MIDNIGHT ACCIDENT
〜RUKAWA Vision〜



 日が落ちてから、もうずいぶんと時間がたっている。
 それでも俺はシュートを打ち続けていた。何が俺を動かすのかは判らない。ただ、バスケへの情熱が、俺の中の一番大きな部分を占めているだけだ。どうしてバスケなのかも判らない。何でもよかったはずだ。俺の秘めた情熱を昇華できるものなら、どんなスポーツでもよかった。俺がバスケットを選んだのは、ほんの小さなきっかけにすぎない。小学校の頃にテレビで見た、名もない選手のシュートの瞬間。
 その一瞬が、まるで時が止まったかのように思えた。スローモーションの映像を見るような、ゆっくりとしたボールの動き。きれいなフォームと息づまる観客。現実の時間がスローモーションになることがあるのだということを、俺は初めて実感した。シュートが打ちたい。誰かの時間を止めたい。あのときに切実にそう思った。
 俺のシュートは時間を止めることができるのだろうか。いつもそう思いながらシュートを打っていた。そして、何かが足りないと思いつづけていた。足りない何かを補いたくて、俺はシュートの練習に時間を費やした。いつも、この屋外コートで。
 桜木のどあほうさえいなかったら、俺は体育館で練習に励んだことだろう。だけど、あいつはなぜか俺をいらだたせる。普通バスケットコートのゴールは二つあるのだから、二人で背中合せで練習することは可能だ。それをしなかったのは、すべてあいつが俺の神経を逆なでするからに他ならない。いるだけで苛々する。きっとどあほうも同じ気持ちでいるのだろう。
 部室で顔を合わせる気にもならなかった。だから、体育館の明かりが消えて、どあほうが部室をあとにしたころ、俺は着替えに入ることに決めていた。明かりが消えてからずいぶんたつから、もうそろそろいい頃だろう。俺はボールをかたづけて、部室に向かって歩き始めていた。
 部室の鍵は開いていた。あのドジ、鍵を閉め忘れたな。俺はそう思って疑わずに、薄暗い廊下を歩いていた。不意に、遠くに人影を見る。あのがたいと赤い髪。桜木を見間違えるはずがなかった。
(どあほう、まだいたのか)
 あいつに気付かれないうちにもう一度コートに戻ろうと思った。だけど、俺はちょっと気になって振り返る。あいつ、あんな所で何をしてるんだ? ドアに貼り付いて、中の様子を伺っている……
 微かに、誰かの声がする。その声が静かな廊下に反響して不気味な雰囲気を醸し出していた。別に興味があった訳じゃねえ。だが、俺は静かに近づいて、自分でも訳の判らないものに吸い寄せられるように、桜木のいる場所へと向かっていった。
 奴は俺に気付かなかった。そして、声はどうやらこの部室の中から聞こえてくるのだということも判った。俺はかなり大胆に、小さな窓を覗いた。そして、それを見たのだ。
 暗闇に浮かび上がる、二つの身体。それは一つの生き物のように蠢動していた。絡まりあう裸体。それらは互いを求めて貪り合っている。何をしているかは一目瞭然だった。二人の男がSEXしているのだ。
(三井センパイと……赤木キャプテン……?)
 どうしてこんな……。二人がどういう仲でも、俺には関係ない。愛しあっていようが、将来の約束をしていようが、バスケットマンとしての二人の先輩にはそれなりの敬意も持っているし、こんな場面を見たからといって俺の二人に対する評価が変わる訳じゃない。だけど、何だって今、俺にこんな場面を見せるのか。俺だけじゃなくて、桜木にまで。
 どう言い繕ってみても俺は二人の睦合いに大きなショックを受けていた。身体が動かせぬほど、声も出せないほど。
 今声を出してはいけないことくらいは、俺にも判っていた。その程度の理性はある。俺はこのままこの場を離れるべきなんだ。そして家に帰って何もかもを忘れるべきだ。それは判っている。だけど身体が動かない。まるで吸いつけられるかのように、視線を離すことができない。
 赤木センパイが、三井センパイのその部分を舐めていることが判る。見つめていた俺は、だんだん妙な気分になってゆくのに気がついていた。まるで俺自身が舐められているような錯覚。感覚がおかしくなる。いつしか俺は、三井センパイと自分自身とを同一視するようになっていた。
 こんなのは嫌だ! 理性が叫ぶ。俺は二人とは違うんだ。俺は世界に通用するバスケットマンになるのが夢だ。こんな所で誰かに抱かれているのは俺じゃない。だけど俺の感覚の方は違っていた。このまますべてに身を委ねて、狂おしいほどに激情に飲まれたがっている。今までとは違った俺が、身体の中から生まれ出てくるような感覚。俺の知らないもう一人の俺が、理性の俺を押し流そうとしている。
 その時。
 俺の隣で振り返る気配。しまったと思った。桜木は今の今まで俺がいることには気付いていなかったんだ。さっきさっさと帰っていればよかった。こんな自分をこいつに見られるなんて ――
(桜木……)
 なんて目をしてやがるんだ。まるで野生そのものの表情。こいつの目には理性のかけらもない。お前はこんなにもおかしくなっちまったのか? そこまであの二人に影響されたって言うのか?
