冬のまほろば


 第7話 レセ、再び
 
 

 シェルの悪魔は、訪れてから四日目にはほとんどその身体から抜け出ていた。痛みも発熱もなくなり、身体が軽くなる。これからシェルの身体は少しずつ変わってゆくのだと、ピジョン=ブラッドは言った。少しずつ変わって、子を宿すことのできる身体になるのだと。
「裕は、とてもきれいなルマだった。シェルは裕のようなきれいなルマになると思う」
 シェルの身体が動くようになっても、ピジョン=ブラッドはかいがいしくシェルの世話をやいた。シェルが眠るときは近くで見張りをし、シェルが起きているときは、シェルが食べるための狩をしたり、かと思うと遠くに出かけてシェルが食べたこともないような甘い木の実を持ってきたりした。もう、聖地に移動する日は過ぎていたから、シェルのクラプトの内側にあるクラプトには誰も残っていない。いつ眠るのかという質問にピジョン=ブラッドは、
「シェルが眠ったとき、一緒に眠ってる。僕はあまり眠らない人間だから」
と答えていた。
 赤い砂がシェルのクラプトに押し寄せてくるまで、おおよそ四十日くらいしか残されていなかった。だからシェルが次の悪魔を乗り切ったあとくらいに、二人は移動しなければならない。聖地に旅立ったほかの人間達は、今はまだ聖地で多少混乱した社会を作り始めたところだ。その混乱が収まって、聖地の周囲が落ち着いた頃、聖地にかなり近い場所に住まいを移そうとピジョンブラッドは考えていたのだ。
 シェルの悪魔が過ぎ去って十日ほどしたその日、ピジョン=ブラッドはあの日から数えて初めて、シェルを抱き寄せた。それまでピジョン=ブラッドはシェルに触れはしたけれど、抱き寄せることはなかった。頬に唇を寄せて、ピジョン=ブラッドは言った。
「僕は今日、聖地の様子を見に行く。遠いから時間もかかるけど、たぶん十日くらいで戻ってこられると思う。それまで、シェルはここで待ってて欲しい」
 聖地にはレセがいる。シェルは急に不安に襲われていた。その不安の意味は、自分でもよく判らなかった。ピジョン=ブラッドが聖地から戻ってこないかもしれないと、そう思ったのかもしれない。理由は判らない。ただ、ピジョン=ブラッドが聖地でレセに会ってほしくないと思った。
「戻って、くるよな」
「必ず戻る。僕は僕のルマを残して死んだりしない」
 ピジョン=ブラッドが口にした言葉でシェルは改めて気付いた。ピジョン=ブラッドは、本当ならもう死んでいるはずの人間なのだ。第三世代が生きられる期間は、もうとっくに過ぎているのだから。
 ピジョン=ブラッドも不安なのだ。いつ死ぬか判らない身体。シェルと出会う前、ピジョン=ブラッドはいつ死んでもいいと思っていた。しかし今、ピジョン=ブラッドには守るべきルマがいる。シェルのために、今死ぬ訳にはいかない。どのくらいの時間、シェルを見守っていけるかは判らないけど、こんなところで死ぬ訳にはいかないのだ。
 シェルは、ピジョン=ブラッドを愛しいと思った。そして本気でピジョン=ブラッドの子を産みたいと思った。その子供が、凍てついたクラプトで無事に育つことがなくても。その子供が万が一無事に育ったところで、伴侶となる人間が存在しないことは判っていても。
「待ってるから、死ぬな……」
「……約束する。シェル」
 瀕死のルミノク。その命は、必ずシェルが繋ぐ。渉を、そしてシェルを守ってくれた命は、今度はシェルが守る。
 別れのその日、シェルはありったけの力を込めて、ピジョン=ブラッドを抱き締めていた。

