AMBIVALENTS



  摂理自我

   三十六

 人間は、神を超えるために存在した。神は人間を、神を超えるものとして創造した。そして人間が本当に神を超えた時、人間という種族は滅びる運命にあった。神は最初に人間を創造した時から滅びの運命を人間に与えていたのだ。
 もしも人間が滅びに甘んじ、最後の足掻きをしなかったとしたら、言霊使いの精神エネルギーが時軸を超えることもなかっただろう。そうなれば星の崩壊は起こりえず、異常出産も増えず、光の塔がこれほどまでの科学力を手にすることもなかった。しかし人間が足掻くことをしないなどありえるだろうか。人間は、光の塔だけではなく、コモンに至まですべて生きて子を残す欲に取り憑かれているのだから。
 生きること。生きて子を残し、その子の中で自分を生かすこと。それこそが、神が人間に与えた最も根本的な宿業だったのだ。人間の運命すべての原点がここにある。これこそが出発点であり、悲劇的とも言える現在の結果を作り上げた原因なのだ。
 神は人間に生きるという宿命を与えた。そして生きるために貪欲である事を望んだ。伴侶を持たない異常出産の第三世代達が、変化の時を迎えた女の伴侶である男を殺してその女を自分自身の伴侶にしようとした事も、光の塔の人間達が、自分達の身体を化学薬品で変化させようとした事も、すべて同一線上にある。神はそうである人間をこそ望んだのだ。
 神に背くことが神に従うこと。それは大いなる矛盾には違いなかった。しかし洋平にはそれで十分だった。洋平の中で初めて、リョータの性医学と洋平自身の宗教学とが一致したのである。
 夜、コンパートメントを訪れた洋平を、リョータは驚きをもって迎えた。
「今、平気か?」
「あ……ああ、入れよ」
 逆はあったが、洋平がリョータのコンパートメントを訪れるのは、これが初めてであるといっても過言ではなかった。微かに微笑む洋平を、リョータは奥へと招き入れる。その面は困惑に彩られていた。突然の洋平の振舞に、リョータは高ぶる感情を抑えるのに苦労した。
 なるべく洋平の方を見ないように投影されている空間物理班作成のレポートを消しながらリョータは言った。
「どうしたよいきなり。来るんだったら先にそう言っといてくれりゃ、こっちも準備とかして待ってるじゃんか。それに、お前も忙しかったりすんじゃねえの? ほら、例の日までもう十日しかねえし。まあ、オレが会いたくなかった訳もねえけど。それともお前、オレが落ち込んでるかもとか、そんなこと思ったんか? だったら心配することねえよ。オレはオレでちゃんとやってる……」
 リョータは洋平に異様な気配を感じて振り返った。目にしたものにリョータは一瞬あっけに取られた。洋平は既に上半身裸になり、下半身までも脱ぎ始めていたのである。リョータは洋平の両手を掴んで行動を止めさせて叫んだ。
「バカお前! いったいなにやってんだよ!」
 初めて見る洋平の上半身は白く華奢で、リョータの心に甘い疼きとともに強烈に焼きついていた。

