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実際のところ、そいつが現われて立ち去るまでの間、オレはずっと気圧されたままだった。
オレの背後に立った葛城達也は、オレを押しのけながら歩みより、アフルの身体を支えた。たったそれだけだった。それだけで、アフルの咳は止まり、しだいに呼吸が楽にできるようになっていった。
アフルから手を離したことで、オレの聴覚は元に戻っていた。オレは呆然と2人を見ていた。葛城達也に抱きかかえられたアフルは、心の底から安心しきったような表情をしていた。それは、オレでさえも見たことのない表情だった。
「よくやった」
葛城達也はそう言った。おそらくオレの記憶をすべて蘇らせたことに対する言葉だった。そして、アフルにはそれで十分だったのだ。触れることをやめてしまっていたのに、アフルの心がオレにも伝わってくる。もう、いつ死んでも悔いはないというような、至福の表情をして、アフルは微笑んでいたのだから。
15歳の頃のようなまっすぐな気持ちで葛城達也を否定することは、今のオレにはできなかった。
オレは変わってしまった。アフルはオレが変わっていないと言ったけれど、今のオレは葛城達也の正しさも理解することができるのだ。東京を隔離したことも、東京の人間たちを殺したことも、1つの正義には違いない。アフルが葛城達也を正しいと言った、その言葉を理解することができる。それが葛城達也にできる精一杯のことだったのだと。
だけどオレは奴を否定しなければならなかった。それがオレの正義で、オレの生き方だ。その時初めて葛城達也がオレを振り返った。オレは奴の表情をはっきりと見ることはしなかった。
「伊佐巳、俺は昔よりはいくぶんマシなレールを引けるようになった。そう思わねえか?」
オレの父親だ。オレにそっくりな顔をして、44歳であるというのにまるで30そこそこにしか見えない、双子の兄弟のようによく似た男。いつになっても、どんなに時を経ても、絶対に超えることができない。たえずオレの前を歩きつづけて、関わるすべての人間の信頼を勝ち得てきた男。
もしも父親でなかったら、オレは奴を尊敬していたのかもしれない。偉大さを認め、同じ理想を追い求めていたのかもしれない。この男の息子でさえなかったら、オレは奴に父親を求めることはなかっただろう。そして、奴の最悪の父親像を見せつけられることも、なかったのだろう。
否定しなければ生きられなかった。自分の中に確かにあった思慕の気持ちを、否定しなければどうすることもできなかった。オレは成長していない。オレは今でもこの男に父親を求め、失望を繰り返しながら生きている。
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オレはいつでも、この男を殺したいと思っていた。オレの人生のすべての瞬間を支配しつづけていた男。オレの記憶を操り、感情を操り、思い通りに動かしてきた。死んだミオに恋をした。死んだ勝美に恋をした。そして、オレはまた、オレが名づけた少女に恋をした。
オレの恋する心すら、この男は思い通りに支配してきたのだ。
「……で、今度はどんなレールを用意したんだ」
勝美。何も知らずに殺された勝美。君はオレを許してくれるだろうか。
「俺の娘を幸せにする」
葛城達也はそうとしか言わなかった。
現われたときと同じように、葛城達也はその姿を消していた。傍らに寄り添っていたアフルと一緒に。アフルが吐きだした血の跡も、2人が消えると同時に消滅していた。この一瞬がまるで夢の中の出来事のように思えてくる。
オレは罪を犯した。だとしたら、これはオレに対する罰なのだろうか。1人の少女に恋をした。オレが恋した、オレが名づけたミオは、この3年間、葛城達也にとって失われた2人の娘の身代わりだったのだろう。自殺したミオと、殺された勝美。その2人を娘として愛することのできなかった葛城達也は、ミオを愛することで償いをしていたのかもしれない。
