蜘蛛の旋律



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「薫!」
 そのシーラの声を皮切りに、今まで無言で成り行きを見ていた野草のキャラクター達が、次々に野草の名前を呼んだ。片桐信の声も聞こえる。オレは振り返ることはしないで、野草の様子をじっと見守っていた。
 野草はゆっくりと身体を起こして、顔を上げる。最初に目に入ったらしいシーラを見て、声を出さずに口の中だけでシーラの名前を呼ぶと、視線を移動させてオレの存在を確認した。野草はオレとは目を合わせず、周囲のキャラクターをひと通り見回す。そこまでの動作を見守ったあと、オレは野草に声をかけていた。
「野草」
 その声を聞いたとたん、野草は再び葛城達也の胸にしがみついたのだ。
「達也……!」
 野草は明らかに怯えていた。正直驚いた。今まで野草がオレに対して怯えるような仕草を見せたことはなかったから。
「ああ、傍にいる。俺はずっとお前の傍にいるぞ」
「怖いよ。眠りたい。達也、早くあたしを眠らせてよ」
 遮ったのはシーラだった。
「待って、薫! 巳神がきてるんだよ。巳神が薫と話したいって、わざわざ来てくれたんだ。話を聞いてよ。このまま死ぬなんて言わないでよ!」
 野草は少しだけしがみつく腕の力を緩めたように見えたけど、顔を上げることはしなかった。
「野草、オレはお前の話を聞きに来たんだ。……話してくれないか? お前が思ってること、ぜんぶ」
「そんな奴に話すことはねえぞ。お前の気持ちを判るのは俺だけだ。俺が傍にいる。現実のことなんか忘れちまえ」
「巳神と話して薫! 巳神は薫のことを判ってくれるよ。巳神は、薫のことを本気で助けたいと思ってるんだ」
 野草はその誰の声にも反応しないように、ただ、葛城達也にしがみついているだけだった。


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 野草が何を考えているのか、今のオレにはまったく判らなかった。野草は何も語ろうとはしない。だけど、世界の崩壊は既にすぐ傍まで迫っていたから、野草が語り始める時間を待つだけの余裕はオレたちにはなかった。
 野草の様子を注意深く観察しながら、オレは野草の背中に話し掛けた。
「なあ、野草。オレ、お前の短編が書き上がるたびに、真っ先に読んでお前と話したよな。最初に読んだのは確かトリスとかいうロボットの話だった。オレはあの時からずっとお前のファンを自認してるんだ。シーラの話を読んでからは、オレはお前の大ファンになった。シーラもタケシも、その他の登場人物もすごい臨場感で、どこかで生きてたとしてもぜんぜん違和感がなくて、むしろ本当に生きてなけりゃおかしいくらいに思ってた。あの時も伝えたよな。オレはほんとに物語の中に入り込んで、本気でタケシに嫉妬してたんだ。オレは今までもたくさんの小説を読んだけど、あの臨場感だけは、どんなプロの作家にもぜんぜん遜色ないと思ってたんだ」
 野草は葛城達也にしがみついたまま、まったく反応を見せない。葛城達也はぜったいに野草を眠らせないだろう確信があったから、オレは自分のその確信を信じて、野草に話し続けていた。
「オレは最初にこの小説の世界に迷い込んだ時は、お前のキャラが実体化するなんで嘘だと思った。だけど、黒澤に証明された時からは、そうあるのが当然なんだって、むしろそんな風に思えるんだ。お前の小説がこれだけ生き生きしてるのに、その世界がどこにも存在しないなんて嘘だ、って。人間の下位世界が現実世界に影響を与えているのはごく普通のことだろ? お前の小説の世界が現実に影響を与えたって、世界はすべてを受け入れて、お前がそれを悩んだり苦しんだりする必要はないんだ。
 お前のキャラクターもお前が描写した風景も、世界はすべて受け入れて許してる。そうあることを知らないのは人間だけだ。その世界の仕組みを、お前が自分で許していけばいいんじゃないのか? 野草、お前だけが特別なんじゃない。だけどお前は、世界をこれだけ変えることができるくらい、特別な小説を書くこともできるすごい人間でもあるんだ」
 野草はオレの言葉を聞いていた。その証拠に、葛城達也にしがみつく腕に徐々に力を入れていったのだ。


