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「私は、あの災害によって、葛城達也は妹に殺されたかったのだと思います。しかし妹は彼を殺しませんでした。そして災害後の日本を見たとき、彼は人々が指導者を求めていることを知ったのです。その求めに突き動かされて彼は皇帝になりました。しかし、自分を殺せる人間を求めているという彼の欲望のために、東京だけを隔離して、いずれ自分を倒す人物がその中から現われてくることを望んだのです。もちろんあなたの存在も頭に置いていたでしょう。事実、コロニーは2度の革命を起こし、葛城達也を殺そうとしました。……私は彼との会談で、彼の言葉を聞きました。たった一言だけです。「今でも俺を殺したいか」と」
自分の命を存えさせたいと思わない人間に、他人の命の重さは判らない。生きたいという欲望のない人間に、他人が生きたいと思う気持ちは判らない。葛城達也には生きることのすばらしさも、魅力も判らない。欲望を持たない指導者。そういうことだったのだ。
ボスの言う通りだった。葛城達也は今まで、他人の欲望に動かされ、自分の「死にたい」という欲望を満たそうとしていたのだ。オレが抱いていた葛城達也に対するさまざまな矛盾が、ボスによって解き明かされていた。なぜ、オレを殺さないのか。なぜボスを、ミオを殺さないのか。それはミオを愛しているからではない。オレたちが葛城達也を殺す可能性があるからなのだ。
ミオの言うことが間違っているわけではない。ミオは確かに葛城達也の一面を捉えたのだろう。ミオが言う通り、今妹が奴の前に現われ、一緒に暮らしたいと言えば、彼は簡単に日本を見捨てる。だが、もしも彼女が一緒に死のうと言ったとしても、奴は言う通りにするのだろう。それは妹への愛情というよりも、妹が自分を殺せる人間だからなのだ。
「伊佐巳、葛城達也を殺すことは、本当に正しいのでしょうか」
オレはボスの言葉に驚いて顔を上げた。
「正しくないとでも思うのか?」
「それが判らなくなりました。……駄蒙が、私を見捨てて葛城達也についたのだとしましょう。彼はなぜ、葛城達也を選んだのだと思いますか? 私には見出せない可能性を、葛城達也に見出したのではないでしょうか」
ボスはやはり、駄蒙のことでかなりショックを受けているのだ。それでなければこんな迷いを表に出すようなボスではない。以前、ボスは言っていたことがある。駄蒙という人間でいるということは、どういうことなのだろうと。幼い頃から本名で呼ばれることを拒否し、駄蒙という名前を自分でつけてボスというキャラクターに尽くすというのは、いったいどういうことなのだろうかと。
「駄蒙がボスを捨てて奴につくことなんか、本当だと思うのか?」
「ありうることだと思いました。……葛城達也という人は、既に人間のことわりを超えています。私は彼に神を感じるのですよ。その力も、魅力も、残酷さも。人々はみな彼に神を感じているような気がします。ですから彼を崇拝し、彼のもとでは安堵と畏怖とを感じる。私は自分の中にそういった感情が芽生えていることを知って、愕然としました。伊佐巳、あなたは感じませんか?」
「オレは最初からあいつのことは悪魔にしか見えねえよ」
ボスはほっとしたような、なんとも形容しがたい表情をした。
「……やっぱり、私はあなたのそういうところが好きです。判りました。私も駄蒙を信じることにします。私は彼が皇帝側につくよりは、死んで欲しいと考える人間です。駄蒙もそういうことは判っているでしょう」
1つ間違えば、ボスは間違いなく独裁者になる。今の彼の言葉には、オレにそう思わせるものがあった。
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「ところで、あなたの方の話も聞かせてください。記憶をなくしてミオと過ごしていたのでしょう?」
