71
ミオの唇がオレを求めていることが判ったけれど、オレは反応できなかった。ミオを愛しいと思う、15歳のオレ。ミオを愛する32歳のオレ。その2つの心がせめぎあい、形を無くした。自分の心が判らなかった。
この子は、いったい誰だ? オレの娘である記憶と、オレの恋人だった記憶を持つこの子は……
ミオはどう思っただろう。キスをやめて、オレの目を覗き込んだミオの表情は、先ほどまでとほとんど変化はなかった。
「パパ、……パパはどっちがいいの? あたしが娘の方がいい? それとも、恋人の方がいい?」
ミオの気持ちを知る前なら、あるいは答えは決まっていたかもしれない。
「……ごめん、ミオ。オレには判らない。ミオの気持ちは判ったけど、自分の気持ちが判らないんだ」
オレは少し混乱していた。一気にいろいろなことを聞きすぎて、考えることが多すぎて、メモリが足りなくなっている。オレには時間が必要だった。自分を構築しなおす時間が必要だった。
「あたしの気持ちを判ってくれたのならいい。……あたしね、今が1番幸せなの。パパがあたしの傍にいてくれて、あたしのことを愛してくれて、あたしはパパのことが1番好きなんだって、素直に言える。パパがあたしの気持ちを判ってくれる。……15歳の伊佐巳は、あたしが誰の娘でも、あたしがどんな名前でも関係なく、あたしだけを見て好きになってくれた。そんな15歳の伊佐巳もパパの一部だもの。パパがこれからどちらを選んでも、あたしは変わらない。約束したから。15歳の伊佐巳を、あたしは忘れないわ」
……たぶん、オレの中でも答えは出ているのだ。だけどオレはそれをミオに告げる決心がつかなかった。初めて、オレを選んでくれた女の子。オレはこの子に恋をして、1つになりたいと思った。オレ自身がこだわるもの。そのすべてを排除することができたら、オレは素直にこの子を受け止めることができるだろう。
「……オレも、忘れてないよ、ミオ。これからも絶対に忘れない」
「本当に?」
「オレがこれから恋をする女の子は、ミオ以外にはいない」
「……じゃあ、信じてあげる」
そう言って、ミオはオレから離れた。
いろいろなことを思う。
オレが抱く常識は、偽の記憶を植え付けられて偽の人生を歩き始めたときから、少しずつ育まれてきた。
オレはさまざまなものに歪められて、自分の真実を見極めることさえできずにいる。
記憶のないことに苛立っていたあの頃が1番、オレはオレの真実に忠実に生きていたのかもしれない。
ミオが部屋を出て行って、オレは風呂に入った。
いよいよ、オレのこれからが、葛城達也によって決定される。
オレとコロニーの運命が決まるのだ。
72
油断していた訳ではない。自分の今の状況を忘れていた訳でもない。ただ、オレはまた奴を常識で計ろうとしていた。奴に常識など通用するはずがないのに。
風呂から出て、オレは思いついてパソコンのスイッチを入れた。メインコンピュータに接続して、例の要注意人物が並べられた画面を呼び出す。記憶が完全に戻ってからこれを見るのは初めてだった。うかつに開けばまた回線を切られることは判っていたから、オレはそのローマ字の人物をひとつひとつ記憶と照らし合わせていった。
オレの名前は上から3番目にあって、その前に2つの名前がある。最初が「Minoru」、次が「Damo」。実(みのる)はオレたちがボスと呼んでいるコロニーの指導者だ。駄蒙は実の幼馴染でボスの影のように付き従っていた側近。その次にオレの名前があるということは、この名簿はコロニーの人名禄ということになる。
「Kaoru」「Makoto」「Tomoyuki」「Kisara」「Yuji」……。下の方に行くと、「Mio_k」「Sayaka」とあって、人質になっていた人たちの名前が続いている。オレはもう1度最初に戻って、思い切って「Damo」の項目を開いてみることにした。また回線を切られるかと思ったけれども、回線が切れることはなく、変化した画面の最初にたった1つの言葉が記されていた。