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「薫、聞きたくねえなら聞く必要はねえぞ。もうすぐお前は死ねる。煩わしい現実から逃げられるんだ」
 葛城達也が茶々を入れてきたけど、オレはかまわず話し続けた。
「現実世界はぜんぶ許してるんだ。野草の存在も、野草の小説も。どんなに風景を変えたって、どんなキャラクターを作ったって、上位世界はそのたびにお前の下位世界の影響を受け入れてきた。オレたち人間だってそうだ。お前が変えた風景を現実のものとして生活してきたんだ。これからお前の下位世界がどれだけ風景を変えても、オレたちはぜんぶ受け入れるだろう。なあ、野草、オレはお前の書く小説が本当に好きなんだ。風景なんかどんなに変わってもいい。キャラクターの分だけ日本の人口や会社が増えたってかまわねえよ。お前が死んで、お前の小説が読めなくなるくらいなら、世界が変わることくらいオレが許していくよ」
 このときオレは、自分が今まで思ってきたこと、今自分が思っていることを、嘘偽りなく正直に野草に話していた。オレは本当に野草の小説を好きだったし、小説家黒澤弥生の大ファンだったし、これから先野草の小説が読めなくなるよりは風景の変化を我慢した方がマシだと思った。野草は生きていればぜったいにすごい小説家になる。オレはたまたま野草の部活仲間だったけど、これから野草が書く小説を待っている読者は、未来にたくさんいるはずなんだ。
「誰かが何か言っても、オレが味方になる。今までオレはお前のこと知ろうともしなかったけど、だからオレのこと信じられないかもしれないけど、今はオレ、お前のことをもっと知りたいと思ってる。……オレと、本屋に行きたいと思ってくれたんだろ? これから先また何度だって行ける。まだお前の好きな作家が誰なのかも聞いてなかったよな。お前が好きだと思ってることも、嫌いだと思うこともぜんぶ、オレに教えてくれないか?」
 野草が身じろぎをして、口の中で呟くような小さな声で言った。もちろん部屋の中にいたすべての人間にその声は届いていた。シーラはオレを見て必死で首を振り、葛城は満足そうに野草を抱き寄せる。
「巳神君が嫌い」
 野草のその言葉が意外だとは、オレは思わなかった。


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 オレは、その小さな声を聞き逃すまいと、息さえ潜めて見守っていた。
「巳神君も、シーラも、達也も嫌い。……あたしの思った通りになる世界なんかいらない。許してくれなくてもいいよ。あたしが悪かったんだから。達也を作ったあたしが悪かったんだ……」
 そう言って野草が葛城を抱きしめるようにすると、葛城はちょっと驚いたように野草を覗き込んだ。
「薫……? お前は俺を愛してるんじゃないのか? 巳神よりも俺を選んで、一緒に死のうと言ったんじゃねえのか?」
「達也が好き。あたしには、達也だけいればいいよ。巳神君なんか嫌いだもん。世界で一番嫌いなんだから」
 自分の下位世界にいる野草は、普段とはぜんぜん違って支離滅裂だった。これはもしかしたら野草が自分の夢の中にいるからなのかもしれない。野草は今、事故で生死を彷徨いながら、夢を見ているんだ。
「嫌いでもいいよ野草。だけど、葛城と一緒に死ぬなんて言うな。オレはもっとお前と話したいことがたくさんあるし、読みたい小説も山ほどあるんだ。……なあ、野草。お前はオレにそっくりな片桐信を作って、オレと戦おうとしたんじゃないのか? 片桐が出てくる小説を書いて、片桐の個性とぶつかりあって、物語を作ることでオレと勝負したかったんだ。その勝負でオレに勝って、オレをねじ伏せて、自分を守って。……だけどさ、そんなことしなくたって、お前はいつでもオレと戦えるんだ。現実にオレは生きていて、お前が挑んできたらいつだって受けて立ってやる。どっちが勝つかなんかまだ判らないけど、それが判らないままでお前は死んでもいいのか? オレだったらぜったいごめんだ! 勝敗が判らないのに自分から勝負を投げ出すなんて、ぜったいしたくないぜ」
 本当に野草がオレと戦いたかったのか、確信はなかったのだけど、オレには野草が片桐を作った理由を他に思いつくことができなかったんだ。どこかぼんやりと儚い野草は、葛城達也の腕の中で少し身じろぎした。そして、ともすれば聞き逃してしまいそうな細い声で、そう言ったんだ。
「本当に……? 巳神君は、あたしと戦ってくれるの……?」
 野草からその言葉を引き出せたから、オレはこの葛城達也との戦いに勝機が見えた気がした。


