蜘蛛の旋律
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「正確に言えば上位世界からの影響もあるんだけど、とりあえずそれは置いておこう。まあ、今までの話を簡単に言うと、要するに、人間ていうのは精神の生き物なの。精神が肉体に影響を与えて、風景を変えて、世界を作ってる。極端な話、上位世界はさまざまな人間の下位世界を集めてできてると言っても過言じゃない訳」
確かに言ってることは間違ってない。風景も世界も人間が作ったもので、「それを作ろう!」って意欲は、精神世界から端を発してる。だからまあ、人間の精神が世界を作ったと言い換えてもいい訳だ。間違いはないんだ。だけど ――
オレはどうも、この黒澤という小説書きに、反発を覚えてならないんだ。断定的な物言い。強引な理論の展開。人の目を見てしゃべらない自己中心性。人を見下して、自分の頭のよさを披瀝しているような物腰が鼻をついて、すごく嫌な気分にさせられる。野草も人と視線を合わせないけれど、一緒にいてこれほど嫌な気分にはならないもんな。オレが読んだいくつかの小説をこいつが書いているのかと思うと、それだけで気分が萎えてくる気がする。
「ここまでの話、理解できた?」
黒澤が訊いてくる。まあ、とりあえず話は理解できた。
「ああ」
「ところでさ、巳神は好きな女の子とか、いる?」
突然話題が変わって、オレは呆然としてしまった。そんなこと、今の話に関係あるのか!
「……いないけど? それがなんなんだよ」
「若いくせにずいぶん潤いのない人生だね」
余計なお世話だ!
オレはだんだん、この世界のことも、野草のことも、どうでもいいような気分になってきていた。
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黒澤弥生はオバサンだ。外見は20代後半くらいに見えるし、もしかしたらもっと若いのかもしれない。いってたとしても32〜3がいいとこだ。だけど、この女はオバサンだ。
シーラの小説を書いたのは本当にこいつなのか? この女が、あんなに魅力的なシーラを書くことができたのか?
オレの心境を知ってか知らずか、黒澤はフロントガラスの向こうを見つめながら話し続けた。
「ムッとしてんじゃねえよ。まあ、好きな人がいないんだったらしょうがないか。巳神、ちょっと想像力を働かせてよ。例えば巳神に好きな女の子がいたとして、その子に振り向いてもらいたいな、自分を好きになってもらいたいな、と思ってたとするよ。だけどそれなりの行動したり、告白したりはしていない。その状況で、もしも相手も自分を好きなんだってことが判ったら、どう思う?」
オレはすっかりやる気をなくしていたのだけれど、そう尋ねられたから、しかたなしに答えていた。
「偶然だ、よかったな、ラッキー、……じゃないの? やっぱ」
「それが普通だね。宝くじを買って、引き出しにしまい忘れてたんだけど、ある日ふと見たら100万円当たってたとしたら?」
「オレってついてるじゃん。で、本屋に走って全集買いまくる」
「全集か、らしいね。電車に遅れそうで必死に走ってたところ、電車の到着が2分遅れてたとしたら?」
「きっと神様がオレのために電車を遅らせてくれたんだな」
「それじゃあさ、……小説に登場させる電車が新都市交通なんて名前で知名度がなくて、モノレールの方が判りやすいからそう書いたら、次の日現実の新都市交通がモノレールに変わってたとしたら?」
……なんだって……!
オレは絶句したまま、何も答えられなかった。
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確かに、野草の小説にはモノレールが登場していた。例のアフルストーンが出てくる小説だ。舞台の中心はオレたちが通っている高校で、近所のいろいろな施設がそこかしこに登場していたっけ。そのへんでもオレはずいぶん楽しませてもらったんだ。その小説の中で、主人公がアフルに会う前のくだりで、モノレールの終点まで車を走らせる描写がある。
野草の下位世界。まさか、野草の小説の世界が、現実に影響を与えたとでもいうのか?
