蜘蛛の旋律



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「信、その言い方では巳神君には判らないよ」
 アフルが口をはさんだから、オレと片桐の間の緊張状態は少しだけ緩和されていた。
「僕達の常識は巳神君には通じないんだ。言いたいことがあるなら、ぜんぶ順を追って話してあげないと」
 まるでオレに常識がないような言い方だった。たぶん以前オレに説明を求められた時の煩わしかった記憶を覚えているんだろう。オレに言わせれば、アフルやシーラの方がよほど非常識だったのだけど。
 片桐はむちゃくちゃ面倒な出来事に出会った時のようなため息をついた。
「アフル、こいつは自分がどれだけ残酷なことをしたのか、それも判ってないっていうのか?」
「まったく判ってないね。たぶん、説明してもぜったい判らないと思う」
「……だったら話しても意味はないな」
 残酷、って……。オレはいったい野草に何をしたんだ? オレが野草に声をかけて、何か残酷なことを言ったのなら、オレがそれを知らないままでいられる訳ないじゃないか! もしもそれが野草の自殺願望の一端を担ったのなら、オレが心から謝らなければ野草を救うことなんかできないじゃないか!
「ちょっと待てよ! ちゃんとオレに話してくれ! オレは何をしたんだ? いつ、オレは野草が傷つくようなことを言ったんだ?」
 オレの言葉に振り返ったアフルは、諦めたような、少し悲しそうな表情をしていた。
「別に傷つくようなことも言ってないし、巳神君は悪くないよ。ぜんぶ薫の心の問題なんだ」
「違うな。お前が薫を傷つけた。悪いのはお前だ。薫は悪くない」
 アフルと片桐の言葉は真っ向から反発していて、オレにはどちらが正しいのか判らなくなってしまっていた。
「……頼む、教えてくれ。誰が悪いんでもいい。そのときに野草に何が起こったのか、それを教えてくれないか」
 2人の意見は反発していたけれど、オレに事実を語ることをためらう気持ちだけは違わないようだった。


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 オレは野草のことを何も知らない。1年半、同じ部活でやってきて、すごく上手な小説を書くことだけしか知らない。野草が書いた小説のキャラクターの方がよく知っているくらいなんだ。シーラが今までどんな想いで生きてきたのかを知っているのに、野草がどんな想いでいたのか、オレは何ひとつ語ることができない。
 オレは今まで野草とどんな話をしただろう。毎月の短編小説を読んだあと野草に感想を伝えて、長編小説読破のあとは登場人物や背景について思ったことを語り、質問を浴びせた。野草は言葉が少なくて、答えを言いよどむことも多かったし、明確な答えを得ることもあまりなかった。だから言葉のキャッチボールにはならなくて、会話が弾むということもなかった。
 野草の中にあるたくさんの言葉は、すべて小説を書くことだけに注がれていたような気がする。ワープロの中でならあんなに饒舌で魅力的な野草は、現実では人と会話することさえ厭うていたのだ。オレは、野草の心は現実にはないような気がしていた。野草の心は小説の中にだけ存在する。オレはそんな風に思っていたのかもしれない。
「野草は、現実の中では、どんなことを思っていたんだ?」
 ここにいるキャラクター達は、野草の下位世界が現実と分離した瞬間、野草のことをすべて知ることができた。オレには判らない野草の現実を語ることができるのは、下位世界に存在する彼らなのだ。
 アフルと片桐は何も言わなかった。少しの沈黙のあと、アフルが突然驚愕の表情で巫女を見たのだ。
「私が話そうか」
 巫女の言葉はアフルの表情が変わった一瞬あとだった。……超能力者の反応というのは、常人のオレたちには少し不気味に思えるときがある。
「この男に話せば薫は救われるのか?」
「今は薫のことよりあなたのことだよ、信。……どうするんだ? ここまで来て、あなたはまだ薫の死を守りたいと思うのか?」
 巫女は人の運命を司るもの。彼女が見ている未来には、オレたちはいったいどう映っているのだろうか。


