61
オレは立ち上がってアフルに駆け寄った。アフルはやはり多少やつれて見えたけれど、それでもオレを見ると微笑んでいた。
「大丈夫なのか? 身体は!」
「ああ、皇帝陛下がずっとついててくれたから。ずいぶんいいよ」
「無理はするなほんとに。オレのことでずいぶん力を使ったんだろ。今日くらいゆっくり休んでろ」
「まあ、そういうわけにもいかないよ。……座ってもいいか?」
「ああ」
オレがまたベッドに戻って腰掛けると、アフルも隣にゆっくり腰をおろした。
さっき、アフルはあんなに大量の血を吐いた。あれからまだそんなに経っていないだろう。大丈夫なのだろうか。アフルの身体は既に寿命を迎えているはずなのだ。
以前、きいたことがある。アフルのような超能力者は、わずかな例外を除いてほとんどが30前後で死んでしまう、短命種なのだと。
「で、オレになんの用だ、アフル」
「伊佐巳の記憶に障害が残ってないかどうか、そのチェックをね。そもそもお前の記憶を消したのだって、それが目的だったわけだし」
思い出した。5日前にオレの記憶を消したのは、オレに精神障害の兆しが出ていたからなのだ。オレ自身そのときのことをはっきり覚えているわけではない。だけど、今のオレはまったく正気だった。
「自分では正常だと思う。だから心配するな。今度こそお前のほうが危ないかもしれない」
「大丈夫だって言っただろ。オレだって自分の限界くらい判ってるよ。……頭に触れるから少しじっとしててくれ」
アフルは1度言い出すと聞かないようなところがあったから、オレはおとなしく触れられるに任せた。しばらくアフルはオレの頭に触れ、目を閉じていた。オレはそんなアフルを、彼が目を開けるまで、ずっと見守っていた。
「……大丈夫そうだな。今のところ気になるようなエラーはないよ。今回のことが原因で精神崩壊を起こすようなことはないと思う。……ぜんぜん関連のないバグならいくつか見つけたけど」
「バグ? 記憶のか?」
「いや、精神の方。どちらかっていうとこっちの方が深刻だ。久しぶりにカウンセリングさせてもらってもいいか?」
アフルはオレの心を覗いて、いったい何を見つけたのだろう。オレはさっきまでミオと話していて、自分自身に失望を覚えた。アフルがオレにカウンセリングが必要だと感じるのは、それかもしれない。
アフルはオレの心の動きを読んでいるらしく、オレが答えを口に出すまでもなく、カウンセリングを始めていた。
「それもあるけどね。1番問題なのは伊佐巳、お前の皇帝葛城達也に対するアレルギー反応だよ。皇帝に関するあらゆる刺激に対する過剰反応とでも言うかな。バグよりもウィルスに近いくらいだ。それを取り除かない限り、お前は影の自分に操られて、自分でも気がつかないうちに本当の自分から程遠い行動を取り続けることになる。……お前の今の思考や行動は、知らず知らずのうちに葛城達也の亡霊に操られているんだ」
その、アフルの言葉を、オレは即座に理解することができなかった。
62
オレの思考や行動が、葛城達也の亡霊に操られている。確かにオレはずっと奴に操られてきた。奴の引いたレールの上にしか道を見出すことができなかった。だけどそれは、オレ自身がそれを認めている。
「伊佐巳、オレが言ってるのはぜんぜん違うことだ。……例えば、ミオに対するお前の考え方とかね」
オレは、17年前にもそうしたように、アフルの言葉に黙って耳を傾けた。
「さっきミオが話したことに対するお前の思考は、それを象徴しているよ。お前は駄蒙とミオのどちらの命も選べなかった。その理由としてお前が適用したのは、ミオの考えが葛城達也の思考に類似しているというものだ。葛城達也に対する嫌悪と否定。その2つを持つお前は、思考パターンの中に葛城達也の考えや行動に類似するものに対して拒否する体勢を作ってる。だから葛城達也に類似した考え方に正しいと思われる部分があったとしても、それを吟味する前にすべて拒否してしまうんだ」
アフルに言われて、オレはさっきの自分の思考の流れを反復してみた。言われなければ気がつかなかった。オレはミオが言った言葉に葛城達也の影響を感じて、それだけでミオの考えを拒否したんだ。あの時オレは、ミオの言葉をミオの考えとして捉えていなかった。本当なら、オレはミオの言葉をミオの考えとして受け止めて、それに対して是非を判断しなければならなかったというのに。
