第5話 レセのクラプト
「どこへ行く」
少しずつ、しかし驚くべき速さで、森は豊かさを増していった。甘い実をつける種類の木は確実に増え、それに伴ってキラエトの数が目に見えて増えた。カザムの群れも。歩けば歩くほど豊かになる。大きな湖に集まるカザムの群れを見つけたときは天国かと思った。しかし、そのクラプトの人間に眠る場所を借りて翌日再び歩きはじめれば、更に豊かなクラプトが広がっていた。
「……ここはもうレセのクラプトだ。そういやさっきこの先の泉の前で見かけたな。レイザンと一緒だった」
呼び止められる前から、シェルはその人間の気配を感じていた。少しでも敵意を見せれば相手を挑発してしまう。油断なく振る舞いながらも、シェルは辛抱強く動かずにいた。
「レセス=レセのクラプトまで」
「なぜだ。移動の日はまだ先の筈だ」
「移動はしねえ。用が済んだらまた戻ってくる」
渉と裕以外の人間では、相手はレセの次、二番目に出会った人間だった。身体は少しシェルよりも大きかった。しかし、レセほども大きくはなかった。
「イズ=カテナ。ルシュエとティマの子」
「ラグナ=シェル。渉と裕の子」
「レセス=レセに何の用だ」
「水筒を届ける。オレのクラプトに忘れてったんだ」
「レセス=レセは四日前に通っていった。そんとき水筒は持ってた」
「これもレセス=レセの水筒だ」
「ラグナ=シェルが必ず戻るかどうかオレには判らねえ」
シェルのクラプトのすぐ内側にクラプトを持つイズ=カテナは、シェルと同じくらい不利な人間だった。皆と同じ日に出発しても聖地に到着するのは一番最後になる。シェルにはカテナの気持ちがよく判った。卑怯な真似をして聖地に早く辿り着こうとする人間を絶対に許せないのだということが。
だが、シェルはカテナを納得させなければならなかった。信じてもらわなければ、レセには会えないのだ。
「もしも戻らなかったら聖地でオレを殺せ」
シェルの言葉を、カテナは半分しか信じなかった。しかし、残りの半分を埋めたのは、シェルの小さな身体だった。レセのような大きな人間ならカテナでは殺せないだろう。だが、シェルのような小さな人間なら、カテナでも殺すことができるのだ。
身体が大きい人間は生きる確率が高い。そして身体の小さな人間は、生きる確率が低いのだ。
「戻らないときはオレがラグナ=シェルを殺す」
「この先でオレは何度も同じ約束をする。だから殺した時は他の人間に知らせてくれ。ラグナ=シェルはイズ=カテナが殺したって」
「判った。約束する」
道を開けたカテナの横を、少し緊張しながらシェルは抜けた。殺意を感じなかったことにほっとしかけたとき、カテナに呼び止められてシェルは振り返った。
「ラグナ=シェル、イズ=カテナは卑怯者じゃねえ。だからラグナ=シェルも卑怯者になるな」
「ラグナ=シェルも卑怯者じゃねえ。約束は守る」
生まれて初めて他人の信頼を得たシェルは、その矜持に不思議な胸の高鳴りを覚えて、足を速めていった。
いつの間にか風景はシェルが暮らしたクラプトとは同じクラプトとは思えないほど変わっていた。怖いくらいに魅力的だった。イズ=カテナや多くの人間達との約束を忘れてしまいそうになるほどに。二日目のその日、シェルを殺す人間が二十人を越えたころ、信じられないことが起こっていた。
その人間は、シェルを見た。それなのに、シェルを呼び止めず、ただ黙って通過するに委せたのである。
それがどうしてなのか、結局シェルには判らなかった。しかしその先でシェルはもう呼び止められることはなく、眠る時間にそのクラプトで眠る許可を得るためシェル自身がその人間に声をかけるまで、シェルは誰に声をかけられることもなかったのだ。
豊かさは、心にゆとりを作る。恵まれている人間は、恵まれない人間の狡さを許すことができる。彼らはシェルの卑怯な行為を黙って見逃したのだ。シェルは他人と無駄なおしゃべりなどしなかった。だから判らなかった。判らない方がよかっただろう。もしもそのことをシェルが知ったら、ひどくプライドを傷つけられ不快な思いをしただろうから。
太陽の光の遮られる木陰で目を閉じても、シェルはよく眠れなかった。もともとシェルの眠りは浅い。シェルのクラプトよりも獣や人間の多いこのクラプトでは、周囲のざわめきが絶えることはなく、過敏なシェルの神経に触った。目を閉じながら、シェルは知った。レセは特別鈍かったわけではない。このクラプトではあのくらい鈍くなければ眠れなかっただけなのだと。
