蜘蛛の旋律



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 アフルの家は通りから少し奥まっていたから、周辺には田んぼが多くて視界を遮るものがない。だからアフルの部屋の窓からは、さっき通りで見たよりもはっきりと、世界が崩壊する様子を見ることができた。
 拡大してゆく空の破れ目。その下に広がる街並みは、3ブロック先くらいまででいきなり途切れてしまっている。その向こうに広がるのは虚無だ。しばらく見ていると、虚無がゆっくりと建物を飲み込んで、塵のように崩してゆく姿が見て取れた。
 おおよその見当で、1分間に1つずつの建物が飲み込まれている。この速度がこのまま変わらなかったとすると、約1時間後にはこの家も塵になってしまうだろう。今、この家で寝ているアフルの両親も。オレがこの考えに行き当たってアフルを見た時、アフルは何も言わず、切なそうに1つ頷いただけだった。
 ここにタケシを置いておけばやがてタケシも塵になる。だけど、たとえどこにいたところで、完璧な安全などありはしないんだ。野草の下位世界が崩壊を続ける限り、やがてすべてが塵に帰ってしまうのだから。
 それを喰い止めるためには、オレが野草に会って生きる希望を取り戻してやるしかないんだ。
「巫女、薫は間違いなく沼南高校にいるよね」
 シーラの言葉に、巫女は力強く頷いた。
「さっき武士に確認してきてもらったからね、間違いないと思う。あの場所には、薫と葛城達也、それに片桐信と、葛城達也に操られたたくさんのキャラクター達がいる。世界の崩壊もすべてあの場所を中心にして進んでる。私たちが行かなければならないのは、あの場所だよ」
 シーラは、今までオレが見た中で一番強い目をして、オレたち全員を振り返った。
「タケシはここに置いて行く。塵になっても、葛城達也の手下になるより遥かにマシだから」
 そう、言い放ったあと、シーラはもう振り返らずにアフルの部屋を出て行った。
 シーラの中でどんな葛藤があったのか、オレはとうとう察することができなかった。


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 2階の窓からは、シーラがバイクに乗って走り去る姿を見ることができた。おそらく一足先に沼南高校に向かったのだろう。できるだけ早く追いかけなければならないと思うのだけれど、残されたオレたちにはまだ考えなければならないことがあった。
 ベッドに眠ったままのタケシ。シーラはここに置いてゆくように言った。だけど、本当にそれでいいのか? シーラは本当に、タケシが消えてしまうことを望んでいるというのか?
 シーラを見送ったあと、オレはほかの3人を振り返った。武士はタケシの枕元で見下ろしていた。自分によく似たキャラクターを、彼はいったいどう思っているのだろう。
「武士、本当にタケシをここに置いて行くのか?」
 武士はタケシを見下ろしたまま、オレの問いに答えるでもなく、言った。
「あの女は判ってねえな。……惚れた女のためだったら、たとえどんな悲しい記憶だってぜんぶ受け止めるだろう。一番悔しい思いをしているのはこいつだ。……もしも俺がこいつだったら、心の中で記憶を戻してくれって叫んでるだろう。あの女を守りたい、あの女の苦しみをぜんぶ俺が背負ってやる、って」
 ……たぶん、武士の言う通りだと思う。タケシは小説の中で、いつもシーラを守ろうとしてきた。守れない自分を一番悔しいと思ってるのはタケシだ。そんな武士の独白に答えたのはアフルだった。
「そうは言うけどね。もしも僕がタケシの記憶を戻したら、たぶんシーラに恨まれるよ。シーラは僕のことをあまりよく思っていないようだしね」
「戻そうと思えば戻せるのか?」
「少し時間はかかるけど、何とかなると思うよ。僕は別の小説で人の記憶を戻したことがあるから。薫の人物設定ではその能力があることになってるんだ」
 もしもタケシの記憶を戻せば、オレたちはかなり強力な味方を得ることになる。だけどオレは、できることならタケシとシーラのツーショットなんか見たくはなかった。