葛城達也の影。葛城達也の亡霊。そういうことだったのだ。オレは自分の中の判断材料として、葛城達也という人間を否定するだけのパターンを自分の中に作り上げている。
「伊佐巳の中にある否定という判断基準は、正しいとか間違いとか言う前に吟味という過程を経ていない分だけ、歓迎できるものじゃないね。事実伊佐巳は自分の中に矛盾を山ほど抱えてる。伊佐巳はオレやミオのことを感化されたとか洗脳されたとか思っているようだけど、ミオは伊佐巳よりははるかに自分自身の判断基準を持っているよ。葛城達也の考え方を吟味して、正しいものを取り入れ、間違ったものは受け入れてない。だから伊佐巳には超えられない矛盾を解くことができるんだ」
……アフルの言葉は辛辣で、オレは絶句することしかできなかった。
ミオはオレの娘だ。オレの影響を最大に受けて、オレの思考と似た思考パターンを持っていた。そのミオが葛城達也の影響を受けて変わったことを、オレは葛城達也の影響だけに焦点を当てて、受け手のミオの意思を無視していたのだ。ミオにはミオの人格があって、自分自身の考えがある。オレはそんな単純なことさえ本当に理解していたわけではなかったのだ。
オレは、ミオを育てるとき、葛城達也のようにはなるまいと思った。子供を1人の人格として扱わないような身勝手な父親にはなるまいと。それなのに、オレには判っていなかった。ミオを1人の独立した人格と認めていなかったのだ。
「……伊佐巳、親の影を背負っていない子供なんかいない。オレたちは誰でも、親の影に囚われてる。その影は自分で気付いて破壊しなければならないものだ。それでなければ子供が親を超えることなんかできない。知らず知らずのうちに、親と同じことを繰り返してしまうことになるんだ。オレも最近になって判ったことだけどね。
伊佐巳、ミオだってお前の影に囚われているよ。だけど彼女は気付き始めてる。気付いて、お前を1人の人間として見ようとしている。まだ、完全ではないし、実際親の影をすべて消し去ることができるのかどうかなんて、オレにも判らない。だけど、気付かなければ何も始まらないんだ。……単純なことなんだ。親も人間なんだって、そのことを認めればいい」
オレが囚われている葛城達也。オレは奴を1人の人間として吟味しなければならない。拒否だけではオレは一生奴を超えることができない。オレがしなければならなかったのは、奴の考え方の正しい部分を認め、間違った部分を糾弾することだったんだ。
「……むずかしいな、オレには。ミオにかなわないわけだ」
「あの子はオレたちとは器が違うよ。オレも彼女がいなかったら気付かなかったかもしれない」
アフルが誉めているのは確かにオレの娘なのだけれど、オレは娘に対する親友の誉め言葉を単純に喜ぶことができなかった。
63
ミオが既にオレを超えているという事実を、オレはさびしく思っていた。あの子にはもう父親は必要ないのだ。オレは結局あの子に何も教えてあげられない。葛城達也をねたましく思う。おそらくミオは、オレよりも葛城達也の方をより尊敬しているのだろう。
「これを言うともっと伊佐巳を落ち込ませそうな気がするけど」
「この際だから全部話してくれ」
「そうだね。オレにもそんなに時間が残されてるとは思えないし。……お前が妬んでるのは葛城達也だけじゃないよ。お前はミオに嫉妬してるんだ。父親を超えることのできるミオに。それと、葛城達也に愛されたミオに」
いつものことだけど、アフルの精神分析は辛辣だった。
オレにはどちらもできなかった。奴を超えることも、奴に愛されることも。アフルの言うことが真実だから、オレは正直腹が立って、だけどそんな自分に唖然として、言葉にすることができなかった。自分の醜さに嫌気がさした。オレは自分の娘を妬んでいるのだ。オレが育ててきて、だけどオレが育て続けていたら絶対に与えられなかったものを、自分の力で得た娘を。
最悪の矛盾だ。だけどその矛盾は解かなければならない。それができなければ、今オレのことを世界一だと言ってくれるミオすらも失うことになるだろう。
「オレは他人だからね。どうとでも言える。確かに伊佐巳にはむずかしいことだと思うよ。だけど、ミオのことを娘だと思うのはそろそろ考えたほうがいいかもしれないぜ。それでなければ、お前は自分自身の目を狂わせて真実を見ることができなくなる。葛城達也のこともだ。お前が彼を父親だと思いつづけている限り、永久に真実は見えないよ」
