第2話 砂漠への旅
レセはシェルのために、チェルクで木を削って水筒を作った。シェルはカザムノを切り裂いて、移動用の袋を二つ作って出来上がったばかりの干し肉を半分ずつ包んだ。その一つをレセに渡す。水筒のお礼だと言うと、レセは笑顔でさんきゅーと言った。
それから数日間を、レセとシェルはただ歩くことだけで過ごした。森があれば二人は同時に眠った。ないときはシェルが眠り、起きてからレセが眠った。狩はしないで、干し肉だけを食べて過ごした。
水筒と干し肉の袋と、別にカザムノを何枚か入れた袋とを身体に縛り付けると、出発の準備は整った。シェルは初めてだった。初めて、生まれ育ったクラプトから外に出るのだ。
「オレは風下の聖地に向かって移動するんだと思ってた」
初めて生まれた土地を離れることへの恐れ。シェルのその気持ちは自分のクラプトを出発した時のレセと同じだった。
「お前の渉と裕が通ってきた道だ。ラグナ=シェルは行ける」
「当たり前だ」
答えを聞いて、レセはシェルを意地っ張りだと思った。だけど思っただけで、その言葉をそっと胸の中にしまった。
森の中から、所どころ木々のはえる草原に出て、二人は並んで歩いていった。まだシェルのクラプトで、リグの群れが遠巻きにしている。しばらく歩いて、シェルは不意に足を止めた。レセも振り返った。
「どうした? ラグナ=シェル」
「オレのクラプト、ここまでだ。気をつけろよ」
「ああ」
レセは軽く返して再び歩き始めた。シェルが一旦足を止めたのは、自分のクラプトを出る事に対する単純な恐れなのだと思った。しかし、それまでさまざまな人間達のクラプトを通過してきただけのレセは、人間のクラプトでない場所がどういうところなのか知らなかった。しばらく歩き、やがてリグの群れの近くに来た時、気付いた見張りのリグが仲間達に合図して二人は群れの全部のリグにいきなり唸られ始めたのである。
「……なんだ? オレ達を喰いてえのか?」
「バカ。リグが狩すんのにこの距離で唸る訳ねえだろ。オレ達が奴らの縄張に入ったから威嚇してんだ。動き、よく見て、距離保ったままゆっくり歩くんだ」
「……判った」
互いに威嚇しあいながら、しだいに距離を遠ざけてゆく。最後にリグが一頭駆けてきて脅しをかけるおまけ付きだった。そうして、完全にリグの姿が見えなくなると、レセはほっと息を吐いた。
「驚いた。このへんのリグってみんなあんなか」
「言ったろ。オレのクラプトはもう終わってんだ。このあたりのリグは人間がいることに慣れてねえ。リグだけじゃねえ。マトナも、ルミノクもだ」
「そっか。もう人間のクラプトじゃねえんだ」
人間とリグとは、肉食という意味でほぼ同等の位置にいた。しかしリグは人間を喰うこともあるし、逆もある。この先、もっと寒い場所で獲物が少なくなれば、シェルやレセもリグの狩の対象になることがあるかもしれない。レセはやっと、シェルがなぜ気をつけろと言ったのか実感することができた。
途中、食事のために休憩して、更に歩いた。振り返って見上げても太陽の位置は変わらない。遠くまで来たような気がしたけれど、まだ一日遠ざかっただけなのだ。風景も、シェルが過ごしてきたクラプトと、ほとんど変わらなかった。
森の中に入って、水場を見つけて水筒に補給した。そろそろ、二人の眠る時間が訪れていた。
「キラエト、狩るか? ラグナ=シェル」
まだ先は長い。干し肉は減らさない方がよいかもしれないと、レセは思った。
「どっちみちこの干し肉じゃ帰りまではもたねえ。これから何度かカザムは狩らなけりゃならねえから、干し肉喰った方がいいと思う」
人間よりも暖かい毛皮を持つカザムは、寒い場所でも生きられるから、かなり先に行っても分布しているはずなのだ。それに、気温によってはカザムノで身体を覆わなければならない事態になるかもしれない。それには今シェルが持っているカザムノだけでは足りなかった。
眠る場所に決めた木の下で、二人は干し肉を食べ始めた。しかし、本来話好きであるレセは、少し元気がなかった。しばらくはもくもくと食べ続ける。食べ続けて、やがて、ぽつりと言った。
「オレ、なんかとんでもねえことにラグナ=シェル巻き込んだんだな」
シェルの領地までのレセの旅と、今日の旅とでは、リグの反応が違った。たったそれだけのことだったが、レセはかなり打ちのめされたのだ。その上その事実をきっかけに、思考が悪い方へと向かったこともある。縄張意識を主張するリグやマトナの住む場所では、今までと同じようにのんびり眠ることなどできないのではないだろうか。
