冬のまほろば


 第9話 シェルの伴侶
 
 

 放心したままのシェルの肩を、ピジョン=ブラッドは抱き寄せていた。シェルの精神が限界を訴えなければレセとシェルの間に割って入るつもりなどなかった。シェルが自分を逃げ道にしていることくらい知っている。半分はピジョン=ブラッドが仕組んだことなのだ。ルマに変化してしまった絶望からシェルを救うため。親友の渉と、きれいなルマだった裕との間に生まれた子供に、生きる希望を与えるため。
 シェルを愛している。親が子を愛すると同じ気持ちが八割。残りの二割で、ピジョン=ブラッドはシェルの中にいる裕を愛していた。シェルは裕と同じ心を持っている。たった一人の伴侶を、自分のすべてをかけて愛するという心を。
 ピジョン=ブラッドはレセを愛している。兄弟だったファイアとブルー、そのどちらかを殺していれば自分の子だったかもしれないレセを、ピジョン=ブラッドは愛している。レセが生きればピジョン=ブラッドの命も生きる。だからレセを守りたいと思った。
 レセとシェルとの間の子では、冬を越せないかもしれない。二人は第四世代なのだ。生まれて来る子供は、春から夏にかけて生きる第一世代になる確率が高いのだ。
 ピジョン=ブラッドは第三世代だった。だからシェルとピジョン=ブラッドの間の子供は、もしかしたら第四世代として生まれるかもしれない。人間の中で唯一たった一人で生まれる第四世代。一人で生まれる第四世代は二人分の強さを持って生まれてくる。
 二人を守りたかった。そして二人の先に繋がる命を守りたかった。
 人間は赤い砂の運命に翻弄される。第一世代は赤い砂の砂漠を旅して、旅の終わりに第二世代を産む。第二世代は砂漠で一生を終える。第三世代は砂漠を聖地に向かって旅する間に一人がルマに変化する。そして第四世代は、冬を越して聖地から出て、初めて赤い砂の砂漠を目にしたときにルマへの変化を始めるのだ。
 シェルの変化のきっかけは、レセに恋をしたこと。しかしそれだけで第四世代は変化などしない。シェルが変化したのは、赤い砂の砂漠を見たからなのだ。そしてその傍らにはレセがいた。人間は赤い砂の運命に翻弄される。
 これが運命なのかもしれない。シェルとその子供、レセとその子供が辿るべき運命。
「ピジョン=ブラッド……」
 シェルはピジョン=ブラッドのあたたかい身体に僅かに身を寄せた。レセに抱き締められたとき、自分の身体が誰を望むのか判ってしまった。だけどそれを認めてしまうのが怖かった。自分と同じ運命にレセを引きずり込んでしまうのが怖かった。
「シェル、レセを好き?」
 本当は同じ運命にレセを引きずり込んでしまいたかった。
「……ピジョン=ブラッドも好きだ」
「その気持ちを大切にして」
 ピジョン=ブラッドは立ち上がった。そして歩いてゆく。元のイズ=カテナのクラプトの方角に。
「どこに行くんだよ」
 ピジョン=ブラッドは振り返らなかった。
「レセを殺してくる。……この次、シェルの前に現われた人間が、シェルの伴侶だ」
「ピジョン=ブラッド!」
 ピジョン=ブラッドは振り返らなかった。
 ブラッドとは、最後まで一度も呼んではもらえなかった。