   三十七

「なに、って。脱いでんだけど」
 微笑したまま、表情を変えずに洋平は言った。掴まれている手首に痛みは感じた。しかしその痛みがリョータの憎しみや怒りからくるのではないのだと、洋平は知っていた。
 リョータの目に映る洋平は平素の洋平の姿ではなかった。普段の洋平はけしてリョータをからかったりしなかった。だから自分が洋平にからかわれているのだとは思えなかった。
 リョータは今まで一度として洋平の気持ちを確かめたことがなかった。
「だからなんで脱いでんだよ!」
「物理学的な回答が聞きてえのか? それとも哲学的な方がいいか? 精神医学がいいならそうしてやってもいいけど」
「日常会話的にオレに判るように言え! なんでいきなり裸なんだ!」
「夜、伴侶のコンパートメントにきて裸になる理由なんてそうたくさんねえよ」
 リョータは目のやり場に困って洋平の身体から目を背けた。自分の精神状態が普通でないことは自分でも判っていた。星は今逃れることのできない終局の只中にある。残された時間の中でできることは多くはないのだ。
 だからなおさら洋平が欲しいとは考えないようにしていた。
「……シャワー浴びにきたとか」
「お前がぜひそうして欲しいって言うんなら考えねえでもないけどな。一応オレ、自分のコンパートメントで浴びてきてんだ。だけどもし、お前の頭ん中での理想的なビジョンとかがそういうのなら付き合うぜ」
 誰か今の二人を見ている者がいたとしたら、どう考えたとしても洋平の方が誘っているように見えたことだろう。それはリョータにも判った。しかしリョータはまだ不毛な抵抗をしていた。
「……あのさ、オレ達は今、命を賭けた人生の選択を迫られてる。だからオレもお前も少しおかしくなってんだ。冷静さを失ってる。だからそういう状態で成り行きに流されるのはよくねえと思うんだ。もう少し冷静さを取り戻してから考えた方が ―― 」
「勝手に誤解するなよ。おかしいのはお前だけで、オレは冷静だ。……お前がどういう考え持ってたかオレは判る気がする。これってうぬぼれじゃねえよな。たぶんお前はオレが幼体を脱して、新薬で変化して受精可能な時期になってから、子を作る目的でオレを抱きたかったんだ。その方が自然なことだってオレも思う。変化しない状態のまま抱き合う二人もいるけど」
 それは、幼い頃からのリョータの夢だった。身体に負担のかからない新薬を完成させて、いつか自分の力で洋平を幸せにしたいと思った。
「見ての通りオレの身体は変化前の男の身体だ。オレを抱いても子はできねえし、リョータが抱きたかった女のやわらかい身体でもねえ。だからもし、お前がこんな身体じゃ抱きたくねえと思ってんなら、それで仕方ねえよ。オレにはどうしようもねえ事だ。悔しいけど」
「……抱きたくねえ訳ねえよ! このバカ!」
 リョータは洋平を力一杯抱きしめた。

   三十八

 洋平がいったいどんな気持ちでそう言ったのか、リョータは知りたくはなかった。
 リョータが洋平を抱かなかったことにはもう一つ理由がある。いつも感じていた、自分と洋平との間にあったもどかしさ。それは今この瞬間にも消えずに残っている。それがなくなって、洋平の気持ちのすべてが自分の方を向いたとき初めて、洋平を抱き締めたいと思っていた。
 洋平はいつも遠くを見ている。リョータが洋平を見ているのと同じ気持ちで、洋平は遠くの何かを見つめている。それがなんであるのかリョータに知る必要はなかった。知らないでいれば、いつか洋平を幸せにできると信じていられる気がした。
 腕の中の洋平は今までの洋平と違っていた。言葉にするのは難しかった。今まで洋平の中でピントの合わなかった現実との距離が、ぴったり合っているような、そんな風に見えた。
 洋平はもう、リョータの知らない世界に行ってしまった。
「バカはどっちだよ。このバカ力」
 気付いて、リョータは腕の力を抜いた。
「ちゃんと言えよリョータ。お前はオレが女の身体じゃなかったら嫌なのか? そうだとしても、オレにはもうお前のために女に変化してやれるだけの時間はねえんだ。オレはこの身体しかお前にやれねえ」
 洋平のことが好きだ。身体も、魂も、洋平のすべてがリョータは好きだった。リョータの目に、洋平は孤高の光に見えた。ほんの少しでも無理をして奪ったら傷ついて穢れてしまう。洋平がこわれて、リョータの腕の中でしか生きられない人形になる。
 リョータの矛盾だった。洋平がリョータの腕の中でしか生きられなければ、一生腕を広げていればいい。孤高の光は一生手に入れることができない。リョータが愛したのは、絶対に自分のものにならない洋平だった。
「……洋平、オレ、洋平が別の人間に見える」
「オレは今まで生きてきた中で、今が一番生きていたいって思ってる。生きてるから、お前に抱かれたいと思う。オレの伴侶はお前だから」
 これは、別れだ。
「お前の身体、綺麗だ。どんな女よりずっと……」
 触れた唇は、それまでとはまったく違う感触だった。

