AMBIVALENTS



  二元宇宙

   十六

 生まれて初めての雨に打たれて体調を崩した洋平は神事室に隔離された。全身を暖かくくるみ、大量の白湯を飲む。光の塔には病気はほとんどなかった。だから薬もなく、万一誰かに移しでもしたら星の崩壊を待たずに全滅することも十分ありえたのだ。
 熱が下がるまでに丸一日を要した。翌日、時間を見つけてシュスが見舞にやってきた。洋平の方は熱は下がったものの、大事をとって復帰は更に翌々日からということになっていた。洋平がいなかった時間に起きた出来事を、シュスは説明してくれた。
「やはり光の塔の全員に事実をすべて説明する訳にはいかないようだ。必要な部所だけに必要な説明をして、対策を講じたり調査してもらったりしている。あれから更に計算が進んで、結果が出てる」
 シュスは数枚のグラフと図表と数式を洋平に手渡した。
「このまま星が順調に ―― ってのも変な話だが ―― 加速したとして、太陽にぶつかるまでが六期八ポイント。だがその前に星の温度が上がるから、地上に人間が住める上限までが、これは自転が始まってることが幸いして最初の予想よりはかなり伸びて二期三ピリオド。光の塔の最下層まで潜って三期四ピリオド。だが、自転が逆に地表の温度を下げる。地表が夜の間、たとえ光の塔の最下層にいても人間が耐えられる低限を下回るかもしれねえ」
「……自転と同じ速さで生活圏を移動させたらどうだ?」
「太陽を追っ掛けて移動するのか? それでもせいぜい四期が限度だな。気温はなんとかなっても、その前に植物圏が死に絶える」
「ああ、そうか……」
「だがな、洋平。はっきり言ってこんな試算は無意味なんだよ。自転の速度は今は安定して、一周するのに一期一ポイントくらいだ。てことは、今から四ピリオド目に入る頃には太陽は完全に見えなくなっちまうんだ。コモン達に太陽を追って行けと言ってもいい。だが、耐えられねえ奴らもいるだろう。光の塔で収容できる人数は多く見積もっても二千人が限界だ。今塔の中には八百人以上が生活してる。……お前にできるか洋平。コモン達に太陽を追わせて、オレ達が光の塔の中で安穏に暮らす、あるいは、収容できるギリギリの人数の千二百人を助けて、のこりの一万八千八百人に太陽を追わせる、そんなことが」
 できないと思った。それで命が助かる可能性があるならまだしも、今の状態では終末は確実に訪れるのだ。いつ死に絶えるか判らない旅にコモン達を追い立て、自分達は光の塔に潜って生きる。それは不公平でもあるし、一人の人間の幸福でも、全ての人間の幸福でもない。希望のない人間の生は苦痛でしかないのだから。
「あと四ピリオドのうちに、人間全部が生き延びられる方法をさがす。結果として全員が生き延びられなくても、最期の瞬間まで希望を持ち続けられる方法を」
「それが、オレや長老達の結論だ、洋平」
 光の塔に残された時間は、あと四ピリオドしかないのだ。

   十七

「伴侶を呼んできてやろうか?」
 シュスのその質問には、洋平は否と答えた。リョータと普通に話す心の準備は洋平にはできていなかった。洋平の頭の中は今は終末のことで一杯だった。突然の隔離の理由についてうまい説明ができるとも思えなかった。
 光の塔に機密という概念はなかったが、基本的に各研究ブロックは閉鎖空間だった。光の塔の人間は自分に興味のある学問以外には無頓着だったし、すすんで研究成果をほかの分野の研究者に話すこともない。リョータの性ホルモン学が割に開かれているのは興味を示す人間が多いからである。むしろこちらの方が例外なのだ。
 いずれは避けて通れないことだったが、今リョータに終末の話をする気にはなれなかった。それはリョータが希望の領域にあり、洋平が絶望の範疇にあったからだった。絶望の範疇にあるものが希望の領域に行くことは幸福だったが、その逆は不幸だ。リョータの不幸は洋平が望むものではなかった。
 しかし隔離三日目にリョータは洋平の居場所を捜し当てたのだ。
「洋平!」
 走り込んできて直前で足を止めたリョータは息を切らせていた。洋平はリョータがこの場所を捜し出すまでの苦労の大きさを察した。
「お前、なんで、こんな、隔離なんて」
「大丈夫だ。もう治ってる」
「突然、いなくなったら、心配するじゃんか!」
 気がついたとき、洋平はリョータの腕の中にいた。力まかせに押しつけられた胸は激しく上下していたし、耳元の呼吸は荒かった。リョータの身体は洋平が羨ましく思うほど生命そのものだった。生命とは善のことだった。
「洋平、お前、どうして熱なんか出したんだ? いったい何があった」
「聞くな」
 表情のない声にリョータは驚き洋平を引き離した。顔にも表情はなかった。発せられた言葉は拒絶だった。リョータは表情のない洋平の声と顔を、リョータへの拒絶だと思った。
「聞かれたくねえ」
「……何でだ」
「だから、聞くな」
 リョータは乱暴に洋平の唇を奪った。もどかしく届かない何かを振り払ってしまいたかった。その時。
「洋平」
 扉の向こうに、シュスが立っていた。