しょせん、親子は他人なのかもしれない。おそらくそれは真実なのだ。だけど、親子の絆はそう簡単に切ることができないのも真実だ。たとえどんなに葛城達也を他人だと言っても、絆はそう簡単に切れてくれない。葛城達也の影を消し去ることは簡単にはできないのだ。
ミオとの絆も同じだ。まだ記憶が戻る前、ミオが自分の娘だと知らなかった頃なら、オレはミオを素直に尊敬していただろう。自分よりも先をいく人間として教えを乞うていただろう。対等の人間として。あのときの気持ちに再びオレはなれるだろうか。
オレの記憶。記憶がなかった頃、オレは自分の記憶を取り戻したいと思った。だけど今、オレは記憶と引き換えに、自分の可能性を失ったのかもしれない。
「ミオの言う通りだな。伊佐巳、お前、暗いよ」
「……そうか?」
「考え方が後ろ向き過ぎる。もっと単純になればいいじゃないか。お前が1番大切なのはミオだろ? だったらミオのために真剣に考えて出した答えをいちいち後悔してどうするんだよ。あのときのお前は記憶を取り戻すことが自分にとってもミオにとっても1番いいと思ってたはずだ。その結果が“今”なんだろ? それを否定することは、自分の1番を否定することじゃないか。たとえ自分ひとりだけでも自分を肯定してやれよ。32年間生きてたお前も、記憶のなかったお前も、ぜんぶお前自身なんだから」
……まただ。アフルはオレの無意識を見せつける。オレは記憶のなかった自分を否定しようとしている。記憶のなかったオレは、ミオが自分の娘であることを知らなかった。オレが無意識で否定しようとしていたのは、オレの娘、ミオへの恋だ。
真剣だったから、あれが真実だったから、オレは否定しなければならなかった。ミオの父親であることを思い出して、ミオに「パパ」と呼ばれたとき、この気持ちを殺さなければならないと思った。ミオがオレを超えていることを認めたくなかったのも、嫉妬を認めたくなかったのも、すべてはミオの父親でいなければならないというオレの無意識だったのだ。
「伊佐巳、ミオに恋していた気持ちを覚えているな」
「……オレは、あの子の父親だ」
「そうやって自分のことだけ考えてるうちは葛城達也も殺せないし、ミオを幸せにすることもできそうにないね」
呆れたようにアフルは言って、部屋を出て行った。
64
記憶をすべて取り戻したあの瞬間、オレは2つの絶望に出会った。
15歳だったオレは、自分がミオの父親だったことに絶望した。
32歳のオレは、自分がミオの恋人だったことに絶望した。
オレがその瞬間に15歳の自分を殺したのは、ミオの父親であることに絶望する訳にはいかなかったからだ。ミオは父親を愛していて会える瞬間を心の底から望んでいたし、オレ自身もミオの父親である自分に誇りと責任があった。時が経てばミオは新しい恋人を見つけることができるかもしれない。だけど、ミオの父親はオレだけだ。ミオが葛城達也を父親のように慕っていたとしても、生まれたときからの13年間を共有しているのはオレだけなんだ。
ミオに恋していた自分を忘れてはいない。ミオにキスしたときの感動も覚えてる。思い出すだけで頭をかきむしりたくなるような稚拙で恥ずかしい記憶として生々しく残ってる。ミオの恋人だった記憶と、父親だった記憶。その両方を持ったままではどちらにもなれないのだ。そして、その両方になることはもっとありえない。
アフルが呆れるのも当然だ。オレは自分のことしか考えてない。ミオだってオレと同じなのだ。ミオも、オレの恋人だった記憶と、オレの娘だった記憶と、両方を持って苦しんでいるのかもしれない。
(伊佐巳のこと、好きになってもいいかな)
いったいどんな気持ちでそう言ったのだろう。この結末を半ば予期していて、それでもミオはオレを好きになると言ったのだ。
―― ドアの音に振り返ると、ミオがトレイを抱えて入ってくるところだった。
オレはドアを大きく開けて、ミオからトレイを受け取った。
「ありがとう、パパ。お昼ご飯にしましょう」
「サヤカの様子は変わりなかったのか?」
「駄蒙のことで少し落ち込んでるけど、大丈夫よ。サヤカは強いもの。……それより、アフルはここにきたの?」
食卓に座りながら、オレは答えた。
