蜘蛛の旋律
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すべてを無に喰い尽くされた空間に、オレは1人浮かんでいた。
野草と葛城が塵と消え、その残像すら消えてからは、オレの周囲にはなにも存在していなかった。無の空間は限りなく続いていて、今までそこに何かがあったという痕跡も、気配もない。野草の下位世界は消えてしまったのだ。ここは世界が死んだ場所。世界の終わりの姿だった。
この空間を作ったのは野草だったのだろうか。それとも、別の誰かが用意した場所に、野草が世界を構築したのか。人間が触れることのできない物質で形作られた下位世界。ここにはまた誰かの下位世界が生まれたりするのだろうか。
オレがぼんやりと考えていた時間は、それほど長くはなかった。間もなく、誰かの呼び声と身体を揺すられるような感覚があって、一瞬の空白のあと、オレは目を覚ましたのだ。
―― 眩しさに目を細めると、オレの目の前に誰かが立っているのが見えた。
「巳神君、起きた……?」
なんだか頭痛がする。オレはいったい何をしていたんだろう。
しっかりと背筋を伸ばして顔を上げると、目の前にいるのが1人の看護婦だと判った。目に涙をためて、唇をゆがめている。……思い出した。オレは集中治療室で治療を受ける野草が気になって、廊下の長椅子で様子を聞いていたんだ。
「巳神君……ごめんなさい。薫さん、助けられなかった……」
看護婦はオレの両手を握っていて、その重なり合った手の甲に、彼女の涙が落ちた。……そうか、野草は死んだんだ。野草の最愛のキャラクター、葛城達也に抱きしめられて。
「……看護婦さんが悪いんじゃないです」
なんとか、それだけを伝えて、立ち上がったオレはそのまま自分の病室に戻った。オレを邪魔する人は誰もいない。アフルも、シーラも、再び現われることはないだろう。
ベッドに潜り込んだオレは爆睡して、夢を見ることはなかった。
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丸1日の検査入院。その日のうちにオレは帰宅を許され、翌日1日だけ学校を休んで、木曜日には普段どおりの電車に乗った。JR駅からバスに乗り換えて20分。バス停の向かい側は空き地になっていて、黒澤弥生が住んでいたアパートそのものが野草の創作だったのだと知った。裏道を通って、新都市交通通学の生徒の列と合流して、長い坂を下る。沼を渡る橋の手前に県立沼南高校入口の看板。タケシの車が激突した校門も、何事もなく元のままだった。
クラスのみんなはもしかしたらオレにいろいろ訊きたかったのかもしれない。だけど、オレは半分夢の中にいるようにぼんやり考え込んでいたし、声をかけられても満足な受け答えができなかったから、みんなもオレに気を遣ってたんだろうな。そんな調子だったから、オレが野草の彼氏だったっていう噂が、もっともらしく囁かれもしたらしかった。
そして翌日の金曜日、野草の葬式があった。
文芸部の顧問に引率されて、オレは初めて野草の自宅近くを訪れた。新都市交通終点の乗換駅からJRで10分、更に15分ほどバスに乗る。葬儀は公団住宅の集会所で執り行われていて、そのときオレは初めて、野草が母子家庭のひとりっ子だと知ったのだ。野草の母親は夜中のビル清掃の仕事をしていたから、病院に駆けつけられなかった。その母親は喪主の席に呆然と座っていて、誰も声をかけることはできなかった。
遺影の写真は、夏の合宿で撮った集合写真。オレは前から何度もその写真を見ていたのだけれど、今、花に囲まれてぼんやりこちらを見返す野草を見ても、なぜか本人のような気がしなかった。……野草は、本当に生きていたのか? 文芸部で小説を書いていた。長編小説をオレたちに披露してくれた。あの下位世界で野草は確かに生きていたんだ。現実の野草は、果たして本当に生きていたって言えるのか?