しかし、レセが楽観視していたようには、シェルは楽観的ではなかった。シェルにはリグの反応も何もかも覚悟できていたのである。
「巻き込まれたとは思ってねえけど」
「……オレ、今考えてた。これからここで眠るつもりだけど、二人で一緒に眠るのって、危険かもしれねえ。今日は大丈夫かもしれねえけど、森が見つからなけりゃ草原の、何も隠すものがねえ場所で眠ることになる。そしたらリグやマトナに喰い殺されるかもしれねえ。殺されたくなけりゃ、交代で眠るしかねえよな。交代で眠ったら、一日で歩ける距離は半分になって、三十日で行けるとこ、六十日かかるんだ。……オレ、そんな長くて危険な旅に、お前のことつれてきちまったんだ」
「……別に六十日かかっても平気だ。そのくらいなら砂漠はこねえ」
「お前……判ってたのか?」
「誰でも判る」
レセは恥ずかしさに顔を赤らめてうつむいた。出発の前も、シェルのクラプトに辿り着くまでも、何人もの人間が無茶だと止めた。それなのにレセは笑って自分を押し通した。現実を軽く受けとめて。
「あんな強引にお前のこと誘わなきゃよかった」
「なんでしでかしたことだけ考えんだ。少しはこれからどうするか考えろよ」
「……ラグナ=シェル」
「レセス=レセはオレを連れて来てよかったんだ。お前みてえに警戒なしで眠る奴、一人で旅なんかできねえ」
むしろシェルは思っていたのだ。レセは実は眠るときの交代要因として自分を誘ったのだろうと。
それはどうやら買い被りであったらしい。
「……ファイアとブルーは交代で眠って砂漠を越えたんだ。渉と裕もそうか?」
「そう聞いてる」
「二人は同じ時に同じ両親から産まれて、そっくりな顔をしてた。旅の途中にブルーがルマに変わった。第一世代から第三世代までは伴侶は二人で産まれるのに、第四世代だけ、一人で産まれる。だからオレ達第四世代は自分で伴侶を見つけなけりゃならねえんだ。聖地で冬を越して、春になってから、オレもお前も自分の伴侶を見つける。そういうこと考えるとわくわくする。オレの伴侶は、今もうどこかで産まれて、オレと出会うの待ってるんだと思うと」
「お前が考えることって、過ぎたこととそんなずっと先のことだけなのかよ。今どうするのか決めねえのか? お前が決めねえなら、オレ、もう眠るぜ。一緒に眠るのか交代で眠るのか、オレが眠ったあと勝手に決めてくれ」
そのまま、シェルはもうレセなど見もせずに眠る態勢に入ってしまう。レセの方は、いつの間にか立場が逆転してしまっていることを知って微笑んだ。最初、自分を軽い敵視で見ていたように思ったシェルは、今はもうレセを恐れていないのだ。
二人で旅をしたファイアとブルー。その足跡を辿るような気がした。愛し合い、絆を深めた二人の旅を。
森は少しずつ、少なくなっていった。まだ目に見えるほどではなかったけれど、少しずつ、確実に。
「ラグナ=シェル……」
「シッ!」
遠くにルミノクの姿が見えた。弱々しくさまよっている。声を落としたが、必要はなかった。ルミノクには死期が迫っているのだ。
「弱った生き物は食ってやるのが情けだ、レセス=レセ」
「そうだな」
シェルはルミノクに近づいていった。近くで見ると、毛並みには艶がなく年老いているのが判る。寒さに強くない世代のルミノクだった。
レセが追いつくと、シェルはルミノクにとどめを刺したあとだった。
「なんでこんなルミノクが生きてたんだろ」
ルミノクであれカザムであれ、今生きているのはすべて寒さに強い世代のもの達だけだ。特にカザムが判りやすい。今生きているカザムは、すべて毛色が純白の寒さに強いもの達だけなのだ。以前シェルが倒した老カザムでさえ。
シェルはレセの問いには答えず、別のことを言った。
「内臓はとどめ刺した奴の権利にしよう。これからも」
思えばこれが初めての狩なのだ。
「わりい。オレ、内臓嫌い」
「……嫌い? 食いもんだぞ?」
「内臓の権利はお前にやる。オレがとどめ刺しても」
食べ物に嫌いなものがあるなど、シェルには信じられなかった。内臓を食べなければ食べられるところが一食分減るのだ。シェルのクラプトでは、その一食が生死を分ける危険性は十分あったのだから。
レセのクラプトはよほど恵まれていたのだろう。
「林が見えるな。あそこで喰おう」
そろそろ眠る時間が近い。林は森ほど安全ではなかったけれど、草原よりは多少マシだった。この数日歩き続けて、だいぶ肉食獣の数も減っている。それでなければこんなに弱ったルミノクに出会うこともなかっただろう。
林には雨水がたまった水たまりがあった。水も、森の減少とともに減っている。これから先はもっと水に苦労することになるだろう。