オレの心臓と思考が一瞬止まる。画面の上の方に、小さく「処分」とだけあった。
まさか、既に駄蒙は殺されてしまっているというのか? 誰にも会わせず、別れの言葉も残させずに。
―― その時だった。
急にオレはめまいのような感覚に襲われていた。たまらずに目を閉じると、座っていた椅子が突然消失したようになって、投げ出されたオレは固い床に背中と頭を打ち付けていた。何が起こったのかはまったく判らなかった。やがて痛みにうめきながら身体を起こし、目を開けると、周りの風景は今までオレがいた部屋とはまるで違っていたのである。
ほぼ真っ暗に近く、床は湿り気の多いコンクリートだった。乗り物に酔った時のようなめまいの感覚と吐き気が身体に残っている。この感覚は覚えがあった。オレは葛城達也に瞬間移動させられたのだ。
なるほど、葛城達也はこれ以上オレに探られるのは嫌らしい。それだけが理由ではないのだろうけれど、このやり方はいかにも葛城達也らしかった。
しだいに目が慣れてくる。元いた部屋とさほど変わらない広さを持つその場所は、剥き出しのコンクリートが半ば瓦礫のように波打ったままの状態でそれでも何とか部屋の形をとどめている。おそらく地下室なのだろう。割れたコンクリートの隙間から地下水が染み出していて、苔と虫がわいている。ここが、ミオが言っていた牢なのかもしれないと思った。というのは、誰かがここにいただろう痕跡が、そこかしこに残っていたからだった。
残っていたものが放つ臭いは耐えがたいというほどではなかったが、オレの気分を滅入らせるには十分だった。と同時に気付いていた。オレは本来、ここに入れられるべきだったのだ。記憶障害さえなかったら、オレはコロニーの重要人物として、捕らえられたと同時にここに送り込まれていたのだろう。おそらくボスも、駄蒙も、今までの5日間、ここと同じような場所で過ごしていたのだ。
記憶を消されて、オレは幸運だったのかもしれない。おかげでミオと語り合うことができた。成長したミオと、良い環境で共に過ごすことができた。
オレはこの環境のギャップに戸惑いつつも、現実を受け入れていた。
73
地下室の気温は暑くもなく寒くもなく、オレは今の季節が春なのだということを思い出した。窓はなく、木製のドアに小さな覗き窓のようなものがついていて、内側からは開けることができない。空気はかなりよどんでいた。染み出した地下水がたえず流れ込んでいて、それらが結露となって壁や天井、床をも濡らしている。おかげで衣服はすぐに湿っぽくなったし、得体の知れない苔や昆虫が繁殖していて、うっかりしていると全身うじ虫に纏わりつかれてしまいそうだった。
必要以上に昆虫を恐れたり嫌ったりしている訳ではないけれど、とりたてて友好的に付き合いたいとも思っていないから、できることならそちらに近づきたくはなかったし、そちらから近づいて欲しくもなかった。オレは床のできるだけ湿っていない、おうとつの少ない場所を決めて腰掛けた。今のオレには考えることと待つこと以外許されていないようだった。
ミオは、いったいどうしているだろう。オレがここに飛ばされたことを知っているのだろうか。おそらく知っているのだろう。オレが葛城達也によって瞬間移動させられた時刻は、ちょうどミオが奴と会っている時だったのだから。だけどミオをこんな場所に連れてきたいとは思わなかった。
オレはもうミオに会えないのかもしれない。
少なくとも、オレの処遇が決まり、追放になるまでは。
おそらくこのまま餓死させるつもりはないだろうから、そのうち食事を運んでくるなり何かしらの動きがあるだろう。オレはその変化を待ちながら、さっきパソコンの画面にあった「処分」の意味を考えようとした。