あの不思議な夜を境に、オレの中での野草の存在は、明らかに変化していたんだ。オレにとっての野草は、文芸部で独り本を読む野草じゃなくて、葛城達也に抱きしめられて満足そうに死んでいった、あの野草なんだ。
このあとも数日の間、オレは読書も試験勉強もまったくしないで、ひたすらあの夜と野草のことを考え続けていた。
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生活が日常に戻って、野草の下位世界の影響を受けていた景色も正常化して、オレ自身の記憶も徐々に薄れていった。あの夜の出来事を何度も繰り返し辿っていたけれど、結論が出る訳でもなくて、オレもショックから立ち直りつつあった。オレは野草を救えなかった。もっと時間があったら、オレに知識があったら、何か解決策を考えられたかもしれない。だけどそれもすべて過去のことだった。今のオレがいくら考えたところで、死んだ野草を生き返らせることはできないのだ。
さすがのオレも考えることに飽きてしまったから、気分転換のつもりで手近な本に手を伸ばした。 ―― 『蜘蛛の旋律』。あの日、野草と本屋に行って、やっとの思いで手に入れた最期の本。
心を落ち着けて、オレは『蜘蛛の旋律』を読み始めた。
物語の舞台は、今から約1000年後の架空の都市を設定している。
1000年前(というからほぼ現代だ)、地球に未曾有の災害が起こり、地球上に生息する人間のほとんどが死滅した。
何とか生き延びることのできた僅かな人間たちは、それから1000年をかけて、それまでとはまったく違った経路で文明を発達させてゆく。
その発展の中心になったのが、のちにミュー=ファイアと呼ばれる1人の男だ。
災害後数100年を生きたとされるミュー=ファイアは、その世界では伝説となり、神と呼ばれている。
この世界ではヒトゲノムは完全に解析され、人間の性別は4つに分類されている。
本来男性とされる性別を更に2つに分けてMY型、MX型とし、女性はFY型、FX型とされた。
そして、その4つの性別が同型でさえなければ、互いに婚姻することが可能なのだ。
物語は3人の人間を中心に描かれている。
それぞれMY型、MX型、FY型で、オレの感覚では男性2人に女性1人。
でも、全員が異性で、この『蜘蛛の旋律』という小説は、3人の異性の恋愛物語だったのだ。
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『蜘蛛の旋律』という物語そのものは、1000年後の社会の政治的問題点や思想を絡めたSF恋愛小説で、雑誌の投稿にあった3人の読者の批評は嘘じゃないと思うくらいにはおもしろかった。だけどそれとは別に、オレは気付いたんだ。その1つ目は、この小説が野草の作品だったということ。
今まで1年半、オレは毎月野草の作品を読み続けてた。だから野草の言い回しや文章の癖が身についてしまっていたんだ。作者名も違うし、作風そのものもかなり違うのだけど、これが野草の作品に間違いないって自信はある。野草はオレたちには内緒で、出版社と契約してこの本を出していたんだ。
そして、もう1つオレが気付いたこと。物語の中に出てくる伝説の神ミュー=ファイアは、あの葛城達也だ。もしかしたらオレは、ミュー=ファイアが葛城達也だと気付いたから、この物語が野草の作品だって確信したのかもしれない。
1000年前に未曾有の災害に襲われ、ほとんどの人間が死滅したあとの1000年後の世界。小説の中には災害がいつ起こったのか明記されてはいないけれど、野草の中ではちゃんと設定されていて、なおかつ葛城達也がこの災害を引き起こすきっかけになっていたのだろう。死ぬ直前、野草が言った「あの小説」とは、この『蜘蛛の旋律』だったのだ。野草は数年後か数十年後かに人類が死滅する小説を書いていたから、自分が死ぬしかなかったんだ。
今、世界は元に戻っていて、葛城達也もいないし城河財閥も存在しない。葛城達也が存在しない以上、災害が起こることはないのだろう。だけど、野草の作品そのものは残っている。『蜘蛛の旋律』も、野草が文芸部で書き続けていた、たくさんの短編も。