だとしたらオレはどうやって償えばいいのだろう。葛城達也の用意したレールは、オレにとっては1番残酷な償いの道だった。オレの父はオレの人生を支配し、レールを引き続ける。そしてオレは、そのレールの上にしか生きる道を見出すことができないのだ。
不意に、視線を感じて顔を上げた。いつからそうしていたのだろう。ドアの前に立ち尽くして、オレをじっと見ている、少女の視線とあった。
この少女を愛している。だけど、オレには少女を幸せにする資格はない。
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どうして判らなかったのだろう。少女はいつも、本当のことしか言っていなかった。
(ありがとう、伊佐巳。……大好きよ)
(もう、伊佐巳に隠し事をするのはいやだもの。伊佐巳がしたいと思うこと、邪魔したくないもの)
(怖いの。あたしのパパは、あたしを置いていった。……もう、置いていかれるのはいやなの)
(伊佐巳はどこにも行かないわよね。ずっと、あたしのそばにいるわよね)
(あたしね、伊佐巳の記憶が戻らなくてもいい。このままの伊佐巳で、何も知らないままの伊佐巳と一緒にいたい。この部屋から一緒に逃げちゃいたいよ)
(伊佐巳の記憶が戻って、万が一伊佐巳が変わってしまっても、あたしは変わりたくない。伊佐巳のことを好きな自分でいたい)
―― 彼女はいつも怯えていた。オレの記憶が戻ることを。オレが、彼女の前から去っていくことを。
(あたしの名前は、伊佐巳が付けてくれる名前だから。それがあたしの本名なの。そう思ってるから)
(伊佐巳が違う名前を付けてくれるのなら、それでもいいよ。あたしのことを違う名前で呼びたいのなら)
(たぶん、伊佐巳にとって、ミオは特別な名前なんだな、って)
(伊佐巳が最初にミオという名前を付けてくれたとき、すごく嬉しかった)
(死んだミオがもしも違う名前だったら、その2人も違う名前だったかもしれない)
(あたしの名前はあなたが付けてくれた。あなたがあたしのことをミオと呼んだの)
―― オレが名づけた名前を、自分の名前だと。
(伊佐巳のこと、好きになってもいいかな)
(あたし、自分の気持ちを考えた。あたし自身が好きなのは誰なのか、って)
(あたしはたぶんファザコンなのね。将来パパみたいな人と結婚したいの)
(あたしの1番好きなのは、世界にたった1人、あたしのパパ)
(あたしの世界にはパパしかいなくて、パパと一緒にいるときが1番好きだった)
(もしもね、あたしが伊佐巳の記憶を取り戻すことに成功したら、あたしを雇ってるあの人は、あたしとパパを会わせてくれるって、約束したの)
(伊佐巳の記憶は必ず戻るし、そうすればあたしはパパに会えるんだもの)
(……伊佐巳。……大好き……)
―― 無意識の中で、オレが本当に恐れていたこと ――
オレを見つめた少女は、恐る恐る、言った。
「……あたしが、誰だか判る……?」
オレが恐れていたのは、少女がそう問い掛ける、その瞬間だった。
「……黒澤ミオ。……オレの、娘だ」
「……パパ……!」
目にいっぱい涙をためたミオは、オレの胸に飛び込んでくる。オレはしっかりと抱きしめた。もう、絶対にこの子を1人にはしない。
その瞬間、オレは15歳の伊佐巳の人格を殺した。
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( ―― 大丈夫。あたし、人質くらい平気。皇帝がどんなに意地悪したって、絶対に負けない。だって、みんな一緒だもの。サヤカも、他のみんなも。……大丈夫だから。パパのこと信じて、パパが迎えにきてくれるの、いつまでだって待ってるから ―― )
3年前、オレの小さなミオは笑顔でそう言って、オレに手を振っていた。
ミオはオレの胸に顔をうずめて、ずっと涙を流しつづけていた。オレの服を力いっぱい握り締めてしゃくりあげていた。涙を止めることができないのだろう。気が済むまで精一杯泣いたらいい。3年分のミオの涙は、おそらくミオにしか判らない、オレには判らない涙なのだろうから。
泣きつづけているミオを抱きしめて、オレはずっと昔、17年前に死んでしまったミオの母親、勝美を思い出していた。