 毎日を数えることは、シェルの習慣だった。聖地に行くための準備をしていた時、シェルは毎日を数え、出発の日を心待ちにした。その習慣は、悪魔を迎えてからは更に重要な意味を持った。シェルの悪魔は三十日ごとに六回訪れる。そしてその悪魔の日から十五日目が、受精のできる日になるのだ。
 ピジョン=ブラッドが旅立った日から、シェルは指折り数えて待ち続けた。ピジョン=ブラッドは十日で戻ると言った。だからその日を数えて待っていたのだ。今日で九日が経った。だから明日、ピジョン=ブラッドは戻ってくる。
 悪魔を迎えたルマがしなければならないことを、シェルは裕に習っていた。だからシェルは、ピジョン=ブラッドがいない時間を、その準備に当てた。ルマは身体の形が変わる。その身体を隠す服が必要だった。シェルはそれまで集めて使っていなかったカザムノを使って、身体を覆うための服を作っていたのだ。
 ピジョン=ブラッドのために。自分自身のために。そして、生まれてくる子供のために。
(……風下!)
 気配を感じてシェルは振り返った。敏捷な動きですでにチェルクを構えていた。信じられなかった。立っていたのは、真っ赤な髪の大きな人間だった。
(レセス=レセ……!)
「ラグナ=シェル。……お前なんでこんなとこにいんだよ!」
 走り込んできたレセにシェルは反射的にチェルクを向けていた。それ以上近づかせないようにあとじさる。自分が何を思ってレセにチェルクを向けるのか判らなかった。ただ判ったのは、自分の心の中にある恐れだけだった。
 レセの方も驚き目を見張っていた。レセも、どうしてシェルが自分にチェルクを向けるのか、理解できなかったのだ。
 レセはずっとシェルを待っていたのだ。出発の日が過ぎても自分は出発せずにシェルを待った。シェルがなぜこないのかが判らなかった。入れ違いになったかもしれないと思って、聖地まで行ってみたりもした。さんざん思い悩んだ末、ほかに考えられなくて、やっとシェルのクラプトまでやってきたのだ。
 シェルはなぜこんなところにいるのか。どうして自分にチェルクを向けるのか。赤い風に乗って、もうすぐ赤い砂の砂漠がやってくる。シェルを伴侶にしたいと思ったのはレセの勝手な思い込みだったけど、たとえ誰を伴侶に選ぶとしてもシェルがここにとどまる理由など何一つありはしないのだ。
「ラグナ、シェル。……頼む。オレにそんなもん向けるな」
 シェルには、なぜレセがこんなところにきたのか判らなかった。確かにレセは待っていると言った。シェルがくるのを、自分のクラプトで待っていると。しかし、レセにはもう決まった伴侶がいるのだ。身体が大きく、レセと二人で大きな子を作ることのできる伴侶が。あんなに、溢れ出す愛情を抑えきれないような笑顔で会話していた。レイザンとかいう名前の伴侶を置いて、レセはここで何をしているのだろうか。
 身体の震えに気付いて、冷静になるよう自分に言い聞かせた。そして、思った。レセに、自分がルマになったことを知られたくはないと。
「レセス=レセ。お前こそここで何をしてんだ」
 怒ったように、シェルは言った。そんなシェルの態度が、以前と微妙に違うことに、レセは気付いた。
「いつまで待ってもお前がこねえから心配して……。オレ、言ったよな。お前のこと待ってるって」
「……オレは待っててくれなんて言ってねえ」
「だけど! オレが待ってても待ってなくてもお前が聖地に旅立つのは決まったことだろ! なのになんでお前、こんなとこにいんだよ! ここにいたらお前はなにもできねえで死んじまうんだぞ!」
 そんなこと、判ってる。レセに言われなくても。
 なぜ、レセがくるのだろう。豊かな人間にはゆとりが生まれる。レセの豊かな環境が生み出したゆとりが、レセにこの行動をさせるのか。もしもそうなら、期待してしまう自分の気持ちをいったいどうやって抑えればいいのか。
 怖かった。すべてが。シェルにはもう、レセの子を産むことはできないのに。
 奇妙な、長い時間の膠着。それを破ったのはその声だった。
「シェルに近寄るな!」
 叫んで駆け込んできたのはシェルが待ち望んだ伴侶。今まで見せたこともないような怒ったような表情でレセとシェルとの間に割って入った。こんな大きな声を出す彼も初めてだった。思いがけないピジョン=ブラッドの登場に、シェルは自分が後戻りできない状況に追い込まれていることを再認識した。
 レセに、すべてを知られてしまうという失望。しかし、自分一人でこの状況をどうする事もできなかった。だからピジョン=ブラッドが予定より早く戻ってきてくれた事はありがたかった。しかし、失望。
「てめえ誰だよ!」
「僕はピジョン=ブラッド。貴様こそどういうつもりだ。シェルに何をしていた」
「シェル……って……」
 レセはあっけに取られてシェルとピジョン=ブラッドを交互に見つめた。シェルは、レセにはシェルと呼ばせなかった。それなのにピジョン=ブラッドには呼ばせている。シェルはなにも言わない。ただ、ピジョン=ブラッドと同じ側に立って、レセを排除しようとしていた。
 状況が、理解できなかった。したくなかった。その、レセが考えたくなかった真実を、ピジョン=ブラッドは何の躊躇いもなしに口にしていた。
「シェルは僕と一緒にいる。僕と一緒にいるためにシェルは聖地には行かなかった。僕はシェルを愛している。……それで十分なはずだ。貴様はさっさと聖地に旅立てばいい」
 思いたくもなかった。
「シェル、行こう」
 ピジョン=ブラッドに肩を押されて、シェルは一度も振り返らずにレセの視界からいなくなっていた。信じたくなかった。レセの目の前で、シェルが誰かに連れ去られる現実なんて。
 レセはしばし呆然と、シェルの華奢な後ろ姿の残像を見つめていた。