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「判ってないのはお前の方だよ、武士」
 突然、巫女が会話に割り込んできていた。オレも武士もアフルも、ほとんど同時に巫女を振り返っていた。
「未子」
「いかにも男どもが考えそうなことだね。女はね、そんなややこしいことは考えてないんだ。……いいか、シーラはああは言ってたけど、ほんとはタケシの記憶が戻ることを望んでるよ。心の底からね。だけどね、それは他人の力を借りたんじゃ、意味がないんだ。タケシが本当に自分を好きで、自分のために命を張る覚悟があるなら、たとえ地獄の底にいたって自分のために駆けつけて欲しい。誰に操られてたって、誰に記憶を封じられてたってね。何もかも撥ね退けて自力で来て欲しいんだよシーラは。それができない男なら、女は必要ないんだ。塵になって消えてくれた方がいいんだ」
 オレも武士もアフルも、巫女の言葉に何も言うことができなかった。
「アフル、あなたのことだってそう。シーラはあなたが何者であってもかまわないよ。ただ余計なことをして欲しくないだけ。……タケシは縄抜けくらいできるね? だったら、さっさとタケシをベッドに縛り付けて、私達もシーラを追いかけるよ。あまり長いことシーラを1人にしておいたら、待ちくたびれて勝手に校舎に飛び込んじゃうかもしれないからね」
 巫女は……けっして美人じゃない。武士の姉だけあってあまり造作がいいとはいえなかったし、目つきは三白眼で言葉も女性らしくない。だけど今のオレには、巫女は誰よりも美しい女性に見えた。……思い出した。野草の書いた小説の中で巫女は、しばらく言葉を交わし、その魂に触れると、この世の誰よりも美しく見えると描写されていたんだ。
 人の運命を司り、その責任をこの小さな身体に背負っている1人の女性。この人の存在感は、たったこれだけの言葉だけで、オレの中に深く刻み込まれていた。
「巳神、シーラは賭けをしたんだ。もしもタケシが自我を取り戻せたら、必ずシーラのところに戻ってくる。その希望をシーラに与えることができたのはあなたのおかげだよ」
 巫女はそう言って、すべてを判っているのだというような笑顔をオレに向けた。


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 タケシをベッドに縛り付けて、オレは武士とアフルを伴って黒澤のパルサーに乗り込んだ。運転席に武士、助手席にアフルで、オレは後部座席を半分空けて巫女を待つ。間もなく現われた巫女は、それまでの巫女の衣装を脱いで、長袖TシャツとGパンというラフな格好に変わっていた。
「待たせたね。武士、いいよ」
 小説にもあったのだけど、こうしてラフな服装をした巫女というのは、どこか目のやり場に困るような雰囲気がある。長い髪はきっちりとうしろで縛っていて、表情も姿勢もごく普通の女性のものだったのだけど、どういう訳か官能的で誘われているような感じがあるんだ。文字で読んでいる時には「そういう人」で済ませてしまえても、こうして隣に座っているとなかなかそういう訳にはいかない。車の中は沈黙していたから、そんな気分を払拭すべく、オレは巫女に話し掛けていた。
「巫女は、これからオレたちがどういう運命を辿るか、知ってるのか?」
 振り返って、ちょっと悲しみの混じった笑顔で、巫女は答えた。
「判ってるよ。これから何が起こって、巳神がどう行動して、そのあとどういう結末になるのか、あたしにはぜんぶ見えるんだ」
「それは教えてはもらえないのか?」
「難しいところだね。人の運命には時々分岐点があって、生きていく過程で運命を選択して、ひとつの軌跡を形作る。1人1人の人生にも数え切れないくらいの分岐点があるし、それがすべての人間の数だけ存在して、1人の人間の選択が他の人間の人生に影響を与えたりもしてる。私はそのすべてを見ることができる。それって、どういうものだか想像できる?」
 もちろんオレには想像なんかできなかった。もっと簡単な迷路やジグソーパズルだって、オレは混乱してまともに解くことができないんだ。たぶん巫女が見ている運命は、すごく複雑な迷路がものすごく大量にあるような状態なのだろう。
「塞翁が馬って話を知ってる?」
「ああ、確か塞翁って人の馬が逃げ出すところから始まる話だよな」
「さすが、巳神は物語には詳しいね。塞翁の馬が逃げ出して落胆していると、逃げた馬はとてもいい馬を連れて戻ってきた。息子がその馬から落ちて怪我をしてしまう。だけどそのおかげで戦争に行かずに済んだ。……もしも運命を知る人がいて、息子が落馬することを塞翁に教えたとするよ。たぶん塞翁は息子を馬に乗せないようにするね。だけど、落馬しない代わり、息子は戦争に行って命を落としてしまったかもしれないんだ」


