冬のまほろば


 第3話 赤い砂の想い
 
 

 風上に、はぐれカザムを見つけた。
 なにも言わず、二人は互いの目を見て確認した。これが最後のカザムだ。逃したら、もうこの先にカザムはいない。
 先に飛び出したのはシェルだった。大きく右へ回ったので、レセは左から追い詰めるように走る。シェルに気付いたカザムはレセが待つ左に走りはじめた。そしてレセに気付き、反転して風上を目指した。
 うしろからレセが追いついて足を薙ぐ。前に回り込んだシェルが首筋にチェルクを立てる。レセが暴れるカザムの角を羽交い絞めにすると、シェルは咽喉にチェルクを突き立ててとどめを刺した。二人の咽喉からほぼ同時に溜息が漏れた。最後のカザムは、二人の連携の前に最後の食料になったのだ。
 カザムは、ほとんどの場合群れで行動する。その群れからはなれて行動するカザムをはぐれカザムというが、はぐれカザムは二種類いた。年老いて、群れで行動することができなくなったものと、成人して生まれた群れから離れ、新しい別の群れを探し歩く雄だ。今回二人が倒したのは、若い雄のカザムだった。
 シェルは手際よくカザムの毛皮を剥いで、腹を切り開いた。熱い血の滴る内臓を掴み出して噛みつく。口の中一杯に美味なる感触が広がった。夢中になって、シェルはカザムの内臓をむさぼり尽くした。
 ぬらぬらとねばつく赤い血液。滴り落ちてシェルの白い肌を染める。レセは、ただ黙って、シェルの食事を見つめていた。よく動く舌が滴り落ちようとする血と内臓液を舐め取り飲み込んでゆく。その瞳は恍惚をたたえ、生きている喜びに満ち残酷なまでに熱く冷たかった。
 まるで、シェルではない別の生き物。
 人間ですらもないように、レセには思えた。
「ラグナ……シェル……」
 内臓のすべてを飲み込んで指を舐めはじめたシェルに、レセはつぶやき近づいた。むせかえる血の匂いにおかしくなる。驚き見つめたシェルの唇に近づいて、舌を触れた。舌先の血の甘さは、レセをいざなった。飲み込まれた内臓が去った口の奥へと。
 避けようとして、シェルは支えていた手を滑らせ後ろに倒れ込んだ。同時に、レセはシェルの口内の味を感じて唇を離れていた。
「まじい……やっぱ」
「お前、何やってんだよ」
「なんか、すごくて。お前の喰い方」
「……ほかにどうやって喰えってんだ」
 シェルの口の回りに飛び散った血液をきれいに舐め取った。そのまま、滴り落ちた胸の方へと移動する。血の味は、馴れた生肉と同じ味。なのに少し変だった。身体が熱くなって、心臓の動きが大きくなった。
「血が飲みてえならなにもオレの身体舐めることねえだろ。そっちのカザム喰えばいいじゃんか」
「お前の身体、きれいんなる」
「拭きゃいんだ。おんなじだろ?」
「水は貴重品だ……」
 胸から腹部。どろりと流れ落ちて、追い掛けるように舌を動かした。ぴくっとシェルの腹部が引っ込む。吐息が漏れて、レセは顔を上げてシェルを見た。
「……くすぐってえんだ」
「なんか、伴侶といるみてえ」
「オレ、お前の伴侶じゃねえよ」
「……判ってる、そんなこと」
 ただ、シェルの小さな身体がきれいで、触れているだけで身体が熱くなる気がした。ブルーといるときのファイアは、とても優しい顔をしていた。同じ顔だと思った。今、レセは、ファイアと同じ顔をしていると思った。
「シェル……」
 呼ばれて、シェルの心臓が大きく音を立てた。
「……って、呼んだら、ダメか?」
 レセはシェルの腹部に顔を埋めたままだった。シェルは、レセにそう呼ばれることを嫌いではない自分に気付いた。
「オレのこと、そう呼べる奴は……」
「もしも、オレ、お前の……」
 お前の伴侶になったら。
 レセは言おうとした。しかし、禁忌がレセを押しとどめた。この時期、まだ冬が訪れる前に、人間は伴侶を持たない。伴侶を持って一対になるのは、春になってからだ。
「レセス=レセ、オレはお前の伴侶じゃねえ」
 シェルの言葉は正しい。それなのに、レセの胸は痛くなった。
「春になったら、お前はお前の伴侶に出会う。オレはオレの伴侶に出会う。裕は言ってた。春になって、オレがその人間と出会えば、オレにはすぐにその人間が伴侶だって判るはずだって。姿が違っても、育った場所が違っても、心の中で呼び合う何かがあるはずだって。その時は、その人間の方も同じ想いを持ってる。同じ想いで呼び合うことができるんだ」
 オレはレセス=レセを呼んでいない。そうシェルに言われているようだと、レセは思った。
 身体の大きな人間は、生きる確率が高い。その人間と子供を作ることができれば、その子供も生きる確率は高いだろう。身体の大きなレセは、きっとたくさんの人間に望まれると、シェルは思った。そして生きる確率の低い身体の小さなシェルのことを、レセは望まないだろうと思った。渉や裕よりも大きくなれなかったシェルは、裕に言われた。身体の小さなシェルを望むのは、本当に心が呼んだ、その人間ただ一人だろうと。
「レセス=レセ、カザムが冷える」
 食べるのなら温かいうちの方がおいしい。レセも身体を起こした。シェルとは顔を合わせずに。
「そうだな」
「オレはカザムノ作ってる。喰い終わったら、干し肉の方作ってくれ。こっちが終わったらオレも干し肉作る」
「……判った」
 本当に心が呼び合うならば、シェルの心を呼んで欲しいと、レセは思った。それとも、春になったらシェルは呼んでくれるだろうか。レセのことを、たった一人の伴侶として。
 レセは、自分の心は春になったとき、必ずシェルのことを呼ぶだろうと思った。