 昔、ただ一度だけ、ピジョン=ブラッドは人間を殺したことがあった。二人で生まれてくる第三世代は、伴侶を失ったとき、子を作る権利をも永久に失う。その運命を甘受できなかったガイ達は、変化の始まった他のルマを伴侶の手から奪おうとした。そんなガイ達からピジョン=ブラッドは裕を守ったのだ。親友の渉のために、自らの手を血に染めて。
 レセがピジョン=ブラッドを殺すのは、自分のためだった。二人の間に第三世代であるピジョン=ブラッドはいらない。シェルは苦しむかもしれない。自分を恨むかもしれない。それでも、たとえ憎まれてもシェルを誰かに取られるよりは遥かにマシだと思った。
 目の前に現われたピジョン=ブラッドの目は、レセを狩の対象として捉えていた。そのことを、レセは知った。
「僕はシェルを愛している」
 絶対に負けることは許されなかった。
「オレはどんなことをしてでもラグナ=シェルを手に入れる。てめえを殺してもだ」
「僕のルマを?」
「オレのルマだ!」
 勢いにまかせて駆け寄りチェルクで空気を薙いだ。一瞬前までは確かにピジョン=ブラッドの喉笛があった場所。動きに即座に反応して翻りざまチェルクを突き刺す。煙のような素速さで、ピジョン=ブラッドはレセのチェルクから紙一重で逃れていた。
 身体の大きなレセは生きる力も強い。だから小さなピジョン=ブラッドには負けない。
 ピジョン=ブラッドを殺せないはずなどない。
「レセス=レセ、君は人間との戦い方を知らない」
「うるせえ!」
「こうするんだ」
 あっという間だった。ピジョン=ブラッドの動きを追い掛けて振り回したチェルクがレセの背に回った瞬間、ピジョン=ブラッドはその腕を捩じり上げながら足を引っ掻けてレセの巨体をクラプトに倒した。反撃しようと見ると首筋にピジョン=ブラッドのチェルクがあって命を狙っていた。腕はありえない方に捩じ曲げられて力さえ入らない。力では圧倒的に有利なレセが、どう反撃することもできないのだ。
 一瞬の、完璧なまでの敗北だった。
「なん……で、嘘だろ」
「人間の身体はやわらかいんだ。カザムを狩るときみたいに首だけを狙っても簡単に逃げられる。だけどそのかわり安定感はない。身体が小さい人間でもこの程度のことはできるんだ」
 ピジョン=ブラッドがほんの少しチェルクを動かしただけで、レセの命は終わる。こんなに簡単に、小さなピジョン=ブラッドに殺される。
 これが、シェルが選んだガイなのだ。
「……オレを殺すのか?」
 レセの問には、ピジョン=ブラッドは答えなかった。
「子供に名前を……」
 言い掛けて言葉を切ったピジョン=ブラッドを、レセは振り仰いだ。ピジョン=ブラッドはレセを見てはいなかった。チェルクを一ミリも動かさず、遠くを見るような瞳で。
 そのチャンスにもなぜか、レセは抵抗する気になれなかった。
「何だって……?」
「……もしも一人で生まれたなら、聖地の長老達に預けるといい。二人なら、春になる前に砂漠に向かって旅をさせて。そしてもし、万が一、三人で生まれたなら……」
 レセは、ピジョン=ブラッドの言葉を一言も聞き漏らさなかった。
「……三人目の、一番身体の小さな子供には、ブラッドという名前を……」
 三人目の、一番身体の小さな子供には、ブラッドという名前を。
 ……やがて。
 ピジョン=ブラッドの肌のぬくもりの消えたクラプトで、レセはもう二度とピジョン=ブラッドが二人の前に現われることはないと知った。
 レセは、万が一子供が三人生まれたら、必ずあの赤い目の第三世代の名前をつけると、風に誓った。

 祈るような気持ちで、シェルは風下の一点をただ、見つめていた。
 レセにもピジョン=ブラッドにも死んで欲しくはなかった。レセにもピジョン=ブラッドにも、人間を殺して欲しくはなかった。命が消えるのは悲しいから。自分の命が消えたときの絶望は、シェルは一番よく知っていたから。
 長い時間だった。シェルには、待っていることしかできなかった。なぜなら、シェルは結局、選ぶことができなかったのだから。シェルが二人のうちのどちらかを選んでいたら、二人は殺しあうこともなかったのだろう。
 死んで欲しくはなかった。やがて春になり誰かと伴侶になるレセにも、やがて春になる前に死んでしまうことが判っているピジョン=ブラッドにも。
 長い時間だった。待ち続けて、やがて遠くにシェルは赤く輝く髪を見つけたのだ。
 レセ……だと思った。赤く透ける髪。レセだと思いたかったのかもしれない。
 駆けてくる赤は見る間に大きくなりシェルを抱き締めた。息もできないくらいに強く。
「ラグナ=シェル!」
 身体が溶けてしまうような気がした。レセの、最高のガイの腕に。
「オレ……お前の伴侶になりてえ……」
 レセの、持って生まれた恵まれた運命。その運命を変えてしまう。判っていても、抱き締めるその腕を欲しいと思った。誰にも渡せなかった。のちにどれだけ後悔しようとも、今抱き締めるこの腕を放してしまいたくなどなかった。
「ずっと、思ってた。赤い砂の砂漠に旅してた時から、ずっとお前の伴侶になりたかった。……気が、狂いそうだオレ。この先なんて、ぜったい出会えねえ」
 ……何もかも見えなくなるほどシェルを望む。そしてシェルもその相手を愛するようになる。
 これが、シェルの本当の伴侶……
「シェル、って、呼んでもいいか?」
 頷くか頷かないかのうちに、シェルの唇はレセの息に吸い取られていた。