葛城達也が駄蒙を殺すことは奴の中では決定事項なのかもしれないけれど、それは本来みせしめでなければ意味がない。オレたちコロニーに対してと、民衆に対してだ。民衆はオレたちが呼びかけたこともあって、事の顛末を知っている者が多い。駄蒙を殺すことで民衆の決起を抑えることを、葛城達也は望んでいるはずなのだ。
それでなければ駄蒙が死ぬことに意味はない。こっそり処分されたのでは、誰も死ななかったのと同じなのだ。だから今の段階で駄蒙が死んでいるはずはない。オレは駄蒙を救う手立てを考えることができるだろうか。
オレはまた何か間違いを犯しているのかもしれない。オレの浅い考えでは、葛城達也を見抜くことができないのかもしれない。
どのくらい考えつづけていただろう。自分に沈み込んでいたオレは、その足音を聞いて現実に引き戻された。足音はまっすぐこの牢を目指している。やがてドアの前で足音は止まり、その声がしんとした牢の中に響いてきた。
「……誰かいるの? ……駄蒙? 駄蒙なの!」
声は廊下に反響して聞き分けることができなかった。だけどそれが若い女の声なのだということは判った。
「誰だ? ミオか?」
「……もしかして、伊佐巳パパ?」
声の主はどうやらカギを持っているらしく、ガチャガチャ音を立ててやがてドアを開けた。伊佐巳パパと呼びかけられた時から声の主の見当はついていた。姿を現わしたのは、暗闇でよくは見えなかったが、少なくともミオではなかった。
「伊佐巳、伊佐巳ね!」
「……サヤカか?」
「そうよ。……ああ、ここにいたのね。ミオが半狂乱になって探してたからもしかしてと思って来てみたの。ここにいてくれてよかった」
ミオよりも背の高い、すらっとした少女は、なんのためらいもなく牢の中に飛び込んできていた。
74
牢の中の独特の臭いも、昆虫の大群も、サヤカはまるで気にならないようだった。オレの前に膝を立てて座り、顔を覗き込む。こうして近づけばサヤカの顔も少しは見ることができた。年齢よりも少し大人っぽく見える、ほっそりとした美少女だった。
3年前の面影は見つけることができなかったけれど、ミオとは違って髪を短くしていたことだけが、オレに13歳だったサヤカの名残を感じさせた。
「ミオと葛城達也とは何かあったのか?」
オレが訊くと、サヤカはにこりともせず答えていた。
「何もなかったわ。ミオがいつもと同じように伊佐巳の様子を皇帝に伝えて、伊佐巳の部屋に戻ったらあなたは姿を消してたの。一瞬逃げたのかと疑ったみたいだけど、パソコンがつけっぱなしになってたから、きっと何かあったんだって、すぐにあたしのところに駆け込んできた。あたしはミオのように自由にあちこち移動できるわけじゃないのだけど、この牢屋にくることだけは許されてるの。だからあたしがここにきて、あなたを見つけたんだわ」
「ミオはここにこられないんだな?」
「ええ。葛城達也が許さなかったの。あたしがボスに会うために許しをもらうことはできたけれど」
なるほど。オレが記憶を失っている間の5日間に、サヤカはボスに会って指示を受け、それをミオに伝えてミオがコロニーのみなに知らせるというようなネットワークを、この2人は作り上げてきたのだ。
「さっき、オレを駄蒙と間違えたね。やっぱり駄蒙はここにいたのか?」
「昨日まではね。今日の午前中にあたしが来たときにはもういなかったの。他の牢もくまなく探したけど、駄蒙はいなかったわ。……もう殺されてしまったのだと思う?」
「いや、おそらくまだだろう。オレたちに何も知らせずに殺すとは考えにくい」
「伊佐巳がそう言うならそうかもしれないわ。……この場所よ。この場所であたしは駄蒙に言ったの。実のために死んで欲しい、って」
目をそらさず、迷いも見せずに、サヤカは言った。ミオの言う通りだ。サヤカは強い。ミオに話を聞いていなかったとしたら、オレは彼女の中に多くの葛藤があっただろうことを見逃してしまっていたかもしれない。
「それで、駄蒙はなんて」
「憎らしいくらい駄蒙は無口な人よ。「判った」としか言わなかったわ。……あたし、絶対に皇帝を許さない。必ず皇帝を殺すわ」
