連載小説「記憶U」



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「昨日はすまなかったね。話の途中だったのに」
 オレは自分ではそう無愛想な表情をしているつもりはなかったけれど、人の感情に敏感なアフルには、オレが昨日のやりとりを思い出して少し緊張したことが伝わったのだろう。アフルが今でもオレを親友と呼ぶならば、オレはアフルを無条件で信じるだろう。だけど、オレの目を見てそう言えないほどにアフルが変わってしまったのならば、オレ自身、アフルにすべてを委ねてしまうことはできないだろう。
 アフルは、オレの心を読んでいる。1度だけ目を伏せるようにしたあと、今度はしっかりとオレの目を見て、アフルは言った。
「オレは今でも伊佐巳の親友として恥ずべきことは何ひとつしていないつもりだ。オレは葛城達也という人間の命令を受けて行動してる。だけど、その命令は今の伊佐巳を窮地に陥れるようなものじゃない。葛城達也の命令と、オレの伊佐巳に対する友情とは、今のところ矛盾していないよ」
「信じていいんだな」
「オレを信じて欲しい」
「……判った」
 オレの記憶が戻るのならば、アフルにすべてを委ねようと思った。記憶さえ戻ればオレは本当のオレになれる。昨日アフルが語った現在の状況も理解できる。オレが今どういう立場にいて、これから何をするべきかも。
 昨日と同じように、アフルはオレをベッドに座らせた。ミオはテーブルの方に腰掛けて成り行きを見守っている。アフルは両手を差し出して、オレの目の前でいったん止めた。オレが頷くと頭部を包み込むように触れてきた。
「少し脳の内部を探るから、楽にしていて。眠ってしまってもかまわないよ」
 オレは目を閉じてアフルに触れられるに任せていた。以前はアフルに触れられると多少気が散るような、落ち着かないような感じがあったけれど、今回はそういう変化はまったくなくて、アフルがオレの中にいるのだということすら感じなかった。この17年でアフルの感応力は上がっているのだろう。やがてアフルはオレの頭を抱きかかえるような格好になって、オレもアフルの胸に頭の重さを委ねていた。
「……最新のCPUで動く17年前のOSか。記憶の物干し竿の構造。……面白いね。伊佐巳の中に具象化されたイメージがある。……だいたい、見えたよ。これから伊佐巳にも見せる。用意はいい?」
 声を出さずに頭の中だけで、オレは答えていた。


