冬のまほろば


 第6話 悪魔の日
 
 

 シェルが自分のクラプトに戻ってから聖地への出発の日まで、約三十日ほどだった。
 レセのクラプトに出かけたとき、シェルは睡眠のリズムを狂わせてしまったので、出発までの正確な日数が判らなくなっていた。しかしシェルはあまり気にしなかった。一日や二日出発が遅れても、シェルにはたいした害がない。もともと一番外側のクラプトに住むシェルは、どうあがこうとも聖地に到着するのは最後なのだ。
 出発の日が近づいていた。旅の準備の一つとして、シェルは干し肉を作らなければならない。そのためには狩をしなければならなかった。クラプトの中ではぐれカザムを求めてさまよい、身を沈めてチャンスを待つ。三回目だった。今まで二回、シェルは狩に失敗していたのだ。
(身体が、重い……)
 草むらに足を取られて一瞬ダッシュが遅れた。その一瞬だけで結果は決まっていた。若い雄のカザムはシェルの射程距離から大きく外れてゆく。それ以上狩をする力は、シェルには残されていなかった。
 集中力や判断力がなくなっている。しかしシェルにはそう判断するだけの判断力すらなかった。身体が、特に腰が重くわずかに腹部の痛みもある。兆候は確かにあったのだ。肉体が変わる。本来であれば絶対にありえない変化がシェルに起ころうとしていた。
 残り少ない干し肉で飢えを満たし、いつもの木の下で横になった。下腹の奥で何かがごろっと動く気配がした。ここ一両日あたりの変化だったが、シェル自身、あまり自分の身体に対する関心を持てなかった。それまでの長い時間で、レセへの気持ちに対して答えは出ていた。しかし、それについて考えることをやめるということが、シェルにはできなかった。
 レセはもともとシェルの伴侶となる人間ではない。シェルを本当に愛するのは、身体の大きな恵まれた人間ではない。それはずっと昔からシェルが胸に刻んできたことだった。最初からレセが自分を選ばないことは判っていたのだ。
 シェルを愛するのは、本当に心が呼んだ、たった一人だけ。シェルは呼ぶ相手を間違えてしまったけれど、冬がきて、春がきて、やがてその人間に出会ったとき、シェルもその人間を愛するようになる。その人間こそがシェルの伴侶になる。レセなど目に入らなくなるほど、その人間を愛するようになるはずだ。
 それが、シェルが出した答えだった。それなのに、眠る前のひととき、なにもすることがなくなると、シェルはまた堂々めぐりを繰り返してしまうのだ。シェルの伴侶がレセであるはずがないのに、レセのことを思い出してしまう。レセの伴侶はもう決まっているというのに。
(腹が、痛え……)
 普通では考えられない腹痛に注意を向けて、シェルはやっと自分の身体の異常さに気付いた。鈍い継続する痛みに加えて、発熱もあるらしく身体中に汗がにじんでいた。シェルは身体を起こした。立ち上がろうとして、両足の間、何か熱いものが伝う感触に目を向けて、シェルはそのショックのあまり呼吸を止めていた。
(悪魔! まさか……)
 大腿を、赤い血が一筋伝っていた。シェルの頭は真っ白になっていた。心拍数が上がり、知らず知らずのうちにその場に崩れ落ちるようにしゃがみこんでいた。
(なんで……嘘だろ……)
 ……悪魔の日。
 人間は、生まれたときはガイの形状をしている。第一世代から第三世代まで、一度に生まれる子供は二人。その二人のうちのどちらかがあるとき悪魔を迎え、ルマになる。互いにそっくりな身体をした二人のうちの一人がルマに変わって、二人の間の子を宿すのだ。悪魔を迎えたルマは子供を生む。子供を産んで、ルマは母になる。