怒りの中に悲しみがある。だけどその悲しみを1つとして表面に見せることはなかった。もしも記憶を失ったオレの前に現われたのがミオでなく彼女だったら、オレは彼女に恋をしただろうか。おそらくオレは見抜くことができなかっただろう。この少女の優しさも、強さに隠された悲しみも。
「すぐにミオに伝えるわ。伊佐巳がここにいること。だけどその前に伊佐巳が訊きたいことや伝えたいことを全部話しておいて。次はいつ来られるか判らないから」
オレは、とりあえず1番伝えたかった一言を、目の前の少女に言った。
「サヤカ、この3年間、ずっとミオの傍にいてくれてありがとう。ミオを助けてくれて」
この時、サヤカはやっと笑顔を見せた。
75
「逆なのよ、伊佐巳。あたしはミオがいなかったら今日まで生きていられたかどうか判らない。ミオがいたから生きていられたの。ミオが辛い役目を全部引き受けていたの」
サヤカの目が輝いて、オレは胸を打たれた。おそらくミオも同じことを言うのだろう。サヤカがいなければ生きていられなかったと。
「あたしは伊佐巳に感謝しているわ。ミオを生んでくれたこと、ミオを育ててくれたこと、ミオを連れて東京にきてくれたこと。そのことでミオは1番辛い立場に立たされてしまったから、あたしはミオに幸せになってもらいたい。……伊佐巳、ミオはあなたのことが好きよ。判っている?」
この少女に嘘はつけないな。観念して、オレは笑顔で答えた。
「……ああ、判ってる」
「あたしたちはいつ死ぬか判らない。常識も何もかもすべて壊れてしまっているし、コロニーの人間に戸籍なんかとっくにないわ。血の繋がりがない以上、あたしたちはただの人間で、男で、女だもの。あたしは絶対に後悔なんかしたくないし、ミオに後悔もさせたくない。伊佐巳が何にこだわるのか判らなくはないけど、ミオに後悔だけはさせないで。あたしたちには一瞬一瞬がすべてなんだから」
サヤカの言葉はオレには重く、心に鋭く突き刺さった。この少女は自分の言葉でオレに語りかけている。3年前から、この少女はコロニーの希望だった。今でもそうだ。誰の心にも響く言葉を、この少女は持っている。
オレは彼女にかなわない。おそらく、ボスもこの子にはかなわないだろうな。
「今度ミオに会うときまでじっくり考えるよ。ところで、ボスもこの近くにいるのか?」
オレが言うと、それ以上ミオの話を蒸し返すことはなく、気持ちを切り替えるようにサヤカは言った。
「同じフロアの1番離れた牢に入れられてるわ。ここからでは声も届かないの」
「様子は?」
「駄蒙のことでかなり痛手は受けているけど、もともと表に出す人じゃないから、表面的には変わらないわ。本当だったら自分が殺されるはずだったのだから当然だと思う。何もできないことが1番辛いの。理屈では判っているから、余計」
ボスと駄蒙の心の結びつきは、3年間共に革命を背負ってきたオレにはよく判っていた。駄蒙を殺すことに関する心の葛藤は、オレなどとは比べ物にならないだろう。
「実にとっては伊佐巳の存在の意味も大きいわ。駄蒙は心の支えだったけど、伊佐巳は駄蒙以上に革命の柱だったもの。ボスはむしろ伊佐巳が殺されなかったことに希望をもっているの。だから伊佐巳には期待にこたえて欲しい。あたしたちの3回目の革命のために」
「それはサヤカ、君の希望なのか?」
「そうよ。あたしは実を早く責任の重圧から解き放ってあげたいの。実は革命を成功させなければ幸せにはなれない。そして、実が幸せにならなかったら、あたしも幸せにはなれないから」
今のサヤカには、矛盾もためらいもない。
ミオはサヤカを見ていて、それで思うのだろうと判った。自分の幸せを追求する生き方が正しく、そういう人間には矛盾がなくて、そうでない人間よりもはるかに優しくなれるのだと。
オレはサヤカの希望をかなえたいと思った。誰のためでもなく、オレ自身のために。
76