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 巫女のたとえ話で、オレは巫女が持つ「運命の守り手」という役割の意味を、ほんの少しだけ理解した気がした。
「今のオレには教えないことの方が大切なんだな?」
「人の運命はね、知らなくていい場合の方が遥かに多いんだ。私にはすべてが見えるけど、悪い運命を人に教えることなんてほとんどできないよ。見えなければいいのにと思ったこともある。……薫はいったい、何を思って私を作ったんだろうね。薫は何が見たかったのかな」
 最後の方はほとんど独白のようで、オレは黙って聞いていることしかできなかった。『地這いの一族』という小説の中には、巫女の悲しみや2人の弟に対する愛情が切々とつづられていた。野草には運命を見ることの切なさも理解できていたのだろう。もしかしたら、巫女というキャラクターを通して、初めて理解したのかもしれない。
 そうか、作者は小説を書くことで、キャラクターと一緒に成長することができるんだ。巫女を理解しようとすることで、野草は様々なことを知ったのだろう。運命の意味も、それを守ることの大切さも、守り手の苦しみや悲しみも。
 今の野草はたぶん巫女と同じだ。自分の小説が風景を変え、歴史を変え、人の運命を変えている。たぶん野草は巫女と同じように苦しんでいる。だとしたら、巫女がこの苦しみから逃れる方法を見つけたら、それを野草に伝えることができたら、野草の自殺願望を消すこともできるんじゃないだろうか。
「巫女、君はその苦しみを乗り越えることはできない?」
 オレの口調が変わったからだろう。巫女はちょっと驚いたようにオレを見つめた。
「人の運命を変える自分を正当化する理由は見つけられないのか? 誰のためとか、誰のせいとか、そういうんじゃなくて、ここに自分が存在するのが一番正しいことなんだ、って、そう思うことはできないのか?」
 野草に作られ、野草に育まれたキャラクター。野草と一緒に成長してきたキャラ。すべてのキャラは野草の心の中に存在する。だから、野草よりも進んだ考えをもつことはできない。
 オレが巫女に要求していたのは、キャラクターが作者を超えるという、ほとんど不可能だと思えることだった。


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 巫女は少しの間オレを見つめていたけれど、ふっと、緊張を解くように微笑んだ。こういう間の取り方は野草のキャラクターに共通している。全員まったく違うようでいて、彼らはやっぱり野草という同じ土壌から生まれているんだ。
「巳神、あなたの考え方はおもしろいね。今、黒澤弥生が書いている同じ小説の中にいて、あなただけが違うってことがよく判る。……私は薫を超えられないよ。超えられない」
「どうして? やってもみないうちから諦めるのか?」
「物語もキャラクターも、作者が成長すれば一緒に成長する。どちらも作者の下位世界の中にしか存在しないからだ。巳神、薫はね、私たちにとっては神と同じなんだ。世界を作り、人間を作り、運命を紡ぐ」
 ああ、そうだ。この世界を作ったのは野草なんだ。ここにいるキャラクターにとって、世界を作った野草は神に等しいんだ。
「……あなたは、あなたの世界の神を超えることができる?」
 正直、オレは漠然としか考えたことがなかった。オレは自分の世界の神の姿を知らないんだ。存在するような気はしているけれど、見たことも会ったこともない。どんな姿なのか想像もできない。ましてそれを超えるなんて、とうていできるとは思えない。
 巫女は、野草の事故によって、自分の神の姿を知った。神が死ぬことを知って、世界の崩壊を知って、神を救おうと足掻いた。
 やっと、オレはすべてが繋がった気がした。彼女達にとっては野草は高校生の女の子なんかじゃないんだ。自分達のすべてを司るもの。まさに、神としか言いようがないんだ。
 オレの世界にもオレを作ったものはいる。オレにとっての神はいったいなんだろう。オレや野草にとっての神も、ふたを開ければ高校生の女の子だったりするのだろうか。
 オレも、誰かの小説の登場人物だったりするのだろうか。
「あ、運がいいね、巳神。シーラはどうやら待ちくたびれなかったみたいだよ」
 巫女に言われて窓の外を見ると、車は既に沼南高校前の交差点を曲がるところだった。