「今しがたまで話していったよ。オレの記憶にエラーがないかどうか、チェックしていった」
「……で? 大丈夫だったの?」
「精神崩壊を起こすような要因はないらしい。ミオにも心配をかけたな」
「よかった……」
心の底からほっとしたような、安心したような笑顔で、ミオは言った。これほどまでにミオはオレの記憶障害に心を痛めていたのだ。
この子を守りたいと思う。すべての心配や不安から、この子を守ってやりたい。
「ミオ、少し話してくれるか? お前の3年間のこと。……葛城達也はどんな奴だった?」
食事に箸をつけながら、ミオは少し考えていた。その表情は特に曇ったり、嫌なことを思い出そうとしている風ではない。その表情だけでも、ミオが葛城達也に対してそれほどの悪感情がなかったことが伺えた。
「……そうね。すごく、単純な人だったわ。最初は判らなかったの。何を考えているのか、どうしてあたしと話をしたいのか。1番最初にね、あたしのことを娘だと思うって、そう言ったの。娘だから愛している、って。あたしはパパの娘で、達也の養女だった勝美の娘だけど、それだけでどうしてあたしを娘として愛しているのか判らなかった。あたし、毎日達也のところに行って、話をしていたの」
65
「ずっと、話をしていたら、何を教えてもらったわけでもないのに判った。達也はすごく単純で判りやすいんだって事。……達也にとって、あたしは娘なの。勝美が娘だったから、勝美と同じあたしも娘なの。そして、あたしを愛する理由はそれで十分だったの。達也は勝美が生きていた頃、うまく勝美のことを愛せなかったんだと思う。だから達也は、勝美を愛するようにあたしを愛した。他の理由なんか一切必要なかった。……なんだか上手に話せないけど」
「ああ、大丈夫。判るよ」
「達也の考えることとか、行動とか、すごく理由がはっきりしているの。でもそれは前から達也がそうだったんじゃなくて、達也の父親が死んだ頃から少しずつ、達也は変わってきたんだと思う。それまでの達也は普通の子供と同じで、理由の判らない行動を自分で悩んだり、自分がしたことに後悔ばかりしていた。……妹をね、達也は愛したいんだと思うんだ。でも、子供の頃ちゃんと愛せなかったから、達也は今でも妹を愛せる自身がない。達也があたしを作ってくれたのは、妹が勝美を殺してしまった罪悪感を、少しでもやわらげてあげたかったからだと思うの。達也が今、人間を救おうとするのは、妹が地球を壊した罪悪感を少しでも減らしてあげたいから。今の達也の行動の基準は、全部妹のため。それが判ってしまうと、達也のすべての行動はぜんぜん矛盾しないんだって、判るのよ」
ミオは、葛城達也と話すことでいろいろなことを知った。自分が勝美のクローンであることも。今、平常心で話すミオになるまでに、どのくらいの葛藤があったのだろう。オレはその絶望を知っている。思い出すたびにそんな出生を与えた葛城達也を憎く思う。
オレを憎んだのだろうか。それとも、オレを憎むことさえできなかったのだろうか。
「達也は日本をいい国にしたいの。20世紀終わりの日本は、戦争も飢えもなかったけど、いい国ではなかったわ。妹の罪悪感をなくすためには、元の日本に戻しただけではダメなの。今までよりもずっといい国にして、彼女が地球を壊したことは間違ってない、今までよりもいい国になったことがその証だ、って、そう言ってあげたいの。そのために達也はずっと考えてた。いい国を作るためにはたくさんの人間が必要で、だから早い段階から埼玉を中心に救助活動を続けてきた。安定した生活をさせるために管理を徹底した。人口を減らさないためには必要なことだったわ。でも、達也の管理に慣れてしまった人間は、自分で考えるすべを無くしてしまう。だから達也にはコロニーが必要だったの。自分で考えることのできる人間。管理体制を壊す元気のある人間が。達也はコロニーを、日本の頭脳として位置付けているの」
ミオが話す葛城達也の考えは、オレが考えていたものと同じだった。オレがそれを批判するのは、人の命の重みというものをまったく無視しているからだ。葛城達也に人の命を選別する権利はない。そう思うから、オレは奴を殺したいのだ。
ミオは判っているのだろうか。同じものを知りながら、ミオはオレとは違う答えを見つけているのだろうか。