今日のうちにもう一度来ると言い置いて、サヤカはあわただしく牢を出て行った。これからボスやミオに事の顛末を話すのだろう。静かになってしまった牢の中に座っていると、まるでこれまで長い間ずっとそうしていたような、奇妙な感覚に囚われる。記憶を失っていた5日間を除けば、オレの人生の時間はひどく忙しく、めまぐるしい。特にこの3年間はものをゆっくり考える暇もなかった。毎日ボスと語り合い、どうやって皇帝を倒すか、倒せた後はどう日本を動かすか、倒せなかった場合は皇帝とどんな交渉を進めるか、詳細を話した。
今、何もできない状況に追い込まれて、正直オレは何をすればいいのか判らなかった。情報は何も入ってこない。ボスの考えを聞くこともできない。オレはこの3年間、ボスの理想を実現するという立場でしか思考せず、生きてこなかったのだ。
オレの中には何もない。ボスというよりどころを失ったオレは、自分自身で考えることも、行動することもできないのだ。
オレは今という瞬間に、いったい何をすればいいのだろう。オレが今コロニーのためにできることは何だ。この牢の中で、サヤカとしゃべることしかできない今の状況で、オレはオレのために何かができるのだろうか。
オレのために。オレ自身のために。オレが今本当に大切に思っていることのために。
―― オレは今、ミオの近くにいることができないけれど、やっぱりオレにとっての1番は、ミオが幸せでいることだ。
幸せの前提は、まずは心の平穏だ。心が平穏でなければ幸せとはいえない。それにはミオの心を乱すものをひとつひとつ取り除いていくことだ。まずはオレ自身。オレが安定していることが、ミオの心を安定させる。
駄蒙のことも、コロニーの今後のことも、ミオには心配の種だろう。それは本来ミオが背負うべきことではないけれど、今ミオが背負わされているのは事実だ。だけどこの状況でミオが背負うものを軽くすることはできない。ミオはこれ以上何も背負えない。オレが動けないのだから、この状況を打破するためには、誰かに動いてもらうほかはない。
16歳の女の子には、確かに荷が重いかもしれない。だけど、ここで彼女にがんばってもらわなければ。
牢の中を行き来できるだけのサヤカには、いったい何ができるだろう。オレとボスとの連絡役のほかにできることはあるだろうか。
オレが考えていた時間は、客観的な時間にすればかなり長かったらしい。足音が近づいてきて、オレにはサヤカが来たことが判った。ドアを開けて入ってくる。何の挨拶もなく、突然サヤカは言った。
「伝言をもらってきたわ。誰から聞きたい?」
当然のようにオレは答えた。
「まずはミオから頼む」
「ミオは伊佐巳の居場所が判ったことでかなりほっとしていたわ。牢の中だから心配もしていたけど、伊佐巳には、自分のことは心配しないように伝えて欲しい、って。葛城達也はコロニーの人間を全員保護する方向で決断したわ。もちろん、伊佐巳とボスだけは例外だけど」
「……てことは、奴は駄蒙も保護するのか?」
「ミオもそれには疑問を持って、訊いてみたわ。葛城達也は言ったそうよ。……駄蒙は既にコロニーの人間ではない、って」
まさか、駄蒙は既に葛城達也によって殺されてしまっているというのだろうか。
77
あるいは、駄蒙は牢の中から逃げたか、それとも、葛城達也の側についたというのか。
いや、たとえどんな条件を出されようと、駄蒙がボスを裏切ることなどありえない。あの駄蒙という男は、ボスを裏切るくらいなら命を捨てる方を選ぶ人間だ。
「サヤカ、君はどう思う?」
「正直判らないわ。でも、もしかしたら駄蒙は裏切ったかもしれないと思うわ」
「それはどうして?」
「たとえ裏切っていたとしても、駄蒙が生きている方がボスは楽だもの。駄蒙にはそういう選択肢もあったと思うわ。皇帝が国民の心を掴むためには、駄蒙を殺すよりもコロニーを裏切った駄蒙の存在を知らしめる方が、ある意味効果的かもしれない。駄蒙はコロニーのボスの側近だもの。……どちらにしても、あたしたちはもう駄蒙を取り戻すことはできないし、駄蒙のことを気に病む必要もないんだわ。この先、3回目の革命を起こしたとき、駄蒙があたしたちの前に立ちはだかるまで」