「ねえ、巳神、薫は小説書きなんだ。あたしは自分が小説書きだから判るけどね、小説書きの精神世界への執着って、異常なの。先に言っておくけど、普通の人間の下位世界は、今あたしたちがいる薫の下位世界みたいに詳細じゃないよ。もっとぼやけてるし、つじつまは合ってないし、1分もいたらすぐに夢の中だって判るくらい。あたしやシーラみたいな人格のはっきりした人間も住んでないしね」
今オレがいる世界は、ともすれば野草の夢の中だということを忘れてしまうくらい、現実に近い。シーラも黒澤も、現実の人間と何ひとつ変わらない。
「普通はさ、好きな人と両想いになればいいな、とか、宝くじ当たんないかな、とか、そんな願望が下位世界を支配していて、たとえその願望が上位世界に影響を与えたとしても、偶然やラッキーで処理されちゃうんだ。でも、薫の下位世界は異常だった。詳細な風景描写と詳細な人物描写。その中から生まれた下位世界はものすごく詳細で、だから上位世界に与えた影響もものすごく詳細だった。普通だったら偶然で処理されるくらいの小さな影響しか与えないはずなのに、薫の下位世界は、偶然では絶対に処理できないほどの甚大な影響を、上位世界に与えちゃったんだ」
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野草の下位世界が、現実の新都市交通をモノレールに変えてしまった。
もちろん信じられる訳がない。だけど、オレは見てしまったのだ。いつから変わっていたのか、それは判らないけど、いつの間にか新都市交通はモノレールに姿を変えて、しかもそれをオレたち他の人間に気付かせなかった。
下位世界が与える影響は、他の人間の記憶までも操作してしまうようなものなのか?
もしかしたら他にもあるのかもしれない。野草の下位世界が変えてしまった風景が。……だとしたら、オレは自分の記憶すら疑わなければならないんだ。
オレが今まで信じてきた現実は、こんなにも信用できないものだったのか……?
「巳神」
その時、運転席から心配そうに声をかけてきたのはシーラだった。
「……ああ……うん、大丈夫だシーラ。……ちょっとしたカルチャーショック受けただけだから」
そうだ。この世の中に不変でいられるものなんてありえない。人間の記憶もそうだ。歴史的事実が固定したまま変化しないと考える方が不自然なんだ。未来が変化する以上、過去だって変化しない訳がない。そんな題材を扱った小説をオレは山ほど読んでるんだ。
「どうやら大まかなところは理解してもらえたみたいだね」
黒澤が助手席から振り返って、今度こそはっきりオレの目を見て言った。やっと、オレの中で噛み合うものが生まれてくる。なぜ、オレが野草の下位世界に迷い込まなければならなかったのか。なんでオレが黒澤にこんな話を聞かされたのか。
「判ったよ、黒澤。オレがどうしてここにいるのか。……オレは、あんたに呼ばれたんだ」
黒澤は、オレの言葉ににやりと笑った。
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黒澤弥生は、この小説の作者なのだ。
この小説、野草が本屋の爆発事故で生死を彷徨い、居合わせたオレが野草の夢の中に迷い込んで、アフルやシーラや黒澤と会話するこの小説の。
黒澤弥生が小説を書いて、野草の下位世界を動かしている。シーラもアフルもオレも、黒澤弥生の小説の登場人物なんだ。
「巳神が理解してくれて助かったよ。ここで理解してもらわないと、あたし、延々しゃべり続けなくちゃならないからね。いいかげん読者も疲れてきてるはずだし」
オレは今、黒澤弥生の小説の中にいる。これはオレにとっては現実だ。だけど、上位世界から見れば、オレは小説の登場人物として存在していることになる。黒澤がオレを小説に登場させたのは、オレにそれが理解できると確信していたからだ。今まで数多くの小説を読んできたオレだから、今が小説のワンシーンであることを理解できると。
「……で、オレはいったい何のためにあんたの小説に引っ張り出されることになった訳?」
小説が現実と違うのは、始まりと終わりが明確にあることだ。小説の登場人物は作者が設定した終わりに向かってのみ行動することになる。
「決まってる。……薫を助けて欲しい。この小説を、ハッピーエンドで終わらせて欲しいんだ」
……なんでだよ。自分が書いている小説だろ? 自分でハッピーエンドにすればいいじゃんか。
「そんな不満そうな顔するなよ。さっき言ったでしょ? この世界は薫が支配していて、誰も薫に勝てないんだ。たとえ小説の作者でも、薫の下位世界で薫の望まない結末は書けないの。自分でできれば巳神になんか頼まないよ」
そうか、野草が自分で死を望む限り、黒澤弥生はこの小説をハッピーエンドで終わらせることはできないんだ。
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このままでは、野草は確実に死ぬ。