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 巫女に視線を移したとき、隣に立っていたシーラをも目にすることになった。シーラはしっかりと唇を結んで、自分と戦っているような表情でじっと耐えていた。シーラはおそらく一瞬でも早く野草に会うことを望んでいる。崩壊していく世界から野草を救いたくて、野草を救うことで世界を取り戻したくて。
 ドアの前に立ちはだかる片桐信が、オレたちの最後の関門だった。
「こいつが薫の気持ちを判るはずがない」
 片桐の言葉に反論したいことは多かったのだけど、オレは何も言わずに成り行きを見守った。片桐の中では、オレが知らずに野草を傷つけてきたのは事実なのだ。今、オレが野草を救いたいと思っていることをどれだけ語ったところで、この男は信じないだろう。
「少なくとも巳神は判ろうとしてるよ。そのくらいは信じてもいいんじゃないのか?」
「オレには薫でないものを信じることなんかできねえよ」
「私はすべてを信じろなんて言わない。ただ、巳神の可能性を信じて欲しいんだ。巳神は薫じゃない。だから、薫である私たちにはできないことが、巳神にはできるかもしれないんだ。
 葛城達也があなたに何を言ったのか、私は知ってる。だけど、その言葉にあなたが納得しているとは、私には思えないんだ。……巳神が持ってる可能性に賭けてみることはできないか?」
 オレには、巫女が言う葛城達也の言葉などもちろん判らなかったけれど、巫女の言葉が少しずつ片桐の心を溶かしていったことだけは、手に取るように判った。片桐の心の動きがオレには判る。片桐は外見だけではなくて、思考パターンもオレによく似ていたんだ。
 片桐はこの時初めて、自分の死を認めたのだと思う。野草を道連れにする死ではなくて、自分だけの死というものを。
「……巫女、あんたの話の方がオレより通じそうだ」
 片桐の言葉はまわりくどくはあったのだけど、巫女の意見を了承していた。


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 アフルは目を見開いたまま成り行きを見守っている。このアフルが、オレには一番理解できない。表立って邪魔をすることはなかったけれど、野草を救いたいと口にし、その通り行動してもいたのに、アフルの反応は言葉や行動とは微妙にずれていたのだ。だけどオレにはアフルを問い詰めるだけの時間も心の余裕もなかった。すぐに巫女がオレに話し始めたから。
「巳神、あなたは薫が変わった女の子だと思う?」
 いきなりそう訊ねられて、オレは戸惑ってもいたのだけれど、この期に及んで何を隠すこともないだろうと開き直った。確かに野草は少し変わってると思う。内気なのは間違いないけれど、それだけじゃなくて、小説の中でのものの考え方とかも。
「んまあ、一般的な高校生の女の子とはちょっと違うとは思うけど」
「巳神はせいぜいその程度なんだよね。普通の女の子とはちょっと違うけど、自分の方から付き合い方を変えなければならないほどじゃない。……だけどさ、巳神以外の人間が見ると、薫はかなり異色で、近寄りがたい人間に見えるんだ」
 そうか? 確かに少し変わってはいるけど、近寄りがたいとか異色とか、そんな風にはオレには思えなかったけど。
 ……ああ、だけど、オレは文芸部のメンバーに言われたことがあるんだ。「よく野草と普通に話せるな」って。そいつが野草を怖がってるようにも見えて、オレは不思議だった。そいつにそう言われたからって、オレの野草を見る目が変わることはなかったけど。
「薫は子供の頃からすごく異色で、怖がられてて、誰も薫と友達になろうとはしなかったんだ。薫に声をかけることもしなかった。大人も子供も、母親ですら、薫を恐れていたんだ。薫も周りのそんな空気を敏感に感じててね。もともと内気で敏感な子供だったから、薫の方から積極的に声をかけることもなかった。そんな薫が空想にはまっていったのは判るよね。空想の友達を持って、空想の日常と空想の人間関係を築いていって、やがて小説を書くようになったのは」
 巫女の言うことは、なんとなく判るような気はした。日常で他人と関われなければ、満たされない人間関係を自分の中に求めるしかないだろう。空想の友達を作るだろうことは判る。やがてその空想が小説を書くという行為に発展していったのだろうということも。
「薫は自分の空想の友達をより現実に近づけるために、周りの人間たちを観察し始めた。その観察という視点が、より周囲の人間の恐怖を増長させていったんだ。あなたに会うまで、薫の周りには、薫を恐れる人間しかいなかったんだよ」