オレはあの頃のことを思い出して、少し顔を赤くしていた。ボスもサヤカを通じて大まかなところは聞いているのだろう。32歳のオレしか知らない人間に15歳のオレのことを話すのは、さすがにかなり赤面ものだった。
「ボスはオレの記憶障害に気付いていたのか?」
「そうですね。気付かなかったと言えば嘘になります。あまり甚大な被害を及ぼすほどではなかったので黙っていましたけど」
「いつからだ?」
「最初からですよ。あなたがコロニーに現われて自分の経歴について話していたときもですし。誰かに記憶を封じられているような印象を受けました。それからも時々記憶が抜けているようでしたね。伊佐巳自身は気付いていなかったのですか?」
「……そんなに前からとは思わなかった」
「表面的にはさして支障がないくらいでしたよ。ところで、そんなことでは私はごまかされませんよ。記憶をなくして、あなたは15歳のあなたに戻って、ミオに恋をしたそうですね。そのあたりを詳しく話してください。私はあなたに会ったらまずこれを訊こうとうずうずしていたんですから」
そうだった。ボスにはこういう人の悪い一面もあったのだ。
「詳しくも何も今ボスが言った通りだ。……最初、まったく記憶がなかったとき、オレは最初に見たミオを母親のように思って慕った。そのあと15歳までの記憶が戻ってからも、オレはミオが自分の娘だなんて思わなかったから、ずっと恋人として大切にしていけると思ってた。……だけど、今はミオはオレの娘だ。娘だと思って愛してる」
「恋人ではダメなんですか? 確か血のつながりはないはずですけど」
「赤ん坊の頃から育ててきたんだ。血のつながりなんかなくたって娘だろう。オレはあの子の父親だ」
「……なんとなく判りました。あなたはまだ、葛城達也を意識しているんですね。あなたは葛城達也と同じものになりたくはないんです。葛城達也が自分の養女であるミオを女性として愛した。その前例があるから、自分の本当の気持ちを認めることができないんです」
確かに、オレは奴が自分の娘を愛していたことに対して嫌悪感を抱いたことを覚えている。だけど、それとこれとは別なはずだ。ミオは確かにオレの娘で、その記憶は今でも鮮明に残っているのだから。
「葛城達也は関係ない」
「そうですか? ……私は3年前からあなたもミオも知っています。その頃から私はあなたとミオの親子関係に違和感を持っていましたよ。だいたいあなたのミオを見る目は娘に対するものとは明らかに違っていました。ミオの方もです。本当に気付いていなかったのですか?」
ボスの新たな指摘に、オレは自分の耳を疑いたくなった。
「……なに?」
「ミオはずっとあなたに恋をしていたし、あなたもミオを娘だなんて思っていなかったんですよ。だからもう自分をごまかすのはやめなさい。少なくとも、私の前では」
ボスの言葉は、オレの中にかなりの衝撃を持って迎えられていた。
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「……それは、本当か?」
「私が嘘を言って何の得があるんです。それに、人間観察は私の趣味のようなものですからね。信じるに足る話だと思いますよ。ミオのことでは、よくかおるにからかわれていましたよね。「娘の尻ばっかり追いかけてる変態」なんて言われて」
返す言葉もなかったから、オレは黙って、自分の中の感情を見出そうとしていた。オレはずっとミオを娘だと思い、そう接していたつもりだった。だけどボスに言わせればオレはあの頃からずっと、ミオを娘として見てはいなかったのだ。オレはいつからミオをそういう目で見ていたのだろう。もしかしたら、初めて抱き上げたあの時から、オレはミオを娘と思っていなかったのだろうか。