   十八

「シュス」
 二人が声に振り返ったとき洋平の口からその単語が漏れていた。洋平の唇から発せられるその単語がリョータは嫌いだった。その単語を言ったときの洋平の表情を見ていなくてよかったと思った。おそらく無表情ではなかったはずだから。
「ああ、悪い時に来た。また出直してくる」
「いい。オレが帰る」
 怒ったようにリョータが立ち上がっていた。そのまま扉の方に歩き去る。シュスは笑顔で引き止めようとした。
「待て、オレの方があとから来たんだから待つ義務はある。一つ用事を済ませてからまた来るから。それじゃな、洋平」
「オレの用事は済んだから帰る」
「オレが帰るって」
「あんたが帰っても帰らなくてもオレは帰る!」
 そう言葉を残して、リョータは本当に帰ってしまった。シュスは諦めて洋平のベッドのところまでくる。きまり悪くうつむいた洋平に、シュスは言った。
「洋平、たとえどんなときでも伴侶は最優先すべきもんだろ」
 自分が責められる筋合いではないと感じて洋平はふてくされた。
「出ていったのはリョータだ」
「お前が呼び止めりゃよかったんだ」
 言われてみれば確かにその通りだった。洋平は更にふてくされた。
「オレは普段お前と話してると実はお前がオレの半分の長さしか生きてねえんだって事をよく忘れるんだが、こういうところはまだまだ十四期の幼体だな」
「十四期十ピリオドだ」
 洋平は端数を切り上げた。そんな洋平をシュスはなつかしんだ。
「リョータが好きだろ?」
「……あいつが出てったんだ」
「意地張ってねえでちゃんと仲直りしろ。終末は待っててくれやしねえんだ」
 シュスの言葉は正しかった。

   十九

「予定は変わってねえ。明日言霊使いの奴らと協力して、ブラックホールにアクセスする。場所は最下層近くのぶち抜きのフロアだ。知ってるだろ?」
「遊んでる場合じゃねえんじゃねえの? 誰かに何か言われなかったのか?」
「言われたさ。だけど正直オレ達空間物理班にできることは、星の軌道を変える方法を捜すか、新しく人間が住める星でも捜すくらいしかねえ。万一星の軌道を変えられたとしても、自転が始まっちまったものを止めることなんかできねえだろ。ブラックホールでも探ってた方が現実的なんだよ」
 ブラックホールを探るのが現実的だとは洋平は思わなかったが、少なくとも希望だけはある。この実験を行うことに賛同した人達は、シュスの言葉ではなくその希望に説得されたのだろうと思った。
「現場に直接こい。機材運びは免除してやる。まだ十四期十ピリオドの幼体だしな」
「いきなり幼体扱いするなよ。いつもはほかの奴ら以上にこき使うくせに」
「嘘だ。熱が下がったばかりだからな。大事にするんだ」
 シュスはそのまま神事室を出て、階段の方へ向かっていった。その途中にリョータがいることに気がついて足を止める。リョータも気付いて露骨に嫌そうな顔をしたが、シュスは構わず声を掛けた。
「おい、洋平が好きならあんまりあいつを不安にさせるなよ。面倒じゃねえか」
 顔をそむけたまま、リョータは答えた。
「……なんで洋平が不安になんだよ。なる訳ねえよ」
「お前は洋平より若いな。『出ていったのはリョータの方だ』って二回も繰り返す奴のどこが不安じゃねえって言うんだよ。そういう洋平のこと全身で支えてやれるのは伴侶のお前しかいねえだろ? 好きなら洋平に負担かけるな」
 洋平は今人知れず戦っている。自らの内にある絶望との絶望的な戦いをしているのだ。
「だけど……洋平はオレの事好きじゃねえよ」
 リョータのその言葉でシュスは自分のしていることが急に馬鹿馬鹿しく思えてきていた。
「その科白、洋平には言うなよ。明日から使いものにならなくなる」
 シュスが去ったあと、リョータは神事室を訪れた。しかし洋平には会うことができなかった。シュスが神事室を出てリョータが訪れるわずかな間に、洋平は再び行方不明になっていたのである。