17年前、16歳だったオレの義姉のミオが自殺したあと、オレはその記憶の一切を葛城達也によって消された。
代わりに植え付けられた記憶はそれほど鮮明ではない。今いる部屋によく似た部屋の中で、膝を抱えて誰かを待っている、そんなあいまいな記憶だ。すぐにオレはその部屋から連れ出されて、1人で暮らす勝美の家に連れてこられた。勝美は生まれてまもなく葛城達也に拾われて養女になった、オレのもう1人の義姉だった。
ミオと同じ16歳の勝美。彼女はごく普通の少女だった。生まれてまもなく捨てられた勝美は少しの傷を背負っていたけれど、それは普通の少女の枠を超えるほどの影ではなかった。彼女と暮らし始めたオレは、やがて恋をしていた。おそらく、無意識の中で、オレはミオへの恋を取り戻そうとしていたのだ。
年齢を偽って、勝美と同じクラスで学生生活を送り、心を癒されながら過ごした2週間。
勝美はオレを弟以上に見ることはなかったけれど、それでもオレは幸せだった。この2週間がオレに与えてくれたものは果てしない。この2週間がなかったら、オレは今ここにこうして存在することはなかっただろう。
勝美への恋が偽りだったとは、オレは思わない。いつも髪を短くしていて、美人でもなかったし、これと言って目立った魅力を持った女の子ではなかったけれど、それでもオレにはたった1人の女の子だったのだ。ずっと同じ時を過ごして、オレの気持ちがちゃんと伝わったら、一生傍にいて守ってあげたい女の子だったのだ。
あの日、勝美は殺されてしまった。
高校の文化祭の初日だった。中庭の床は緑色のコンクリートで、ナイフで刺されて倒れた勝美が流していた、真っ赤な血が目に焼きついた。刺した人間は葛城達也の顔をしていた。葛城達也の妹だった。
かつて葛城達也に裏切られた妹は、葛城達也への復讐の意味を込めて、何も知らない勝美を刺し殺したのだ。
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(ママはあたしが生まれる前に死んでしまったから。あたしの世界にはパパしかいなくて、パパと一緒にいるときが1番好きだった)
オレはミオにそれを話したことはなかった。だけどミオは知っている。勝美が、ミオの母親が、ミオが生まれる1年も前に死んでいたのだということを。
勝美が死んだ日の夜、オレは再び研究所に戻ってきていた。そして、葛城達也に頼んだのだ。オレの勝美をよみがえらせて欲しいと。
勝美のクローンを作って欲しい、と。
だいぶ気が済んだのか、ミオは泣くのをやめて、オレのシャツで涙を拭った。そして顔を上げる。13歳の頃よりもはるかに大人びた少女の顔があった。オレの娘は離れていた3年の間に、こんなにも大人に成長していたのだ。
「大きくなったな。……見違えたよ。本当にあの小さかったミオなのか?」
勝美によく似た、勝美にそっくりな顔。だけどその表情には勝美にはなかった強さがある。普通の少女には必要のなかった苦労をさせてしまった。あの災害の後、埼玉で難を逃れたオレがコロニーを救うために東京に行くと言い出さなければ、この子は人質になることもなく、今でも復興後の埼玉で平穏に暮らしていたのだろう。
「パパは、変わってないわ。あたしの自慢のパパのままよ」
「苦労をさせたな。皇帝はお前にひどいことをしなかったか?」
「なにも。達也はいつでもあたしに優しかったから」
勝美や、死んだミオと同じ呼び方で、ミオは皇帝葛城達也の名前を呼んだ。
「さびしくなかったか?」
「さびしかったけど、あたしには達也もアフルも、サヤカや、他のみんなもいたから。……さびしいより心配だったわ。もう2度とパパに会えなかったらどうしよう、って」
「……パパは、毎日ミオのことばかり考えてた。皇帝にいじめられてないか、病気してないか、さびしくて泣いてるんじゃないか、って。……何度も夢を見たよ。この建物を攻撃して、乗り込んでミオを探すんだ。だけどどこにもミオがいない。他のみんなはパパを見て悲しそうな顔をするだけで、誰も何も言わないんだ。本当の事を知るのが怖くて、パパは誰にも何も訊けないで、ずっとミオの名前を呼びながら、ミオを探しつづけてる」