「でもね、パパ。厳密には達也はそれを、妹のためにしているんじゃないわ。達也は妹の気持ちが自分に戻ってくることを望んでる。だから、自分は妹のためにこれだけのことができるんだって、彼女に見せつけてやりたいの。自分は昔とは違う、これだけのことができる男になったんだ、ってね。達也は自分が妹の心を欲しいから、皇帝になったんだわ。理由はたった1つだけ。好きな女性に振り向いてもらいたいって、ただそれだけなの」
オレには判らなかった、葛城達也というもの。その話を聞いて、オレの心の中は複雑だった。たったそれだけの理由で数千人を殺したのかという怒り。動機が恋愛にあるという意外性。ミオが言うことが果たして真実なのかという疑惑。そうと知ったミオがどう感じているのかという疑問。
どちらにせよ、今の段階でオレが葛城達也を肯定することは不可能だった。
66
「ミオはそれを、すごく判りやすいと思うんだな?」
「ええ、すごく単純で判りやすかったわ。パパはそうじゃないみたいね」
「少し言葉が足りないかな。もう少し話してくれるか?」
「判ったわ。……達也は自分が妹の心を欲しくて、妹が喜ぶように、妹に嫌われないようにしているの。あたしを幸せにしたいのは、あたしが勝美よりも幸せになれば、妹が勝美を殺した罪の意識が半減すると思っているから。同じように、日本の皇帝になって日本を前よりもいい国にしたいのは、それで妹の罪が少し軽くなるからだわ。達也の基本は、自分と妹の命と幸福、それだけなの。だから、はっきり言ってその他の人間はどうでもいいの。死のうが生きようが、幸せだろうが不幸だろうが、達也には関係ないのね。だから、自分と妹の幸せに関係する人を生かしておいて、関係ない人は死んでしまってもいい。……あたしは達也と妹の幸せに関係があるわ。だから生かしているし、幸せにしようとしてる。パパはあたしの幸せに関係があって、あたしの幸せは妹の幸せに関係があるから、パパは殺さない。サヤカの幸せはあたしの幸せに関係があるから、達也はボスを殺さない。でも、駄蒙はあたしの幸せに少ししか関係がなくて、これから先の日本の統治にものすごく関係があるから、駄蒙は殺さなければならないの。日本の統治が妹の幸せに深く関係するから。……例えば、今ここに達也の妹が現われて、2人で一緒に無人島で暮らしたい、って言ったら、達也はあっさり日本を見捨てるわよ。達也がいなくなったことでこれから何千人死のうとね。そのくらい徹底しているの」
オレは、ずっと疑問に思ってきたことを、口にした。
「ミオは、そういう葛城達也を正しいと思うのか?」
「ええ、基本は正しいと思うわ。パパは違うみたいね」
「人間をこれだけ殺しておいて、それでも奴は正しいのか?」
「達也は力があって、たくさんの人間の命に影響を与えている。でもそれは達也の力が大きすぎるからだわ。あたしね、達也がこういう単純な人なんだって判った時、自分の中にあったいろいろな矛盾が解けたの。だから、あたしも達也のように生きようと思った。そして、地球上のすべての人間が達也のように生きていたら、それが普通になったら、世の中の矛盾がずいぶん減ると思ったの。……今のあたしは、達也と同じ。あたしには自分の命と幸福、それから、パパの命と幸福だけが、1番大切なの」
オレにはどうしても判らなかった。ミオが言う葛城達也の正しさが理解できない。人を殺すことがなぜ正しいのか、それが理解できないのだ。世界中の人間が葛城達也のようになったら、人の命を命とも思わない人間が溢れて、世の中はめちゃくちゃになるはずだ。
「だったら、ミオは自分とパパのためなら、人を殺すことができるのか?」
「例えば理由もなくあたしが人を殺したら、パパはとても苦しむし、あたしを嫌いになるかもしれない。それはあたしの幸福でも、パパの幸福でもないわ。でも、そうするしか選択肢がなくて、その人を殺さなければパパが殺されることになったら、あたしはその人を殺すことをためらわない。……殺した後、あたしはものすごく苦しむと思う。毎晩悪夢を見て泣くと思う。でも、それしか方法がなかったから、そうしなければパパを失うことになったから、苦しんだとしてもあたしは後悔はしない。その人の命を一生背負って生きていく。