 生まれた時からずっと、シェルは子を作るためだけに生きてきた。
 冬が来る前に聖地に辿り着き、やがて春になって伴侶を持ち、新しい命に繋ぐ。
 その先のことなど知らない。おそらくシェルは役目を終えて、渉や裕がそうだったように、リグやマトナの糧になるのだろう。死ぬことは恐ろしいとは思わなかった。子を作れずに死ぬことが、一番恐ろしかった。
 聖地の長老達は、他の人間達よりも遥かに長く生きて、知恵を預かるのだという。
 知恵は人間の中にある。だが、知恵を持った人間は、ともに苦しみをも与えられる。その知恵と苦しみとを長老達は預かる。長老達に知恵を預けてしまうから、人間は苦しみを味わわずにいられるのだ。
 今、初めてシェルは思う。赤い砂を求めたあの気持ち、探求心こそが、知恵の源なのだと。
 知恵を持った人間は大きな何かを失う。シェルが失ったものは生きる目的と希望だった。そして、そこまで辿り着いてシェルは気付くのだ。同じように赤い砂を求めたレセも、結局は何かを失わずにはいられなかったのだと。
 楽園から墜ちた人間は、過去ほかにもいたのだろうか。彼らはどうしたのだろう。知恵を持った人間は、これから先どこに向かってゆくのだろう。
 今、シェルの隣にはレセがいる。これから先、自分がどこに向かうのかなど判らないけれど、となりにはずっとレセがいるから大丈夫だと思った。レセとともにいるのは、あの日シェルがレセと一緒に旅することを決めたときにシェルが選んでしまったことなのだと。
 そして、レセもシェルを選んだ。
「レセ、ピジョン=ブラッドは悲しい。ピジョン=ブラッドには伴侶がいねえんだ。これから先ずっと」
 抱き締めてくれる腕も、抱き締めるべきルマもない。身体が二つあったらよかった。そうしたらシェルは、ピジョン=ブラッドの伴侶になれた。
「……オレ、一度だけブルーに聞いたことがあるんだ。第三世代は二人で生まれるけど、ほんとに稀にだけど、三人で生まれることがあるって」
 ああ、そうだったのだ。ピジョン=ブラッドはたぶん、ファイアとブルーと三人で生まれた、三人目の子供だったのだ。
 レセは、もう一人のピジョン=ブラッドが産んだ幻の子供。だから殺せなかった。もう一人のピジョン=ブラッドであるファイアかブルーを殺すことができなかったように。
「……シェル、オレは、お前に出会えてよかった」
 今心の底から、レセはそう思った。だからそのまま口にした。最初にそう思った時、なにも考えずに気持ちを口にしていたなら、シェルは変化しなかったのかもしれない。しかしそれは考えないことにした。ただ、同じ間違いを二度と繰り返したくはなかったから、正直な気持ちを言葉にした。シェルが二度と間違わないように。
 何の衒いもなく口に出された言葉を、シェルは信じられる気がした。そして初めてレセの大きさを実感した。過酷なまでの運命に翻弄されつつも、ただ自分と出会えた事を素直に喜んでいるレセに、ガイとしての器の大きさを感じた。
 そしてシェルも素直に思うことができた。レセと出会えたことが一番幸せだと。

 命は、繋がっている。一人の人間の命は、ほかの多くの人間達の命との絆を持っている。ピジョン=ブラッドの命は血の絆こそ跡切れてしまったけれど、シェルとレセを思い遣る心で二人の中に絆を残した。その心の絆をもって、ピジョン=ブラッドの命は生きる。同じように、レセとシェルの命も、誰かとの絆になって生きるだろう。
 シェルが産む子供はその次の命を繋げないかもしれない。しかし心を繋ぐことはできる。そうして心を繋ぐことができたら、シェルの命も誰かの中で永遠に生き続けるのだ。
「オレも、レセに出会えてよかった」
 その言葉に、レセは力一杯シェルを抱き締めた。
 

 やがてシェルは一人の子供を産む。
 その子は聖地の長老の一人となり、多くの人々のために力を尽くす。
 心の絆を多くの人達と繋ぐ。

 ……そして、シェルは奇跡の伝説になった。
 


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