「パパ……」
ミオはぎゅっと、オレの首に抱きついた。まるでオレを慰めているようだった。オレの娘。この子はまだ、父親を必要としている。そしてオレにはこの子が必要だ。
勝美の子。本当だったら生まれるはずのなかった、勝美の娘。初めてこの子を抱き上げたときから、オレはこの子のために生きようと思った。この子の命の責任はすべてオレにあると思った。ミオは、オレの命で、オレの最大の罪だ。
オレは人の命をもてあそんだ。ミオが生きている限り、オレが勝美に対して犯した罪が消えることはないだろう。
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これまでのオレの17年間は、ミオを育てることと、葛城達也を殺すことだけに費やされてきた。
勝美を殺した、葛城達也の妹。本当ならばオレは彼女を恨むべきだったのかもしれない。だけど、彼女も結局は犠牲者なのだ。葛城達也に裏切られ、その愛情を受けていた勝美に逆恨みをした。葛城達也がすべての元凶だった。奴が生きている限り犠牲者は増えつづけるだろうし、事実、その後の17年間に、奴の犠牲になった人間は計り知れなかった。
17年前、オレの前に現われた葛城達也の妹は、平野まなみという名前の勝美の同級生だった。最後に見た彼女は明らかに精神に異常をきたしていた。葛城達也と同じく超能力を持つ彼女は、破壊の能力に長けていた。葛城達也は勝美を殺された17年前から3年前までの14年間、彼女に対して何ひとつ償いをしてはこなかった。
誰も信じないだろうし、オレも言うつもりはなかったけれど、オレは地球を壊した恐怖の大王が、葛城達也の妹ではなかったかと疑っている。
その真偽は別としても、その後の葛城達也の振る舞いは、人間として許されざるべきものだ。復興の指導者となって、東京を隔離し、多くの人間を殺した。葛城達也が殺したのは機銃掃射で直接殺した人間だけにとどまらない。救助の手を差し伸べていれば助かったかもしれない人間を、隔離することで見捨てたのだ。その人数は数千人に及ぶのだ。許せなかった。オレが葛城達也を殺せたなら、その数千人を見殺しにすることはなかっただろう。
オレはすり替えているのかもしれない。オレが犯してしまった罪を、葛城達也を殺すことであがなおうとしているのかもしれない。自分の行動に矛盾があることはずっと感じていた。それでも、葛城達也を殺すことが正しいと、それだけを信じて生きてきたはずだった。
オレはずっと、過去を見つめていた。
だけど、葛城達也はいつも、未来を見ていた。
葛城達也によって生み出された、そうならざるを得なかった、コロニーという集合体。東京に隔離され、仲間を殺され、強くなければ生きることすらできなかった人々。葛城達也は彼らを望んでいたのだ。復興社会の、従順な人間たちに風穴を開ける存在として、葛城達也はコロニーを必要としていたのだ。
東京以外の人間は、既に葛城達也がいなければ生きられない。従順で、疑問を持たず、惰性で生きることしかできない。これから先の人間という種を進化させていく力がない。その力がコロニーにはある。葛城達也が欲していたのは、隔離され、虐げられた人間たちが生み出す、力そのものだったのだ。
人を殺すことは正しいことじゃない。だからオレはコロニーについた。怒りのエネルギーをもって葛城達也を倒そうとした。そして、葛城達也はコロニーに倒されることを望んでいた。
オレたちは、葛城達也が自ら与えたチャンスを潰したのだ。
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オレはいつもチャンスを与えられてきた。15歳のとき、ミオの心をオレが掴むことができていたら、ミオが自殺を選ぶことはなかっただろう。勝美の文化祭の日、オレが勝美を守ることができていたなら、勝美が死ぬことはなかっただろう。コロニーが革命を成功させていたら、葛城達也を倒すことができただろう。葛城達也はいつでもオレにチャンスを与え、そしてオレはそのチャンスをいつも潰しつづけてきたのだ。
