AMBIVALENTS
奇跡の名
十
「 ―― 睡眠時間中にオレのコンパートメントに連絡が入った。外のコモン達が騒いでるから神殿の連中が見に行ったんだ。肉眼ではっきり判るくらい太陽の位置がずれてる。洋平も手伝ってくれ。星の軌道の計算をする」
「ブラックホールは」
「三日後に延期した。言霊使いの連中への連絡は済ませてある。心配するな」
普段とは比較にならないほど騒然とした研究室の計算機の前に座って、洋平もほかの研究者に混じって軌道計算を始めた。太陽は光の塔の真上にあって動かない。それがずれるなど、普通であればまず考えられないことだった。コモン達が騒ぐのも無理はなかった。この異常事態が進行してゆくならば、その被害ははかりしれないものがあった。
やがて計算機から数値がはじきだされてくる。洋平は更にその数値を図表化して壁面に投影して見せた。それは驚くべき図だった。
「公転軌道がずれてるのか……?」
洋平達が住む惑星の軌道はかなり極端な楕円形だった。春から夏にかけて、星は太陽に近づいてゆく。投影された星系地図は、惑星が従来の軌道よりも内側に向かって微妙にずれていることを示していた。そして、進路予想図として表示された点線は、まっすぐ太陽の方角を目指していた。
「太陽に、ぶつかる−」
誰かがその一言を言ったきり誰もなにも言わなかった。しばらくのあいだ室内は沈黙につつまれていた。星が太陽にぶつかれば星に住む生物に生きる道はないのだ。人間も、生物も、すべてが全滅するしかないのだから。
最初に我に返ったのはシュスだった。
「今の計算をしたのは洋平だったな。タクト、間違いがないかどうかもう一度計算しろ。ほかのものは原因を探るんだ。小さな異変も見逃すな。オレは上に報告してくる」
上という言葉を、シュスは班長である一人の長老と神殿長の両方を指す言葉として使った。光の塔に総合的な責任者というものは存在していない。今まではそれで十分ことが足りたのだ。しかし全滅の危機が明らかになった今、そのことがいずれネックになるだろうと洋平は思った。
「シュス、コモン達にはまだ言わねえ方がいい」
出ていきかけていたシュスはこんな場合なのに笑って洋平の手首を引いた。
「一緒にこい。上を見せてやる」
十一
光の塔の壁面はわずかながら絶えず光を放射している。その廊下を足早に歩きながら、シュスは聞いた。
「軌道がずれ始めたのはいつごろだ」
「たぶん六ピリオド以上は前だと思う」
「このままの軌道を保ったとして、太陽にぶつかるのはいつだ」
「信じられないくらい加速がついてた。ぶつかるまでは六期くらい稼げると思うけど、たぶんあと一期もしないうちに地上には住めなくなる。光の塔の地下の最下層に潜っても二期は無理だろうと思う。だけどたぶんその前に星自身がおかしくなる」
「光の塔の中で二万人のコモンを養うのは不可能だな」
中身はともかく、表面的には二人とも冷静にふるまっていた。そんな互いの存在が互いにありがたかった。太陽にぶつかるということは、生き残る確率がゼロであるということなのだ。一パーセントの望みも一パーミルの望みもなく、確実にゼロ。
生きる望みのない死を突き付けられることは、人間にとっておそらく最大の苦しみだった。なにも知らないまま死の瞬間を迎える方がはるかに安らかだろう。軽はずみに発表できる事柄ではない。特にコモン達には。
「洋平、惑星の軌道がずれるなんてことがほんとにあると思うか?」
道は階層どうしを繋ぐ階段に変わっていた。
「ありえねえと思ってた。……さっきまでは」
「オレもさ。だけどこれは現実だ。考えられることは」
「太陽の質量が変わったか……空間がねじ曲がったか」
「誰かが惑星の背中を押したか、だな」
冗談を言い合った時のように、二人は顔を見合わせた。しかしその口元は奇妙に歪んでいた。
「シュス、終末は闇じゃなかったな。星の死は太陽の光の中にあったんだ」
「ああ、見事にオレの説が覆されたよ」
だとしたら闇の中にも誕生があるのかもしれない。そう、洋平は思った。
十二