ねえ、パパ。あたしは達也を正しいと思うけど、達也を許しているわけじゃないわ。達也にはコロニーの人たちを苦しめる理由があった、そのことを認めたの。達也は自分の正義のために駄蒙を殺す。今のあたしには駄蒙を殺すことを阻止することができない。でも、これから先あたしが強くなって、達也に対抗できるようになったら、あたしは必ず達也を殺して駄蒙の仇を取るわ。駄蒙や、東京で殺されてしまったみんなの。……そうしたらあたし、初めて駄蒙に許してもらえる気がする」
その時オレは、ミオの言う正しさを理解した気がした。
67
人間は誰のために生きるのか。オレにはその基本がなかったのだ。人間が生きるのは、自分のためだ。自分の幸福のために、人間は生きている。
好きな人に振り向いてもらいたい。好きな人を幸せにしたい。そうすれば自分が幸せになれるから。好きな人が不幸だったら、自分も不幸になる。オレが不幸になったら、オレのことを好きなミオも不幸になる。だからオレは幸せにならなければならない。ミオを幸せにするためには、オレが幸せにならなければならない。
誰かを不幸にしたら、オレは不幸になる。ミオを幸せにするためには、誰かを不幸にしてはいけない。だけどその誰かのためにミオを不幸にしてはいけない。たとえその誰かを不幸にしても、その償いを一生背負わなければならないのはオレだ。
ミオは自分のために、駄蒙を殺すことを選んだ。自分のために選ばなければいけない命もある。
「ミオが、葛城達也を殺すのか?」
「達也に約束したの。いつか、達也を殺せる人間になるって。それだけの価値のある人間になるって」
「パパはお前にそんなことをさせたくないよ」
「うん、でも、あたしがしなければならないことだから。誰かが達也を殺さなくちゃならない。その誰かに、あたしはならないといけないの」
自分の心のために、ミオはそう言い聞かせなければならなかったのだろう。ミオがそう決心したのは、もしかしたらオレのためなのかもしれない。
オレが葛城達也の影を背負っているように、ミオはオレの影を背負っている。オレはこの子のために、いったい何をしてやれるだろうか。
「食事を片付けてくるわね」
ミオはそう言って部屋を出て行った。オレは少し身体を動かしながら、ベッドのところまで行って座り込んだ。ミオとの話で、オレの中での視点は180度変化していた。その変化したものをひとつひとつ確認しながら、目を閉じる。
ミオの幸せを、自分の幸せという視点で見るのは初めてだ。オレはミオを幸せにしたいけれども、オレが不幸だったらミオは絶対に幸せにはなれない。かといって、オレの幸せは何かといえば、ミオの幸せなんだ。ミオが幸せになれば、オレは幸せになる。
ミオを幸せにするためにオレが不幸になるのでは意味がない。ミオの命のためにオレが死んだら、ミオは不幸になるだろう。ミオが言うようにオレが死んだらミオも死ぬとは思わないけれど、傷が癒えて新しい幸せを見つけるまでに時間がかかるだろうことも事実だ。オレには自分1人死ぬことは許されない。
今のオレが1番しなければならないのは、何を置いてもまずは生きることだ。葛城達也を殺すことでも、駄蒙を救うことでもない。コロニーの人々は葛城達也が生命を保証している。オレは本当に駄蒙の命を背負うことができるのだろうか。
生命の選択には罪悪感と嫌悪感がある。その嫌悪感は、オレが葛城達也に持っているものだ。オレは葛城達也と同じになることを拒否している。それも、オレの背負う影なのか。この影を消さない限り、オレが葛城達也を超えることはできないのか。
自分の命のために誰かを犠牲にするのは善か。
間違いなく悪だ。だけど、悪を許容しなければならないときもある。
オレは生きなければならない。あとどのくらい生きたら、オレはすべての罪を許されるのだろうか。
68
ミオと話さなければ、オレは罪を罪と知らないまま、駄蒙を死なせていたのかもしれない。今回のことだけではなく、オレは今までの32年間で、多くの罪を犯してきた。罪は償われなければならない。オレがそうと認識できなかった罪は、これまで償われてこなかった。罪を償うということは、罪を罪と認識するところから始まるのだ。
ミオは既にオレを必要としていないのかもしれない。ミオがオレを必要だと言い、未だオレを自慢のパパと呼ぶそのことこそが、ミオの背負うオレの影なのだろうか。
ミオは、頼りにならない父親を見下す、あるいは見放す自分を恐れているのだろうか。