葛城達也はレールを引き続ける。奴は権力者だった。権力を手に入れた奴を悪いとは思わない。奴はそれだけの努力をして権力を手に入れたのだし、それを支えているのは回りの人間だからだ。
権力者が権力をもって未来を作る。理想のビジョンを描き、現実とのギャップを権力を使って埋める。葛城達也が描いている未来は、人類がよりいっそうの繁栄をするという、誰にとっても理想的な未来だ。そのために葛城達也は日本の復興に手を貸した。わずか3年で、奴は流通を回復させ、少なくとも40年前と同じ程度の生活水準を取り戻したのだ。もしも葛城達也がいなければ、日本がここまで来るのに10年はかかっていたことだろう。
しかしそのことが逆に、葛城達也という完璧な指導者に頼り切る、現在の風潮をも作り上げてしまった。自分の有能さを見せつけることで、人々の小さな野心を奪ってしまった。その人々の野心の代わりに葛城達也が設定したのがコロニーなのだ。コロニーを起爆剤にして、皇帝葛城達也を倒させることで、葛城達也は人々の活力を復活させようとしていたのである。
果たして葛城達也は間違っているだろうか。奴の前にはたくさんの選択肢があったことだろう。それらをすべて吟味した後、奴は自分に1番正しいと思われた選択をしてきたのだ。もしも奴が皇帝として名乗りをあげなかったら、日本の復興は遅れ、より多くの人命が失われていたのかもしれない。奴が東京を隔離し人命を奪わなければ、コロニーは革命を起こすほどの怒りを持たなかったかもしれない。
葛城達也は自分が考えうる精一杯の事をしたのだろう。だけど、オレは奴が正しかったとは、どうしても思えないのだ。人の命は数字ではない。コロニーの人々が目の前で奪われた愛する人の命を、少ない犠牲で済んでよかったのだとは、どうしたって思えないのだ。
腕の中のこの子の命は、オレにとっては誰の命よりも重い。……ああ、そうか。オレは、権力を使って人間の命を選別する、その行為に怒りを感じるのか。災害で失われた命の責任は誰にもない。でも、コロニーの人々の命は、葛城達也が手を下して奪った命なのだから。
「ミオ、コロニーのほかの人たちは、今どうしているんだ?」
オレが言うと、ミオはしがみついていた腕を放して、オレの目を見て言った。
「ほとんどの人たちは、パパと同じような軟禁室にいるわ。でも、ボスと駄蒙だけはダメだったの。牢屋みたいな部屋に別々に入れられちゃった」
自分の力が及ばなかったことに、ミオは心を痛めているのだろう。この子はまだ16歳なのに、コロニーの人々の待遇に責任を感じている。
「それで、これから葛城達也がどうするつもりなのか、ミオは聞いているのか?」
オレのその言葉で、ミオは目に涙を浮かべて表情を歪ませた。こんなに痛々しい表情をするのか、この子は!
「パパと、ボスと、駄蒙の3人のうち、誰か1人は責任を取らなければならないって、達也は言ったの。誰か1人だけ死ななければならない、って。……あたし、パパに死んで欲しくなかった。サヤカが悲しむから、ボスにも死んで欲しくなかった。だからあたし、言ったの。駄蒙を殺して欲しい、って……」
なんてことだろう。
葛城達也はこの子に、人の命の選択をさせたのだ。
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葛城達也が人格破綻者であることは判っていた。オレは奴の非常識な振る舞いに馴らされ、驚かされながら、いつも心に刻み付けてきた。奴を常識で計ってはいけない。奴は悪魔だ。人を人とも思わないし、他人の心など思いやることはない。
それでも、オレはいつも、まさか、と思う。まさかそんなことまで奴はできるのか、と。
葛城達也は、オレの娘のミオに、一生消えない傷をつけたのだ。奴はミオに駄蒙の死を選択させた。ミオは一生苦しみつづけるだろう。「駄蒙を殺したのは自分なのだ」と思って。
それは本来ミオが選択すべきものではないのだ。葛城達也がするべき選択なのだ。それをわざわざミオにさせる理由がどこにあるというのだ。最終的にコロニーの誰を葛城達也が殺したところで、ミオにはたったひとかけらの責任もないじゃないか!
