それが許せなかった。桜木の人生は桜木のものだ。仙道の意志を無駄にしないと思ったら最後、桜木はその後の人生のすべてを籠球に注ぎ込むことになるだろう。
 桜木は一生仙道を追い続ける。仙道が死んだ今、その想いは幻でしかないというのに。
「俺が誰を嫌いでもてめえには関係ねえ。判ったようなこと言ってんじゃねえ」
「判っちゃいねえよ! ああ、そうだよ判らねえよ! 何でお前……お前がそんな奴だとは思わなかった! にくたらしい奴だけど、でも、人が生きるか死ぬかって時に助けにも行ってやらねえような薄情な奴だとは思わなかった」
 もしも助けに行けたのならどんなによかっただろう。一番仙道に生きていてほしかったのは流川の方だったのだ。
 桜木には判らない。流川が仙道を憎む本当の理由が自分のためだということが。
「自分の物差しで俺を測るんじゃねえ」
「んだと流川!」
「人間は感情だけで動けねえ時もあるんだ。そういうことを理解できない奴とは話したくねえ。二度と俺に議論ふっかけるな」
「流川……」
「でていけ」
 敵国の将校を愛し、しかし敵国人ゆえ殺さなければならなかった仙道。すべての想いは流川が一人で背負ってゆく。たとえ誰に判らなくとも。
 背中に桜木が部屋を出てゆく気配を感じながら、流川が自分の背負うものの重さに押しつぶされそうな予感を覚えていた。


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