AMBIVALENTS



  時軸超越

   三十一

 それから一ピリオドの間は、人々が自分自身の選択をするために一日一日を過ごしていた。二期後の確実な死か、一期余り後の一か八かの生と死か。生活自体は少しずつ以前に戻りつつあった。もちろん心の中まで同じではありえなかった。
 時々パニックを起こす人間はいた。しかし周囲の人間の方が突然のパニックに慣れ始めていた。洋平達に対策を押しつけることもなく、自力で取り抑え、縛り上げた。洋平達に研究に専念してもらうことは彼らの生きる確率を少しでも上げることに繋がったのだ。
 しかし、ここにもやはり、選択の余地のない人間がいた。リョータの研究によってすでに子を授かっていた者達。妊娠中の彼らが死ぬか生きるか判らない次元トンネルをくぐることは確実に死ぬことだった。少なくとも胎児が死ぬことだった。彼らにとっては胎児こそが希望だった。自分が死ぬことも胎児が死ぬことも同じであったから、彼らは自分の子の顔を見る幸せを選んだのだ。
 幼い子を抱える親も同じだった。自分の子が死ぬ悲しみよりは共に過ごす二期の時間を選んだのである。そしてここに、リョータが選択を迷う理由があったのだ。
「洋平、言霊使いや空間物理班の人間は闇の世界へ行けるのか?」
 ゆっくり時間をかけて食事をしながら、洋平はリョータの質問に答えた。
「それも今研究してる。言霊使いの半分が最初にトンネルを抜けて向う側からサポートできればもしかしたら全員残らず向こうへ渡れるかもしれねえ。けど、トンネルの向こうは闇の世界だ。光の精神エネルギーが弱まるのは間違いねえ。だから研究はしてるが、言霊使いの奴らはおそらく渡れねえ」
「……てことは、その気になれば二期後にもう一度トンネルを作れる可能性はあるのか」
「ある」
 洋平のいらえは簡単だった。
 誰が次元トンネルを渡り、誰が渡らないでいるかは、その人間一人一人の選択だった。言霊使いは自分の責任において道を選択しなければならなかった。そしてある意味洋平にも選択の余地はないのだ。洋平は光の神の遣いとして、コモン達の先陣を切って次元トンネルに飛び込まなければならないのだ。
 洋平はわずかな希望を選ぶ。それはあの日洋平がコモン達を説得した時点で決まった洋平の運命だった。それが洋平の責任だった。そして同じ責任は、リョータの中にもある。
 リョータはまだ自分の道を決められずにいた。

   三十二

 もう何回の実験が行われたのか数えていた者はいなかった。太陽が消える予定の日まで一ピリオドを切って、言霊使いと空間物理班の全員は、この研究を実現可能な範囲まで高めなければならなかった。最終的な台本にさらに修正を加えてより完全なものへと仕上げる。そして、いよいよその日の日付を決めて、最後の計算に入らなければならなかった。
 日付は、春第十六期第十一ピリオド第二十八日に決まった。
「この日から十日後に太陽が完全に消える。コモン達は太陽がなけりゃ生きられねえから、この日が太陽を追い掛けられるギリギリの期限だ。……オレ達には考えられねえ。一期一ピリオドかけて星を一周する太陽を追い続けるなんてことはな。だがコモン達ならできるかもしれねえな。そうやって三期生き続けたら、第一世代は繁殖期に入る」
 そうして万が一繁殖できたとしても、新しく生まれた者達にその先の未来はありえない。だからできるだけ多くのコモン達を闇の世界に旅立たせなければならないのだ。
 問題は次元トンネルを開き続けていられる時間だった。しかしここに幸運があった。一つは、それまで実験を続けてきた言霊使い達の技術力が上がって、エネルギー効率がよくなってきたことである。もう一つは、何度も実験を繰り返すうちに光の精神エネルギーが通過する空間に磁場が発生して伝導率をよくし、更に捩じ曲げられることに空間事態が馴れて、最初のころほどエネルギーを使わなくても次元トンネルを維持することが容易になってきていたことだっだ。
 一番エネルギーを消費するのが空間同士を繋いで捩じ曲げる作業だった。しかしその作業が終われば維持するのは然したるエネルギーを使わない。このときに言霊使いが少人数で交代であたることによって、次元トンネルを維持する時間をかなり伸ばすことができたのである。
 かりにコモン達全員が闇の世界への移住を希望した場合、次元トンネルの通過者は二万人を越えることになる。その全員が次元トンネルを通過する時間は半日程度に及ぶのだ。その間に少しでもトンネルの次元が乱れれば、通過中の人間は異空間に放り出されることになる。もちろん命はない。大変な集中力を必要とするのだ。
 技術はほぼ完成していた。闇の世界が果たして光の住人達を受け入れるかどうかは、それこそ行ってみなければどうにも判らないことだった。できうること、考えうることのすべてをやり尽くした。あと彼らには神に祈ることしか残されてはいなかった。
 そして、いよいよ決行を十日後に控えたその日。
 洋平のコンパートメントにシュスがきた。