長老達のコンパートメントと同じ階層の一室に集まったのは、三人の長老達、神殿の神殿長と副神殿長、そしてシュスと洋平の計七人だった。三人の長老のうちの一人は空間物理学研究班の班長だ。シュスは班長への報告という形式を取りながら、ほかの五人に傍聴させて再度説明する手間を省いた。
「では、コモン達がこのまま生き延びられるのは最長でも一期に満たないという訳だな」
「詳しい計算は今させてるところだ。だがおそらくそれ以前に地上は人間が住める場所ではなくなるだろうというのが、ここにいる洋平の意見だ」
「環境が変わるというのか」
長老達は現在八十七期を生きている計算だった。十五期に満たない洋平などと比べて知識の深さは桁違いである。しかし生への執着は若い者達よりも小さかったかもしれない。
「もし事実をコモン達が知れば地上はパニックになる。死の恐怖に理性を失った者達が殺し合いを始める。だからオレ達は事実をコモン達に隠さなけりゃならねえんだ。ただ、困ったことに異変は地上のコモン達が先に感付いた。太陽の位置が変わったことで、地上は既にパニック寸前になってやがるんだ」
まず一番最初にしなければならないのは、コモン達への事情説明だった。しかし事実をそのまま話せば地上は殺戮の現場になる。コモン達には嘘の説明をしなければならなかった。太陽の位置が変わったことをコモン達が納得できる理屈で説明し、かつパニックを抑えなければならなかった。
しかも、この嘘はその場限りのものではだめなのだ。少なくとも数ピリオドの間、持たせなければならないのだ。
「コモン達がおとなしくなって、しかも今の状態に多少の変化があっても通用する嘘があればいいのか?」
洋平の言葉を聞いて、その場にいる六人が一斉に洋平を振り返った。
「そんな都合のいい嘘があるのか?」
「あると思う。……うまくいくかどうかは判らねえけど」
洋平はその思い付きを長老達に話した。そして、ほかの方策が生まれなかったこともあり、洋平がコモン達への説明の一切を任されることになったのである。
十三
神殿の一階層下の神事室で、洋平は神殿長がつける衣装をつけた。それは洋平には若干大きかったが、大きすぎはしなかった。額に太陽の紋章をあしらった飾りをつける。訪れたシュスは、そこに立つ洋平を神の遣いのように思って立ちつくした。
「……衣装映えするな」
十五期に満たない未成熟な少年の表情にはどこか神秘性を感じさせる要素があった。もしも洋平に荷が重いようであればこの役はシュスが代わってもよいと思っていた。しかし、既に二十八期を過ぎているシュスでは、この神秘的な表情は出せないだろう。気持ちを散らしたくなかった洋平は、表情を変えないまま短く言った。
「変わったことでもあったか」
「ああ、その後の計算でいろいろ詳しいことが判った。どうやら星が自転し始めてるらしいんだ」
「自転……? て、星が回ってるのか?」
「ほかに自転はないさ。まあ、原因は判らねえが、太陽がずれてるのはそのせいだ。今のところ速度は遅いが、加速がつく可能性は十分ある。そのあたりもじきに計算がでるだろう。だけどそうなるとな」
「雨が……降らなくなる」
「現状で地上に住めるのはギリギリ六ピリオドってところだ」
「……判った」
それまで自転をしていなかった星が動き始めた。同じ大地を同じ割合であたため続けてきた太陽が、ほかの場所を照らし始める。もちろん気象条件は大きく変わるだろう。雨の降る場所も変わり、光の塔の水源になっている地下水脈も変わる。しかし一番大きいのは、コモンの上から太陽がなくなってしまうことだった。光の塔の近くくらいはほのかに明るいかもしれないが、コモンの上に、今まで体験したこともなかった、夜が訪れるのである。
この情報は頭に入れておくべきものだった。
「言霊使いが協力してお前を上に運ぶ。もう準備はできてる。落ち着いて、堂々とやれ。必ず成功する。言霊使いを信じるんだ」
「判ってる。ありがとう」
洋平は、生まれて初めて地上へ向かった。
十四
不安な思いに耐えられずに光の塔の回りに集まっていたコモンの数は千数百人に達した。一様に塔の回りを取り囲み、神殿の者が起こっている異変の説明に現れるのを今や遅しと待っている。コモン達にとって、光の塔の人間というのは神殿の者達のことだった。他にも人間が住んでいる事は知っているが、それがどういう人間なのか想像すらできなかった。