 最後のカザムを狩った場所から五日歩いた場所が、二人の旅の折り返し点だった。たとえあと少しで赤い砂の砂漠に辿り着くと思っても、それ以上先に進むことはしない。二人は互いに確認しあった。生き延びることを最優先に考えての選択だった。
 雨はまだ時々降った。二人にとって幸運だったことに、そこから先森と呼べるほど木の密集した場所はもうほとんどなくなってしまったが、ゴツゴツした岩肌が多く見られるようになったのだ。土のようには岩は雨水を吸わなかったから、岩陰などに雨水がたまっていて、二人の貴重な水になった。水たまりを見つけるたびに、二人は水筒に雨水を移し、残りの水を舐め取った。
 鉱物を多く含む岩は黒っぽく、あたりの風景はますます荒寥としたイメージを増大させる。獣の姿はなかったから、二人はもう交代で眠ることはせず、できるだけ急ぐように岩のクラプトを抜けていった。そんな旅が四日間も続いたときだった。それまで時々見ることのできた倒れた樹木を覆うように、赤い砂がうっすらと見えたのだ。
「……赤い砂」
「砂の気配だ」
 砂の厚みは、歩けば歩くほどより厚くなっていくようだった。二人はそれまでよりも更に精力的に歩いた。向かい風に乗って、足元を砂が少しずつ移動してゆく。それまで砂の上を歩いたことのなかった二人にとって、砂のクラプトは不思議な感触で歩きづらかったが、それでも精一杯、速く。
 クラプトを覆う赤い砂がその厚みを増していくと、岩のおうとつはしだいに滑らかさを増していった。林の木々も、その足元は砂に埋もれ始めていた。更に進むと、砂の上に奇妙な縞模様が見えた。風にあおられて崩れ、丘陵を形作っていった。
 やわらかい、細かい粒の赤い砂。砂煙になって舞い上がる。立ち止まれば、すぐに足首まで埋まってしまいそうだった。歩いた。風上に、向かい風に向かって。
「ラグナ=シェル……空、色が違う」
 レセの声で、シェルは顔を上げた。その時、初めて気付いた。風の色。
「……赤い風だ」
「……そっか! 風が赤いから、空が赤い」
「すげえ……」
 赤い砂が、風に乗ってやって来る。砂の赤さが風の赤になる。その赤い風を通して見る風景は、何もかもが赤みがかって見えるのだ。遠くの林も、空も、そして、太陽でさえも。
「もっと先に行こう」
「ああ」
 向かい風の向こうに見えた林は、近づいてみると、足元のほとんどは砂に埋もれていた。すっかり葉を落とし、立枯れているようにさえ見える。しかし、赤い風にゆられ、ゆらめきながらも、林の木は最後の抵抗をしていた。風上からどんどん砂が押し寄せて来る。それでも倒れなかった。砂の重みに、枝をたわませ、それでもなお。
 二人はその場に立ちつくして、しばらくの間、林と砂の戦いを見ていた。砂の海は、ほんの少しずつ、でも確実に、林の木々を飲み込んでゆく。風にゆられ、木々は砂を払い落とそうと喘いでいる。しかしいくら払い落としても、同じ風が次から次へと小さな砂粒を運んで、その小さな砂粒は、たくさん集まることで木々を徐々に埋めてゆく。小さな、本当に小さな砂粒が、一秒ごとに勝利をおさめてゆく。それは意志。何物をも残さず喰らい尽くそうとする、小さな砂の大きな意志に見えた。