 レセから遠く離れた木の下で、二人は落ち着いた。持ち歩いていた水筒に水を満たして、ピジョン=ブラッドがシェルに与える。シェルは震えていた。うまく水を飲むことができず、大半は胸にこぼしてしまっていた。
「あれが、君のガイだね、シェル」
 シェルは答えなかった。しかし、その様子だけで、ピジョン=ブラッドが事実を知るには十分だった。
「確か、レセス=レセ。ファイアとブルーの子だ」
 あのとき、レセはピジョン=ブラッドに名乗らなかった。
「……知ってたのか?」
「ファイアとブルーを知ってる。レセス=レセのことは知らない。だけど、あの顔を持つのはファイアとブルーの子以外にはいないから」
「……そうか」
 ピジョン=ブラッドはファイアとブルーの兄弟なのかもしれないと、シェルは思った。渉や裕にも兄弟はいた。そしてその兄弟は、二人によく似ていたという。
「シェル、レセス=レセのことを僕に話して」
 シェルは、すべてを話した。突然レセがシェルのクラプトに現われたあの日のことからの経緯のすべてを。

 話しながら、シェルはずっと砂の流れる音を聞いていた。赤い風の吹き荒れる感触。砂の混じった向かい風は重くて、圧倒的な意志と想いを感じた。同じ風を、ピジョン=ブラッドも感じた。はるか昔、ピジョン=ブラッドはあの赤い砂漠の向こうから、この地に旅をしてきたのだ。
 話し終えたシェルを、ピジョン=ブラッドは見つめていた。優しくなつかしいものを見るような瞳で。
 やがて、ピジョン=ブラッドは言った。
「シェル、ルマの身体は不思議だね。たった一人のガイのために身体のすべてを変化させてしまう。裕は……君を産んだ裕は、渉の子供を産みたいって、その一つの想いだけで自分の身体をルマに変化させた。その裕の子は、レセス=レセをほかの人間に取られたくないって、ただそれだけのために身体を変化させたんだ。冬を越さなければ絶対に変化しないはずの第四世代の自分の身体を」
 そのピジョン=ブラッドの言葉に、シェルは反発を覚えた。
「オレは自分がレセス=レセの伴侶になれるなんて思ってなかった」
 それに、今変化してしまえば、絶対レセの子供を産むことができないのは判り切っていたのだ。万が一の望みすら絶たれてしまうことは。
「理屈は、ないんだ、ルマの身体には。……初めて僕と渉が出会ったときね、裕は僕に嫉妬したんだよ。僕が渉の子供を産めるはずなんかなかったのに。渉が裕を愛していたのは、疑いようもなかったのに」
「……」
「シェルは裕の子だね。僕はあのとき、渉がリグに襲われていたあのとき、渉を見捨てて裕を渉から奪ってしまいたかったよ。ほんの一瞬だったけど。……シェル、僕には枷がある。僕はいつも、チャンスを自ら逃してきた。僕の兄弟であるブルーがルマに変化したとき、僕はファイアを殺せなかった。殺してブルーを奪うことができなかった。渉を殺して裕を奪うこともできなかった。だから僕は、レセス=レセを殺してシェルを奪うこともできないかもしれない」
 レセを、殺す……?