 俺の見ている前で、奴はゆっくりと片腕を伸ばしてきた。俺は毒気を抜かれたように動くことができなかった。桜木の手が俺の肩に触れた瞬間、俺はびくっと身体を震わせた。それでもまだ、俺には奴のしようとしていることが判らなかった。
 払い除ければいいんだ。そして一言、決まり文句をたたいて、その場をあとにすればいい。判ってはいたけれど、俺の身体は動かなかった。声を出せば中の二人に気付かれるから、怒鳴りつけることもできない。外で見ている人間がいることに二人が気付けば、それだけでやっかいなことになる。その躊躇いが命取りだった。桜木はいきなり俺に抱きついて、俺の肩に噛みついたのだ。
 俺は無言で抵抗した。だが、一度抱きつかれてしまえば、それを引き離すのは容易なことじゃない。奴の手が俺の背中を這う。唇は肩から離れ、首筋を移動し始めた。俺のタンクトップは背中から強引に引き上げられて、胸を締め付けた。桜木の馬鹿力が俺を押し倒して、頭蓋骨を廊下に押し付けた。
(痛えんだよどあほう!)
 これは本当に桜木なのか? ちょっと俺に触れただけで手が腐るとか言ってた奴が、俺の全身に伸し掛かってタンクトップを脱がそうとしてやがる。ほんの一かけらでも理性が残ってたら、奴はこんなことしやしねえ。俺の驚きはまだこれでもささやかな方だった。こともあろうに奴は、俺の唇に噛みつきやがったんだ。
 頭を抑えつけられていた俺は、避けることも逃げることもできやしなかった。ようやく俺にも事態が飲み込めた。桜木がしようとしているのがどういうことなのか。もう、声を上げることもできやしねえ。こんな場面を中の二人に見つかる訳にはいかない。事態は、俺のプライドの範囲をいつの間にか超えちまっていたんだ。
 三井センパイの声が、不気味に廊下に反響する。この声が聞こえるうちは、中の二人は気付いていない。俺はその声を命綱のように注意深く聞いていた。そして、このとんでもない事態をどうにかしようと頭を巡らす。そうだ。足さえ自由になれば、奴の急所を蹴り上げて逃げることだってできる。今は完全に押えられているけど、もしも奴がユニフォームを脱がそうと思うなら、その時が絶好のチャンスだ。
 桜木のキスとも言えないキスはやたらと痛い。俺の唇を食いちぎろうとしているかのようだ。奴の舌が俺の歯の間に割り込んでくる。噛みついてやるつもりで、俺は顎を動かした。だが、押し込まれている舌に噛みつくというのが、頭で考えるよりも容易でないことを思い知らされただけだった。ぬめぬめしてよく動く舌は、まるで掴みどころなく俺の歯の隙間をすり抜ける。結果として俺は、奴の激情の炎に油を注いでしまっていた。
 たぶん中坊のころけんかで覚えたんだろう。人を抑えつけて自由を奪うことに関しては、奴の腕は一流だった。上手に俺の手足を抑えつけて、まったく隙を見せない。その時、奴の片手がまったく予期しなかった方に動いていった。奴は俺の、俺自身を鷲掴みにしたのだ。
(あ……)
 辛うじて声を出すことは思い止まった。それは俺のプライド。奴に押し倒されているという事実よりも、それを中の二人に見られるかもしれないという方に、俺のプライドは働いた。奴に押し倒されたのは俺の失点だ。だけど、それをさらに誰かに見られるってのは、死に値するほどの屈辱だった。俺は死んでも声を出せない。桜木に何をされようとも、それを知られるような事態にはさせない。