   二十

 不安といえば、事実を少しでも知る者達は皆不安には違いなかった。自分のコンパートメントに戻っている時間には落ち込みもしたし取り乱しもしたのだろう。しかしほかの人間と一緒にいるときに、その不安を表に出す者はいなかった。自分以外の者も同じ不安を抱えているとき、それを表に出せばパニックになるのが必然であることを、光の塔の人々はわきまえていたのだ。
「自転が始まってるから以前と角度が違っちまってる。このサークルからあの壁の印の方向にまっすぐ探ってみてくれ。映像の方もあの壁だ。もう少し、食が終わったら始める」
 光の塔の最下層に近いフロアには、シュスの指示で既に言霊使い達が準備を終えていた。十五人の言霊使いが円陣を組み、手を繋いで中央に座っている。その周囲にはデーター収集に必要な機材を置いて空間物理班の三十人が準備を整えていた。洋平もその一人だった。
「よし、始めてくれ」
 ビデオカメラが回り、時間が計られる。データーのすべては計器に記録されてゆく。まもなく、壁面の印のところにぼんやりと映像が現われ始めた。放射状に突き抜けてゆく光の筋だった。
 光の人々はその宇宙の黒さに目を奪われた。そして突き抜けてゆく光の筋が恒星の輝きであることに思い当たり、宇宙の光の目映さに心を揺さぶられた。
(……すごい。宇宙は光と闇の世界だ)
 それは彼らにとって初めて見る本物の闇の姿だった。闇は無限の黒さで人々を圧倒した。そして光。闇の中で光はひときわ輝いてまぶたの裏に焼きついた。闇との対比で光がこれだけ輝くのだと、光の人々は自分の光を誇らしく思った。
 やがて映像は光を消した。黒い映像の中心で、何かがうごめく気配があった。視点はそこで停止した。目的地に辿り着いたのだ。
「これが……ブラックホール……?」
 それは確かに穴のように見えた。闇の特性である吸収のエネルギーが周囲の空間を吸い込んでできた巨大な穴のように見えた。その穴の中央に、何かが見える。観察の視線が一点に集中していたその時、不意にシュスが言ったのだ。
「こいつはブラックホールじゃねえ……。まずい! 引き上げろ!」
 シュスの言葉に従って言霊使い達は一気に視点を後退させていった。そうして戻ってきた彼らは一様に呼吸を乱していた。シュスは慌てて言霊使い達にかけよった。かけよりざま振り返って確認をとることも忘れなかった。
「記録は!」
「良好だ!」
「すぐに分析にかかれるように準備しとけ。……カイドウ、大丈夫か」
「……心配ない。騒ぐな。オレ達は大丈夫だ」
「ずいぶんエネルギーを取られたはずだ。身体を休めて、早く回復してくれ。たぶんこれから何度も協力してもらうことになる。……タクト、手があいてたらこいつらを上まで運んでやってくれ」
 その場にいる誰もがシュスの思考についてゆくことができなかった。判らないままシュスの言葉にしたがった。
 しかし洋平だけはあの穴の正体をおぼろげながら掴んでいたのだ。

