第1話 ラグナ=シェル
獲物はいつも、風上からやってくる。
残りの獲物を、シェルは森の中で小さく切り裂いた。森がそこだけ途切れるところ、巨大な岩の上に運んで、日の光に当てる。天日は生の肉を干し肉に変える。きちんと干せば、しばらく狩をすることはないのだ。
「……ファイアとブルーは砂漠を越えて来たんだ。オレが住んでるのはもっと風下の聖地に近いあたりで、ラグナ=シェルのクラプトよりも獣や木の実が多い。だから一人あたりのクラプトも小さくて、回りにはたくさんの人間も住んでるんだ。ファイアとブルーは第三世代の中でも一番最初に生まれた。ラグナ=シェル、渉と裕は第三世代では最後に生まれたのか?」
いつもの浅い眠りから覚め、同じ岩の上に同じように眠り続けるレセを一瞥して、シェルは身体を起こした。シェルの気配にレセも目覚めるかと思ったが、レセは目を覚まさなかった。干し肉の全てを一枚一枚丁寧に裏返しても、レセは目覚めなかった。
はぐれ老カザム。群れの中で、群れの一員として役目を終えたもの。彼らは人間の貴重な食料となった。老いて死んだ人間達が、マトナやリグの貴重な食料となるように。
風下の草むらに姿を隠す。気配を消す。もう少し。もう少し。
老カザムの注意がほんの一瞬それたその瞬間……
息を詰めて、シェルは飛び出した。裸足の足に直接草原を踏みしだいて。老カザムは反転したが遅い。それでも最後の足掻きのように逃げ、命の尽きるその時まで、戦うことを止めない。シェルも油断などしなかった。命がけで戦うことが、老いた生き物への最期の餞であるから。
チェルクが老カザムの首を掻き切る。血柱が吹き上がるけれど、老カザムは足掻きを止めることはない。足を折る。どうと倒れる。咽喉を切り裂く。痙攣は止まない。巨体を裏返して心臓にチェルクを突き立てる。返り血は、シェルを鬼神のように変えた。
「はーっ……」
深い溜息が、狩の終わりを告げるように風に紛れた。今回のこの戦いにおいては、シェルは勝利をおさめることができたのだ。
(でけえな。これだけありゃ、二十日は食えるか)
まだ温もりの残る獲物を切り裂き始めた。毛皮に切り目を入れて、皮を全てきれいに剥いでしまう。血まみれの毛皮を少し遠くに向かって放り投げて、腹部を裂いて内臓を取り出す。滴り落ちる血液は気にせずに噛みついた。甘く、しょっぱい、生の内臓の味。
滴る血液は剥き出しの胸や腹部を緋色に染めた。頬の回りも、まだ細く華奢な腕も。唇も、時々顔を出す舌先も赤い。血液は首筋を流れ、とどめを刺したとき飛び散った血液と紛れてどちらか判らなくなった。
おこぼれを期待してかルミノクがどこからか現われる。血の匂いを嗅ぎ付けて、リグの群れが遠巻きにしている。しかし、手を出すことはない。このクラプトでは、シェルが王者なのだ。
内臓を喰らい尽くして、シェルは満足した。しかしシェルはその獲物を手放さなかった。悠々と立ち上がり、獲物の前足を掴んで引きずるように歩き始める。先程放り投げた獲物の皮も残さない。リグの群れも、ルミノクも、土の中から顔を出しかけたルギドも、それを見送ることしかできなかった。
シェルと獲物は、間もなく森の中へと姿を消した。
近くの、涌き水が溢れて川を作っている場所で、シェルは身体を洗った。そのまま再び岩の上に登り、獲物の肉と一緒に寝転がる。水滴を乾かしながら、疲れた身体を休める。狩のあとの寝床は、干し肉を見張れるこの場所だった。
そうして、しばらく眠ったときだった。不意に、シェルは気配を感じて目を開けた。
(風下?)