 第四世代であるシェル達は、最初は一人で生まれる。そのまま伴侶を持たずに冬を越し、春になる頃、ほかの第四世代の誰かと伴侶になるのだ。そして伴侶になって、そのどちらかが悪魔を迎え、ルマになる。ルマになった第四世代は、伴侶との間の子を二人産んで、それが人間の第一世代となるのだ。
 伴侶がいなければ、人間はルマに変わることはない。そして今の時期、人間は伴侶を持たない。第四世代は冬を越すための世代。冬を越す前に子供を産むことはないし、もし仮に子供を産んでも、その子は冬を越すことはできないだろう。
 悪魔は、三十日ごとに六回訪れる。それは世代にかかわらず、個人差もない。冬がくる前に悪魔を迎えた個体は、その六回の悪魔を冬の間にすべて迎えてしまう。そうして春まで存えても、もう子供を産むことはできないのだ。
 シェルの身体は、最初の悪魔を迎えてしまった。もうシェルに子供を作ることはできない。シェルには、子供を作ることができないのだ。
(子供を、産めない、オレは……!)
 シェルはパニックに陥っていた。どうして。なぜ。その疑問から思考が一歩も前に進まなくなってしまっていた。まさかこんなことが自分の身に降りかかるなど、想像すらしたことがなかった。何が悪かったのか。自分がどんな悪いことをしたのか。こんな、知識ですら聞いたことがない、誰の身にも起こらなかった悪いことが起こるような、どんなことを自分がしたというのだろう。
 もう、子供が産めない。レセの子供を産みたいと願った訳ではなかった。誰の子でも受け入れたし、自分がルマになろうと思った訳でもなかった。だけど、春になったらシェルの命は終わり、その前に子供を残すことで、自分の命が引き継がれてゆくのだと思った。自分の命は無駄にはならないのだと思っていた。
 シェルは、自分の命を無駄にしてしまったのだ。そして、自分だけではなく、シェルを産み育てた渉と裕の命をも。シェルを産めたことが最大の喜びだと語った裕の気持ちを、シェルは無駄にしてしまったのだ。必死で生きて、あの赤い砂の砂漠を越えてきた二人の命を。
 パニックは、いつしか喪失感に変わっていた。一つの命に意味があるとすれば、それがずっと昔の、気の遠くなるほど多くの世代の大勢の命を受け継いできたということと、その命を次の更に遠くの世代に繋いでいくということだ。シェルが今生きているということは、シェルの命を繋いできた多くの命達が、誰一人欠けなかったということの証。その多くの命が、今、シェルをここに存在させる。シェルが欠けることで、シェルの先に繋がるべきたくさんの命は生まれなくなってしまう。たった一人シェルが欠けたという、それだけで。
 冬を越すこと。聖地へ行くこと。そのすべてが今、シェルには意味のないことになっていた。人間が聖地に旅をするのは、やがてこの地が赤い砂と氷に閉ざされ、人間が生きられなくなるからだ。聖地という小さな場所だけが、人間が唯一生きられる場所になる。しかし、子供を産めない人間が冬を越すことにどんな意味があるだろう。冬が越せても、シェルがその先を繋ぐことができないのは判り切っているのだ。
 長い時間、シェルはただ呆然と、その場にしゃがみこんでいた。そしてようやくたった一つ、シェルがすべきことを見い出していた。それは、シェルが聖地へ行かないということ。もしもルマに変わってしまった人間が聖地へ行ったら、もしかしたらほかの正常な人間のバランスをも狂わせてしまうかもしれないから。それではシェル以外の人間の命をも無駄にしてしまいかねない。もしかしたら、レセの命をも、無駄にしてしまいかねないから。
 一人で生きて、一人で死ぬ。
 それが、多くの命を無駄にしてしまった、シェルの最後の償いだった。