「伊佐巳、あなたはずっと、葛城達也のようにはなるまいとして生きてきました。でも、たとえあなたが葛城達也のように生きようとしていたとしても、絶対に葛城達也のようにはなれませんよ。それはあなたが人間だからです。あなたと葛城達也とは、決定的に違うんですよ。……これから先、葛城達也の影を感じることがあったら、呪文のように唱えるといいですよ。オレは人間だ。オレは葛城達也とは違う。奴のようになろうとしても絶対に奴のようになることはありえない、とでもね」
ボスは葛城達也に神を感じ、オレは悪魔を感じる。
だけどオレは人間だ。奴になろうとしても、なるまいとしても、絶対に奴と同じになることはありえない。
それは、オレが生きることを大切に思う気持ちを持っているからだ。
理不尽な死を与えるものに対する怒りを持っているからだ。
「……ミオのことは、幸せにしたいと思っている。だけどオレには自信がない。オレと一緒にいてミオが幸せになれるかどうか、それが判らない」
「私に言わせればそんな自信を持っている人の方が怖いですけどね。まあでも、ミオが伊佐巳といて幸せだと言っているのなら、きっとそうなんですよ。私にだって判りません。しょせん他人の気持ちですからね。自分の気持ちだってよく把握できないのに、他人の気持ちなんてそう簡単に判りませんよ」
おそらくボスはサヤカのことを言っているのだろう。人間観察は得意だというようなことを言いながら、やはり自分のことはよく判らないのだ。それが妙におかしくて、オレは久しぶりに笑った。
「サヤカがボスを好きなのは本当らしいな。さっきサヤカと話していて判ったことだけど」
「あの年頃の女の子ですからね。恋をするなという方が残酷ですよ」
「で、どうなんだ? 惚れられてる方としては」
「彼女には3年前に言ってあるんです。私はコロニーを解放するまでは、自分の幸せを追求することはできないと。……まあ、コロニーの大部分の人たちは葛城達也の庇護を受けられることになりましたから、解放されたといって語弊はないのですけれど。まだ、時間が必要ですね。自分のことを考えるには」
サヤカの恋もなかなか前途多難らしい。オレはあのきつい目をした美少女を思い浮かべて、また少し笑った。
84
―― 暗闇に目を凝らすと、ミオが立っているのが見えた。
「ミオ……?」
ミオは微笑んでいる。その表情ははっきりとは判らないのだけど、ミオが微笑んでいることだけは判った。
「パパ、……パパはあたしの保護者、なのよね」
「ああ、そうだよ。パパはミオの保護者だ」
「ミオは16歳だから、保護者の承諾があれば結婚できるって、サヤカに聞いたの。だからパパに許してもらおうと思って。あたし、結婚したい人がいるの」
ミオは微笑んでいた。オレは、今ミオがいった言葉に半ば呆然として、ミオを見つめていた。
「紹介するね、パパ。あたしの婚約者よ」
ミオの隣に現われたのは、アフルだった。ミオはアフルの手を引いて、彼を見上げると微笑んだ。……ミオは、アフルと結婚したいというのか? オレの親友で、オレよりも2歳年上のアフルと。
「どうしてだ? どうしてアフルと」
「アフルはもう長くないの。だから少しでも一緒にいて、気遣ってあげたい。この3年間ずっと助けてくれたから、今度はあたしがアフルを助けてあげるの。それに ―― 」
ミオは笑っている。だけどオレには表情が見えない。
「 ―― あたしが好きだった伊佐巳はもういないし」
そうだ。オレは15歳の伊佐巳を殺してしまった。ミオが好きだった伊佐巳は、もうこの世にはいないんだ。
ミオがアフルのものになる。オレのミオが、オレの傍からいなくなってしまう。
「……だめだ。許さない。アフルと結婚なんてオレが許さない。オレはお前の父親だ。オレが許さない」
「パパはあたしを3年間も放っておいたのよ。いまさらどうして父親だなんていうの? あたしの父親は、もう達也だわ。達也は許してくれた。あたしにはもうパパは必要ないのに」
