第4話 決意
帰り道は、行きに比べても遥かに順調だった。距離や様子が判っていたから、無駄な時間を使わなかった。一度だけ、はぐれカザムを狩って、あとはルミノクやルギドで長らえる。平和な旅路だった。
翌日、シェルのクラプトに辿り着いたのは、二人が眠る時間になってからだった。シェルは、クラプトの動物達がシェルのことを覚えていたことに、ほっと胸をなでおろした。レセは、シェルともう一日一緒に過ごせることが嬉しかった。
レセがシェルのクラプトを去って、数日が経とうとしていた。
旅の途中からレセはあまり笑わなくなった。時々シェルを見て、悲しそうな苦しそうな顔をする。シェルは気にしなかった。目的がなくなってしまった旅だから、気が抜けてしまったのだろうと思った。
シェルのクラプトが近づいている。それは、二人の別れを意味するものだった。
「森がある。あそこで眠るか?」
「最初の日に眠った森だ」
「もう少しだな。あと一日で、ラグナ=シェルのクラプトだ」
赤い砂の気配は、帰り道を数日歩いただけで、跡形もなく消え去っていた。もちろんシェルのクラプトにはまったくない。しかし二人は知っていた。赤い砂は、数十日ののちには確実にシェルのクラプトに押し寄せることを。
泉で水筒を一杯にして、確かめるように前に来たときの寝床に腰をおろした。干し肉にかぶりつきながら、シェルはレセを見た。レセの赤い髪は、あの日の赤い砂を彷彿とさせる。シェルは見ながら、この先またレセと出会うことがあったら、その時もまたあの赤い砂を思い出すだろうと思った。
「四十日はかからなかったな」
行きの道程は、二十日以上かかった覚えがある。それに比べて、帰り道は十数日ほどだったのだ。
「レセス=レセがオレのクラプトに来た日から、今日でちょうど四十日だ」
「そうなのか? お前、よく覚えてるな」
「聖地に向かう日は大切な日だから覚えてる。自分で数えなきゃ、誰も数えてくれねえから」
レセのクラプトには、ほかにもたくさんの人間が住んでいる。聖地に向かう日をレセが忘れても、そのうちの誰かが覚えていてくれるだろうし、レセよりも外側のクラプトに住んでいた人間達が通過すれば、出発の日だということは否応なしに判るだろう。しかし、シェルのクラプトは一番外側にあって、その外から来る人間は誰もいないのだ。自分で覚えていなければ、聖地に行く日を誰も教えてはくれないだろう。
クラプトの外側に住む人間は、あらゆる意味で不利なのだ。聖地への出発の日は外側の人間も内側の人間も同じ。同じ日に出発すれば、内側の人間の方が早く聖地に着く。早く聖地に着けば、聖地での住む場所も一番過ごしやすい場所に決めることができるのだ。
レセは改めて、シェルの運命の過酷さを知った。いかに自分が恵まれているかも。
「ラグナ=シェルを産んだ渉と裕は第三世代の中で一番最後に生まれた。だからラグナ=シェルのクラプトも一番外側になった。だけどそれって、お前のせいじゃねえじゃんか。それなのにお前は一番最後に聖地に着くことになんだ」
「……それが、なんだ。最初がいれば最後もいる。当たり前のことだ」
「なんか悔しいじゃんか」
「レセス=レセが悔しがってどうすんだ。オレのことだろ?」
「お前のことだから悔しんだ」
シェルはまた、レセを変な奴だと思った。そして、前にもそう思ったことを思い出した。
「オレは別に悔しくねえよ。オレはそういう風に生まれたんだ。生まれたときに決まったことを悔しがってどうすんだよ」
身体が小さいこと。外側のクラプトに生まれたこと。すべては、変えることのできないことだった。確かに不利になるかもしれない。身体の小さな自分は、レセのように多くの人間に望まれないかもしれない。それでも、だからこそ、真実が見つかるのならそれでいいのだ。身体の小さなシェルを愛する人間は、真実シェルを望んだということなのだから。
それはもしかしたら、身体の恵まれなかったシェルに対して裕が与えた、唯一の希望だったのかもしれない。
「お前がもし、このままオレのクラプトに来たら……」
「卑怯者になりてえなら一人でやれ」
怒ったように、シェルはレセから背を向けて寝転がった。レセのクラプトにシェルが行けば、シェルは早く聖地に辿り着く事ができるだろう。しかし、それはほかの恵まれなかった人間達を裏切ることだ。誰もが早く聖地に辿り着きたい。その想いだけが先行すれば、やがて秩序は崩壊するだろう。
「……悪い。悪かった、ラグナ=シェル」
レセの謝罪に、振り返らずシェルは言った。
「お前は恵まれてる。恵まれてる人間に、恵まれねえ人間の気持ちは判らねえ。お前には、死んでも判らねえ」
決めつけられて、レセは反論したかった。しかし、なにも言うことができなかった。どうしてか判らない。何か言ったら、シェルを傷つけるような気がした。
「恵まれてる人間は、忘れちゃいけねえ。自分には恵まれねえ人間の気持ちはぜったい判らねえんだってこと。ぜったい、忘れたらダメだ」
シェルの背中を見ながら、レセは知った。シェルは、軽はずみなことを言える相手ではないのだということ。シェルに何かを言うときは、覚悟が必要なのだ。自分のその言葉は裏切ることができないのだという覚悟が。
レセは、シェルの隣に寝転がって、明日シェルに言うべき言葉の覚悟を決ようとしていた。