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「誰も薫を理解できない。理解できないから恐怖する。人間の恐怖という感情は、理解できないものに対して生まれるものだからだ。理解してしまえばそんな恐怖はなくなるのだけど、薫を理解して恐怖を克服しようと思う人間は、薫の周りにはいなかったんだ。……でもね、薫の視点から見れば、それは普通のことだったんだ。薫は理解されないのが普通で、人に怖がられるのが普通で、話し掛けてもらえないのが普通だった。ほかの人間たちが互いにコミュニケーションを取っているのは知ってるから、自分は特別なのだと思っていた。特別なのが自分で、人に特別視されることが、薫の唯一の自己主張でもあったんだ」
 巫女の話を、オレは黙って聞いていることしかできなかった。……オレ以外の人間であれば、巫女の話を理解できたのかもしれない。野草に対する恐怖の感情を持っていた誰かであったなら。
「中にはおせっかいな人間もいて、友達のいない薫に近づいて「付き合ってあげる」気分に浸っていた人間もいたけどね。そういう人はぜったいに薫を理解できないから、すぐに離れていった。
 そんな時、薫はあなたに会ったんだ。薫をまったく恐れず、対等な立場で薫を評価して、薫を「普通の人間」として扱ったあなたにね」
 巫女は、静かな口調で話していたのだけれど、この時まっすぐにオレを見た。
 オレはゾッとした。巫女の目には、明らかに片桐信と同じ憎悪が混じっていたのだから。
 確かにオレは野草を特別とは思わなかった。だけど、それがなぜ憎悪になるんだ? オレはいったい何が悪かったんだ?
「巳神には判らないね。薫があなたの存在でどれだけ戸惑って、世界を崩されて、自分を見失ったのか。嬉しい、って気持ちはあったんだ。だけど、自分を特別視しない人間は、それまで薫の唯一の自己主張だった「特別」という価値観を、根底から崩してしまったんだ。……もしもね、巳神が薫だけに対等だったのなら、薫の「特別」は守られていたと思う。でも、巳神は薫だけに対等だったんじゃなかった。誰にでも対等で、薫は巳神の中にある人間関係のひとつにしか過ぎなかった。……苦しかったんだ。薫にとっては、既に巳神は特別になってしまっていたから」
 ……なぜ、オレが彼らに憎悪を向けられるのか。なぜ、黒澤弥生がオレを召喚したのか。
 彼らにとって、オレは野草の世界を壊している張本人だったのだ。


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 アフルはオレを悪くないと言い、片桐はオレが悪いのだと言う。どちらの言葉も正しかったんだ。オレは、野草の前に姿を現わしたことで、野草を傷つけてしまったんだ。
 今ならもっと野草を理解できる気がする。野草は普通の高校生の女の子で、小説を書く天才だ。詳細な設定によって世界を変えることもできるし、内気で人との会話に躊躇することもある。オレが壊してしまった野草の「特別」を作り直すことができそうな気がする。野草はぜんぜん「特別」でもないし、他の誰とも違う「特別」な人間でもあるのだ。
 キャラクターとしての片桐信は、オレへの挑戦だったんだ。野草はオレをねじ伏せて自分を守りたかった。その反面、オレにねじ伏せられたくもあったのかもしれない。
 誰でも自分と戦ってる。野草の戦いは、自分の存在価値との戦いだ。オレは野草の価値を唯一認めなかった人間だった。そして、野草の価値を唯一認めた人間でもあるんだ。
「もしも薫の下位世界が現実世界に影響を与えなければ、巳神のことは薫の人生の小さな分岐点として吸収されてしまったと思う。だけど薫の小説は現実を変えてしまった。ショックを受けて呼びつづけた葛城達也という名前の人間は実在していて、薫の前に現われ、望み通りに殺してくれると言った。それから1ヶ月、薫が現実に残していた未練があなたのことだよ、巳神。……薫はね、あなたと歩きたいと思ったんだ。あなたと本屋に行きたい、ってね」
 ……そうか、それで判ったよ。野草が1ヶ月も死ぬ時を待っていた理由が。
「野草がオレと本屋に行くために、葛城達也が根回ししたんだな。雑誌の投稿欄にオレが興味を惹かれそうな本の情報を載せて」
 それで野草は満足しようとしたんだ。野草には時間がなかったから、せめてオレを野草の最期に立ち会った人間にすることで、オレの特別になろうとしたんだ。
「そう。そして、その状況を黒澤弥生が利用したんだ。自分が最後の小説を書くために。できることなら、薫に再び生きる希望を持たせるために」
 散りばめられていた様々なピース。その多くが、巫女の言葉によってあるべき位置に填まろうとしていた。