   三十三

「自由時間中に悪かった。だがどうしても話さなけりゃならねえと思った。この話は誰かに話しとかなきゃならねえ。オレはお前しか思いつかなかった」
 シュスは持ってきたディスクをセットして、とりあえずは座った。そして、いつもと様子の違うシュスに戸惑う洋平に言ったのだ。
「洋平、星の軌道を動かしたのは、オレ達だ。オレ達が言霊使いを使って次元を歪めた。それがすべての原因だったんだ」
 洋平はシュスの言っていることが理解できなかった。なぜなら、星の軌道がずれ始めたのはそもそも最初の異変を感じた時から六ピリオド以上前の筈なのだ。その頃シュスはずっとブラックホールへのアクセスの方法の研究をしていたが、実際に実験を開始したのは星の自転が始まった後だった。結果の後に原因が来る因果律など存在しないはずなのだ。
「ありえねえよ。確かに次元を歪めれば星の軌道は変わるかもしれねえ。だがオレ達が次元を歪めたのは星の軌道がずれた後だ。時間的に不可能だ」
「その時間は誰の時間だ。オレのか? お前のか? 惑星の時間か? 太陽か? それとも空間の時間か? 光の時間か?」
「……」
「いいか、洋平。オレは今お前を見ている。だがお前の今を見ている訳じゃねえ。オレはお前の過去を見ているんだ。お前という人間の映像がオレのところまで届くのに約三億分の一拍かかる。声なら三百四十分の一拍だ。お前の映像は三億分の一拍前のもので、声は三百四十分の一拍前のものだってことになるんだ。オレはお前の今っていう時間を知ることは永久にできねえ。客観的な時間と主観的な時間てのは根本的に違うものなんだ。光の時間も音の時間もな。要するに時間てのはそれだけあやふやなもんなんだ」
「それは判る。同じ音でも高い音と低い音とでは伝わる速さが違うしな。だけどオレが見てるシュスが過去のシュスでもそれはオレが過去に戻ったことにはならねえだろ」
「それがなるんだ。……ああ、もちろんお前が今過去に戻ってる訳じゃねえさ。ちょっとこいつを見ろ」
 シュスが取り出したのは小さな車のおもちゃだった。
「こいつはオレの子がまだガキの頃にオレが作ってやったおもちゃだ。ゴムの仕掛けで走る。たとえば、オレがここに立って、後ろからこのおもちゃが走ってくるとする。当然このおもちゃはいずれオレを追い抜いていく。仮にオレを追い抜く瞬間、オレに並んだ時を現在と仮定すると、後ろから走って来るのは過去のおもちゃで、走り去るのはおもちゃの未来の姿だ。これが、オレの時間軸だ。ところが、このおもちゃはオレの歩く速さよりも遅い。だからオレはおもちゃを追い抜くことができるんだ。だから追い抜く。そうするとオレの時間軸はどうなる?」
「おもちゃがまた後ろからシュスを追い抜く。同じ時間が繰り返されるってことか」
「そうだ。オレはもう一度同じ時間を過ごすことになる。つまり、過去に戻るんだ」

   三十四

「主観的な時間軸は無数に存在する。人間一人一人、生物、植物、惑星、恒星、宇宙にいたるまで、それぞれの時間軸を持つ。空間は光の放射に乗せられて拡大している。闇の吸収でもいい。そいつは問題じゃねえ。宇宙の時間はその放射の時間の上に存在するんだ。オレ達の時間が惑星の時間の上に存在するようにな。つまりオレ達がアクセスできる時間の中で一番根本に存在する時間は空間の時間だ。その空間は光の放射に支配されている。つまり光の時間だ。だがここで、その光の時間を誰かが追い抜いたらどうなる。さっきオレがあのおもちゃを追い抜いたように」
 たて続けのシュスの説明に、洋平には何かが見えてきたような気がした。
「オレ達が……言霊の精神エネルギーが光の時間を追い抜いたっていうのか?」
「そうだ。その証拠が最初の実験の時に撮ったビデオの中にあった。まずは見てみるぞ」
 そのビデオは洋平も何度も繰り返し見ていた。もちろん以後の実験でもビデオ撮影はしていたのでその映像と一緒にだったが、見ている限りではおかしなところはなかったのだ。シュスが壁面に投影した画像は洋平が見慣れたものだった。放射状の光を突き抜け、やがて反宇宙への通路に辿り着く。その後シュスが叫ぶ声が入る。『まずい! 引き上げろ!』
 その時シュスが言った。
「ここだ。カメラの前にオレが踊り出て見づらいかもしれねえがよく見ろ」
 言霊使い達が壁面に投影した映像は、引き上げる瞬間もちゃんと捉えていた。放射状につき抜ける恒星の光は、弱々しかったがなんとかカメラは拾っていた。その映像は不思議だった。視点が後退しているというのに、恒星の光は収束せずに放射していたのだ。
 この違和感を見逃していた。この映像が意味するものは明らかだった。収束するはずの恒星の光が放射しているということは、言霊使いの精神エネルギーが光を追い抜いているということなのだ。それはすなわち、時間が戻っているということなのだ。
「……気付かなかった。ぜんぜん」
「気付かねえのも無理はねえ。この映像はオレの身体が半分近く遮ってるし、恒星の光自体がドップラー効果で弱まってる。だが、この映像にはもう一つ意味がある。それは言霊使いの精神エネルギーが通路から引き上げて戻ってくるまでの時間が正確に割り出せることだ。距離と時間が判れば速度が判る。ほんの僅かだったが、速度は光の速さを上回ってた。間違いねえ。この実験で光の精神エネルギーは時間を越えた。言霊使いの言霊は、光の時間を過去に遡ったんだ」