黒澤が予言した死亡時刻は午前5時20分頃で、それがオレのタイムリミットだ。
それまでにオレは野草の命を救う。
黒澤はオレにその役をやらせるために、この小説に召喚したんだ。
「そろそろ夕食できてるかな。シーラ、巳神、あたし、これからごはん食べて小説の続き書くから」
そう言って黒澤が車のドアを開けて出て行こうとしたから、シーラはあわてて呼び止めた。
「待って、弥生。巳神が薫を救えるかもしれないのは判った。でも、これからいったい何をすればいいの? どうしたら薫を救えるの?」
黒澤は構わず車を降りて、でもそのまま去るのはあんまりだとでも思ったのか、開いたドアから顔を覗かせてシーラに答えていた。
「とりあえず、薫と直接話をする方法を考えてくれる? 要は薫の自殺願望がなくなればハッピーエンドになる訳だから」
「無茶言わないでよ! 薫は意識不明の重態じゃない!」
「現実の上位世界ではね。だけど、ここは薫の下位世界で、薫の心の物質は今でもしっかり存在してる。薫の意識はこの世界のどこかに必ずあるはずだよ」
「弥生!」
それきりもうシーラの言葉には答えず、黒澤はさっさとアパートに戻っていってしまった。オレは後部座席を下りて、再びシーラの隣の助手席に戻った。
「……巳神、どうしよう。……これからどうすればいいの?」
シーラには判らないのだろうけれど、オレには少しだけ判ったのだ。この小説の傾向っていうか、これからオレが何をしなければならないのか。
心が高揚してくるのが判る。黒澤のことは今でも好きになれないけど、やっぱりオレは彼女の書いた小説を好きだったんだ。
「とにかく一度野草の病室に戻らないか? オレの考えに間違いなければ、次の糸口があるかもしれない」
シーラは少し驚いたように見えたけれど、今は何も言わず、アクセルを踏んだ。
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病院までの道のり、シーラは何かを考えているように沈黙していたから、オレも自分の考えに沈んでいた。
オレが今いるのは、小説の中だ。小説と現実との違いは、ひとつは始まりと終わりが明確化していることだ。そのほかにも小説が持つ独特な法律というのがある。例えば、小説には偶然が起きる確率が現実よりも遥かに高いということ。
旅先で初めて出会って恋をした男女が実は同じ会社に勤めていたり、落とした生徒手帳を偶然拾ったのが主人公の恋する相手だったり。偶然は物語の進行を容易にするから、作者はよく使いたがるんだよな。野草の小説の中にも偶然で処理されている場面はあった。まあ、数はそれほど多くはなかったけど。
それから、小説には傾向というのがある。ジャンルと言い換えてもいい。オレが今いる小説は、SFアドベンチャーだ。ゲームで言うところのRPGに近い。少しずつ手がかりを手に入れて、最後に魔王を倒してハッピーエンドというあれだ。オレが倒さなければならない魔王は、野草の自殺願望。作者の黒澤弥生はハッピーエンドを望んでいる。
今、オレが手がかりを手に入れられるとしたら、野草の病室が一番確率が高いんだ。なぜなら、アフルもシーラも、野草の小説のキャラクターは、まずあの場所を訪れたから。他のキャラクターだって同じ行動を取る確率は高い。そして、小説特有の偶然が、オレたちの行動を助けてくれる。
車が再び病院の駐車場に吸い込まれる直前、それまで黙っていたシーラが言った。
「あれ、なに?」
ブレーキをかけてシーラが指差した方角、そちらをオレが見上げると、空中には信じられない光景が浮かび上がっていたのだ。
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オレは呆然と空を見上げていた。空中には2人の人間が浮かんでいたのだ。それはぜったい見間違いなんかじゃなかった。2人のうちの1人は、オレがこの世界で最初に出会ったアフルストーン、通称アフルだったのだ。
目を凝らしてみると、宙に浮いた1人はひたすら逃げていて、もう1人のアフルがそれを追いかけているように見えた。逃げている人間が誰なのかはよく判らない。ただ、アフルとの対比から、かなり身体の小さな人間であることだけは判った。
性別もよく判らないけれど、逃げているのはもしかしたら子供なのかもしれない。一瞬野草本人かとも思ったけど、どう見ても野草より小さかったし、アフルの追撃を軽やかにかわしていく身のこなしは、普段の野草とはあまりにかけ離れていた。野草は文科系で、同じクラスになったことはないけど、体育の成績が振るわないだろうってくらいは想像できる。ここが野草の夢の中ならどんなことが起こってもおかしくはないだろうけど。
追いかけるアフルと、追いかけられている子供のような人間は、しばらく攻防を繰り返してやがて建物の陰に隠れて見えなくなった。少しの間、再び現われないかと見守ってみたけれど、どちらにしても空中にいる人間相手にオレが何かできる訳もなかったから、オレはシーラを促して、病院の駐車場に車を移動させた。