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 人間は単純じゃない。野草の心の中にも様々な感情があって、戦いを繰り返している。ここにいるキャラクター達は、すべて野草の心の象徴なんだ。オレを憎悪する片桐信も、オレに恋するシーラも。世界を死にいざなう葛城達也も、最後まで小説を書き続けようとする黒澤弥生も。
 ここにいるキャラクター達が生きようとしているのだから、野草の中にその気持ちがないはずがない。野草の中では死にたい気持ちと生きたい気持ちが戦ってるはずなんだ。
「片桐、頼む。道をあけてくれないか?」
 片桐の表情には、今は憎しみよりも諦めの方が色濃く浮かび上がっていた。
「お前のような偽善者は二度と薫に近づかせたくない」
 偽善者、か。そう見られても仕方がないんだろうな。オレは今日まで野草と本気で関わろうなんて思ってなかったんだ。
「それでも、あけてくれ。頼む」
 片桐はもう言葉を返しては来なかった。
 すべてを諦めたように目を伏せて、片桐は背後のドアを自分で開け、中に消えていった。ドアは再び閉ざされてしまったけど、オレがこのドアを開けるための障害は、もうないんだ。オレは後ろを振り返った。アフル、武士、シーラ、巫女。全員の目が言っていた。このドアをあけるのはオレ自身なのだと。
 中には片桐と葛城達也、そして野草がいる。オレは覚悟を決めてそのドアを開けた。
  ―― 地理準備室は、けっして広くはなかった。
 正面には校庭を見下ろすことができる窓。右の壁には棚があって、たくさんの資料が置いてある。真ん中にテーブルといくつかの椅子。今はそこには誰もいなくて、左の、地理室に続くドアの方に視線を移動させる。
 そのドアの前、柱を背にしてゆかに座る葛城達也に守られるように、野草はうずくまっていたのだ。


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 野草は葛城達也の腕の中にいて、胸に顔を埋め、表情は見えなかった。制服を着たままの野草を葛城達也が抱きしめている。姿は既に27歳まで成長していて、あの時アフルに追いかけられていた子供の面影は微塵もない。
 片桐は廊下側の壁際に立っていた。オレが振り返ってももうオレを見ようとはせずに、視線は葛城達也に抱きしめられた野草の上に固定されていた。
 オレは野草に近づいていった。ゆかに膝をつけて、野草に触れようと手を伸ばす。その手は見えない何かに弾かれていた。
「挨拶くらいしたらどうだ。ノックもしねえでいきなり入ってきてオレの女に触るんじゃねえよ」
 葛城達也はそう言って、オレにゾッとするような笑みを向けた。……誰をも惹きつける美貌の、絶大な力を持った超能力者。野草のキャラクターの中でこの男に敵う人間はいないだろう。もちろんオレだって敵わない。もしもこいつがオレを殺そうとしたなら、あっという間に殺されてしまうことだろう。
「野草、聞こえてるか? 巳神信市だ。お前と同じ文芸部の」
 野草に反応はなかった。ここに来さえすれば野草と話すことが出来ると思ってたオレは、思惑が外れて焦りが出始めていた。
「無駄だ。薫はもう何も見たくねえんだ。俺と一緒に死ぬことだけ考えてるのさ。もう少しで薫は死ねるんだ。判ったらさっさと出て行けよ」
「野草と話をさせてくれ。オレは野草を救いたい。あんただって、野草が生きてる方がいいんじゃないのか?」
 そのとき、ジリジリしながらオレたちを見守っていただろうシーラが、野草に駆け寄ってきていきなり身体をゆすり始めたのだ。
「薫! お願い起きてよ! 巳神がきてるんだよ。巳神が、薫と話したいって言ってるんだよ!」
 野草は一瞬ピクリと動いたように見えた。だけど、その瞬間、葛城達也の見えない手が、シーラをテーブルに跳ね飛ばしたのだ。
「シーラ!」
 テーブルの足に背中を打ち付けたシーラは、それでも心配ないという風にオレに手を上げて見せた。オレは再び野草を振り返る。野草はシーラの乱暴な扱いにも目覚めた様子はなかった。