ミオの言葉はオレの胸にぐさりと突き刺さった。
「パパはあたしの伊佐巳を殺した。あたしは伊佐巳のことが好きだったのに、パパが殺したの。もう、恨んではいないわ。あたしにはアフルがいるから。アフルがあたしの少年だから」
ミオはアフルの手を取って、オレに背を向けて遠ざかってゆく。オレは叫んでいた。何も考えずに叫んでいた。
「ミオ! ダメだ! オレから離れていくな! ……オレはミオのことが好きだ! オレにはお前が必要なんだ!!」
「もう、遅いのよ。何もかも……」
誰よりもお前のことが ――
「ミオー!!」
そう、オレが叫んだその時。
オレは目を覚ましていた。
85
地下牢の暗闇で目を開けてからも、オレはしばらく呆然としていた。得体の知れない昆虫は相変わらずざわざわと蠢いていたし、染み出した地下水が滴り落ちる規則的な音も聞こえていた。心臓の高鳴りは続いていた。いったいなんて夢を見たのだろう。
しだいに思考力が戻ってくる。夢の内容を辿って、オレは愕然とした。そこにはオレのすべてがあった。オレがずっとこだわってきたことも、オレの心の叫びも。
これが、オレの本音だ。ミオを誰にも渡したくない。誰を好きになって欲しくもない。いつまでもオレの傍にいて、オレのものでいて欲しい。もしもミオが他の誰かを好きになっても、絶対に渡したくない。たとえミオが不幸になっても。
オレはもう、あの子の父親じゃない。あるいは以前からずっとそうだったのか。ミオが他の誰かに目を向けることがなかったから、そうと気付かなかっただけなのか。……今、初めて、オレは自分に出会ったのだ。恐れていた自分自身に。
夢の中では、オレが不安に思っていることが、すべて実現していた。
オレはミオが去ってゆくことを恐れている。離れていた3年間を、ミオに責められることを恐れている。記憶を取り戻したあの時、オレは15歳の伊佐巳を切り捨てた。そのことでミオに恨まれるのを、オレは恐れている。
もう、遅いのだと、ミオは言った。オレは既に遅いのだろうか。今からでは間に合わないのだろうか。ミオはもう、オレを見限ってしまっているのだろうか。
そうは思いたくない。まだ間に合うのだと信じたい。ミオの心は変わっていないのだと。
周囲を見回して、オレはさっき自分の牢に戻ってきて眠ったのだということを思い出した。いったいどのくらいの時間、オレは眠ったのだろう。地下室の何の変化もない場所でいったん眠ってしまうと、時刻というものがまったく判らなくなってしまう。既に朝になっているのだろうか。もしもそうなら、ボスと話の続きをしたいのだけれど。
眠っているボスを起こすことになっては気の毒なので、結局オレはそのまま再び眠ろうとした。
しかし、そう簡単に眠ることはできなかった。だから自然にオレはミオのことを考えていた。15歳のオレが好きになった、ミオという少女。小さいのに強くて、しっかりしているようでどこか鈍くて、どんな表情をしてもそのたびにオレを惹きつけた。健気な女戦士のような、1つ年上の少女。
16年前に抱き上げた小さな命。赤ん坊のミオはとても人間のようには見えなくて、だけどオレがいなければ生きられない小さな生物に、オレは夢中だった。赤ん坊は少しずつ子供になって、人間になって、言葉を覚え、自我を持った。友達とケンカをして泣いて帰ってくることもあった。わがままを言って叱ったこともあった。なんでもオレに相談する子だったけれど、いつの頃からか秘密を持つようになって、自分の世界を持った。オレの知らない世界を知っていった。
オレは普通の父親がどういうものなのか知らない。だけど、今思うことは、父親というのは結局子供の人生を一定期間預かっているだけなのだということだ。オレは13年間、ミオの人生を預かった。オレは彼女の父親として、できることのすべてをしてきたはずだ。
(……10分だけ、会わせてもらえるかな。そのあとはあたし、伊佐巳の傍にいたい)