大きな獣の気配。しかし、風下から獣が来ることはない。
気配を消すようにシェルは岩の上から覗き込んだ。風下の獣はすでにシェルに気付いていた。気付いていて、笑った。シェルは驚いて目を丸くした。
(人間!)
「ここはお前のクラプトか?」
赤い髪を持った人間だった。シェルよりふた回りは大きい身体をしている。風下から来たことは間違いない。人間は確かに太陽を背にしているのだ。
シェルが生まれる秋から、シェルが死ぬべき春の始めのこの時期に、人間は風下から風上に移動することはない。それに、今はまだ移動の時期ではない。もっと寒くなってから、獣も人間も風上から風下に向かって移動するのだ。
赤い髪の人間は、シェルが生まれて初めて目にした、父と母以外の人間だった。
「そうだ。オレのクラプトだ」
答えを待っていたかのように、再び赤い髪の人間はシェルに笑いかけた。
「オレはレセス=レセ。ファイアとブルーの子。お前は?」
「……ラグナ=シェル。渉と裕の子」
「ラグナ=シェル、そこへ行ってもいいか?」
身体が大きい人間。身体が大きいということは、力が強く、生きる確率が高いということだった。もしもこのクラプトをこの人間に奪われたら、シェルは生きる術をなくすだろう。しかし、生きる資格があるのは、身体が大きい人間の方なのだ。追い出され、生きる術をなくしたら、身体の小さな人間は死ななければならない。
干し肉を奪われたとしても、仕方がない。
「好きなようにしろ。逆らわねえ」
「おお!」
足場を見つけて、レセス=レセは岩を登ってきた。敷き詰められた干し肉を見て驚く。しかし、その干し肉を上手に寄せて、自分の居場所を作ると座り込んだ。シェルが思ったようには、レセス=レセはシェルの干し肉を奪わなかった。
たまたま満腹だったのかもしれない。
「ラグナ=シェル、今はお前の眠る時間か?」
寝転がったままのシェルを見て、レセス=レセは言った。生き物は、好きな時間に勝手に眠る。シェルが眠くなったときが、シェルの眠る時間だった。
「そうだ。オレはさっき狩をした。だから今はねみいんだ」
「そっか。そんじゃ寝た方がいいな。だけどちょっと教えてくれ。オレ、さっきそこで泉見つけたんだ。あれもラグナ=シェルのクラプトか?」
「そうだ」
「オレ、のど乾いてんだ。水もらってもいいかな」
シェルは不思議に思ってレセス=レセを見た。この人間はシェルのクラプトを奪いに来たのではないのだろうか。
「別にかまわねえよ」
「さんきゅー。そんじゃ、ちょっと行ってくら」
岩を駆け下りて、レセス=レセは先程シェルが身体を洗った泉のところへ行く。そこで水を飲み、持っていた水筒を満たした。再び岩の上に駆け上がってくる。今度はもう少し干し肉を寄せて、大きく場所をあけてシェルと同じ方向で寝転がっていた。
「飯、喰ってもいいか?」
今度こそシェルの干し肉を喰うつもりだろう。
「ああ」
しかし、レセス=レセは自分が持ってきた干し肉を取り出して、シェルの干し肉には目もくれずに食べ始めたのだ。おかしな奴だと思った。目の前にはこんなにたくさんの干し肉があるというのに。
「レセス=レセ」
「あ、オレのこと、レセでいいぜ」
「お前、なんでオレの干し肉食べねえ」
今度はレセの方が面食らったようにシェルを見た。
「なんでラグナ=シェルの干し肉喰わなきゃなんねんだ? 自分で持ってんのに」
「だってお前、オレのクラプト奪いにきたんだろ?」
「……なんでだ? オレ、ラグナ=シェルのクラプトが欲しくて来た訳じゃねえよ。世界の果てを見に来たんだ」
世界の果て? そんなもの、なぜ見に行かなければならないのだろう。第四世代は旅をしない世代。冬の寒さに凍てついた世界の果てなど、なんの意味もないというのに。