 桜木が与える強引な刺激が、俺の内部を少しずつ侵食し始めた。奴はいつの間にかキスをやめていて、その唇は再び肩に移動していた。俺の脳裏に、さっき感じた奇妙な錯覚がよみがえる。赤木キャプテンが舐める、三井センパイの部分。俺の身体はしだいに熱くなっていった。身体の熱さが、その部分に集まってゆくのが感じられる。今、俺の意識の中には、本能と理性とがかわりばんこに現われては消えていた。瞬間的に理性が消えて、欲情に流されそうになる。辛うじて踏み止まる。
 そんな複雑に交錯した意識の中で、俺の身体はしだいに力を失っていった。桜木に触れられている部分が形を変え始めている。抵抗しなければならないという強い意志が、力を失って消えてゆこうとしている。
(……俺は……こんなどあほうになんか……)
 頭の奥で鳴り続ける危険信号。それは、三井センパイの猥らな声。ドア一枚隔てた向こうで、その声は高く低く響いていた。もう、力が入らねえ。身体中が痺れて、理性とは裏腹に、抵抗する力が俺の身体にはただの一つも残っちゃいなかった。
 桜木。俺はてめえなんか好きでも何でもねえ。だけど俺の身体はお前に反応する。理屈なんか判らねえ。ただ俺に判るのは、理性と欲望はまったく別ものなんだって事実だけだ。これ以上俺を怒らせるな。俺に触るな。俺の身体をもてあそんで、俺のプライドを粉々に砕くな。負けを認めろと言うなら認めてやる。俺の負けだ。だから、これ以上は……
 もう、なにもできやしなかった。だから奴が俺を抑えつけるのをやめたところで、逃げることすらできなかった。今、桜木は完全に俺の上半身を裸にして、俺の胸に顔を埋めていた。乳首を転がすように舐める。今まで味わったことのない快楽に俺は叫びだしそうになったけど、一度も俺は叫ばなかった。桜木の息づかいが俺の脳髄を凍らせる。遠くで聞こえる三井センパイの声と、まるでおいかけっこでもするような感じで、俺の耳に響いていた。桜木が俺の下半身に手をかけてユニフォームをずらしたときも、俺はなにもできなかった。身体は自由なはずなのに、とうとう指一本も動かせないまま、俺は裸にされていた。
 三井センパイ。俺はあんたがどういう想いで赤木キャプテンに抱かれるのか知らねえ。あんたは喜んで身を任せたのか、それとも自らの内に住む怪物に流されるように、理性を失ってしまったのか。俺は今あんたと同じように桜木に舐められてる。桜木をこんな風にしたのはあんただ。そして、俺をこんなにしちまったのも。……いや。俺はこれを望んだのかも知れねえ。俺の、俺でない何かが、望んでいたのかも知れねえ。俺の中に住む、もう一人の怪物の野郎が。
 桜木が俺の両足を開かせた。そして、そのままいきなり入ってくる。はんぱじゃない痛みに、俺は歯を食いしばった。その瞬間、俺は一気にイッちまっていた。もうなにもわからねえ。自分が痛いのか、気持ちいいのかすらも。ただひたすら、俺は呪文のように繰り返していただけだった。絶対に声を出しちゃいけねえって。もう、どうして声を出しちゃいけねえのかも判らねえ。頭んなかはまっ白。今自分がどこにいるのかも、誰に犯られているのかも、そんな事はもうどうだってよかった。なにもかもが吹き飛んでいた。バスケも夢も、今目の前にいるよく判らねえ奴のことも。
 俺が誰なのかってことも ――
 いつ、奴がイッたのかも知らない。だが気付いたとき、俺の命綱であるあの声は消えていた。今俺の耳に聞こえるのは、俺におおいかぶさるようにしているどあほうの息づかいだけだった。俺の頭の中に現実が戻ってくる。中の二人が終わったのだとしたらまずい。遠からず出てくるに決まってる。
 しっかりしろ、どあほう。そんな情けねえ格好見られてもいいのか!