オレは、娘に捨てられたのだろうと思う。彼女が伊佐巳という15歳の少年に恋をした瞬間に、彼女の中から父親は消えたのだ。本当にオレが殺すべきだったのは彼女の父親としての黒澤伊佐巳だ。15歳の伊佐巳でも、32歳の伊佐巳でもなく、ミオの父親である黒澤伊佐巳なのだ。
オレは再び眠ってしまった。次に目覚めるまで、夢を見ることはなかった。
86
小さなミオに別れを告げた。
オレの娘はオレの手の届かないところにいる。
オレの恋人は、今でもオレを待っていてくれるのだろうか。
湿った地下牢の中で目を覚ましたオレは、ボスに会うために再び牢を抜け出すつもりだった。サヤカはまだ来ない。当然扉の鍵は開いているはずだった。
しかし、鍵はかかっていた。サヤカがオレに黙って鍵をかけたとは考えられない。サヤカが来たのならば、いくらオレが眠っていたとしても気付かないはずがないのだ。
誰かが、鍵をかけた。音もなく忍び寄り、オレに気配を悟られずに。
(葛城達也、か……)
それ以外考えられなかった。奴は、オレが牢を抜け出したことに気付いていたのだろう。それを承知でオレはサヤカに頼んだのだ。ひとたびは見逃しておきながら今鍵をかける理由を、オレは思いつくことができなかった。
いったい何を考えているのか。
もしかしたら、サヤカがここにくることは、2度とないのかもしれない。
1人地下牢の中に閉じ込められていると、時間の感覚というのはなくなっていく。起きている時間を計ることはできても、眠っている時間を計ることはできないからだ。今はいったいいつなのか。朝か、昼か、それとも、既に夕刻に近いのだろうか。
オレはそのまま何をすることもできず、数時間を過ごした。サヤカの言っていた食事を運んでくる人間も現われなかった。もしも、このまま食事も水も与えられずにいたら、オレはどのくらいの間生きられるのだろう。正気をどのくらい保つことができるのか。発狂と死と、いったいどちらが先に訪れるのだろう。
喉の渇きと空腹。耐えられなくなったら、オレは壁に滴る水を舐め、蠢く昆虫を食うのかもしれない。生命欲とプライド。オレの中に最後に残るのは、いったいどちらなのだろうか。
時間の感覚がなくなる。思考が失われてゆく。昆虫の蠢くかすかな音が別の音に聞こえる。誰かが笑っている。 ―― あの声だ。オレの夢の中に存在していた、葛城達也の仮面をかぶった亡霊。
眠ることしかないと思った。狂気を忘れるにはそれしかないと。
87
首を、締められた。
もがきながら目を開けると、目の前にいたのは、まるでオレ自身を鏡に映したかのような、オレにそっくりな男。
―― 葛城達也!
「……生きてえかよ」
息が苦しくて答えることができない。耳の奥が痛んで、必死に抵抗するのだけれど、一瞬一瞬、オレは死に近づいていた。オレは、殺される。葛城達也に殺される。
(……生きてえよ!)
心の中で叫ぶ。叫んでも、葛城達也は手を緩めなかった。オレの声は届いているはずだ。本気なのかもしれない。オレを殺して、すべての禍根を断つつもりなのか。
「死にたくねえか? 伊佐巳」
頭の中が痺れるように痛んで、頚動脈で押しとどめられた血液が、行き場を失ってもがいている。脳が酸素を求めて喘ぐ。視界が真っ赤に染まる。
(死にたくねえよ! 当然だろ!)
「当然、なのか? なんでてめえはそう思っているんだ。ミオが死んだとき、てめえは死んでたじゃねえか。ミオが死んだのは変わってねえ。それなのに、なんでてめえは命に執着してやがるんだ」
……何を、言ってるんだ? こいつは。ミオが死んだのは17年も前だ。その時オレの記憶を奪って、オレを立ち直らせようとしていたのは、間違いなくこいつのはずじゃないのか。
こいつはいったい何がしたいんだ。オレを殺したいのか? ミオを愛するように仕向けて、記憶を取り戻させて、それでなぜオレを殺そうとするんだ?