眠れないシェルはごく自然にレセに思いを巡らせた。旅の草原の、何も隠すものがないところで、交代で眠った時のこと。シェルが目を覚ませば、まるで片時も目を離してはいなかったのかと思わせるような、見つめるレセの視線があった。そのあと眠るレセをシェルも見つめた。赤い砂の砂漠を見てからは、更に深く。
二人で行った狩は一人で行うときとはまったく違っていた。しなやかに、ダイナミックに動くレセの身体と呼吸を合わせ、獲物を追い詰める。二度目の狩からは二人ともお互いの呼吸を読むことを覚えてしまっていた。それは新たな快感の発見だった。絶対に失敗することはないという自信を持てた。生と死の戦いの中でありながらその一体感を楽しむ余裕さえあった。
大きく力強い、レセの身体。それは誰の目にもはっきりと魅力的だった。シェルにとってさえ。それは本能なのかもしれない。生き残るために、そして自分の子を生き延びさせるために身体の大きな伴侶を持ちたいという、人間としての自己保存本能。
今まで歩いてきて、シェルはレセほど大きな人間には出会わなかった。シェルより小さい人間にも会わなかった。シェル自身がレセに魅力を感じているのは判る。当然のことだと思う。だが、レセにとってシェルは、レセが今まで出会った中でおそらく一番小さな人間だ。聖地への出発の時、レセはシェルを待っていると言った。しかし、レセにとってシェルは……
シェルは飛び起きて出発の支度を始めた。身体は疲れているけれど、眠ることができないのはよく判った。一刻も早く自分の気持ちに決まりをつけなければどうにもならなかった。神経が高ぶるのは、けっして周囲のざわめきだけが原因ではなかったのだ。
その時シェルはまだ思い至らなかった。冬がくる前に持ってしまったこの気持ちが、いずれどういう結果を生むのかということに。
「レイザン?」
「ああ。ここ何日か……旅から戻ってすぐ頃からかな、あいつよくレイザンのことつかまえてしゃべりまくってんだ。なーんか、妙に楽しそうにな。レセに用か?」
「……そういう訳じゃねえ」
教えられた泉の方角に、シェルは歩いていった。不思議と歩みは遅くなっていた。会って、いったい何を話せばいいのか。禁をおかしてまで聖地に近づいてしまった自分が急に恥ずかしくなっていた。
森が跡切れる気配がして、泉が広がっていることが遠目にも判り始めていた。心臓の高鳴りを抑えながら恐る恐る近づいてゆく。きらきらと反射する水面の眩しさに目を細めた時、レセの赤い頭が見えた。シェルは足を止めた。そして、レセの隣に座ってレセと話しているらしい、もう一人の人間を見つけた。
シェルの目はその二人に釘付けになった。レセと、そして隣に座るおそらくレイザンという名前の人間に。
(レセス……レセ……)
レセは笑っていた。満面の笑顔だった。少し照れた笑いで、全身で喜びを表現しているように見えた。シェルがそれまで一度も見たことがないような、心の底から沸き上がるような溢れるような喜びと誇らしさ。それはすべて隣に座る人間に向けられていた。レイザンという名前の、シェルよりも遥かに大きい身体をした、レセと並んでもあまり遜色なく見える一人の人間に。
(レセ……!)
風上のシェルに風下からの二人の声は聞こえない。しかし、その笑顔だけで十分だった。レセがあんな表情を向ける相手はレセが選んだ伴侶以外にはありえない。シェルに向けた笑顔は違っていた。赤い砂の砂漠からの帰り道になってからは、その笑顔すら向けられはしなかったのだ。
理解した。自分は、レセが好きだ。
レセに伴侶がいると判って初めて理解した。いや、本当は最初から判っていたのかもしれない。レセを好きでなければ、自分の命をかけてまでレセに会いにくることなどなかったのかもしれない。気持ちを確かめようなどと思わなかっただろう。
こなければよかった。確かめたりしなければよかった。確かめなければ知る事もなかったのだから。自分のレセに対する気持ちも、レセに決まった伴侶がいるという事実も。
シェルは、できるだけ音を立てないように、その場を離れた。風上の音は風下にはよく響く。レセに見つからないように引き返して、森の木々に紛れたと思ったとき、自然に駆け出していた。帰り道、シェルはほとんど眠らなかった。約束をした人間達にラグナ=シェルが約束を守って戻ってきたことを知らせるため声をかけた以外は、誰ともしゃべることはなかった。
戻ってきたシェルは、泥のように眠った。このままリグの群れに喰い殺されても構わないとでもいうような、無防備な眠りだった。