第8話 レセの伴侶
混乱した頭を抱えて、とりあえずレセはシェルのクラプトより聖地に近い、もとのイズ=カテナのクラプトまで戻ってきていた。
風下の茂みで、息を殺して待った。風上からは風下の気配はあまり感じることができない。それでもシェルがほかの、レセのクラプトに近いところにいた人間達よりは遥かに鋭いことが判っていたから、かなり遠くに潜んだのだ。かろうじて二人の姿が見える、その茂みに。
心を落ち着けて頭の中を整理するのに、かなりの時間をかけなければならなかった。泉で顔を洗って、向かい風にさらす。冷たい風に冷されて、どうにかものを考えられる程度に、レセは落ち着いてきていた。しかしまだ冷静な状態からは程遠いものがあった。
状況を思い出して頭を掻きむしる。あのときからずっとその繰り返しだった。
「シェル、何だよ。……あいつ誰だよ」
心の中ではずっとそう呼んでいた。許されていない名前を、ずっと。
初めて出会ったときから、レセはシェルのことをそれ以外の人間とはまったく別の存在として捉えていた。旅の途中で、その気持ちが伴侶に対するものなのだと気付いて、心の中でずっと温めていた。シェルは同じ気持ちにはなってくれなかった。しかし、春が来れば判らない。春が来たとき、シェルに自分を呼んでもらいたくて、不利になることなど構わずにシェルを待つことを決めた。
シェルの側にいるときには必死で抑えてきた気持ち。嬉しくて、幸せで、自分のクラプトに戻ってきてから毎日レイザンを捕まえてしゃべった。旅の間の、シェルの言葉やしぐさ、狩の時のしなやかな動きも。そうしてしゃべりながら思い出すのはとても幸せだった。愛しさが溢れて、言葉を尽くしても語りきれないほど。
抱き締めたかった。ただ自分のことだけを見つめてもらいたかった。
外側のクラプトに育ったシェルは、レセよりも幼いのだと思った。だから今はレセを伴侶として見てはくれないけれど、冬の間ずっと見守っていれば、自然にレセを選んでくれると思っていた。
こんなに早くシェルが伴侶を決めてしまうなんて、思ってもみなかった。
(……だけどなんでだよ。伴侶を決めたんなら、二人で聖地に行きゃいいじゃねえか。聖地に行かねえなんて、自殺以外のなにもんでもねえ)
すべてが納得できなかった。そして、シェルにそんな行動を取らせたあの伴侶の考えも許せなかった。レセと別れる以前のシェルは、ちゃんと聖地に出発するつもりだった。その気持ちを変えたのはあの伴侶なのだ。あの伴侶が現われたから、シェルは狂ってしまったのだ。第四世代は聖地に移動しなければ生きられないのに。
(あいつは……シェルを殺そうとしてる)
幼いシェルをまるめ込んでシェルを狂わせた。シェルの伴侶としてあの人間はふさわしくない。あの伴侶はシェルのためにはならない。だとしたら、あの伴侶をシェルから遠ざけることが、シェルのためになることではないのだろうか。
いや、どんなに言葉を飾っても、結局レセはシェルが欲しいのだ。シェルの選んだ伴侶がどんなにいい人間でも、シェルが心から呼んだ相手でも、レセはシェルを諦めることができないのだ。シェルが欲しい。たとえ、あの伴侶を殺してでも、シェルを奪って自分の伴侶にしたい。
そのことで、シェルがどれだけ自分を憎もうとも。
(シェルを、絶対聖地につれていく。シェルが誰を選んでても関係ねえ。オレのためだ)
レセの身体が、しだいに熱さを増していった。
それは、あの赤い砂の砂漠でシェルを抱き締めた、あのときと同じ熱さだった。
シェルはなかなか一人にならなかった。二人でいるときに現われれば、最初の二の舞になることは判っている。シェルの口からシェルの気持ちを聞くという目的も、抵抗したら強引に連れ去るという目的も果たせはしないだろう。緊張感を持続させながら待つのは苦しかった。どうしても、何をしても欲しいものを手に入れるためでなければできないことだった。
レセは丸一日近くを待った。そしてようやく、ピジョン=ブラッドがシェルを置いて風下の方角に出かけていったのである。
レセの近くを歩き過ぎるピジョン=ブラッドに気付かれないように息を殺して、そのピジョン=ブラッドが気配に気付いて戻ってこないと安心できる時間をも待った。そうして、茂みを飛び出したレセが振り返ったシェルの目の前に立つと、シェルは驚いたようにチェルクを握り締めたのだ。
「ラグナ、シェル」
シェルにはレセが二人を見張っていただろう事は容易に想像がついた。ピジョン=ブラッドがいなくなったと同時に現われたのだ。その目的もだいたい判っている。シェルがなぜ聖地に向かわないのか、その理由を尋ねに来たのだということ。
親切なレセ。シェルが聖地に行こうが行くまいが、レセには何の関係もないというのに。
「チェルクを、オレに向けるな。必要ねえ筈だ」
シェルはチェルクを下に置いた。もちろん、今何か事が起こればすぐに握れる位置に。
レセも向かいに座ってチェルクを置いた。目の前のシェルは、一緒に旅したあのときよりも更に華奢になったような気がした。
シェルはレセが怖かった。その理由は判らない。だから早く話を終わらせてレセを追い返してしまいたかった。
「ピジョン=ブラッドは第三世代なんだ」
シェルの言葉に、レセは硬直したまま動けなかった。
「オレはピジョン=ブラッドと一緒に生きることにした。あとどのくらい、ピジョン=ブラッドが生きられるのか判らねえけど、できるだけ一緒にいて、できることならあいつの子供を産みてえと思ってる。……聖地に住めるのは第四世代だけだ。だからオレは聖地には行かねえ」