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 オレと巫女、タケシとアフルの4人が車から降りると、少し緊張した面持ちでシーラがオレたちに近づいてきた。オレたちの到着を待ちながら、中の様子を窺っていたのかもしれない。その表情に笑顔はなかったけれど、やっぱりシーラは綺麗で、振り返った瞬間オレの胸は高鳴った。
「どんな様子だ」
「すごく静か。まるで誰もいないみたい」
 武士の問いかけにシーラが答えたあと、武士は様子を見ながら校門近くまで歩いていった。門のところにはまだタケシのレガシィB4がさっきと同じ形で潰れている。オレたちも近づいて、判らないなりに中の様子を見定めようと目を凝らした。
「少し移動したな。手前の校舎にはあんまり気配がねえ」
「そうだね、奥の校舎の方にいるみたいだ。3階の付近に気配が集中してる」
「アフル、お前も判るのか?」
「一応僕も超能力者のはしくれだからね。でも、校舎の中は今は葛城達也の結界が張られてるから、僕の力では突破するのは無理みたいだ。全員でテレポート、っていうのが理想的だったんだけどね。地道に歩いて近づくしかないらしいね」
 武士とアフルが交わしている会話の内容を、オレはまったく実感することはできなかった。だって、本当に校舎は静かなんだ。それとも、葛城達也が張っている結界が、オレに気配を感じさせていないのか。
「巳神君、超能力者の結界は、そうでない人の五感には影響ないよ。僕はちょっと乱されてるけどね。その証拠に、武士はちゃんと気配を感じてるだろ?」
 オレの心を読んでアフルが言った。……悪かったな。オレはどうせ鈍いよ。だけどよりによってシーラの前でそんなこと言うことないじゃないか!
 そんなオレの悪態も読んだのだろう。アフルは少し苦笑いを浮かべてまた校舎を振り返った。
 その時だった。
 手前の校舎、受付に続く2階の扉から1人の男が現われて、外階段をゆっくりと降りてきたのだ。


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 最初にこの男に会った時の恐怖を、オレは忘れてはいない。
 オレにそっくりな顔と、姿と、声と癖を持っていた。野草がオレをモデルに作り上げたキャラクター。初めて野草の病室で会ったとき、こいつは野草の首に手をかけ、殺そうとしていた。シーラが間違えるほどオレによく似た、片桐信という名前の男だった。
 近づいてくる片桐からオレは目が離せなかった。……たいしたことじゃない。こいつだって野草のキャラクターで、今ここにいる4人と何ひとつ変わらない。超能力者でもない。普通の恋愛小説の登場人物で、オレと同じ高校2年生だ。
 オレがこいつを恐れる気持ちはいったいどこからくるのか。こいつの物語を、オレが知らないからか? 普通の出会いなら初対面で相手のことなんか判らない。オレがこいつを恐れる必要なんて、まったくないんだ。
 近づいてきた片桐信は、オレを見て憎しみを表情にした。そして、ひと通りオレたちを見回したあと、武士に向かって言った。
「薫に近づかないでくれないか」
 言葉はオレが想像したよりもはるかに穏やかで、恐怖を感じていた分、オレは拍子抜けしてしまっていた。
「折衝にきたのか。……あいにくだが、そういう訳にはいかねえよ。俺はまだ世界を失いたくねえ」
「薫はもう誰にも会いたくないんだ。静かに、自分が死ぬ時を待ちたいと思ってる。死に向かって穏やかな気持ちでいる人間をわざわざ乱す必要はないだろ。黙って逝かせてやってくれないか」
 武士に向かって話す片桐は、オレに見せたような憎しみは微塵もなくて、むしろ悲しみを多く宿したような表情をしていた。……たぶん、シーラが言ってた通りなんだ。片桐も野草のことを愛していて、野草の希望をかなえてやりたいと思ってる。野草が死にたいのなら静かに死なせてやりたいと思ってる。ここにいる4人のキャラとまったく同じなんだ。片方は生きる希望を持たせようとし、片方は死を守ろうとしている。
 野草が本当に望んでいるのは、いったいどちらなのだろう。それとも、野草自身、今戦っているところなのかもしれない。
 このキャラクター達の戦いは、そのまま野草の心の戦いなのかもしれない。