   三十九

「 ―― 洋平、大丈夫だ。心配ない。落ち着け、大丈夫だから」
 洋平は半ばパニックを起こしかけていた。リョータに触れられた部分からしだいに沸き上がってくる衝動。自分の意志とは無関係に動き回る筋肉。高まる鼓動。自分の身体が信じられなかった。まとまった思考が得られず、それ故自分を見失った。
「アァッ……! リョ……タァ……」
「オレはここにいいる。大丈夫だ。洋平、ちゃんとオレを見るんだ」
 目に映るものも手に触れるものも、すべてが信じられなかった。心も感情も、まるで夢の中で数式を解くように、掴んだと思った糸口はすべて指の間からこぼれてゆくようだった。確かなものなど何も存在しなかった。その恐ろしさにリョータの肩を掴んで、リョータの名前を呼んだ。
 洋平の身体の奥底に隠れ棲んでいた闇。その小さな闇が、洋平自身を覆い尽くしてゆく。
 それまで誰に触れられたこともなかった身体は、リョータの指によって闇の神髄へと導かれてゆく。
 まるで自分のものと思えない悲鳴のような喘ぎ。狂った身体に同調できるものはなかった。ただ目を見開いてリョータの存在を確かめることしかできない。リョータの目に同じ狂気を感じてその唇を自ら吸い尽くして。
「洋平……感じるか……? オレのこと感じてる? ……今、すげえ綺麗だお前」
「んッ……! ハアッ! ン……、も……とぉ……」
「洋平、きれぇ……」
 感触のすべてを吸い尽くすように。
 リョータの徴を内部深く受け入れて蠢く。吸収の性を持つ身体は闇だった。それは光の身体が持つたった一つの闇。魅き込み悶え伴侶の欲望を引き出し永久に満たされることのないブラックホールと化してゆく。
 性愛が闇であることを知り、自らの身体の狂気を知った。洋平の中で何かが壊れていた。その壊れた部分に新しく生まれた闇が侵食する。そうしていつの間にか闇を恐れず受け入れる自分を知った。
 性愛を知る者は誰でも自分の中の闇を知る。その後に神聖なる誕生がある。それは人間が闇から生まれる証なのかもしれない。光の誕生は、闇の中にこそある。
 闇の狂気の行く先には、新しい光の世界がある。

   四十

 初めて知った伴侶との営みは気恥ずかしさを含んで洋平の視点を変化させた。横たわる洋平のすぐ近くに洋平を抱き寄せるリョータの顔がある。たった今、この身体と狂気を共有したのだ。洋平はリョータの闇を引き出し、リョータは洋平の闇に溺れた。
 誰もが皆同じ闇を経験している。シュスも、光の塔に住む伴侶を持つ者達も、顔すら知らない洋平の両親も。彼らも皆洋平と同じように狂気に支配されるのだろうか。伴侶に縋がってあの猥らな声を上げるのだろうか。
 突き上げるような感情でリョータを愛しく思った。衝動的に抱き締めると、リョータの腕から同じ想いが反ってくる。自分だけの伴侶が同じ場所に同じ想いで存在する。その疼くような喜びはリョータと抱き合う前の自分には想像もできない感情だった。
 今は、リョータと抱き合う前の自分を思い出すことができない。
「リョータ……」
 リョータの目に映るのは、リョータの知らない洋平だった。愛しいと思う。新しく知る洋平も愛せるとリョータは思った。
「ん?」
「オレのこと、嫌いになってねえ?」
 だから洋平の言葉に苦笑した。
「なんでオレが洋平のこと嫌いになるんだよ」
「だってオレ、スキモノじゃねえ? あんな大騒ぎして」
 リョータは忘れるほど久し振りに洋平を自分より幼いと感じた。不安そうに見上げる洋平の目は知性と対極の存在に支配されていた。
「綺麗すぎて感動した。……すごい昔、ぜったい洋平のこと伴侶にするんだって決めて、その時からオレ、洋平のこと以外誰のことも見てねえんだ。あのときのオレの選択は間違ってなかったなって、今思う」
「……それって、嫌いじゃねえってことか?」
「哲学的表現で言わねえと判らねえか?」
 リョータは意地が悪いと感じて洋平はふてくされた。嫌われていないことを確かめなければいけないのは自分の方だとリョータは思った。だけど確かめないでいようと思う。リョータはもう洋平と共に生きてゆける伴侶ではなくなるのだから。
「洋平、知ってたか? 明日、お前の十五期の誕生日だって」
 リョータの思いがけない言葉に洋平は目を見開いた。
「幼体脱出おめでとう、洋平」
 たとえ伴侶でなくなってもリョータの心の中には洋平しか存在しないと、ありったけの想いを込めて、リョータは洋平を抱き締めていた。


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