 クラプトは砂に覆われる。シェルは初めて、その意味を実感していた。広大な、シェルの想像を越えるほどの広大なクラプトは、今すべて砂に覆われようとしているのだ。
(オレは、小さい。この大きな砂の海に比べたら。……砂の一粒は、オレなんかより遥かに小さいのに)
 シェルは自分では判らずに、身震いをした。そんなシェルを見て、レセはうしろから、シェルを囲むように抱き締めた。
「レセス=レセ?」
「お前、寒いだろ。だから」
「……さんきゅ」
 気温は、今まで感じなかった分、より急激に冷え始めていた。身体を動かさずに立ち止まっていたからだった。レセが触れていると、暖かいと思う。ぴったりと肌を寄せて、レセの大きな身体に包まれると、心の中から温まるような気がした。
「レセス=レセ、このままここに立ってたら、オレも砂に飲み込まれるかな」
 すでに砂はふくらはぎのあたりまで二人を埋めている。
「ああ、たぶん」
「だけど、渉と裕はこの砂漠を越えてきたんだ。この砂漠で生まれて、この砂漠で育って、砂漠を越えてきた。たった二人きりでこんな大きな砂の海を越えてきたんだ。……どんな気持ちだったんだろ。怖く、なかったんかな」
 レセは更にシェルを抱き締めた。強く。
「ラグナ=シェル、お前、怖いか?」
「……怖い気がする。砂は、すべてを飲み込む。何も選ばねえで飲み込んじまう」
「オレも、怖い。けど、きれいだと思う」
「オレも。きれいだと思う」
「ラグナ=シェル、オレ、お前ときてよかった。お前は?」
 シェルは、背後にいるレセを振り仰いだ。レセは今、シェルを見つめていた。
「オレも、きてよかったと思ってる。ここに来たから、砂に飲み込まれるクラプトのきれいなことが判った。オレのクラプトにいたら絶対判らなかった」
 レセは、シェルはこの赤い砂漠と同じくらいきれいだと思った。怖いくらいにきれいで、強い。シェルは今、レセを見つめていた。その瞳が、砂漠のように冷たくきれいだった。
「身体が……熱い」
「レセス=レセ? 寒いの間違いだろ?」
「間違いじゃねえ。熱い」
「だったら、戻ろう」
 シェルがレセの腕を振り解こうと力を入れた。きっと、赤い色は人間をおかしくさせる。赤い砂も、レセの赤い髪も。シェルの身体に滴るカザムの赤い血も。
 もっと触れていたかった。シェルの身体に。
「この先は、たぶん人間が踏み入るべき世界じゃねえ。レセス=レセ、戻ろう」
「……ああ。判った、ラグナ=シェル」
 赤い砂には、想いがある。かつて第三世代の踏んだ砂には、彼らの想いがしみこんでいる。旅をし、悪魔を迎え、ガイはルマを愛し、ルマはガイを愛した。強い想いは砂に乗って、やがて第四世代の二人のもとへもやってくる。
 シェルの言う通りだ。ここは、まだ人間が足を踏み入れてはいけない場所。
 赤い砂の想いは、二人の心に焼き付いて、けっして消えることはなかった。
 
 

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