「お待たせ、パパ」
呼び声に顔を上げると、ミオは満面の笑顔で部屋に戻ってきた。オレが微笑み返すと、ベッドのオレの隣に腰をかけて、自然な動作で腕を絡ませた。
「ついでにみんなの様子を見てきたら遅くなっちゃった。ごめんなさい」
「みんな? コロニーのか?」
「ええ。……コロニーが達也に勝てなかったから、みんな不安なの。自分たちがどうなるのか気になるのね。ほんとはあたしじゃ力不足なんだけど、少しでも元気付けてあげたかったから。達也はみんなの命を助けるつもりみたいだって、話してきたの」
この子は今までもずっとそうしてみんなを励ましつづけてきたのだろう。この3年間、コロニーの人たちが閉じ込められてきた軟禁室を行き来できるのはミオだけだったのだ。
「オレたちの力が足りなかったばっかりに、みんなを不安にさせてしまったな」
「誰もパパたちを悪く思ってないわ。パパもボスも精一杯やったんだって、みんな判ってる。だからパパが落ち込む必要はないのよ。過去は過去。みんなが今考えているのは、自分の未来のことだもの」
オレが考えなければならないのも未来か。そうだな。オレは未来を手に入れるために、過去の記憶を取り戻したんだ。
「オレの未来はどうなるのかな。皇帝はお前に話しているのか?」
「パパが記憶を取り戻してからは、あたしまだ達也と話してないから。でも、前に言ってたの。パパが記憶を取り戻したら、あたしとパパを解放してくれる、って。だから、たぶん追放になると思うわ。パパとボスと、コロニーの希望者は」
「追放か。……東京にかな」
「東京にはまだ生き残ってる人もいるかもしれないわ。あたしとパパと、ボスとサヤカの4人で東京に入れば、生き残っている人たちと協力してまた違う道が開けるかもしれないもの」
オレはミオの言葉に驚いた。
「サヤカはオレたちと一緒に来るのか?」
ミオの方もオレの言葉に驚いたようだった。
「どうして驚くの? とうぜん一緒に来るわよ。サヤカがボスと離れる訳ないもの」
……そういえばミオは言ってなかったか? サヤカはボスのことを好きだから、皇帝はボスを殺せないのだと。オレは3年前のサヤカを思い出そうとした。ミオと同年で13歳だったサヤカは、オレの記憶の中ではミオの友達の小さな子供のままだった。
「……ええっと、いつからそういうことになったんだ? ボスとサヤカは」
「さあ、サヤカの中では3年前から決まってたみたい。ボスの方はよく判らないけど、サヤカは美人だし、頭もいいし、すごくお似合いだと思うわよ」
ミオはそう言ったけれど、オレはサヤカが美人だったかどうか、それすら詳細にイメージすることはできなかった。
69
「……美人、なんだ、サヤカは」
ミオは半ば呆れたようにため息をついて、苦笑いで返した。
「なんとなく知ってたけど、改めて確認。パパって、女の子の顔に興味ないでしょ」
……言われてみて思い出すと、オレが過去に恋をした女の子は、みんな世間並みかそれ以下だった気がする。一般に美人と言われる女性と知り合ったことがない訳じゃなかったけれど、オレはその人が美人だということが周りに言われるまで気がつかないのだ。子育てに必死になっている頃、あとから思えばお見合いだったかもしれないような席に引っ張り出されたことが何度かあった。紹介してくれる知人はその人を美人だと褒めそやすのだけど、オレの方はそう言われて初めて気がつくようなありさまだった。
「あたし、よく連れて行かれたのよね、パパのお見合いに。隣のおばさんとか、ハンサムのパパに似合うようにきれいな人ばっかり連れてきたのに、パパは全然興味がないみたいで、おばさんよくあたしに愚痴をこぼしてたもの。……思い出した。あたし、パパのお見合い相手を葬り去る天才だったのよ。あることないこと相手の人に吹き込んで、諦めさせちゃうの」
どうやらオレが気付かないところで、オレを再婚させる動きはかなり活発に展開されてたらしい。再婚とは言ってもオレは勝美と結婚していたわけじゃないのだけれど。
「オレはそうとう鈍かったらしいな」
「そういうところも伊佐巳の魅力の1つだと思うのよね」
―― そう、言葉が発せられた瞬間は、言ったミオも、言われたオレも、気付かなかった。
そうだ、いつからだ? オレはいつからミオに対して「パパ」と言わずに「オレ」と言っていた……?