この少女は駄蒙を嫌っていた訳ではない。むしろ大切に思っていたことだろう。駄蒙は無愛想で、感情を表に出すことはなかったけれど、サヤカのことを大切にしていたのは間違いなかったから。
この子は今でも、駄蒙を殺したのは自分なのだと思い、償いをしようとしている。
「それについてボスはなんて言ってる?」
「伊佐巳の意見を聞きたい、って。葛城達也は駄蒙の裏切りを認めるような人間なのかどうか」
「……認めるさ、奴なら」
むしろ奴の方から持ち出した話なのかもしれない。もしもそうだとしたら、駄蒙が裏切るまでの心の葛藤はすさまじいものがあっただろう。駄蒙の裏切りが事実なのだとしたら、オレはその裏切りが駄蒙の方からの話であることを祈りたかった。
「ボスは2日前に葛城達也と話しているの。でも、交渉なんて言えるものじゃなかったって、ボスは言ってたわ。見えない力で身体を拘束されて、頭の中を覗かれたの。まるで内臓に手を突っ込まれてかき回されてるみたいだったって」
サヤカは自分の肩を抱きしめて身震いした。オレにも覚えがある。葛城達也のやり方はアフルとは違って、相手がどう感じるかなどまるで構わないのだ。
奴はボスの駄蒙へのこだわりを見抜いたのだろう。だから駄蒙を殺すことにした。
「サヤカ、頼みがある」
オレは、サヤカの手を握って、彼女を見つめた。その手には牢のカギが握られている。
「……判ったわ。任せて」
「ここには皇帝側の人間は来るのか?」
「地上の時間にしてお昼くらいかしら。1日に1度、食事を運んでくる人間がいるわ。あとは地下への通路に見張りが1人いるだけよ。このフロアの中で見張ってる人間はいないの」
「君はいつもどのくらいの頻度で来ているの?」
「1日2回、午前と午後に」
「好都合だ。助かるよ」
サヤカは微笑んで、ドアを出て行った。
78
カギの音が響いて、サヤカが歩き去る足音が聞こえていた。それからどのくらい待っただろう。おそらく2時間くらいは経っていたと思う。
オレはすっかり空腹だったし、眠くなりつつもあったのだけど、そっと立ち上がってドアノブを回してみた。音を立てないように外開きの扉を押す。サヤカは約束を守って、ドアのカギをかけずにいてくれたのだ。
扉を出たオレは、よく音の響く廊下を、できるだけ足音を立てないように歩いていった。その廊下の両側にはオレが出てきたと同じようなドアがいくつも並んでいる。しばらく歩くと「く」の字に曲がっていて、上りの階段が見えていた。
この階段を上がれば、ミオがいる部屋や、オレが前に過ごしていた部屋などもあるのだろう。しかしその階段は無視して更に先に進む。と、また同じように曲がっていて、その両側にはドアが並び、どうやらその地下室が階段のあたりを中心にシンメトリの構造になっていることがうかがえた。
オレはほぼ確信して、1番奥、オレがいた部屋からちょうど線対称の位置にある部屋の前で足を止めた。そして、ゆっくりとノブを回してみる。思ったとおりカギはかかっておらず、顔を覗かせると、不審げにこちらを見つめていたボスの視線と合った。
「……伊佐巳?」
「ああ。久しぶりだな。入ってもいいか?」
「ええ、どうぞ」
ボスはオレよりも2歳年下で、今年30歳のはずだった。オレが覚えているよりもかなりやつれた顔をしていた。もともとそれほど身体も大きくはなかったし、コロニーの中で太ることなどできるはずもなかったから棒のように痩せてもいたのだけれど、この5日間で更に小さく細くなったようだった。だけどその知的で意志の強い目の表情は失われていない。オレが知らない5日間に多くのことがあったのだろうけれど、それはほんの少ししか表に現われてはいなかった。
「サヤカはカギをかけなかったんですね。私には何も言っていませんでしたけれど」