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 オレたちの行動に、葛城達也は低い笑いで答えていた。
「俺は薫を殺してえんだよ。薫が死ねば、薫は俺のものだ。俺は神を手に入れることができるんだ」
 葛城達也は、死ぬことのない化け物だった。自分が死ぬことができないから、人の命を簡単に奪うこともできる。葛城達也は死に魅力を感じている。もしかしたらこいつは野草を殺すことで自分が死にたいのかもしれない。
 そうだ。野草のキャラクターの中には、葛城達也がいたんだ。自分の死にあこがれ、他人を殺しつづける冷血漢が。
 そして、この男こそが、野草が最も愛したキャラクターだったんだ。
「野草を眠らせておいて手に入れるも何もないだろ! お前も野草のキャラクターなら、オレと戦えよ。オレとお前のどっちを野草が選ぶのか、正々堂々証明してみろよ」
 オレは、焦ってはいたのだけれど、なぜか葛城達也を恐れてはいなかった。この男はオレを殺せる。指の1本も動かさず、眉の1つも動かさずに、ほんの少し能力を発揮するだけでいとも簡単にオレの心臓を止めることだってできるんだ。
 だけどオレは、この男に恐怖を感じることはなかったんだ。たぶんさっき巫女が言っていたことがあてはまるのだろう。恐怖の感情は、理解できないものに対して生まれるのだということ。
 オレは、葛城達也を理解していたんだ。野草の小説にたびたび登場して、物語をかき回してゆく脇役。主人公達は葛城達也をあらゆる角度から分析して、物語の中でオレに教えてくれた。その異常さも、生い立ちも、何を考え何を楽しんでいたのかも。オレは小説を読むことで、葛城達也を理解していたのだ。
 野草の詳細な設定と描写が、今オレを助けている。葛城達也がオレを殺さないと判る。奴は奴の人生をおもしろがらせてくれる人間は殺さないんだ。奴の退屈を紛らわすことができるオレを、葛城達也は殺すことができない筈だ。
「薫がお前を選ぶとでもいうのかよ」
「選ぶかもしれないだろ。そんな可能性を残したまま野草が死んでも、お前は神を手に入れたことにはならねえよ」
 他人に負けることが嫌いな葛城達也ならぜったいに乗ってくる。オレにはその確信があった。


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 たぶん葛城達也はオレの心を読んでいて、オレが持っている自信の根拠も、オレがなにを狙っているのかも、すべて読み取っていたことだろう。覗き込むようにオレを見つめ、微笑さえ浮かべた葛城は、綺麗なのだけどすごく無気味に思えた。オレには時間がない。虚無は既に校舎近くまで迫っているのだろう。もう窓の外を見て確かめている余裕はなかったけれど、それほど遠くない未来にこの校舎ごと塵と化してしまうことは間違いないのだ。
 早く野草を目覚めさせなければならない。見えない虚無に急かされていたのだけど、オレはできるだけ落ち着くように自分に言い聞かせて、最大の敵、葛城達也に対峙した。
「薫はお前を選ばねえよ。お前の言葉なんか聞かねえさ、偽善者巳神信市の言葉なんかな。……薫には俺しかいねえ。薫を本当に理解できるのはこの俺だけなんだよ」
「本気でそう信じてるならオレと戦えるはずだ。葛城、あんたは不安なんだ。もしかしたら野草がオレを選ぶかもしれないから、不安で、野草を目覚めさせることができないんだ。お前は野草に見捨てられるのが怖いんだ。野草が、下位世界のお前よりも現実世界のオレを選ぶのが」
 葛城はオレから目をそらして、低く笑った。感覚にチクチク触るような笑い声。まるで、人が一番不快に思う音の波長をあらかじめ知っていて、それに合わせて声を出しているようだ。恐怖はないけど嫌悪があった。
「クックックッ……。巳神信市、お前は何にも判ってねえな。薫は端から現実に期待なんかしてねえんだよ。薫が書く小説は薫にすべてを与えてくれた。理想の友達も、理想の恋人も、理想の父親もな。薫はこの世界だけで満足してたんだ。現実になんか何の興味もなかったのさ」
「それは違うぞ葛城! 野草はオレたちに小説を読ませてくれたじゃないか。野草は小説を通じて、現実世界と関わろうとしてたんだ!」
「そいつはまた、笑っちまう勘違いだな。……ま、いいさ。そこまで馬鹿をさらしたご褒美に、薫と話をさせてやるよ」
 葛城がそう口にして数秒後。
 野草は、目を覚ました。


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