 そんなシェルの終末は、意外に早く訪れたかに見えた。
 悪魔を迎えた翌日、シェルはリグの群れに囲まれていた。大腿を流れ落ちる血の匂いは肉食獣を誘う。今のシェルに戦う力はなかった。しかし、ただ黙って喰われるつもりはなく、諦めていないことを示すようにチェルクを握り締めて、群れに向き合った。
 肉食獣同士の、生と死を賭けた睨み合い。シェルは逃げることでしか抵抗できないカザムとは違う。だから取り囲むリグも命がけだった。
 極度の緊張が弱ったシェルの肉体と精神を凌駕しようとしたその時……
 ふらついたシェルの目の前に、その色が飛び込んできていた。褐色の、しかし光の加減でひときわ赤く見えるその色。動きに合わせて風をはらみ揺れる赤。それは、髪だった。赤い砂の砂漠と同じ色をした髪。
(……レセ……?)
 しかし、確かめる前にシェルの身体はその場に崩れ落ちていた。
 リグの唸り声と、その人間の動く音が聞こえた。しかしやがてそれも小さくなり、リグの唸りは風に流され遠ざかっていった。助かったということは理解した。近づいてきた人間の顔を確かめようと、シェルは顔を上げた。
「大丈夫か」
 褐色の、ひときわ長い髪。一瞬レセだと思って心臓が踊り上がった。その人間はレセではなかった。しかしその顔は、レセによく似ていたのだ。
 レセの赤い髪より少しくすんだ褐色の髪。そして、こちらはより鮮やかな、ルミノクの血の色の瞳。まるでレセの父かと思うほどよく似た顔をしていた。しかし愛敬のあるレセの顔とは違って、どちらかといえば美しいと思えるようなスッキリとした顔立ちをしていた。
 その人間に助けられ、身体を起こすと、褐色の髪の人間はレセとは決定的に違う、小さな身体をしていることに気付いた。シェルと変わらぬほどに小さな身体だった。
「ピジョン=ブラッドだ。……水を飲むか?」
 差し出された水筒に、シェルは口をつけた。名前を聞いて、とりあえずレセの父ではないことは判った。確かレセの両親はファイアとブルーと言った。どちらにせよ二人はもう死んでいる。
「ラグナ、シェル……」
「渉と裕の子だな」
 そう先回りしたピジョン=ブラッドの言葉に、シェルは驚いていた。ピジョン=ブラッドは渉と裕を知っているのだ。しかし、シェルはピジョン=ブラッドを知らない。この人間はシェルが生まれる前の渉と裕を知っているのだろうか。
「お前は、いったい……」
「渉は僕の親友だった。僕は前に渉を助けたことがある。だから、渉の子であるラグナ=シェルも助けた。悪魔を迎えたルマが苦しいのは知ってる。僕が側で見ているから、ゆっくり眠るといい。僕が君を守る」
 途中から、シェルは目を閉じてピジョン=ブラッドの言葉を聞いていた。目を閉じたら、声もレセに似ていると気付いた。理屈ではなく、本能がシェルに告げた。この人間は信頼してもいいと。
 悪魔を迎えてから、シェルは初めて一人ではない眠りについた。