「誤解させちまったみたいだな。オレが旅に出た理由、ラグナ=シェルに話してやるよ」
そうして、シェルは、レセの不思議な話を聞くことになったのだ。
「……そうだ。だからオレのクラプトは聖地から一番遠いんだ。オレのクラプトより風上には誰のクラプトもねえ」
「そっか。そんじゃ、こっから先はけっこう大変だな。ま、それはともかく、オレ、ファイアとブルーの話聞いて、砂漠の赤い砂と赤い風、見てみたくなった」
あくびを噛み殺しながら、シェルはまたレセを変な奴だと思った。シェルも渉と裕から砂漠の話は聞いている。どこまでも続く赤い砂のクラプトで、渉と裕は育ったのだと。その砂漠を二人は旅してきた。長い時間を旅して、二人は愛し合った。旅の途中で裕の身体がルマに変化して、辿り着いたこの地でシェルを産んだのだ。
水さえ満足にない砂漠。砂漠に比べれば、シェルの痩せたクラプトも天国だった。レセのクラプトはそれより更にすばらしい世界だった。
「レセス=レセ、追い風に乗って砂漠はどんどん広がってるんだ。そのうちここも砂に飲み込まれる。しばらくすりゃ、レセス=レセのクラプトも赤い砂のクラプトだ。それまで待ってりゃいいじゃんか」
「オレのことはレセでいいって。……やっぱ、見に行くのと来るの待ってるのとじゃ違うだろ? オレ、自分の足で旅して、赤い砂を踏みしめてえんだ。ファイアとブルーが歩いた砂漠、オレも歩きてえ。二人がそこでどうやって愛し合って、オレを産んだのか、確かめてみてえんだ。……二人とも、死んだし」
第三世代は旅をする世代。旅をして、寒さに強い第四世代を産んで、育てたあとに死ぬ。それはファイアとブルーでも、渉と裕でも同じだ。第四世代であるシェルには何でもないこの気候は、第三世代には寒すぎるのだから。
「レセス=レセの話は判った。要するに、お前はすぐにオレのクラプトを通り過ぎるんだな。それなら別にかまわねえよ」
「レセでいい。だからお前のこと、シェルって呼ばせてくれ」
「いやだ。オレをそう呼べるのは渉と裕だけだ」
「だけど渉と裕だってもう死んだんだ」
「オレの眠る時間をじゃますんなら岩から下りろ」
レセは岩から下りることはしなかった。シェルの眠る時間をじゃましないようにおとなしくなる。目を閉じたシェルを見つめながら、レセは思った。シェルの笑った顔が見てみたいと。
レセがそれまで出会った誰よりも身体の小さなシェルは、レセにとっても、まったく未知の生物だったのである。
干しておいた老カザムの毛皮を川の水で洗い、鞣してカザムノを作った。カザムノの作り方は裕に習った。今は干し肉を包んでおくために使う。
老カザムの残った骨をカザムノに包んで、草原まで行く。そこでシェルは骨を草原に捨てた。シェルが去れば、骨にわずかに残った肉を求めて、ルミノクやルギドが骨に群がるだろう。互いに触れ合わないように、捨てるときも少し間隔を開けなければならなかった。
作業を終えて岩の上に戻ると、レセが目を覚ましていた。
「おはよう、ラグナ=シェル」
久し振りに聞く言葉。渉と裕が生きていたときは、目覚めると必ず聞いた言葉だった。
「……おはよう」
「よく寝た。なあ、ラグナ=シェル、顔洗ってもいいか? 泉で」
「好きにしろよ」
「さんきゅー」
面倒な奴だと思った。シェルのクラプトには、水場は割に多いのだ。別に水の少しくらいでいちいち礼を言われても煩わしいだけだ。
シェルの方は、並べてある干し肉を何枚か選び出して泉の近くに腰をおろした。かぶりついていると、顔を洗い終えたレセもシェルの隣に腰をおろし、自分のカザムノから干し肉を取り出して食べ始めた。しばらく二人は干し肉で食事をした。水が欲しいときには直接泉に顔をつけた。
食べ終わると、レセは言った。