葛城達也を許さない。まったく持つ必要のない罪悪感をミオの心に刻み付けた葛城達也を。
「パパ!」
立ち上がってドアに向かおうとしたオレにミオは必死でしがみついた。オレはそんなミオを見てはいなかった。
「殺してやる、葛城達也!」
「落ち着いてパパ! お願いだから今この部屋から出ないで! パパまで殺されちゃう!!」
「お前を傷つける奴はパパは絶対に許さない! 刺し違えてでも殺してやる!!」
「ダメなのパパ! お願い、あたしの話を聞いて! 駄蒙は全部わかってるの! 今パパが出て行ったら、コロニーのみんなが殺されちゃうの!」
だけど敵は奴1人だ。捨て身で戦えばオレ1人でも殺せる可能性はゼロではないはずだ。
「達也のことはあたしが必ず殺すから!」
その、信じられないミオの一言が、我を忘れていたオレを正気に戻した。この子はいったい……
呆然とした頭でミオを見ると、ミオはオレを見上げて、それまでで1番真剣な表情で言ったのだ。
「パパ、あたしは全部わかってるの。パパがあたしのことをものすごく愛していてくれることも、だからあたしが傷つくのが耐えられないんだってことも。……みんな傷ついてる。サヤカも、ボスも、駄蒙に死んで欲しくなんかない。あたしだって駄蒙に死んで欲しくない。でも、みんな背負ってるの。だからあたしも一生背負っていかなければならないの」
この子は……この子には覚悟があるというのか? 駄蒙の死を一生受け止めるだけの覚悟が。本当に判っているのか? オレの娘はたった16歳で、自分が殺した人間の命を背負っていこうとしているのか?
「ねえ、パパ。あたしはパパのことが1番大切なの。もしも達也がパパを殺したら、あたしも死ぬ。達也はあたしを殺せないの。だから達也は、パパを殺すこともできないの。あたしはサヤカが好き。もしもボスが死んだら、サヤカは生きてないかもしれない。そうしたらあたしがすごく悲しむから、達也はボスを殺すことができないの。……最初から、達也に選択の余地はないの。達也は自分の心のために駄蒙を殺すしかなかったの」
葛城達也は、ミオを悲しませたくないというのか? そのためにオレを殺せないと? 信じられなかった。奴が、自分以外の人間にこれほど執着を見せるなどと。
「みんなが自分の心のために駄蒙を選んだの。そして、駄蒙も、自分のために死ぬことを選んだの。駄蒙にはボスの命が1番大切だから。……あたしたちはみんな、自分のために命を選んだ。だからお願いパパ。パパも、自分の心のために駄蒙の命を背負って」
―― オレの小さなミオは、いつの間にか、自分の足で歩き始めていた。
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オレなら、どうするだろう。もしもミオか駄蒙かどちらかの命を選べと言われたら。ミオはオレの娘だ。13年間育ててきた最愛の娘。駄蒙は3年前に知り合ったコロニーのボスの側近だ。彼はオレの親友ではなく、無口な彼と必要以上の会話を交わしたことはなかった。
オレにとって1番大切なのはミオだ。だが、オレはミオのために駄蒙を死なせることができるだろうか。決断を下すことができるだろうか。皇帝を敵としてともに戦い傷ついてきた、戦友の彼を。
オレならきっとどちらも選ばないだろう。可能性が1パーセントでもあるなら、オレは葛城達也に挑み、奴を殺そうとする。その結果3人とも殺されたとしても、オレは命を選択することはない。誰かの命を奪うくらいなら、自分の命を懸ける。
そうか。これがオレの限界なんだ。だからオレは葛城達也を超えることができないのか。そしてミオは、オレの限界を超えている。
オレの娘は、既にオレを超えている。
「ミオ。パパにはできない。今生きている人間を殺すことなんかできない」
どちらが正しいのか。それすらも、オレには判らない。オレは人の命を奪ったことを自分に納得させながら生きる強さはない。そんな強さはないほうがいい。
オレには、葛城達也と同じ生き方なんかできない。
ミオの強さを認めることは、オレの父、葛城達也を認めることだから。
「……判ったわ。パパには誰の命も選ぶことができないのね。……だったら、あたしがパパの分も駄蒙の命を背負っていくわ。あたしは生まれてからずっとパパに守ってもらったもの。今度はあたしがパパを守る。だから安心して、そのままのパパでいて。ずっとミオの自慢のパパのままで、いつかあたしが達也を殺すときまで、傍にいて見守っていて」
そう言って、ミオはオレを見つめたまま、オレを愛しむように微笑んだ。
オレは何かが間違っている。オレの娘。その娘にこんな言葉を言わせてしまった、それだけでもオレは間違っているのだ。ミオはオレを理解しているのに、オレはミオを理解していない。自分の娘を理解できないオレは間違っている。
オレの存在がオレの娘を苦しめている。理解のない父親をそれでも愛そうとするミオはけなげで心が痛んだ。オレはもうミオを理解することができないのか? ミオはそれほど遠くへ行ってしまったというのか?