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「薫、こんな奴の言葉なんか真に受けるなよ。こいつは偽善者だ。お前と戦う資格もねえクズ男だぞ」
「本当にそうかどうか野草が自分で確かめればいいじゃないか。オレが偽善者なら勝負はお前の勝ちだ。確かめもしないで試合放棄するつもりか?」
「薫のことを本当に判ってやれるのは俺だけだ。俺は薫と一緒に死んでやることができるんだぜ。巳神信市、てめえは薫のために死ねるのかよ」
「オレは野草と一緒に生きることができるんだ。お前は死ぬことしかできないじゃないか。野草のために生きることもできねえで、何が判ってやれるだ。偽善者はいったいどっちだよ!」
 口げんかなら葛城達也にだって負けない自信はある。言葉に詰まった葛城達也は、いきなりオレたちに衝撃波を浴びせてきたんだ。その部屋にいたキャラクターは、全員オレと一緒に後方に吹き飛ばされた。オレの身体はテーブルさえなぎ倒して、資料がおさまった本棚に打ち付けられたのだ。
 一瞬、目から火花が散って、ちょっと高い位置から落ちるような感覚があった。痛みを振り払うように周囲を見ると、オレは棚の前に座り込んでいて、同じ棚の地上1メートルくらいのところに誰かの足が見えた。オレが最初に見た足はシーラのもので、シーラの身体は棚に打ち付けられたままの状態で貼り付いていたのだ。少し廊下寄りにタケシと巫女が貼り付いていて、ドアの位置にアフルが、ドアから少しずれた壁のところには、あの片桐信までもが貼り付けになっていたのである。
「きさま……葛城達也! てめえは仲間にまで……!」
 全員吊り下げられたまま声もなくもがいている。そうとう苦しいはずだ。早く解放してやらなければ。
「放っておけよ。どうせ全員すぐに死ぬんだ。虚無は隣の教室まで破壊したところだからな。もうじきここにもくるぜ」
「……なんだって!」
「時間切れのゲームオーバー。俺の勝ちだ」
 時間がない。このままでは奴の言う通り、野草を救うことはできないだろう。


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 オレは、オレの身体がなぎ倒したテーブルを乗り越えて、再び野草の傍にしゃがみこんだ。このキャラクター達が虚無の彼方に消えても、野草さえ生きていればまたすぐに実体化することができる。残された僅かな時間にオレができるのは、野草を説得することだけだった。
「野草、頼む! 時間がないんだ! オレと一緒に生きるって言ってくれよ。これから先、お前の話を毎日聞く。一緒に本屋にも図書館にも行くし、お前が知らない現実も教えてやる。現実の人間には物語の人間とは違ったおもしろさもあるんだ、って。なあ、野草! お前と戦えるのはオレだけだろ? お前と同じくらい小説が好きで、毎日死ぬほど本を読んでて、お前の物語の世界がなくなることをこれだけ必死で食い止めようとしてるのは」
 野草はオレを嫌いだと言った。それは本当なのだと思う。だけど、だからこそ、野草を現実に引き止められるのはオレだけなんだ。おそらくオレは野草が初めて感情をあらわにした人間だったのだから。
 野草はゆっくりと首をもたげて、このとき初めてオレの顔を見た。笑った……ように見えたのはあるいは錯覚だったのか。
「あたしが、知らない現実……?」
 そのとき、背後にゾッとするような気配があった。
 我慢できずに振り返ると、虚無が教室の一部を浸食し始めているのが見えて、その壁の近くには武士と巫女が貼り付けられていたのだ。
 声を出すこともできず、顔を引きつらせたままの2人に虚無が迫る。目を離すことができなかった。最初に武士。そして、巫女 ――
 身体中が震えていた。音もなく崩れてゆく2人を、オレはただ見守ることしかできなかったのだ。
「まずは2人。薫、もうすぐ終わりだ」
「葛城! みんなを自由にしろ! 野草!」
 葛城はニヤニヤ笑いを顔に貼り付けたまま答えなかった。
 虚無は、次なるターゲット、シーラとアフルに向かって静かに侵攻していた。