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 野草は本当に死にたいのだろうか。それとも、僅かな希望を欲しがっているのだろうか。
「薫は中にいるんだな?」
 もう隠す必要はないと思っているのだろう。武士の問いに、片桐信はほとんど答えを迷わなかった。
「ああ、いるさ。ほかのどこに薫の居場所がある?」
「今は葛城達也と一緒か」
「達也の居場所も薫のところだけだからな。達也を理解できるのは薫だけだ」
「葛城達也にだけでも会わせてもらえないか? 俺たちは奴と話がしたい」
「達也はお前達と会いたいなんて思ってない。達也はオレと同じだ。ただ、薫を守りたい、それだけなんだ」
 武士も片桐も、野草薫という同じ土壌で生まれたキャラクターだった。どちらも野草のことを好きで、野草のためを思って行動している。
 このとき、片桐は少し様子を変えた。武士から目を逸らして、シーラや、アフルや、巫女のことを探るような目つきで見回したのだ。
「もう、十分じゃないのか。お前達は本当は既に目的を果たしたんだろ?」
 オレは片桐のその言葉をはっきりと聞いていた。だけどその意味を追求しようとするよりも早く、いきなり武士が片桐に攻撃を仕掛けようとしたのだ!
 オレは驚いて武士の行動を追った。武士は片桐に地這い拳を仕掛けて、だけど片桐にひょいと避けられて武士の蹴りは空を切る。どちらの動きも速くてオレにはほとんど何が起こったのか判らなかった。武士の攻撃はその一撃だけで、少し遠くに離れた片桐は、ゾッとするような笑みを武士とオレに向けたのだ。
「悪いな。オレは空手二段を持ってるんだ。オヤサシイ手加減の入った攻撃は効かねえよ」
 空手二段? ……最初に病室で会ったときこいつと争いにならなくてほんとによかった。何もかもオレとそっくりに見えるのに、オレにはないそんな特技を野草は片桐に付け加えてたのか。
 そんなオレのささやかな思いは、武士と片桐の間の緊張にほとんど存在感を持たなかった。


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「 ―― どうやら平行線らしいな」
 しばらくの沈黙のあと武士が言って、片桐もいくぶん肉体の緊張を解いた。
「どうしても薫に会いたいならしょうがねえ。達也は迎え撃つだろうよ。武士、お前は薫が今までに小説に書いたキャラクターが、いったい何人いるのか知ってるのか?」
「……葛城達也はここに全員集めたのか」
「さあな。自分の目で確かめればいいさ」
 片桐はそう言って、再び校舎の中に駈け戻っていった。武士は一瞬追いかけるようなそぶりを見せたけれど、おそらく誘い込まれることを警戒したのだろう、1つ息をついて、オレたちを振り返った。
 武士の目は明らかに変わっていた。まるで戦いに赴く戦士のような強さを持っていた。それだけじゃない。武士の目は、その戦いがほとんど勝ち目のない死への旅立ちであるかのような覚悟に満ちていたのだ。
 葛城達也は、おそらく野草のキャラクターの中では一番強い。野草が最も愛情を注いで作り上げたキャラクター。その存在の強さは、もしかしたらここにいるキャラクターすべてを合わせたよりも強いかもしれないんだ。
「武士、なんて顔をしてるんだ。みんなを緊張させてどうするんだよ」
 そう言ったのは巫女だった。オレも、武士も、シーラもアフルも、ほとんど同時に巫女を見る。巫女の表情は声から想像するよりずっと明るかった。だけど、どこか諦めたような雰囲気も漂わせていた。
「私たちを作ったのは薫だ。だから薫には私たちを消す権利がある。私たちのために薫を死なせちゃいけないんだ。たとえ私たちが消えることになっても、薫を死なせちゃいけない」
 たぶん巫女は、野草を生かすために自分達が消えることまで覚悟していたのだろう。
「武士、薫が生きることだけ考えな。それでなければ葛城達也には絶対勝てないよ」
  ―― このときの巫女の言葉が持つ本当の意味をオレが理解したのは、実際に校舎に侵入した直後のことだった。


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