―― もしかしたら、野草の作品はまだあるんじゃないのか? オレが読んだシーラやアフルや巫女の小説も、オレがまだ読んだことのない、片桐信やその他の多くの小説も。
野草はいつも自分のワープロで小説を書いてた。そのワープロの中には、野草の未発表作品が眠っているかもしれないんだ。
そこまで思って、オレはいてもたってもいられなくなってしまっていた。
そして、野草の初七日が過ぎる水曜日を待って、再び野草の自宅を訪ねてみることにしたのだ。
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水曜日は中間試験の初日で、3時間の試験をこなしたオレは、駅前で軽い食事をとって電車とバスを乗り継いだ。公団住宅前でバスを降りて、メモを頼りに部屋を探す。部屋は程なく見つかった。誰もいないかもしれないとも思ったけれど、幸い部屋には野草の母親がいて、野草の友人だと名乗るとひどく驚いたようにオレを招きいれてくれた。
実年齢よりもだいぶ老けた風に見える母親は、野草のことについてはあまり話したくないように口を閉ざしていた。あの時巫女は、野草が母親にさえ恐れられていたのだと語った。オレは形式どおり、仏壇に線香をあげて手を合わせて、出されたお茶を飲む。野草の部活仲間であること、彼女の作品を好きだったことなんかを簡単に話して、野草が生前書いた小説があれば読ませて欲しいと切り出した。
まだ、なにも片付けてはいないのだと、母親はオレを野草の部屋へ入れてくれた。殺風景で、よけいなものが何ひとつない部屋だった。ワープロは勉強机の上に置いてある。触ってもいいかとそれだけ確認して、オレはデスクに腰掛け、ワープロのスイッチを入れた。
起動のためのFDを入れ替え、画面の変化を見つめる。ケースにはいくつかのFDが入っていて、番号だけがふられたFDの1番を入れて呼び出してみた。だけど、そのFDはフォーマットされていたのだ。12番まであったけれど、そのすべてがフォーマットされて、中にはなにも入っていなかったのである。
オレは再び許可を得て、机の引出しや棚に別のFDがないかどうか、丹念に探し始めた。野草がオレたちに読ませてくれた小説はプリントアウトされてたから、その原稿もあわせて探した。だけど、その広くない部屋の中には、野草が書いた小説に関するすべてのものが存在しなかったのだ。メモ用紙の1つも、ノートの片隅にも、小説といえる一切のものは消えてなくなっていたのである。
野草は、誰かがここにくると思って、小説をすべて処分したのか?
それとも、野草のキャラクターの誰かが、何かの意図をもって処分したのか ――
オレはもう、野草の小説を読むことができない。シーラの小説は処分されてしまって、オレの記憶の中にしかないんだ。オレは二度とシーラに会えない。オレが初めて恋をしたあのシーラには、もう二度と会うことができないんだ。
シーラに会いたかった。二度と会えないことを知ってしまったから、オレはよけいにシーラに会いたくてしかたがなくなってしまったのだ。
そしてオレは、自分の記憶だけを頼りに、まるで取りつかれたようにシーラの小説を書き始めたのだ。
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卒業、進学、就職、恋愛。
野草がいない時間も順調に過ぎて、あれから既に10年が経とうとしていた。
オレは今、仕事をしながら、黒澤弥生の名前で小説を書いている。
仕事帰りのその足で、オレは1人の女性に会うために車を走らせていた。会うのは約2ヶ月ぶりくらいだ。ずっと書き続けてきた小説が昨日やっと上がったから、そのねぎらいの意味も込めていた。
世間ではクリスマスが近づいて、彼女の家に続く国道傍もなんとなく華やいでいる。大きな橋を渡って、ガソリンスタンドの角を曲がって、次の県道を突っ切る。この道もずいぶん変わったと思う。シーラと走ったあの頃は、あんなに大きな会社はなかったし、あのパチンコ屋もこんなにきれいじゃなかった。