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 虚無は、野草を中心とした同心円を描くように、部屋の中に侵攻している。巫女と武士は一番野草から遠いところにいたんだ。2人とも、野草が生きる希望を持つことを願って、こんなに遠くまでやってきた。オレは実際のところかなりのショックを受けていたのだけど、この2人のために泣いてやる時間も、死を悼むだけの時間もなかった。
 虚無は部屋の隅から触手を伸ばして、壁伝いに広がってゆく。その両側にいるのはアフルとシーラ。葛城は見えない力で2人を壁に押し付け、身体の動きも声すらも奪っていた。
「野草! 今だけでもいい、頼むから生きるって言ってくれ! オレにはお前のその一言が必要なんだ!」
「薫、お前は俺だけがいればいいんだろ? お前の人生には巳神は必要ねえよな」
 シーラが、虚無に飲み込まれる ――
「野草、目を醒ませよ! お前が小説に書いたんじゃねえか! 葛城達也はぜったい人を愛したりなんかしない。こいつはただ自分が死にたいだけなんだ! お前は利用されてるんだ!」
 目の前で展開されている光景に、オレの目は釘付けになっていた。
 シーラの綺麗な顔は、今や恐怖一色に染められていた。虚無は資料棚を食いつくし、シーラの指先から肘に向かって、音もなく塵へと変えてゆく。肩へ、長い髪へ、そして、その綺麗な頬までも。
 声にならないシーラの叫び。震える唇はひとつの名前を形作る。やがてその唇さえも塵と化してゆく。オレに微笑んだ唇。オレに、キスした唇。
 オレは彼女の名前を呼ぶことができなかった。 ―― 死の直前、シーラが口にしたのは、タケシの名前だった。
 ……ああ、そうか。タケシは間に合わなかったんだ。シーラはたぶんずっと待っていた。タケシがシーラを救いに現われるその時を。
「3人」
 脱力して呆然としたままのオレを我に返したのは、人の嫌悪感を逐一刺激するような、葛城のその声だった。


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 虚無は既にアフルを塵に変え始めていた。だけどオレはアフルから目を逸らすように野草を振り返った。今まで、まるで夢の中にいるように虚ろだった野草の顔。だけど今、野草はしっかりと目を開けて、今まさに塵に変わろうとしているアフルを見つめていたのだ。
「野草、まだ間に合う! お前が一言生きるって言ってくれたらすべて元に戻せるんだ! アフルを救うことができるんだ!」
 オレ自身、自分の言葉を100パーセント信じることはできなかった。理屈では野草の下位世界が元に戻ればキャラクターも生き返ることは判ってる。だけど、目の前で見たシーラの死は、オレに1パーセントの不安を植え付けてしまっていた。
「葛城に惑わされるな! お前が死ななきゃならない理由なんか全然ないんだ!」
「4人」
「野草!」
 アフルの死を一部始終見守ったのだろう。野草はゆっくりと視線を移動させて、まっすぐにオレを見つめた。野草は必ず生きると言ってくれる。まるで祈るような気持ちでそう信じたオレに、少しの時間を置いて、野草は言ったのだ。
「……もう、遅いんだ。あたしは、あの小説を書き上げちゃったんだ」
 言葉の意味を掴み切れなかった。絶句したオレに野草は続けた。
「あたしは達也を作っちゃったんだ。……だから、達也を殺さなきゃいけない。達也と一緒に死なないといけないの」
 葛城達也が人を殺し続けることを言ってるのか? 野草が書いた小説の中で、葛城達也はこれからも更に多くの人間を殺すのか。
「そんな小説書き直せよ! お前が小説を書いてこいつを殺せばいいんだ! なにもお前まで一緒に死ぬことはねえだろ?」
「5人!」
 葛城の言葉に反射的に振り返ると、既に片桐の姿は影すらもなくて、虚無の同心円は半径2メートルのところまで迫ってきていた。
「ダメ、なんだ。……あたしが一度書いた小説は、ぜんぶ現実世界に残る。たとえ書き直してもパラレルワールドが増えるだけなんだ」
 野草の言葉は真実だった。シーラには、現実の記憶だけではなく、パラレルワールドの記憶も残っていたのだから。