どうすればいい。オレはいったいどうすればいいんだ。
「葛城達也はオレが殺す。だからお前がそんなことを言わなくていい。パパはミオには頼りないパパかもしれないけど、そんなことまでミオに背負わせたくない」
「間違えないで、パパ。あたしが達也を殺すのは、パパのためじゃないのよ。あたしは自分のために達也を殺すの。あたしが達也を殺したいと思っているの」
娘のこんな言葉を聞くために育ててきたんじゃなかった。オレはこの子に平凡な幸せすら与えてやれない。
「……パパは、父親失格だな」
「ううん、そんなことない。あたしのパパは世界一のパパよ」
一瞬もためらうことなく、ミオはそう言った。
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カルチャーショック。
たった3年間、離れて暮らしていただけなのに、こんなにミオは変わってしまった。
葛城達也は、こんなにもミオを変えてしまったのだ。
「パパ、あたし、顔を洗ってくるわね。なんだか泣きすぎちゃった」
そう言ってミオは洗面所の方へ消えていった。オレはベッドに崩れ落ちるように腰掛けて、目を閉じる。ショックは大きかった。オレは自分の娘を理解することもできないほどの、その程度の男なのだ。
この3年間、ミオを取り巻く環境はそれまでとはまったく違っていた。災害が起こる前、ミオの傍には常にオレがいて、その他のミオの人間関係はせいぜい同年代の友達か、学校の教師くらいだった。災害後コロニーに合流して、その後葛城達也の人質になってからは、ミオの傍にいたのは同じ年齢の親友サヤカと人質になっていたコロニーの女性たち、その他は葛城達也やアフルといった、いわゆる敵側の人間だった。ミオは葛城達也とコロニーとの掛け橋だった。それだけの環境の変化があり、ミオの中に掛け橋としての自覚が生まれていたなら、無理やりにでも自分を成長させなければミオは生きていくことさえできなかったのだろう。
かわいそうなことをしてしまった。3年前、革命に敗れたコロニーにこの条件が出されたとき、オレは悩んだ。コロニーの全員が殺されても当然の状況だった。コロニーの女性たちを人質に差し出せば全員の命を助けると言った葛城達也の言葉に従うことしか、コロニーが生き延びる道はなかった。オレはあのときにミオをさらって逃げるべきだったのかもしれない。たとえコロニーの全員を殺されても。仲間としてオレを信頼してくれた彼らを敵に回したとしても。
ミオの父親としての生き方をオレは最優先すべきだった。……今でも同じだ。オレにはミオの父親以外の生き方など、許されるはずがないのだから。
「パパ」
洗面所から戻ってきたミオが、オレの背後から声をかけた。オレはミオの父親だ。オレの迷いをこの子に見せるわけにはいかない。
「どうした? 腫れは引いたのか?」
「うん、大丈夫。……ちょっと、出かけてくるわね。サヤカもパパのことを心配していたから。他のみんなも」
「そうか。……ミオ、サヤカに伝言を頼むよ。オレの娘をずっと励ましてくれてありがとう、って」
ミオは少し照れたような微笑を浮かべた。
「判ったわ。必ず伝える」
「あと、もう1つ頼むよ。……アフルの様子を見てきて欲しい」
オレの親友。立場は違ってしまったけれど、アフルはたった1人の、オレの親友だ。
「判った。……お昼までには戻るから」
そう、言葉を残して、ミオは部屋を出て行った。ミオは父親の限界を知って落胆しただろうか。
子供はいつか巣立っていくものだ。それはあたりまえのことだったけれど、16年前に小さなミオを抱き上げたあの記憶は、オレにそうと理解させることを拒んでやまない。
おそらく誰でもそうなのだろう。どんな親でも、血のつながりがあるかどうかなど関係なく、その子を育てた記憶を持って初めて親になるのだ。
その時、不意にオレは気配を感じて顔を上げた。
たった今ミオが出て行ったドア。そのドアの前に、アフルが立っていたのである。