「ラグナ=シェル、オレと一緒に世界の果て、見に行かねえか?」
レセの誘いはあまりに突拍子なくて、シェルは言葉を失っていた。渉と裕が死んでから一人で過ごしてきたシェルは、あまり人間と会話することに慣れていない。
「世界が赤い砂に飲み込まれるとこ、一人で見るよりオレ、ラグナ=シェルと見たい。なあ、行こう」
「……第四世代は風上に向かって旅したりしねえ。風上に向かうのは、第四世代から産まれる第一世代だ」
「知ってるさ。第一世代が風上に向かって旅して、砂漠を越えて第二世代を産む。第二世代が第三世代をたくさん産んで、第三世代が風下の聖地に旅するんだ。だけどオレ、別に砂漠を越えて旅するつもりな訳じゃねえ。ただ、ほんのちょっと砂漠を見に行くんだ。ラグナ=シェルのクラプトが砂に埋まるまでまだ時間あるから、それまでには帰ってこれる。だから、ラグナ=シェルも行こう」
変な奴だと思う。不思議だと思う。クラプトが砂に埋まるまで時間があるからと言って、世界の果てを見たいと思う第四世代はいない。今までそんな話は聞いたことがなかったし、これからも聞くことはないだろう。
「風上は寒い」
「判ってるさ。けど、これから冬になりゃ聖地は風上よりもっと寒くなる。太陽が遠くなるんだってファイアが言ってた」
「太陽が、遠く?」
「ああ、そうさ。太陽がクラプトから遠くなるから、寒くなるんだ。太陽は聖地の真上にあるから、聖地から離れると、太陽が遠くなって寒くなる。ファイアが教えてくれた」
「それで? 太陽はどんどん遠くなるのか? ずっとか?」
そのレセの話は、シェルが初めて聞く話だった。だから興味があった。そんなシェルの言葉は、レセは嬉しかった。
「今も少しずつだけど太陽はクラプトから遠くなってんだ」
「それで太陽はどこに行くんだ?」
「どこにも行かねえよ。冬が終われば戻ってきて、またクラプトは暖かくなるんだ」
「……何でだろう」
「それはオレにも判らねえ」
シェルは、森の木の葉の間に見え隠れする太陽を見上げた。聖地の、風下の方角にずっとあって、動かない太陽。しかし今も確実に太陽の恵みは少なくなっている。渉も裕も、シェルが知らないことをたくさん教えてくれた。シェルは、二人には知らないことがないのだと思った。しかし、二人が教えてくれなかった、二人にも判らなかったことは、世界にはたくさんあるのだ。そして、シェルが知らないことは、それより更にたくさんあるに違いない。
初めて思った。知らないことを知りたいと。そんなもの、シェルが生きていくのに必要なことではなかったのに。
「ファイアが言ってた。赤い砂のクラプトでは、影が長くなるんだって」
シェルの影は短い。足の下の小さな水たまりのように。
「影が長いのは太陽が低いからだって。想像できるか? 低い太陽なんて」
「低いって? 森の木より?」
「それは判らねえけど、首をうんと伸ばさなくても見えるくらい。ファイアとブルーは、聖地の太陽を見ながら歩いたんだ」
「太陽見ながらなんか歩ける訳ねえよ」
「オレもそう思う、ラグナ=シェル」
不思議な話。不思議な世界。シェルは少しだけ判ったような気がした。レセが、赤い砂のクラプトを見に行きたい理由が。低い太陽も、赤い砂も赤い風も、話を聞いただけでは想像できないのだから。
シェルも見てみたい気がした。低い太陽と、赤い風を。
「ラグナ=シェル、一緒に行かねえか? 低い太陽は見れねえと思うけど、赤い砂漠はもう遠くじゃねえ。こっからならたぶん三十日かからねえで戻ってこれるはずだ。移動の日には間に合う」
目を輝かせて、レセはシェルに笑いかけた。不思議だと思う。この人間はどうしてこんな風に自分に笑いかけることができるのだろう。
レセの笑顔は、聖地の太陽よりも眩しく輝いていた。