オレはたぶん、奴が本気でオレを殺そうとしているのではないと、無意識に感じていたのかもしれない。そうでなければ殺される瞬間にこんなことを考えたりはしなかっただろう。オレが考えていることが判ったのか、葛城達也は手の力を緩めて、オレの首を解放した。何度か、むせるような咳をして、ようやく呼吸を整えたとき、奴はいきなりオレの頬を拳で殴ったのだ。
ニヤニヤ笑いながら、葛城達也はオレを見ていた。オレの中にふつふつと怒りが湧き上がってくる。オレは立ち上がって、満身の力で奴を殴った。奴はよけなかった。だけど、すぐに報復の拳が飛んでくる。
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「てめえの空手じゃ俺は殺せねえよ」
そう言って、馬鹿にしたように指先でオレを招く。何も言わずにオレは奴の顔面めがけて拳を繰り出した。それをひらりと避けて、また殴り返してくる。そうしてオレと奴とは本格的に殴り合いを始めていた。
奴には格闘技を習得した経験はない。だけど、オレの拳の筋を予測できるらしく、5発中4発は確実に避けていた。オレは経験によって奴の拳を見極めていたけれど、時々秩序のない動きに翻弄されて、やはり同じくらいはくらっていた。オレと葛城達也はほとんど互角に戦っていたのだ。奇妙な光景だった。奴はオレを殺そうと思えばいつでも殺せるだけの能力を秘めているというのに。
オレと、本気で殴り合っている。もちろんオレに余裕はなかったけれど、奴の方も必死だった。奴と殴り合わなければならない理由はオレには判らなかった。
しかし、何度も殴り合っているうちに、オレは目の前の男が葛城達也なのだということを少しずつ忘れていった。相手を倒すことだけに集中して、肉体を駆使して技を繰り出した。オレはいつの間にか空手の試合をしていたのだ。日本の独裁者、コロニーを隔離した極悪人、殺すか殺されるかしか存在しないはずの、既に冷え切った関係を続けていたオレの父親と。
やがて、蹴りと突きとの連続技が決まり、葛城達也は倒れた。当然の結果だった。空手のルールの中でならば、オレが葛城達也に負けるはずがないのだから。
「……てめえ、いったい何のつもりだ」
倒れた葛城達也に、オレは言った。オレも奴もかなり呼吸が乱れている。
「たかが伊佐巳にも勝てねえのか。……俺はけんかは強くねえな」
……なんだ……? こいつはただ単にオレとケンカがしたかっただけなのか?
オレが今まで見てきた葛城達也。ミオが、ボスが見ている葛城達也。今のこいつは、そのどれにあてはまるのだろう。それとも、この男はオレたちの理解力では計ることができない、狂った存在なのだろうか。
なぜ、こんな男がいるのだろう。この男がなぜ、オレの父親なのか。
「伊佐巳、オレを殺してえか」
仰向けに倒れたまま、葛城達也は言う。葛城達也は容易に死なない身体をしている。通常の方法で奴の命を奪うことはできないだろう。
「ああ、殺したいね」
「……それだけの人生か。てめえの命はくだらねえ」
奴の言葉に怒りを意識した次の瞬間、葛城達也の拳はオレの腹を打ち、突き破り、背中をも破って反対側へ突き出ていた。
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頭が凍りついたように痺れ、オレは一切の思考を失っていた。一呼吸おいて込み上げてきたものを咳と一緒に吐き出す。目の前の葛城達也の頬に鮮血が張り付いた。一瞬なのだ。ほんの一瞬の間に、オレは葛城達也に殺されていた。
今のオレの力で奴の攻撃から逃げられただろうか。いや、たとえオレの体調が万全だったとしても、攻撃の筋やタイミングがあらかじめ判っていたとしても、オレはこの攻撃から逃れることはできなかっただろう。
オレの完敗だった。
「ヤワな腹だな。32年鍛えてこの程度かよ」
オレの腹に腕を突っ込んだまま、ぐるりと捩じった。すぐにオレの口から再び鮮血が溢れ、その一部が葛城達也の頬に飛び散る。痛みに注意を向けたらその瞬間に発狂しそうな予感がした。呼吸は既に止まっている。
倒れてしまうことすら許されなかった。
「苦しいだろ? 死にてえか? 伊佐巳。死にてえなら殺してやるぜ。腹に穴あけたまま生きてるのは苦しいよな。死にてえって、そう言えよ。言やあ殺してやってもいいぜ。これ以上苦しまねえうちにあっさり殺してやるよ」