 翌朝シェルが目覚めると、その出来事が夢ではなかったことを知らせるように、ピジョン=ブラッドは隣にいた。半分だけ身体を起こして見回すと、近くに作りかけの干し肉がある。昨日倒したリグの肉だった。カザムほどはやわらかくないけれど、十分食に耐えるものだった。
「おはよう、ラグナ=シェル」
「……おはよう。……ずっといてくれたのか?」
「そうでもない。水を汲みに出たり、草を集めたりしたから。動けるようならそっちに移動してくれないか? 血だまりを片付けたいんだ」
 黙って、シェルはピジョン=ブラッドの作った草の寝床に移動した。やわらかく拵えてあって、少し身体が楽になる気がする。シェルが移動すると、ピジョン=ブラッドも黙ったままシェルの血だまりをチェルクで掘り返していた。
 レセに似ていると思ったピジョン=ブラッドの横顔を、シェルはずっと見つめていた。見れば見るほどレセとは違うことに気付く。ピジョン=ブラッドはレセとは違って、あまり陽気な人間ではないようだった。しゃべり方も抑揚がなくぶっきらぼうだった。それは、どちらかといえばシェルの方に似ていた。レセのクラプトの近くに住んでいた人間達はみなレセのような人好きのする人間だった。シェルは、今まで出会った人間を単純に二つに大別して、ピジョン=ブラッドを自分と同じ側の人間なのだと思った。
 作業を終えて、ピジョン=ブラッドはシェルの方に歩み寄った。その手には切り裂いたばかりのリグの肉を持っていた。
「ほんとは内臓の方が栄養があるけど、たぶん身体の方が受け付けないと思う。ゆっくりでいいからできるだけたくさん食べて。そうでないと元気にならないから」
「判った。さんきゅ」
 ぶっきらぼうでも、シェルのことを心配してくれている。食べながら、シェルはピジョン=ブラッドが言ったことを思い出していた。渉の親友で昔渉を助けたことがあるのだと。渉を助けたから、渉の子であるシェルも助けるのだと。その理屈は、シェルにはなんとなく判った。人間の命は、鎖のように繋がっている。渉とシェルとは同じ鎖の隣の輪になる。最初の輪を助けて、次の輪を助けないのでは最初に助けたことの意味がなくなってしまうのだ。シェルが子を作らなければ渉や裕の命さえ無駄になってしまうのと同じように。
 身体中の変化が、シェルの胃腸もおかしくしていた。普段であれば何でもないリグの肉でさえ重苦しく感じる。ゆっくり、小さく噛み砕いて、時間をかけてすべてを飲み込んだ。少し離れた場所でピジョン=ブラッドも食事をした。シェルが食事を終えたとき、ピジョン=ブラッドはシェルの目の前にどっかりと腰を下ろした。
 まるで、これから長い話をしなければならないのだというように。
「ラグナ=シェル、君のガイは誰だ」
 いきなり、ピジョン=ブラッドは言った。一瞬だけ意味が判らなかった。しかしすぐに気付く。ピジョン=ブラッドはシェルがルマに変化したそのことを話し始めたのだ。
「いねえよ、そんなの」
「ガイがいなければ人間はルマにはならない。君にはガイがいる。そのガイは今どこで何をしている。君がルマに変化したことを知ってるのか?」
「いねえって言ってんだろ! オレは勝手に変化したんだ! 誰のせいでもねえよ!」
 シェルをルマに変化させたのはレセだ。シェルの、レセに対するあの気持ち。それが、シェルの身体をルマに変化させてしまったのだ。それだけのことが判るくらいにはシェルは冷静さを取り戻していた。しかしそれはレセのせいではない。レセは悪くはない。悪いのは、自分をわきまえずレセに心を寄せてしまったシェル自身なのだ。
「……よく判った。ラグナ=シェル、君は一人で変化した。ガイはいない。もし仮にいたとしても、そのガイは君が変化したことを知らないんだね。……それで、君はこれからどうするつもりなんだ?」
 変化してしまった身体。これをどうにかすることなどできない。シェルは、もうどうにもできない袋小路に追い込まれてしまったのだ。それはこのピジョン=ブラッドにも判っているはずだった。
 答えないシェルに、ピジョン=ブラッドは別のことを言った。
「ラグナ=シェル、僕は第三世代の生き残りだ。本当なら今の時期、第三世代はすべて死んでしまっている。それなのに僕は生き残った。それはたぶん、僕が君の渉と裕のように子を作らなかったからだと思う」
 ピジョン=ブラッドの、第四世代ではありえない長さの髪。渉を助けたというピジョン=ブラッドの言葉。うすうす気付いてはいたけれど、はっきり聞いてシェルは驚いていた。第三世代には寒過ぎるこの気候で、なぜかピジョン=ブラッドは生きていたのだ。前の世代の生き残り。
 あのルミノクだ。レセと旅をしていて見つけた、寒さに強くない世代の生き残りのルミノク。
「ピジョン=ブラッド、お前はどうして子を作らなかったんだ」
 シェルの質問に、表情を変えずにピジョン=ブラッドは答えた。
「僕に、伴侶がいなかったから」
「なんでだ。第三世代は二人で生まれるはずだ。伴侶がいないはずねえよ」
「僕の兄弟にはちゃんと伴侶がいたのに、僕にはいなかった。どうしてかなんて僕にも判らない。……今、思った。僕は今ここでラグナ=シェルに出会うためにいたのかもしれない」
 そう言って、ピジョン=ブラッドはしばらく、シェルを見つめていた。
 シェルもピジョン=ブラッドを見つめた。レセに似ていたけれど、レセとは違う人間のピジョン=ブラッド。その赤い瞳はルミノクの血の色。名前と同じ、ブラッド。
「ラグナ=シェル、君をシェルと呼んでもいい?」
 シェルを守ると言った。そう言う前も、言ったあとも、出会った瞬間からピジョン=ブラッドはシェルを守ってくれた。子を残すことのできなかった第三世代。彼は、シェルと同じだった。同じ立場のガイとルマだった。
「オレをそう呼べるのは、渉と裕のほかにはピジョン=ブラッドしかいねえよ」
 伴侶にしか呼ばせないと決めていた名前。
「僕のことはブラッドと呼んでくれていい。シェルのほかにはたとえ渉でも許さなかった名前だ」
 ピジョン=ブラッドはシェルに触れ、抱き寄せて頬に唇を押し当てた。レセとは違った感触だったが、シェルはピジョン=ブラッドをあたたかいと思った。たった一人、シェルだけを望んだ。シェルしか望めなかった。これが、シェルの伴侶。この伴侶を、シェルは愛せると思った。
「僕のルマ……やっと出会えた」
 絶望しかなかったシェルの心を僅かな希望に傾けてくれた、このガイを愛せるルマになれると思った。
 
 

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