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「まずは伊佐巳の五感からの情報をすべてシャットアウトする。暗闇の中に浮いたような感じになるけど、驚いて身体を動かしたりしないで。まずは視覚。次に嗅覚。聴覚。味覚。そして、触覚」
 アフルはひとつひとつ挙げながら、オレの感覚のすべてを封じていった。目を閉じていても視覚というものは働いているらしくて、アフルが視覚と言った直後、オレの目の前は完全な暗闇になった。聴覚と言ったあとはそれまで聞こえていたすべての音が聞こえなくなって、水の底に潜ったような感覚に似ていた。だからそのあとオレがアフルの声を聴いたと思ったのは、本当はアフルの肉声ではなかったのだろう。触覚と言われたとき、それまでアフルに抱きかかえられていたのに、急に放り出されたようになっていた。
 五感のない世界は、あの悪夢の世界にすごくよく似ていた。アフルの声が途絶えたとき、オレは少し不安になって、心の中であたりを見回すような動作をした。
「大丈夫。オレはちゃんとここにいる。身体を動かさないで。……今、伊佐巳は何も見えないね」
「……ああ、見えないな」
「それじゃあ、今目の前にオレの姿を映すから」
 アフルがそう言ったとき、目の前に浮かび上がったのは、オレがよく知る17年前のアフルの姿だったのだ。
 アフルも少し驚いたようで、自分の身体を見回して、不思議そうな表情をしていた。
「……ああ、そうか。伊佐巳の中ではオレは成長していないんだ。今いるこの空間はすべて伊佐巳の感覚が支配しているから。伊佐巳にとってのアフルストーンは、17歳のままなんだね」
 そうしてアフルがオレの身体に触れて、それで初めてオレは自分の身体が実体化していることにも気付いたのだ。いつもの夢ではオレに身体はなかった。オレも自分の身体をあちこち見て、オレ自身も15歳の自分に戻っていることを知ったのだ。
 この感覚は久しぶりのものだった。本当のオレの五感というのは今アフルに封じられていたけれど、この15歳の身体には現実とまったく同じような五感がある。アフルに触れられれば触れられている感じがあったし、目の前のアフルの声は、普通に聞くのとほとんど違わなかった。
「いいかい、これからオレたちは、伊佐巳の中の仮想空間を移動していく。これから起こることは言ってみれば夢のようなものだ。今、現実での伊佐巳の運動能力も制限したから、今から伊佐巳が身体を動かしても現実の身体には反映されないよ。……だけど、夢と違うのは、ここで起こったことはすべて、伊佐巳の精神世界で実現してしまうということだ。例えばだけど、伊佐巳がこの世界で死んでしまったら、伊佐巳の精神も死んでしまう。2度と現実には戻れなくなる。それだけは覚悟しておいて」
 要するに、今ここでアフルがオレを殺せば、オレは現実でも死ぬということか。
「判った。逆に、オレが邪魔者をすべて消せば、オレの記憶は戻るってことだな」
「そういうことだよ。オレはそのために伊佐巳をここにつれてきたんだ」
 そう言って、アフルはオレの手を引いたまま、空間を移動し始めていた。


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 アフルに手を引かれながら、オレは何もない空間を移動していった。いや、何もないと思えたのはオレの錯覚だったらしい。アフルはこの空間でもオレの視覚を調整していたのか。しだいに目が慣れてくるような感覚があって、周囲に大きな網目のようなものが浮かび上がっていた。
 全体にパステルカラーで、多角形のジャングルジムのように点と点が複雑に繋ぎ合わさっている。脳細胞のシナプスにも似ていた。おそらくそう考えてほぼ間違いないのだろう。そのシナプスの合間を、アフルは器用にすり抜けていった。
「伊佐巳の意識がある状態から入ったから見える光景だよ。夢を見ている状態だと、今見えている空間は、眠りに入る段階で通り抜けてしまうんだ。ここは伊佐巳の意識の空間だ。15歳のOSが支配してる」
 アフルの説明を聞きながら周囲に目を凝らすと、そのジャングルジムのようなものが時間とともに少しずつ形を変えていることが見て取れる。シナプスが伸びて新たな接続を形作ったり、逆にそれまで繋がっていた接続が切れて、点に吸収されてしまったりしている。活発に動きを繰り返している部分もあれば、ほとんど変化のない場所もある。ためしにオレは接続の1つに触れてみた。手に触れた感触はあったけれど、オレが触れたことで接続が変化するようなことはなかった。
「伊佐巳、これに触れるのはけっこう危険だよ。壊したら意識障害が起きることもある」
「それを早く言えよ!」
「大丈夫。今は干渉を制限してあるから。そうじゃなかったら怖くてこんなところ通れないって」
 どうやらアフルはオレをからかって楽しんでいるらしい。そういう底意地の悪いところは昔と変わってない。
「そろそろ抜けるな。伊佐巳、この先が伊佐巳にもおなじみの場所だ。無意識の入口」
 アフルがそう言ってほんの数秒。
 いきなり、オレたちはそのジャングルジムを抜けていた。消えた、という方が近いくらい突然の変化だった。振り返ってももうジャングルジムは見えない。四方八方暗闇に包まれている、オレが何度も来たことのある、葛城達也の亡霊が存在する無意識の中だったのだ。
「監視者に邪魔されないうちに先に見せておくよ。……あれが伊佐巳の記憶の物干し竿だ」
 そして、アフルが指差した先には、オレが以前見たものとは少しだけ違う、記憶の物干し竿が現われていたのだ。
 以前くぐったときには4本の分割した管の形をしていたけれど、今目の前に現われたそれは、たった1本の管に過ぎなかった。それも、ところどころ太さが違っていて、色も場所によってずいぶん違った。まるで獲物を飲み込んだ直後の蛇の身体のようだ。片方の先端は細くなっていて、途中ともう片方の先端が異様に太くなっている。
 それがそのままオレ自身の歴史を現わしているのだと、アフルの説明を聞くまでもなく、オレは悟っていた。