バス停前のわき道を入ってすぐのところに路上駐車をした。歩いて再びバス停まで戻って、向かいへ渡ると目の前に1つのアパートがある。初めてこのアパートを見つけたのは3、4年前だったか。それまで空き地だったはずの場所に、築10年は経ってるだろうアパートを見つけて、オレは驚いて膝が震えてきたのを覚えている。
今は、そんなことはない。いつもの通りそのアパートに近づいて、黒澤の表札がかかった部屋の呼び鈴を押した。ややあって飛び出してきたのは、オレより少し年下くらいに見える、1人の女だった。
「やあ、巳神君久しぶり! ちょうどいいタイミングだね。昨日だったらあたし出られなかったよ」
笑顔で話す黒澤弥生。オレは心の中で苦笑しながら言った。
「小説書き終わったのか?」
「うん、昨日ね。もう、やっと終わったー! って感じ。しばらくは小説なんか書きたくないかな」
「夕飯まだだよな。出られそう?」
「大丈夫。車で待っててくれる?」
たまに思い出したように黒澤弥生を食事に誘うのが、最近のオレの密やかな楽しみになっていた。
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新都市交通の駅の向こう、昔アフルとドライブした通りに新しくできたカレー屋に落ち着いて、オレは黒澤の話を聞いていた。あの頃の黒澤は嫌味なオバサンにしか見えなかったけど、今見ればそれなりにかわいいと思う。オレの見る目が変わったのかもしれないし、もしかしたら黒澤自身、相手に合わせて違った面を見せてるのかもしれない。
「 ―― 今回は話的には割と楽な方だったんだ。でも、毎日連載はやっぱきついよ。今回からメルマガも始めちゃったしね。HPの時と違って、気軽にお詫び出せないし」
オレは黒澤に、自分のことはほとんど話していない。だから知らないだろう。黒澤弥生がオレのペンネームだってことは。
「『永遠の一瞬』の最終回、読む?」
読む必要はないんだ。そこに書いてあるのは、オレが昨日書き上げた小説そのままなのだから。
「いいよ。メルマガの方で楽しみにしとくから」
黒澤はちょっと残念そうな表情を見せた。
高校の頃、オレが初めて書いた小説は、シーラが主人公のスパイ小説だった。だけど、その小説は初めて小説を書く人間が完成させられるほど、甘い小説じゃなかったんだ。けっきょく書き上げることができなくて、オレはもっと簡単な小説をいくつか書くことになった。オレ自身のオリジナル小説を何編か完成させたあと、野草の葛城達也が出てくる長編小説を書いた。
数年後に『地這いの一族』を書き上げて、オレがこの黒澤弥生に出会ったのはちょうどその頃だ。オレが書いた小説を、そっくりそのまま同時に書いている黒澤弥生。この黒澤は、オレの黒澤弥生だった。野草のキャラクターじゃなくて、オレ自身が生み出したキャラクターだったんだ。
オレの下位世界が、現実世界に影響を与えてできたキャラクター。まだ、葛城達也は実在しないし、このあたりの風景も変わらない。だけど、オレの下位世界は現実世界を変え始めている。黒澤弥生は、オレが一歩野草に近づいた、その証のようなものだったんだ。
これから先オレがもっと自分の下位世界を広げていけば、やがて世界を変えることができる。シーラを、実体化させることができる。
オレはシーラに会うことができるんだ。
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「メルマガ連載はしばらく休むのか?」
「さすがに疲れたからね。年末年始は仕事も忙しいから、来年頭くらいまではお休みすると思う。今回転勤した職場、前のところの3倍は忙しいんだ」
黒澤は普通に仕事も持ってたし、オレと知り合ってからも適当に恋愛もしていた。オレは黒澤をかわいいと思うけど、それは自分のキャラクターに対する情みたいなもので、恋愛感情じゃなかった。黒澤もそのあたりは察していたんだろう。彼氏ができたといっては浮かれてオレに話してきたし、ふられたといってはオレに怒りの電話をかけてきた。