オレの沈黙に、ミオも気付いていた。自分が父親のことを「伊佐巳」と呼んでいたことに。
2人の間に緊張が流れていた。触れることを恐れていた。15歳の伊佐巳を封じ込めたあの時から。
「……ミオ」
オレが声をかけると、ミオは少し緊張を解いて、微笑を浮かべた。
「ミオは、そう呼びたいのか?」
ミオの微笑みは、けっして父親に対するものではなかった。オレが恋をした少女の、オレのことを好きになると言った時から少しずつ変化してきた、たった1人の男に対する微笑。
「……どちらでもいいわ。あたしには同じだから。パパも、伊佐巳も」
オレは何も答えることができなかった。呆然と見守る前で、ミオは絡ませた腕に力を入れた。
「……子供の頃、ね。まだ小学生になったばかりくらいの頃、ハルちゃんに打ち明けたことがあるの。あたしは大きくなったらパパのお嫁さんになるんだ、って。ハルちゃんは「パパのお嫁さんにはなれないんだよ」って言った。でも、それがどうしてなのかはハルちゃんにも判らなくて、2人で一生懸命考えたのよ。そのうちハルちゃんが「パパにはママがいるからだよ」って言ったの。だからあたし、安心した。うちにはママがいないからハルちゃんとは違う。あたしはパパのお嫁さんになれるはずだ、って」
ミオはずっと微笑みながら話していたのだけれど、その声はオレには切なく響いた。
70
「でもね、それからしばらく経って、気付いたの。うちには確かにママはいない。でも、パパの中にはちゃんとママがいるんだって。パパはずっとママのことを好きなんだ、って。……ほんとにたまにだったけど、パパはあたしを見て、ママに似てるって言った。顔つきが似てきたとか、ちょっとした表情がそっくりだとか。今ならあたりまえなんだって思うけど、その頃のあたしは、ママに似ているのが嫌だった。……知らなかったよね」
ミオの話す昔話は、オレには心当たりのないことばかりだった。ミオがオレの言葉で傷ついていたことも知らなかった。この子が勝美に似ているのはあたりまえなんだ。勝美の遺伝子をそっくり受け継いだ、勝美のクローンなのだから。
「オレはそんなに勝美のことをミオに話していたのか?」
「ううん。あんまり話さなかった方だと思うわ。でも、たまには話してくれて、勝美はいつも髪を短くしていたとか、あんまり女の子らしい服装をしなかったとか。そんなことを聞くたびにあたし、髪を伸ばしたり、スカートをはいたり、できるだけママに似ないようにしていたの。パパがママを思い出さないように、あたしとママを比べないように。あたし自身を見て欲しかったのかな。いつからか、そんなことをしてもパパのお嫁さんにはなれないんだって、判ったけど」
ミオの幼い頃の心の動きは、もしかしたら小さな女の子にはよくあることだったのかもしれない。ミオを育てているうちに、オレの中の勝美の輪郭は、少しずつ失われていった。そもそも勝美はたった2週間しか傍にいなかったのだし、オレは勝美の恋人ですらなかった。たった一度、キスをして、怒られたけど、勝美はたぶん恋も知らないくらい幼くて、ぼんやりしていて、自分の回りの環境を受け入れることだけで精一杯だった。
記憶が戻ったとき、オレはミオを思い出した。だけどオレは本当のミオを半分も知らなかったのかもしれない。ミオが勝美と違う人間なのだと頭では判っていたはずなのに、オレはミオを1人の人間として見ていなかったような気がする。オレはミオを育てていたのではなく、勝美の子を育てていたのだ。
幼いミオは無意識に感じていたのだろう。勝美の亡霊がミオを縛っている。そうさせてしまったのはオレなんだ。
「ミオ、お前は勝美には似てないよ。確かに顔はよく似ているけど、オレは今ミオを見て勝美を思い出すことはない。オレにとって、この顔をした16歳の女の子は、勝美じゃなくてミオなんだ」
オレの気持ちが伝わったのだろうか。ミオは腕を放して、オレの首に腕を絡ませた。
間近になってしまったミオの表情は、既にオレの娘の顔をしてはいなかった。
「あたし、15歳の伊佐巳に、ほんの少しだけ嘘をついたかもしれない。……あたしは伊佐巳をパパと切り離して見ようとしてたけど、そのつもりだったけど、やっぱりどこかでパパを重ねてた。小さい頃にパパのお嫁さんになりたかったこと、忘れてなかった。15歳の伊佐巳の恋人になったら、32歳のパパの恋人にもなれるかもしれないと思ったの」
オレの中で、15歳のオレが叫んでいる。ミオが好きだと。ミオを抱きしめたいと。
15歳の伊佐巳は死んではいない。むしろ15歳のオレの方が、32歳のオレよりも純粋な気持ちでミオを愛していた。
「パパでも、伊佐巳でも同じ。黒澤伊佐巳があたしの少年だから」
そう言って、ミオは唇を重ねた。