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 周囲を無の空間に囲まれた小さな世界。ゆかはちょうど丸い形に残っていて、天井は既になかった。地理室へ続くドアの前に、葛城達也と野草がいる。まるで、舞台装置の前でスポットライトを浴びている、主役の恋人同士のようだった。
 オレの中の言葉は既に使い果たされてしまっていて、ひとつも残ってはいなかった。……判っちまったんだ。野草が書いていた葛城達也の未来の小説。その世界で、おそらく葛城達也は不特定多数の人間の命を奪っていたんだ。
 すべてを破壊に導く葛城達也というキャラクター。彼も野草の願望の一部だ。野草はすべての現実を破壊したかった。その願いは幼い葛城達也を生み、少しずつ育てて、やがて世界を破壊できるまでに成長させてしまっていたのだ。
「ようやく判ったみてえだな。最初から貴様に勝ち目なんかねえんだよ」
 これから先、野草が生きているだけで、現実世界は破壊されてしまう。野草にとってはどちらも同じことだったのだ。自分が死ぬことで現実世界を救えるのなら、その方がいくらかでもマシだったのかもしれない。
 最初から、オレに勝ち目はなかったんだ。
「野草、本当に、なんにも、方法はないのか? 例えばお前の葛城達也に関する記憶だけを消すとか」
「おい、巳神。今それができるのは俺だけだぜ。なんで俺が自分だけ死ななきゃならねえんだよ」
 諦めかけていたオレの言葉に答えたのは葛城だった。そして、その言葉こそがオレに新たなインスピレーションを与えてくれたのだ。
「アフルならできるんじゃないのか? 野草! 今だけ生きてくれよ! そうしたら現実世界のアフルも復活できる。お前が死ななくても葛城達也を消すことができるかもしれないじゃないか!」
 アフルはタケシの記憶を蘇らせる能力があると言った。アフルの感応力はもしかしたら葛城を凌ぐかもしれない。野草の下位世界は野草の記憶と願望に依存してるんだ。記憶さえ消えてしまえば、現実世界への影響だって消えるはずなんだ。
「往生際の悪い男だな。そんなにシーラに会いてえのかよ」
 葛城達也に図星を突かれて、オレは硬直してしまった。


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 無意識的にではあったのだけど、校舎に入るあたりから、オレは極力シーラのことを考えないようにしていた。あの時はまだ野草にかける言葉のひとつも思いつかなかったし、必死でもあったから、自分自身でセーブしてたのだと思う。野草のことだけで頭を一杯にして、野草にとって一番いい方法を見つけようと思っていた。
 だけど、葛城の指摘は、オレの無意識も意識もすべてさらけ出してしまった。オレは、野草の下位世界を守ることで、もう一度シーラに会いたいと思ってたんだ。野草が葛城達也を忘れたいはずなんかない。他の誰を忘れても、葛城達也を忘れることだけはしたくないはずだ。すべてを忘れることはできても、葛城達也だけ忘れるなんてできないはずだ。
 虚無は既に2人の足先まで迫っている。オレは最後の最後に、野草のことより自分の都合を優先させようとしたのだ。
「巳神君、シーラを好きになってくれて、ありがと」
 オレはもう、野草の表情から何かを読み取ることができなくなっていた。足先から野草も消えようとしている。野草はこの下位世界の物質と一緒に、塵になって消えようとしていたのだ。
「まだ諦めないでくれよ! これから2人で考えようぜ。ぜったい方法は見つかるはずだ!」
 野草の背後にある壁も、ドアも消えてゆく。そのドアの向こうに消えかかる1人の人間を見つけた。もう、上半身はほとんど消えていたのだけど、膝に乗せたワープロを叩きつづけている両手だけが見えた。黒澤弥生 ――
 一番野草に近いこの場所で、黒澤は最期まで小説を書き続けたのか。
「達也もアフルもシーラも、ほかの巳神君が知らないキャラクターも、全員あたしが連れて行くね。だから、巳神君も忘れて。小説のキャラクターは、現実世界に存在しちゃいけないんだ」
 これが、結末か? すべて存在しなかったことになる。野草の下位世界も、あんなに生き生きしていた野草のキャラクター達も。
 黒澤弥生、お前は、こんな小説を書きたかったっていうのか……?
「達也、あたし、やっとあなたを殺せる……」
「薫、お前が俺の神だ」
 抱き合ったまま静かに塵になる2人の顔には、なぜか満足そうな微笑みが浮かんでいた。


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