   二十一

 データーをもとにした資料が出来上がったのはかなり遅くなってからだった。そのすべてを研究班全員が所有し、コンパートメントに戻る。残り少ない自由時間を全員がこの資料の分析にあてることだろう。もちろん洋平もそのつもりだった。
 壁面が点滅したとき、洋平はリョータが来たのだと思った。分析を始めたばかりだったが今日は無理かもしれないと諦める。研究よりも何よりもまずは伴侶であるリョータを優先すべきだった。しかし扉から現われたのはシュスだった。
 資料の主要箇所だけ早急に確認して真っ先に訪れたくらいのタイミングだった。
「洋平、先にお前の意見が聞きたい。あの映像はなんだ」
 座って落ち着くまで待てないようにシュスは言った。
「宇宙の反因子。反宇宙、の入口……に見えた、オレには」
「よっし! オレの意見と同じだ。やっぱりお前はオレと感覚が近いな。おそらくあいつは宇宙から反宇宙につながる通路の一つだ。ブラックホールとの違いは、ブラックホールが放射、つまり光の反因子で吸収=闇であるのに対して、今回見つかった通路の方は同じ吸収でも吸収する先にもう一つの宇宙があるという点にある。通路の入口と出口が一対の二元論的物質なんだ。その証拠がデーターの中にある。映像の地点での光のエネルギーの変化を見ると、明らかに通路の向う側にエネルギーが流れ込んでいるのが判るんだ。光の精神エネルギーがだぞ。ブラックホールは精神エネルギーを吸い取るなんてことはしない。ブラックホールが吸収できるのは物質としてのエネルギーだけだ。だからオレは言霊使いを安心して使う気になったんだ」
 シュスの精神的高揚は洋平には絶望的に映った。
「シュスが何を考えてるかは判る。だけどあの通路の先は反宇宙だ。それはつまり闇の版図だってことだ。その星を見つける前に言霊使いが死ぬ」
「どうせ全員が死ぬんだ。やってみる価値はあるだろ。それに、位置は判ってる。反宇宙は鏡に映したもう一つの世界だ。目当ての星がこの星系と同じ星域にあることは間違いねえ。星の環境だって第一世代の双子のようにそっくりなはずだ。もちろん闇と光の違いはあるにしろな。慎重に計算して何度か実験を繰り返す。いいか、洋平。奇跡は必ず起きる。奇跡は確率論だ。低い確率でしか起こらないことが起こったとき、それを奇跡と呼ぶ。だったらその確率を上げてやればいいんだ。判ったな。判ったらお前はもう少し言霊を勉強しろ。言霊は光の精神エネルギーだ。もちろん反因子としての闇の言霊は存在するだろうが、それはこの際問題じゃねえ。できることならお前も使えるようになっとけ。オレはこれから具体的な方策を検討する」
 シュスの、希望と絶望の二律背反は、その巨大さにおいて明らかに一個の人間の持ちうる精神の範囲を凌駕していた。

   二十二

「まずいな。当番のゲージがそろそろ一杯になる」
 隔離されていたおかげで洋平は掃除当番がたまってしまっていた。ゲージを振り切ると強制労働モードになる。洋平は予定していたスケジュールの一部を諦め、タッチパネルに打ち込んだ。この先忙しくなることは目に見えていたから、できる限り強制労働は避けたかったのだ。
 食堂に入ると、ばつが悪そうにリョータが待っていた。洋平はちらっと視線を流しただけで食事を取りに行ってしまう。リョータは慌ててあとを追った。テーブルについて、洋平が言った。
「オレは嘘はつきたくねえ。だからこれから話すことは全部本当のことだ。だけど都合上かなり省略する。その省略した部分について、詮索しないでくれ」
 リョータは心臓が跳ね上がるのを感じた。
「地上のコモン達の間にパニックが起こりかけた。オレは今までの宗教的知識からコモン達を説得する役を任された。オレは生まれて初めて地上に出て、雨に打たれた。雨が原因で熱を出した。その熱が万が一変な病気で、病気への抵抗力のない塔の人間に移したら大変なことになる。だから神事室に隔離された。……そういうことだ」
「……ごめん洋平。オレ……なんか悔しくて」
 洋平は顔を動かさず目だけでリョータを見た。
「お前がオレに聞くなって言うのが、秘密を持たれたような気がして、悔しくて、カッとしちまって……。オレは知らねえのに、シュスがお前の居場所のこと知ってたのが、よけい悔しくて。……せめて居場所くらい知らせてくれてもって」
 洋平は視線を戻して一口口に入れたあと、今度は身体ごとリョータに向き直った。
「だったらさ、リョータ。もしもお前がオレの立場だったら、オレに居場所知らせた?」
 リョータは洋平の立場を自分に置き換えて、気付いた。自分だったらそんなにカッコ悪いことはできない。塔の外に出て雨に濡れただけで熱を出して、それだけでも恥ずかしいのになおかつ枕元で洋平に心配されるなど。
「オレだってリョータと同じだけあるんだぜ、プライドとか。……けど、嬉しかった。お前がオレを見つけてくれたのは」
 そう言って洋平は微笑んだ。その微笑みは、リョータの心をも仄かな優しさに包んでいた。


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