オレもいくつか恋をした。だけど、シーラのような女の子には、未だに出会うことができなかった。
「1ヶ月は休むのか。……次回作、考えてるのか?」
黒澤はちょっと考えるようにしていた。迷ってるのは判ってる。オレ自身がまだ結論を出してないからだ。
「書きたい小説はあるんだよね。途中のまま放り出してる『シャーマンの祈り』も書き上げたいし、『地這いの一族』の続編も書きたいしね。でも、『シャーマン〜』は長いからできれば避けたいんだ。『地這い〜』はやたら暗くなりそうだし」
「だったらさ、オレが主人公の小説、書いてみないか?」
黒澤はきょとんとしてオレを見上げた。初めてだったからだ。オレが、黒澤の小説にアイデアめいたものを出したのが。
「オレと、お前が出てくる小説。高校生のオレが主人公なんだ。……昔、オレの部活仲間に野草薫って女の子がいてさ。その子は内気なんだけど、すごく小説が上手だった。もうちょっとあったかい頃だったかな。その子が事故に遭って、生死を彷徨う彼女の夢の中に、オレは紛れ込んじまったんだ ―― 」
真剣な表情で、黒澤はオレの話す物語を聞いていた。病院に現われたアフルストーンと名乗る少年。シーラという美人の女。オレは黒澤に話しながら、自分があの時体験したその不思議な一夜を詳細に思い出していた。
あの時は判らなかったことが、今なら判る気がする。10年が経った今、あの時のアフルの不可解な行動も、シーラの恋の理由も、片桐信の不思議な言葉の意味も、すべて解き明かせた気がするのだ。
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野草が事故に遭った瞬間、自我を持った7人のキャラクターは、野草の生い立ちや下位世界と現実世界の仕組み、ほかのキャラクター達のすべての物語を知った。野草が彼らを創った神で、その神が自ら死を選ぼうとしていること。そして神の死は自分の死であることを知った。
その時の混乱と失望は、シーラが語ってくれた。だけど、その混乱が去った時彼らが思ったのは、なんとしても生き延びたい、ということだったのだろう。彼らは自分達が生き延びる手段を求めて、まずは野草の病室に現われた。そして、そこにいた現実世界の人間、巳神信市と会うことになった。
シーラはオレを黒澤弥生のところに連れて行き、オレが野草の自殺願望を覆すために召喚されたのだと知る。だけど、本当は誰も、オレが野草を救えるなんて信じていなかったんじゃないだろうか。黒澤弥生にしても、ほかのキャラクターにしても。シーラは最初は信じたのかもしれないけど、しばらくオレと行動してみて、オレにその力がないことを見抜いたんじゃないだろうか。
だって、彼らは知っていたのだ。野草が『蜘蛛の旋律』を書いていたことを。『蜘蛛の旋律』の中では人類は、僅か一握りの人数を残してすべて死滅する。それは百年後の出来事じゃない。数年か数十年後に確実にそのときは訪れ、彼らだって無事に済むはずがなかったのだ。当然野草はなまじな説得には応じないだろうし、万が一応じたところで、数年後にはすべて水泡に帰す。野草の説得というのは、最初から無意味なことだったのだ。
では、黒澤弥生はなぜ、オレを召喚したのか。少なくとも二度目に会ったシーラとアフルはその理由を悟っていたような気がする。このときアフルは葛城達也と接触していた。シーラも、葛城達也に操られたタケシと一緒にいた。このあたりは推測でしかないけれど、もしかしたら2人は葛城達也にその理由を聞いたのかもしれない。
黒澤弥生が、役に立たないオレをわざわざ召喚したのはなぜなのか。どうして、召喚されたのがオレだったのか。
生き延びるために、彼らは野草を見捨てて、新しい神を見つけようとしたのではないだろうか。
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黒澤弥生はオレを、野草に代わる新しい神に仕立てるために、野草の下位世界に召喚したのではないだろうか。