膝はがくがく震えて立っていることが辛かった。だが葛城達也は倒れることを許さなかった。腕一本でオレの身体を支えていてオレが体重をかけると内蔵に衝撃が走る。ここにはオレの怪我を治せる医者はいない。もしも奴が腕を抜いたら、オレはそのまま絶命するだろう。万が一死ななかったとしても余計に長く苦しむだけで結果は同じだ。
結果は同じだ。オレは既に死んでいるのと同じなのだ。だけど、それでも、オレは今死ぬわけにいかない。たとえ何分でも、何秒でも、生きている限りオレは生きていたい。
オレの人生はくだらないか、葛城達也。お前を殺すためだけに生きているオレは。
貴様にとってオレの抵抗なんか虫に刺されたようなものかもしれない。それでも、オレは生きている限りお前を殺す。お前を殺せないまま死を選ぶことは、もう絶対にしない。
痛みに霞む目で見据えた奴の表情は変わっていた。どう変わったのかはっきりは判らない。ただ、奴はもうオレを嘲笑してはいなかった。
「くだらねえよ。俺が引いたレールの上で踊ってるだけだ。俺はいつだっててめえなんか殺せる」
今のオレの身体で、この状態で、葛城達也を殺す手はあるのだろうか。
せめて1つくらい守りたい。ミオ、君との約束を ――
葛城達也、貴様はいったい誰が引いたレールの上にいる。
「……てめえに俺は殺せねえ」
その時、葛城達也は一気にオレの腹の中から腕を抜いて、内臓を撒き散らした。激しい痛みにオレは叫び声を上げた気がする。後ろ向きに倒れるように崩れ落ちた。しかし、再び目を見張ったとき、オレが見た風景の中に葛城達也はいなかった。
いつの間にかオレのいる場所は、牢の中ではなくなっていたのだ。
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息を吐いて、そのあと大きく息を吸って気付いた。呼吸ができる。オレは無意識に腹筋に力を入れて身体を起こそうとした。身体はオレの意思に従って動いたし、痛みを感じることもなかった。腹を探る。突き破られた血染めの服をめくってみても、オレの身体には傷も、それが確かに存在したという痕跡も、ひとつもなかったのだ。
まさか、あれは幻覚だったというのか? いや、流れた血は本物だった。口内にはまだ血の味が生々しく残っているし、服の前後に開いた穴も、真っ赤に染めているまだ乾ききらない血液も、すべて本物なのだ。
奴はオレの身体を貫いて、また元に戻し、オレをこの場所に飛ばしたのだ。
いったい何が起こった。奴はなぜオレを殺さなかった。奴は本当にオレを殺そうとしたのか? オレは奴を殺すことができない。もしかして、奴もオレを殺せないのか?
オレには奴を殺す力がないことを、葛城達也は知ったはずだった。葛城達也が本当に死を望んでいるのならば、オレは奴にとって何の価値もない人間だ。ならばあのまま殺しているのが当然だ。あのときの奴は、おそらくオレを殺すつもりだった。だけど気を変えた。いったい奴はオレの中に何を見たのだろう。
……もう、考えても仕方ない。とりあえず今考えるべきことはそんなことじゃなかった。オレと奴とは近いうちに会うことはないだろう。オレはおそらく追放になったのだから。
周囲に目を向けると、そこはオレが見慣れた風景だった。とはいっても、場所を特定できるわけではない。そろそろ夕日が沈もうとしている。四方八方、見渡す限り広がっているのは、この3年間放置され雨風に浸食された東京の瓦礫の海だったのだ。
オレだけが追放されたのか、それともミオや、ボスとサヤカも同時にここに送り込まれたのか、そのあたりのことはよく判らない。だけどこのままこうしていても確実に餓死するだけだったから、オレは歩き始めた。人の気配を求めてどのくらい歩いただろう。オレは遠くに幾人かの人影を見つけて、少し警戒しながら近づいていった。
向かい風が人の声を運んでくる。後ろ姿で立ち尽くしているのは、コロニーの指導者ボスだった。そして、その向こうに立ち、ボスに銃を突きつけているのは、ボスの側近、幼い頃からの親友であるはずの、駄蒙だったのだ。
駄蒙はうしろに何人かの皇帝軍を従えている。やはり駄蒙は裏切っていたのか。実際にその光景を目にしてはいたのだけれど、オレはかなり意外で、信じられない気持ちでいた。