   三十五

 星を破滅に導いたもの。それは洋平達が行った実験だった。洋平達が言霊使いを使って精神エネルギーを放出し、空間を歪めた。そしてその歪みは空間の時間軸を六ピリオド以上過去に遡って、その空間をも歪めてしまった。星の軌道のずれは、言霊使い達の精神エネルギーが空間を捩じ曲げた事象の結果だったのである。
 今、星を滅ぼそうとしているのは洋平達なのだ。洋平達空間物理班の人間が、星に住む人間と生物とを滅びに向かって突き落としたのだ。
 すべての生き物の希望を奪ったのは、自分なのだ。
「オレの理論が星を崩壊させたんだ。オレが星を殺した」
 長い沈黙の後のそのシュスの言葉は洋平には自戒に聞こえた。
「シュスだけが悪いんじゃねえ。同じだけの罪はオレにもある」
「判ってるさ。誰が悪い訳じゃねえ。オレは一つのきっかけに過ぎなかったんだ。……人間は光の塔を作った。科学を発展させて進歩をしてきた。それは運命だ。異常出産が増えて光の塔の科学力が飛躍的に伸びたのも運命だ。その過程でオレという人間が生まれて、言霊と空間物理を融合させる理論を完成させた。もしもオレという人間が生まれなくても、いずれ誰かが同じ理論に達したはずだ。時期はずれるにしろな。そして、その理論に達したら最後、もうこうなるしかありえかったんだ。判ってる。同じ結論は数期の後にはお前が導き出してたのは間違いねえからな」
「シュスがいなかったらオレは空間物理はやってなかったよ」
「そんなことはねえさ。お前はずっと闇に憧れてた。歴史や心理学に寄り道していたとしても、お前は最後には必ず空間物理を選んでたはずだ。オレがそうだったようにな。
 洋平、オレは今まで因果律が運命論を包裹しているんだと思ってた。だが、本当は逆だ。因果律を包裹しているのが運命論なんだ。原因と結果の逆転現象は運命論で説明できる。……運命は時間軸を超える。星の崩壊が運命の結末なのだとしたら、その直接の始まりはオレがこの理論を完成させたことだ。だが間接的な始点として、光の塔の創設と、異常出産の増加がある。異常出産の増加がなけりゃ、光の塔の科学力はここまで伸びなかったはずだ。ここにもう一つの逆転現象がある。なぜ、どうして、異常出産がここまで増えるに至ったか。……オレはその結果に対する因果律の因は、オレ達が光を超えたことにあると思ってる。光は放射、すなわち神だ。オレ達は神を超えた。神を越えたことに対する罰が、異常出産だったんだ。これは因果律で解けない運命だ。卵と鳥のパラドックスだ。神を超えること、すなわち滅びを迎えることが、知的探求心を持ってしまったオレ達人間の運命だったんだ」
 洋平達異常出産で生まれた光の塔の人間は、神を超えるために存在した。神を超えたから、異常出産の人間達が生まれ、科学を発展させて神を超えた。それは永久に解くことのできないメビウスの輪の逆説。因果律では説明する事のできないもの。それこそが運命なのだ。
 運命とは多くの矛盾を伴うもの。そしてけっして逃れることのできないもの。従うか従わざるかに関わらず流れてゆくもの。神に背く、それもまた運命。
「シュス、オレに話してくれてありがとう。これを知ることが、オレには正しいことだ」
 洋平が生きる意味。今ここに存在する意味。そのすべてが今洋平の中で光になった。光は善だった。善とは肯定だった。
 異常な出産で生まれた自分を、洋平は初めて本当の意味で肯定する事ができたのである。


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