コモンとは、知識欲を光の塔に預けてしまった者達のことだった。いや、それは正確ではない。知識欲を持ちコモンをはみ出してしまった者達が、遠い昔に光の塔を作り上げたのだ。知識欲とは苦しみの事だった。永久に満たされることのない底なしの壺の事だった。
ただ生まれ、生き、自らの遺伝子を後世に残すためだけに存在する者達。
洋平は、それこそが人間の本来の姿だと思っていた。光の塔の者達の方が異常なのだと。
生まれて初めて塔の外側への一歩を踏み出した洋平は、その明るさに一瞬怯んだ。
塔の外には今は雨が降っていた。その雨はすぐに洋平の全身を濡らした。煙る大気の向こうに見えたのは、多くの裸同然の姿をした人々。そして、広がる広大な赤い大地。
それは、生命の源。
(間違いない。オレはここで生まれた)
洋平は更に塔の外へと進んだ。取り囲む人々は洋平が進んだと同じだけの距離を正確に後退し、洋平の回りに空白を作った。後ろからつき従ってきていた神殿の者達が、その空白に踊り出て洋平を囲んだ。彼らは神殿の者ではなく、言霊使いだった。
コモン達が息を飲む気配が伝わる。言霊使いは洋平の回りにひざまずき、互いに手を繋いで祈りの姿勢を取った。すると洋平の身体が徐々に浮き上がり、塔の上部へと運ばれていったのだ。体験するのも見るのも洋平は初めてだった。しかし、言霊の存在すら知らないコモン達の方が、より驚愕を示していた。
塔の外側を登ることができる階段に沿って洋平は運ばれ、最初の踊り場で静かに降ろされた。その奇跡に、コモン達は畏れ、膝を折った。両手を震わせ涙を流す者さえいる。その瞬間、勝負は決まっていた。
表情を変えることなく、洋平は片手を天に指し上げた。
十五
「オレの名前は洋平」
できるだけ低く響くような声で、最初に洋平は言った。洋平の名前は奇跡という意味だった。その伝説を正確に知る者は少なかったが、名前の意味は誰もが知っていた。
ざわめきが雨の音に混じる。雨に打たれて片手を天に向けた奇跡という名前の少年は、コモン達にはまさに神の遣いのように思えた。
脅すような口調で洋平は叫んだ。
「光の神は人間達を見捨てる!」
それは電撃を浴びたのと同じだった。永久にこの大地を照らし続けるはずの太陽が、今その位置を刻々と変えているのだ。事態はすでに明白なのだ。これほど説得力のある説明がほかにあるだろうか。
「なぜだ! オレ達がいったい何をしたって言うんだ!」
その一人の言葉に触発されるように、他の者達も異口同音に叫んだ。ここにいる誰もが自分が神の怒りを買うようなことをした覚えはないのだ。それは当然だったかもしれない。コモン達の多くは生きて子を産むこと以外の何かをしようとは考えたこともなかったのだ。
「お前達は自分の子を残すため、多くの同胞を殺した。言い訳はいらない。お前達の多くは自ら手を汚しはしなかっただろう。しかし天上の神はすべてを見ていた。人間達が殺し合い、奪い合うのをその目で見てきた。そして警告した。このまま人間を滅ぼそうと、二人の子を一つにした!」
自らの異常な出生に対する洋平の憤りが、この時神の怒りと同化して言葉に力を与えた。この場所にいるコモン達は皆洋平達第一世代の親にあたる第四世代の者達だったから、第一世代に異常出産が多く現れたことを知っていたのだ。そして、自らの両親である第三世代達に言い伝えられていた。第三世代の時代、多くの仲間が目の前で同胞に殺されたのだと。
コモン達を支配したのは恐怖だった。神に見捨てられるかもしれないという、はかり知れない恐怖だった。
「もう遅いかもしれない。だが、警告を無視してはならない。武器を捨てよ。そして祈るのだ。神の怒りを鎮めるのだ。そうすれば神は戻ってこよう。誰も殺さず、うろたえ自分を見失わず、人間が繁栄するに値する種であると神に認めさせるのだ。必ず道は開ける。神を信じて、神に縋がるのだ」
恐怖と希望。それが、洋平が学んだ宗教というものの本質だった。
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