干し肉を作らないときにシェルが眠る場所に決めている木の下で、二人は並んで横になった。見慣れた太陽はほぼ真上、やや聖地寄りに輝く。これが最後であることが、シェルは不思議だった。生まれたときからずっとレセと一緒に過ごしていたような気がした。
「聖地で、長い冬を過ごして、春になったら伴侶を見つける。一対になると、どっちかの身体に悪魔が来るんだって、ブルーは言ってた。悪魔が来た方がルマになるんだって。オレ、その話聞いて、ちょっと怖かった。ラグナ=シェルは?」
太陽を見つめたまま、動かずにシェルは言った。
「オレも怖いと思った。けど、悪魔が来なけりゃ、裕はオレを産めなかった。裕は、子供を一人しか産めない第三世代だから、オレを産めたことが一番嬉しかったって、言ってた。身体に悪魔が来て苦しかったこと、オレの顔見たら全部忘れたって言ってた」
「ラグナ=シェルはルマになりたいのか?」
「ルマは耐える力が強くなるから、悪魔にも耐えられる。ルマでもガイでもどっちでもいいけど、ルマになるんだったら裕みてえに強くなりてえと思う」
シェルがルマになるのだったら、レセはガイになりたいと思った。もちろん、自分で決められることでないのは知っている。それでもレセはシェルを守れるガイになりたいと思った。
「こっからまっすぐ聖地に向かって歩くと、だいたい三日くれえでオレのクラプトがある。聖地に向かう出発の日、オレは出発しねえつもりでいる。そのまま、お前のこと待ってる」
レセの言葉に、シェルは驚いてレセを見た。レセは微笑んでいた。優しく。まるで、裕を見つめる渉のような微笑みで。
「オレは恵まれた奴が悪いって言った覚えはねえよ」
「前から考えてた事だ。オレ、ラグナ=シェルと一緒に聖地に行きてえ」
『……シェル、お前の伴侶になる人間は、本当にお前を望む。お前の身体が小さくても、そんなことは目に入らないくらい真剣に、お前のことを望む。そしてシェルはその人間を愛するようになるんだ。僕は、渉と同じ時同じ両親から産まれたけど、たとえそうじゃなかったとしても、渉のことを愛したと思う。そういう相手がシェルにもいる。ぜったい、いるから……』
裕の言葉が、生々しくシェルの心の中によみがえっていた。もうずいぶん前、渉が死んだ日の言葉だった。その時シェルは、心の絆は確かに存在すると思った。渉と裕とは、死んでも心が繋がっているのだと思った。
どうしてこんなことを思い出したのか判らなかった。レセがまるで渉のように見えたからかもしれないと思った。
「レセス=レセまで最後になることねえよ」
「最後になってもいい。ただオレは、冬の間ずっとラグナ=シェルと過ごしてえんだ。それだけだ」
レセの真剣さに、シェルはレセの覚悟を見た気がした。レセは本当に待っているような気がした。もしも待っていなかったとしても、シェルはレセを恨みに思いはしないだろうけれども。
どう答えたらいいのか判らなくて、シェルは黙って目を閉じた。
シェルの生活は、レセが来る以前とほとんど変わらなかった。眠りから覚め、干し肉や、キラエトやルギドやルミノクを捕まえて食事をし、眠る。変わっていないのに、シェルはどこか違っていた。裕が死んだときにも少しだけ感じた孤独を更に強く感じていた。
まるで夢だったようにも思えてくる。レセとともに過ごした四十日間。赤い砂を見るために二人で旅した。あの旅は、まるで幻のように掴みどころなくシェルの心に空洞を作った。
生まれたときから側にいるようだと思ったレセは、たった数日間で、嘘のように遠い。毎日が空虚で、味気なかった。何もすることがないから思い出してしまう。不意に我に返ると、またレセのことを思い出していた自分に気付く。
『シェル……って、呼んだら、ダメか?』
あのとき言おうとした。自分をそう呼べるのは、自分の伴侶だけだと。
(オレはレセス=レセの伴侶になりてえのかもしれねえ)
レセはもうとっくに自分のクラプトに辿り着いて、今頃は同じクラプトの人間達と一緒に過ごしているのだろう。何人もの人間が、レセの回りにはいるに違いない。そしてその全員をファーストネームで呼んでいるのだろう。たった四十日過ごした自分のことなど、忘れてしまっているかもしれない。
シェルのように小さな身体ではない、レセのルマになって身体の大きな子供を産める人間だっているかもしれないのだ。
(レセス=レセはダメだ。オレの伴侶になんかならねえ)
身体に飛び散った赤い血を舐めながら、伴侶といるようだと言った。赤い風に吹かれて震えた身体を、後ろから強く抱き締めた。触れた身体は暖かくて、一人ではないことを知った。思い出すと熱くなる。あのとき、レセも同じことを言ったのだ。
自分の気持ちが、レセをたった一人の伴侶として求めてのものなのか、そうでないのか、シェルは知りたいと思った。本当は出会うことのなかった二人だった。春になる前に、もしも伴侶と出会ったのならば、やはり人間はそれと見分けることができるのだろうか。
すべての判らないことを知りたいと思った。あのとき、赤い砂と低い太陽を求めたと同じように。
(もう一度見れば、たぶん判る)
レセに作ってもらった水筒と、カザムの干し肉を身体にくくりつけて。
何かを振り切るようにシェルは、まだ行くべきではないはずの風下の聖地へと歩き始めたのである。