意味の判らない光景。今、この世界にいるのだから、あの子供も野草のキャラクターの1人なのだろう。判らないことは考えても仕方がなかった。隣のシーラもどうやらそう思ったらしかった。
気分を変えるように息をつくと、シーラは言った。
「弥生が言ってた下位世界の話ね、あたしがそれに気付いたのって、薫が事故に遭ったあの時だったの」
オレはちょっと驚いて、シーラの言葉に耳をそばだてた。
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「巳神はあたしのこと、小説の登場人物としてしか知らないでしょ? でも、薫が事故に遭うまで、あたしは巳神と同じ現実の世界で、小説の設定の通りに生きていたの」
車は病院に到着して、オレとシーラは車から降りて、病院の中を移動していた。その間にシーラは話し続けていた。まるで今までの沈黙の時間を取り戻すように。
「パートナーのタケシと一緒にホテルにいたの。そうしたら突然、空気が変わった。その時あたしはシャワーを浴びてたんだけど、それでもはっきり判るくらいの変化だった。……その瞬間、あたしはすべてを知ったの。あたしが生きている世界は「野草薫」って名前の女の子の下位世界で、あたし自身は薫の小説のキャラクターなんだ、って」
遠くを見ながら、まるで独白のようにシーラはしゃべりつづけている。しゃべっている間、シーラはオレを振り返ることはしなかった。
「どう、表現したらいいのかな。まるで今まで騙されてたみたいで、すごく大きな失望感があった。あたしが今まで持ってた自分の存在に対する自信ていうか、そういうものがすべて覆されたみたい。……それからあたし、シャワー室から出て、タケシのところへ行ったの」
このときシーラは言葉を切って、初めてオレを振り返った。ドキッとした。その表情は、まるで泣き出す寸前みたいだったから。
「タケシはね、あたしが何て声をかけても、同じ言葉を繰り返すだけだった。何を言っても、どんな言葉をかけても、ただ『先に使えよ』って。……あたし、このときものすごくパニックで、タケシの顔を叩いたり、訳の判らない言葉をわめき散らしてた。だけど、少しだけ落ち着いてきて、判ったの。タケシが言ってる『先に使えよ』って、あたしがシャワーを浴びる前にあたしに言った、タケシの最後のセリフだったの。
それであたし、思い出した。シャワー室から出てきた自分のセリフ。『おまたせ。タケシもシャワーしてきたら? 汗っかきなんだから』 ―― そう、あたしが言ったら、やっと物語が動き出したの。『そうだな』ってタケシが返事をして、そのままシャワー室に歩いていったの」
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「タケシがシャワーしてる間、あたし、考えてた。どうしてあたしだけ物語から取り残されちゃったのか。……考えてるとね、自然に答えが頭の中に浮かんでくるの。冷静になるとすごく不思議なことなんだけど、あたしはそういう状況を全部自然に受け入れてた。ほら、薫って、もともとが女の子でしょ? だから、物語を作るときにも、自然と女の子に感情移入するんだよね。あたしが主人公のこの小説で、薫はあんまりタケシに感情移入してなかったんだ。だから、薫の下位世界が現実世界と切り離されたとき、タケシに自我が芽生えることはなかったの」
オレはこのとき初めてシーラに言葉を返していた。
「ちょっと整理してもいいか? ……野草が事故に遭うまで、野草の下位世界はオレたちが住んでる現実世界と同じものだったんだな?」
「そう言っていいと思う。あたしは現実世界の人たちと関わっていたし、自分が下位世界の人間だなんてこと、まるで思ってもみなかったし」
「それで、野草が事故に遭ったその瞬間に、野草の下位世界はオレたちが住んでる現実世界と分離した」
「そうだと思う」
「野草のキャラクターにはシーラみたいにはっきり自我を持っている人と、タケシみたいに物語の中でしか生きられない人間がいる訳だ。その区別は、野草がどれだけ感情移入できたかでラインが引かれてる。シーラ、それを君は、考えるだけで知ることができたのか?」
「それだけじゃないよ。あたしは野草薫が今までどういう人生を歩んだのかも、薫のほかのキャラクターがどれだけいて、その中で誰が自我を持って誰が持たなかったのか、それも知ることができたの。だからあたし、物語の通りに行動して、タケシが飲むはずだったお茶に睡眠薬を入れて眠らせた。それから、薫が運ばれてきたこの病院に来て巳神に会ったの」
そこまで話した頃、オレたちは再び野草の眠る病室があるフロアまで辿り着いていた。
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