野草を救うためには役立たずでも、野草の小説を好きでシーラに恋までしていたオレは、野草の物語を受け継ぐには好都合だったはずだ。今まで自分の小説を書いたことはないけれど、ほかの人間の小説になら山ほど触れてきた。多少の不安はあっても、まったく小説に興味がない人間よりは、小説を書いてくれそうな気がする。あとはどうやってオレをその気にさせるかだ。キャラクター達はそれぞれ方法を考えて、シーラが取った手段が、オレに恋を仕掛けることだったんだ。
万が一にも野草がオレに説得されないように、彼らはオレに真意を悟られないよう注意しながら、小説『蜘蛛の旋律』の存在を隠してきた。片桐信が言った「お前達は本当は既に目的を果たしたんだろ?」という言葉の意味は、「お前達は巳神信市に自分の存在を印象付けることに成功したんだろ?」というようなものだったんだろう。確かにオレは、小説を読んだ時よりも更に明確に、彼らを自分のイメージとして取り込んでいた。そのあとアフルと武士に倒されていったキャラクターもそうだった。たとえ操られていたとしても、実物を見てその姿を目に焼き付けたことで、オレの中のイメージはより明確になっていったのだ。
葛城達也は、野草と一緒に死にたかったんじゃない。自ら命を絶ってまで自分を殺そうとした野草に復讐しようとしたのだ。
オレは、そんなあさましいキャラクター達の、新たな神に選ばれた生け贄だったんだ。
「 ―― へえ、不思議な話だね。でもおもしろそうだから書いてみたいな。みんな今まで書いたことがあるキャラばっかりだから、新しく人物設定しなくてもよさそうだし」
黒澤がその気になっていたから、次回作はこれに決まりそうだった。オレが生み出した、オレのキャラクター。黒澤弥生の運命は、オレが握っているのだ。
「それで? タイトルはどうしようか」
「『蜘蛛の旋律』でいいだろ。意味もよく判らないし、どこかおどろおどろしくてピッタリだと思うぜ」
こうして、なにも知らない黒澤弥生によって、オレの『蜘蛛の旋律』は動き始めた。
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オレは、野草ほど小説が上手じゃない。オレの下位世界も野草ほど詳細じゃないから、現実世界に実体化しているのも黒澤弥生ただ1人だ。だけど、これから先小説を書き続けていけば、いずれはオレも野草のようになれるだろう。すべてのキャラクターを実体化させて、風景を変え、歴史を変えることができるだろう。
実はオレは、葛城達也たちに神に祭り上げられたことを、それほど怒ってはいなかった。生きているものは誰だって、自分が生きるために最善を尽くそうとする。子供を作って自分の遺伝子を残そうとすることもその1つだ。それは生きているものの本能で、野草のキャラクター達はより生き物に近い存在だっただけなんだ。
彼らは、オレの記憶の中に、野草が作り上げた自分のイメージという遺伝子を植え付けた。そのイメージはオレが持つイメージと結合して、オレが書く新たな小説の中に誕生する。もしかしたらそんな彼らはオリジナルの彼らとは違うものなのかもしれない。だけど、彼らは間違いなく野草のイメージを受け継いだ、言ってみればキャラクターの子供たちなのだ。
オレは、オレが世界を変えることを恐れてはいない。小説が風景を変えることを、むしろ楽しいと思う。そのあたりがオレと野草の違いなのだろう。少なくともオレは、野草と同じ理由で自殺を選ぶことのない、野草よりも強靭な精神を持った神なのだ。
もしも、キャラクターがすべて実体化するくらいにオレの下位世界が育ったら、そのときは本物の『蜘蛛の旋律』を書いてみようと思う。
人類のほとんどが死滅するほどの災害と、その1000年後に繰り広げられる新しい文明の世界。果たしてそれは実現するのだろうか。それとも、オレが死んでオレの下位世界が消滅した瞬間、世界はすべて元に戻るのだろうか。
楽しみにしていようと思う。
小説を書くことで、オレが本物の神になり、再びシーラに出会えるその瞬間を。
了
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