覚悟は、してきたのだと思っていた。しかし実際シェルの口からはっきりと聞いて、実はそんなことこれっぽっちも考えてはいなかったのだということに、レセは気付いていた。シェルはレセを選んでくれると思っていた。ピジョン=ブラッドに騙されているだけで、シェルの本当の気持ちは違うのだと思っていた。
しかし、シェルの言葉は、騙されている人間の言葉ではなかった。自分の意志を持ち、納得して生きるかつてのシェルそのままだったのだ。
「判ったら、レセス=レセは早く聖地に帰れよ」
チェルクを拾って、シェルは立ち上がりかけた。その手をレセが掴んだ。シェルが握っていたチェルクがレセを傷つけ、慌ててシェルがチェルクを放す。レセは痛みに気付かなかった。
「待て。まだ話は終わってねえ」
レセの腕から、赤い血が流れ落ちた。その血がシェルの神経を刺激する。あの日の絶望を思い出す。生きていることの意味を失った、あの悪魔の日のことを。
貧血を起こしたように、シェルはその場に座り込んでいた。
「ラグナ=シェル!」
支えるように肩に手を回して、レセはシェルを覗き込んだ。触れた身体はやわらかかった。華奢で青白いシェルは、一瞬前までのあの力強さなどもう微塵も感じなかった。
「……話ってなんだ」
やわらかい。なぜ、シェルはこんなにやわらかいのか。
「早く話せよ」
「あ……オレ、オレは……」
シェルの頬に触れると、傷ついた腕からシェルの白い肌に赤い雫が落ちた。肌を染める赤。あの日シェルの肌を染めた、カザムの赤い内臓。
砂の流れる音が聞こえる。人の理性を狂わせるのはいつも赤い色だった。レセの視界に靄がかかるように世界を赤く染めてゆく。それは赤い風を通して見た、紫色の空の色。
引き寄せて触れた唇は甘く開放を促す。とどまる意志など存在しなかった。ただシェルに触れることだけが、唯一の自我だった。逃がさないように、誰もシェルを連れていかないように、しっかりと身体を抑えつけて。
流されてしまいたかった。シェルにも同じ流れに身を委ねて欲しかった。
レセに触れられたシェルのすべてが熱く脈打った。シェルは自分の心臓が激しく生み出す鼓動を感じた。レセの熱い息に飲まれて、息苦しさと高揚する本能に近い自我に支配された。
ルマになった身体が、シェルの意志とは無関係に流れてゆく。ガイの腕にすべてを委ねて欲望を受け入れようとしている。
不意に……
レセは動きを止め、シェルの身体を確かめるように弄った。そしてその瞳はシェルが見ている前で驚愕を浮かべたのだ。
「まさか……お前、この身体……」
以前触れたときとは明らかに違うやわらかさ。シェルは身を捩ってレセから逃れようとした。しかし今のシェルの力ではどうすることもできなかった。
「……嘘だろ。……お前が、ルマに変化したりなんか……」
筋肉の衰えた腕は硬さを感じさせなかった。レセに知られてしまったのだ。できることなら最後まで隠し続けたかったその事実を。
だが、知られてしまった事実は、レセを遠ざけるためには大いに役立つ現実だった。
「判っただろ。オレが聖地に行けねえ理由が」
レセは呆然とシェルを見ていた。信じられなかった。第四世代が、冬を越す以前にルマに変化することなどあるはずがないのだ。聖地で暮らしながら春になったら伴侶になろうと約束する二人はいくらでもいる。しかしそれでもその人間は変化しない。春にならなければ第四世代がルマに変化することはありえないのだ。
たとえシェルがレセに恋をしたとしても、そしてほかの人間に嫉妬したとしても、本当ならシェルがルマに変化することなどなかったはずなのだ。
「オレはピジョン=ブラッドの子供を産みてえんだ。春になってから変化したんじゃ間に合わねえんだ」
ありえないから、シェルの言葉が真実のような気がした。だけど、今腕の中にいるシェルがほかの人間のものだなんて、どうして信じられるだろう。レセにはたった一人の伴侶なのだ。その伴侶がほかの人間のものになってしまったら、レセはいったいどうすればいいのだろうか。
レセの先には絶望しかなかった。それは、シェルが味わったような、シェルが思ったような絶望とはまったく違っていた。命が無駄になるとか、そんなことはどうでもよかった。レセにはシェルがいない未来など何の意味もなかったのだ。
どんなシェルでも欲しいと思った。たとえ誰のものであっても、たとえルマに変化したシェルであっても。
「ラグナ、シェル。オレは、お前のことが好きだ。だから、オレの伴侶になってくれ。頼む」
それは万が一の選択の筈だった……
「そこまでだ」
背後の気配と首筋につきつけられたチェルクにレセは動くことができなかった。シェルが見上げた先にはピジョン=ブラッドの凍るような表情。
「シェルから離れろ」
いかな身体の小さなピジョン=ブラッドが相手でも、この体勢からレセが反撃することはできなかった。ゆっくりとシェルの上から身体を起こした。ピジョン=ブラッドに追い立てられるまま、レセはシェルから遠ざかった。その目にはある決意が生まれようとしていた。
(やっぱ、こいつを殺すのが先だ。こいつがいるかぎりオレはシェルを手に入れらんねえ)
「今度シェルに近づいたら容赦はしない」
(だけどシェルの目の前ではやれねえ。今度こいつがシェルから離れたとき)
「僕が君を殺す。シェルのために」
(オレがてめえを殺す。それがシェルのためだ)
次のチャンスを求めて、レセは名誉ある撤退をした。
今度こそ、シェルのすべてを手に入れるために。