 俺は桜木の身体の下から抜けだそうとして、それがまったく無駄な努力であることを知った。身体がうごかねえ。桜木がどういうやり方をしたのか知らねえが、ここまで俺を傷つけやがったのかこいつは。
 俺が動こうとしていることが判ったのか、桜木は俺を不思議そうな顔で凝視した。まだ、正常な感覚は戻ってないらしい。俺はどうにかこうにか奴の耳に顔を寄せて、囁くように言った。
「中の二人が出てこねえうちに逃げるぞ」
 俺は全裸。奴は下だけ脱いだ情けねえ格好だ。どうにか体裁を整えねえ事には、あとで誰に何を言われるか判ったもんじゃねえんだ。
 俺は苛々しながら桜木の反応を待っていたが、頭の悪そうな面の割には、それほど反応は鈍くなかった。うなずくと、まず自分の身づくろいを整えて、俺のユニフォームをかき集めた。そして俺を肩にかつぎ上げて、足音を忍ばせてその場を離れる。まっ裸でかつぎ上げられるのはかなり不本意な体勢だったが、身体が動かない以上しかたがない。時刻は真夜中だ。誰かに見られることもないだろう。
 桜木は俺を体育館までつれてきてようやく降ろした。壁を背もたれにして腰掛けさせられるのはかなりつらい体勢だったが、俺のプライドはそれを奴に告げることを阻んだ。桜木は俺の身体を隅から隅まで舐めるように見た。奴が何を考えているのか、俺には判らなかった。
「流川……」
 奴のかすれた声に、俺は返事をしなかった。実際、どう対応していいのか判らねえ。俺は奴を好きになれねえが、奴にやられてイッちまったのは事実だ。奴だけを責めることはできない気がする。
「お前……何で声ださねえんだよ」
 こいつ……何考えてやがるんだ。俺がどうして声ださねえようにしてたのか判らなかったってえのか? あの場所で声なんか上げてたら、赤木キャプテンや三井センパイにあの場面を見られてたんだぜ。そんな恥ずかしいこと俺にできるかよ!
「てめえの声が聞きたかったんだ。……ミッチーみてえな色っぽい声」
「どあほう。いっぺん死ね」
 俺は三井センパイの身代わりかよ。とうにそんなことは判ってた。こいつが俺のことなんかだいっ嫌いだって事くらいは。俺もてめえなんか嫌いだ。だけど……惨めじゃんか。
「流川……」
 奴から視線をそらしていた俺に、桜木は近づいてきて、俺の唇に優しく自らの唇を押し当てた。俺は一瞬の錯誤のうちに甘い夢に落ちかけて踏み止まる。奴を強引に振りほどいていた。
「やめろ。俺はてめえに犯られる玩具じゃねえ」
「俺のシャツ汚したじゃねーか。ばっくれんじゃねーよ」
 見てないようでしっかり見てやがる。自信ありげににやつく奴から視線を外すと、奴はそれを待っていたかのように俺を抱きしめた。俺の顔が奴の胸に押し当てられる。桜木の鼓動が俺の耳をついて、不思議な安心感になにやら判らなくなる。
「俺、忘れねー。お前のあんときの、イッちまったときのサイコーの顔。ミッチーより何倍もサイコーだった。次は声つきで頼むぜ」
 振りほどけない。奴はそんなに力を込めてる訳じゃねえのに、俺は奴の腕から抜け出せない。こんな奴好きな訳じゃねえ。好きな訳じゃねえけど……
 過大な自信の足元には、一本の今にも切れそうなくらい張り詰められたロープ。俺が持っていた桜木のイメージは、それとは知らずに綱渡りをする巨大な赤ん坊だった。めちゃくちゃにしてやりたくなる。その裏側で、何でもないことで俺につっかかってくるあいつを見て、俺はようやく安心してきたのかも知れない。
「餓鬼が。色気づくんじゃねーよ」
「てめえ。次は絶対声上げさせてやるからな」
「誰が上げるか、どあほう」
 よくわからねえ野郎だけど ――

 これでもいいかな、と、俺は思い始めていた。




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