「ちゃちい林だな」
「雨は降るらしいけどな」
「焼くか?」
「生で十分」
火は起こさずに、シェルは内臓の権利もあって座るとまずチェルクでルミノクの腹部を切り開いた。無造作に内臓を掴み出して口へ運ぶ。ピチャピチャと独特の音をさせて喰らいついた。やや色の薄いルミノクの血にまみれて、シェルの顔と手はきれいな赤に染まった。
内臓を食い尽くすと、抜け殻になったルミノクをレセに手渡した。指先についた血を丁寧に舐め取る。そのしぐさはレセに、無関心さを装うルミノクを連想させた。
「うまいか?」
「極上じゃあねえかな。年寄だし」
「そんなもん喰うラグナ=シェルの気が知れねえ」
「こんなうまいもん喰わねえレセス=レセの方がどうかしてる」
レセはルミノクの皮を剥ぎ、適当な大きさに切り分けて噛みついた。シェルも自分の食べやすい大きさの肉辺を掴んで噛み千切った。しばらくは食べることに没頭したが、あらかた腹の落ち着いたところで、レセは言った。
「まだ砂の気配はねえな。水は減ってるけど」
「カザムも減ってる。この先、カザムがいねえときついぜ」
「リグが減ったのは嬉しいけどな」
必要なのは、食料と水だ。レセが作った水筒はほぼ三日分の水しか蓄えられない。カザムの干し肉も持ち歩けるのは十日分ほどだ。赤い砂の砂漠までの距離が判らないから、いつカザムを狩ればいいのかもよく判らない。タイミングを間違えて赤い砂の砂漠に辿り着いたときちょうど蓄えがなくなるようでは、帰り道食料がある場所まで辿り着く前に餓死するだろう。
「半分は来たかな」
「かもな」
「あとどれくらいで着くだろ」
「レセス=レセ、お前、せっかちだ」
「だって、急がねえと」
「急がなくたって平気だ。あと百日経ったってまだオレのクラプトに砂はこねえ。いくらのんびり歩いても百日はかからねえだろ?」
シェルは、レセが焦る理由が判らなかった。人間の歩く速さは、砂がクラプトを飲み込む速さよりも速い。たとえば、この場所でのんびり待って、砂が来たのを見届けてから戻っても、十分間に合うのだ。もちろんあまりクラプトに近いところで待っては移動の日に遅れてしまうけれど、この場所ならば、ほんの少し遅れるだけですむのだ。
「だって……ラグナ=シェルを誘ったの、オレだし。お前が移動の日に遅れたら、オレにだって責任あんだ」
そのレセの言葉は、シェルを驚かせてあまりあるものだった。
「なんでオレが遅れたらレセス=レセの責任になんだよ」
シェルの言葉にレセの方も驚いていた。
「だってよ。オレが誘わなきゃ、お前は旅に出ることなんかなかったんだ」
「そうだけど、だからってオレの行動がお前の責任になるはずなんかねえだろ」
「オレが誘ったから」
「決めたのはオレだ。オレが赤い砂を見に行こうって思ったんだ。オレがそう思ったのがお前の責任なのか?」
「違うのか?」
「オレは自分の心の中までお前に責任取ってもらう気はねえよ。たとえばこの旅でオレが死んでも、それはオレの責任であってお前の責任じゃねえ。オレが油断してたのが悪いんだ」
これだけはっきりシェルに否定されると、レセはそれ以上の言葉を持てなかった。レセの感覚は、たくさんの人間が暮らすクラプトで助け合いながら生きてきて、自然に身についたものだった。たった一人のクラプトで孤独に暮らしてきたシェルには、そういう感覚は育たなかったのだ。
「だからオレはこれから先自分が生き延びることを考えて行動する。そのためには何日か歩かねえこともあるかもしれねえ。遅れねえで行くことより生き延びることだ。焦ってろくに考えねえで先急ぐんなら一人でやれ」
シェルは冷たいような気がレセはした。だけど、言葉の一つ一つはけっして間違いではなかった。レセは今まで人のことを考える余裕のあるクラプトで育ってきたけれど、ここはそういう場所ではないのだ。他人の責任は取れない。それは裏を返せば、自分の責任は自分しか取る者がいないということなのだ。
レセは、もうシェルのことを自分の責任だと思うのはやめようと思った。そしてそのかわり、自分に対する責任を、シェルに押しつけないようにすると誓った。
「……最後のカザム、干し肉にして行こう。もしも行きつかねえうちに干し肉が半分になったら、引き返す。悔しいけど」
「やっと少しだけマシな奴になったな、レセス=レセ」
その時、シェルが初めて笑顔を見せた。唇の端をほんの少し上げただけだったけれど、レセは忘れないと思った。笑うことのなかったシェルの笑顔は、ほかの誰の笑顔よりもずっと貴重で、嬉しかった。
その日、シェルの隣で、レセはなかなか眠ることができなかった。