 どうして? レセはシェルの伴侶ではない。シェルの思いが勝手に身体を変化させたけれど、レセがシェルを伴侶と思っている訳ではないのだ。シェルを迎えにきたのは単なるレセのお節介で、もしもシェルがルマに変化したことを知ったら、レセは諦めて戻ってしまうはずの人間なのだ。
 知られたくはないけれど、そう教えなければレセが戻らないのならば教えてもいい。レセに軽蔑されたくはないけれど、そうしなければレセが伴侶の元に帰らないというのならば。
「レセス=レセを殺さなくてもオレはピジョン=ブラッドのルマだ。オレはお前にそう言っただろ」
「だけど、もしもレセス=レセがシェルの伴侶になりたいと言ったら、それでもシェルは僕の伴侶になってくれるというの?」
 レセが、シェルの伴侶になりたいと言ったら。
「ありえねえよ。あいつにはレイザンとかいう伴侶がちゃんと……」
「万が一、シェルのことを全部判って、子供が産まれないことも知ってて、それでもシェルのことを愛すると言ったら? それでもシェルは僕を選ぶ? レセス=レセよりも僕を選んで、僕の子供を産むと言ってくれる?」
 万が一、レセがシェルを愛すると言ったら。
 身体に悪魔を迎えたと知ってから、シェルが感じてきた絶望。過去も未来も、すべてを無駄にしてしまったという強烈な後悔。悲しみ。レセがシェルを選ぶということは、シェルが辿ったとまったく同じ道を、レセが辿るということだ。その、同じ道を辿ってなおかつ、レセがシェルを愛すると言ったら。
 ありえないと思う。だけど、万が一、レセがシェルと同じ地獄を見ると言ってくれたら。
 後悔するだろう、シェルは。レセを巻き込んでしまったということを。しかし、その何倍も、シェルは幸せを感じる。同じ地獄をレセとともに過ごしたいと思ってしまう。
 ピジョン=ブラッドには、後悔を感じない。むしろ彼の子を産んであげられる、彼に希望をあげられる自分を誇らしく思う。穏やかな日々に身を委ねながら残りの生を生きてゆける。
 怖かった。選んでしまうのが。そんなシェルを見て、ピジョン=ブラッドは静かに言った。
「ガイを選ぶのはルマだ、シェル。もしもシェルが僕を選ぶなら、僕はなんとしてもレセス=レセを追い返す。レセス=レセを選んだら、僕は殺すつもりでレセス=レセを排除する。レセス=レセを殺してシェルを奪う。……だけど、できるかどうかは判らない。レセス=レセは、僕にとっては子も同じだから」
「……どうして? 兄弟の子だからか?」
「レセス=レセは、僕が産みたくて産めなかった、幻なんだ」
 その言葉の意味は、シェルには判らなかった。だけどシェルは、ピジョン=ブラッドはレセを殺さないような気がした。たとえ万が一、レセがシェルを愛すると言ったとしても。そしてそれはあくまで万が一で、レセがシェルを愛することはないのだから。
「ピジョン=ブラッド、お願いだ。もう一度レセス=レセがここにきたら、聖地に追い返してほしい。できるならオレ、自分が変化したこと、あいつに知られたくねえ」
「難しいけど、やってみるよ。シェルの次の悪魔がくる前に」
 ピジョン=ブラッドは請け合った。シェルの次の悪魔の日まで、あと七日間しかなかった。
 
 

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