ボスは誰に対してもそうした丁寧語で話していた。それはどれだけ気心が知れていたとしても変わらない。オレはそんなボスの物言いに、何となく安心感のようなものを感じていた。
「オレが頼んだんだ。今までボスは駄蒙と話そうと思わなかったのか?」
「サヤカが来られるようになったのが3日目でしたし、その前後は皇帝に呼び出されたり、この牢の中も落ち着きがなかったですからね。ようやく昨日あたりから落ち着き始めたんですよ。それまでは危険でとても牢を抜け出すことなんかできませんでした」
あるいは、その頃の状況をオレが知っていたのなら、もう何日か様子を見ていたのかもしれない。ボスに言わせればオレの行動はかなり大胆だったのだろう。苦笑交じりの笑顔で、オレを見ていた。
「とにかく直接話せることは喜ばしいですね。願うのは邪魔が入らないことです」
「まあ、大丈夫だろう。そろそろ地上は眠る時間だ」
それから、ボスは自分の5日間について、オレに話してくれた。
79
「最初の3日間、葛城達也に呼び出しを受けるまでですけれど、それまではアフルストーンという人物が私を尋問していました。尋問という言葉が正しいのかはわかりませんが。ほとんど雑談に毛が生えた程度のものでしたから」
それだけきいても、アフルが葛城達也に信頼されているのだということは判る。アフルはボスと雑談しながら、ボスの心の動きを観察していたのだろう。
「アフルはオレの親友だった男なんだ。奴はボスに触れたか?」
「いいえ。……そうですか。それでなんとなく納得しました。彼は私に対して興味と好意を抱いているように思えましたので」
「接触感応者で、身体の一部に触れていれば心の隅々まで読み取ることができる。その能力は葛城達也よりも強いかもしれない。触れてなくてもある程度は判るはずだ」
「なるほどね。彼は察しがよすぎたので、私も疑ってはいました。会話の内容はどちらかといえば私の思想に関しての話が多かったですね。宗教を尋ねられたりもしましたから。まあ、私は無心論者なのですけれど。駄蒙のことや伊佐巳のこと、そのほかコロニーの人間に関してもさまざまな質問を受けましたよ。そのあたりもあなたと以前から打ち合わせていた通り、嘘は一切つきませんでした。……そう言えば、ブルーという人間のことも訊かれました。あなたにも話したことがあったと思いますけれど」
ブルーは、ボスがアフリカを旅していたときに出会ったという日本人のことだった。40歳くらいに見えるその男はオレによく似ていたという。その時オレはボスに、その男は葛城達也の弟だと説明したのだ。
そうか、葛城達也は弟の消息を知らなかったのだ。妹の今の居場所が判らないと同じように、弟の居場所も突き止めることができなかったのか。
「私が葛城達也と直接会ってからは、彼はここに現われてはいません。葛城達也との会談は2日前だったと思いますが、いきなりめまいのような感覚になりまして、目を開けるとここではない部屋の中にいました。葛城達也が私との会談を望んでいるということはアフルストーンから知らされていましたので、私はすぐに目の前の葛城達也を観察しました。すると、葛城達也はその能力を使って私を縛り、おそらく私の頭の中を覗いたのでしょう。掻き回されるような嫌な感じがありました」
「アフルの接触感応ならそういう感じはないけどな。あいつはそこまで人に気を遣うような性格じゃないんだろう」
「相変わらずですね、伊佐巳。あなたは葛城達也のことになるとすぐに冷静な観察を忘れてしまう。他のことでは非の打ち所がないほど優秀なだけに残念ですよ」
ボスに言われて気付いた。オレはまだ完全に奴の影を追い払うことができずにいるのだ。
「まあ、それはいいですよ。私はあなたに頼らずとも、彼を観察することができましたから。……伊佐巳、私は葛城達也を、少なくとも葛城達也の中にある人格の1つを理解しましたよ。彼は私が考えていた人物像とはまったく違っていました。……彼は、彼の本質は、日本の指導者などにはまったく向いていない、純粋な子供ですらないんですね」
オレは、ボスの言葉に、かなりの違和感を禁じえなかった。
80
「子供で、すら、ないのか?」
子供だ、というのならあるいは判ったかもしれない。奴が自分の欲望に正直な子供だというのならば。
「そうです。私は以前からずっと、葛城達也と自分とを比較し続けてきました。私は自分が指導者として生まれついたのだと知っています。そのことは時々あなたにも話してきたことですから、理解していただいてると思います。私という人間は、ごく普通に生きている人間よりも、強い欲望を持っているのです。平凡な幸せでは満足できない。何もかもが欲しい。何もなくしたくはない。私は駄蒙の親友であることも、あなたの同志であることも、コロニーの人たちの指導者であることも、すべてを望んでいます。私にはすべてが大切で、すべてを欲し、すべてを選びます。ですからすべてを得るために行動してきました。コロニーの誰1人として不幸にならないように、誰もが平凡な幸せを享受できるように、それを阻む葛城達也という人間を滅ぼそうとしてきたんです。
私は、葛城達也は独裁者なのだと思っていました。独裁者というのは、私と同じく強い欲望を持っていて、しかしひとたび得たものを維持する方法を間違えた人なのだと思います。人間は自分を幸せに導いてくれる人を指導者とあがめることはあっても、自分を押さえつける人間をいつまでも指導者にしておくことはありません。いずれ関係は破綻していきます。それを理解していないのが独裁者なのでしょう。
でも、葛城達也は違います。彼は私や独裁者が持つ強い欲望というものを持っていないのです。それどころか、普通の人間が抱く平凡な欲望すらも、彼は持っていないのです」
オレにはボスの言葉と葛城達也とを結びつけることができなかった。葛城達也は欲望を持たない、そんな言葉を信じられるはずがないのだ。奴はいつも自分のために人々を押さえつけてきた独裁者だったのだから。
「判りませんか。たぶん伊佐巳には判らないでしょうね。ミオは葛城達也は自分の欲望に正直に生きている人だと言っていたそうですが、それは正解のようでいて実は違っています。葛城達也は自分の欲望で動いているのではなく、人々の欲望によって動かされているんです。……ちょっと判りづらいですね。最初から説明しましょう。
葛城達也という人は、幼少期は施設で暮らしていたということですが、その生活は普通の子供と何ら変わることはなかったといいます。確かに天才的に頭は良かったようですが。しかし10歳のときに自分の能力に目覚め、11歳で自分が死ぬことのできない身体だと知りました。そのときから、彼の中からは根本的な欲望がなくなったのです。それは「生きたい」という欲望です。自分の生命に対する執着を、彼は失ったんです。
その後、彼は相次いで2人の兄弟と離別します。それからの彼は、私が先ほど言ったとおり、周囲の求めにしたがって生きているのです。彼の父である城河財閥の総帥が亡くなったとき、城河財閥に跡取はおらず、内部は混乱しました。それを治めることができるのは彼だけでした。彼はそのことを敏感に察知して、半ば乗っ取るような形で城河財閥の総裁になったのです。……伊佐巳、あなたは不可解だと思ったことはありませんか? 彼はなぜ地球が災害に襲われることを黙って見過ごしたのでしょう。この災害は葛城達也の妹が起こしたものです。ミオが言っていたことなのですが、おそらく間違いないはずです。その時、葛城達也には妹の行動を止めることもできたはずではないですか? それなのに彼は妹に災害を起こさせ、今は妹のためと称して日本を作り直そうとしている。ミオは納得しているようですけれど、私には余計に矛盾が見えてしまうのですよ。……私には、彼が死にたがっているようにしか見えません。彼に今欲望があるとすれば、「死にたい」ということ、ただ1つなのだと思うのです」