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 もともとの多次元に時間という概念を加えたとき、1つ次元を上げなければ表現することはできない。だが、オレ自身は3次元までしか知覚することはできない。物干し竿のZ軸に時間を当てたとき、その他の要素は2次元で表現するしかなかった訳だ。物干し竿の長さは正確な目盛りで時間軸を現わし、太さはそのときの情報量を現わしている。
「この空間は伊佐巳の感覚に支配されているからね。じっさい物干し竿に微積分まで導入するところなんかはものすごく伊佐巳らしいよ。こんなに伊佐巳が几帳面にできてなければ、もう少し楽な人生を送れただろうに」
「例えば葛城達也に迎合して、自分が犯した罪をすべて奴になすりつけるとか、か?」
「より大きな罪を小さな罪で回避しているんだよ。それが『逃げ』な訳?」
「少なくともオレにはそう見えるな」
 アフルはただ微笑んだだけだった。
  ―― そのときだった。
「おい、アフルストーン。そんな奴とまともに話したって無駄だぜ」
 ゾッとするような空気だった。気配に振り返って見たのは、もう何度目か判らないけれど、オレがここにくると必ず姿を現わしていた、葛城達也の亡霊だった。少し離れた位置からニヤニヤ笑いでオレとアフルを見つめている。そうだ。オレはこの男を消すために、ここに来たんだ。
「お久しぶりです、総裁」
「アフルストーン、どうしててめえがここにいるんだ」
「詳しくお話しすると長くなりますので、簡単にお答えします。……伊佐巳がとても都合のいい認識をしていましてね。『精神感応力は葛城達也よりもアフルストーンのほうが強い』と。つまり、伊佐巳の感覚が支配するこの世界では、私はあなたに勝つことができるんですよ」
 この時初めて、葛城達也が表情を変えた。薄笑いを引っ込めて、しかしゾッとするような残酷な視線をアフルに対して向けたのだ。
「オレを殺すって? てめえは俺よりそいつに従うつもりか」
「殺しはしませんよ。ただ、正体を現わしていただきます、私が敬愛するあの方の仮面をかぶっているあなたを許すことができないので」
 そう言って、アフルは徐々にではあったけれど、葛城達也の亡霊に近づいていった。


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 この男は、オレの記憶を監視する者。葛城達也の姿で存在する。それは仮面なのか? 奴は葛城達也ではなく、別の顔も持っているのか?
「ざまあねえ、アフルストーン。てめえはほんとにそいつが正しいと思ってるのか? 記憶が蘇った方がいいと本気で思ってるってのかよ」
「正しいか正しくないか、そんなことはどうだっていいんです。私は伊佐巳の親友として、伊佐巳の希望をかなえたいと思うだけです」
「俺がここで見張ってるんだぜ。判ってるのかよ」
「理解していますよ。伊佐巳が記憶を取り戻したらどうなるか、その予測も立てることができました。あなたの正体も判るし、あなたがなぜその姿で監視者をしているのか、その理由も判っています。あなたが伊佐巳を、そしてミオを心から愛しているのだということも」
「黙れ!」
 アフルの言葉にうろたえていたのは、葛城達也だけではなかった。奴がオレを愛している? オレだけではなくミオも愛しているというのか? ……アフルの言う通りだ。奴は葛城達也ではありえない。少なくともオレが知っている葛城達也ではない。オレが知らない葛城達也がオレの中にコピーされているはずはないんだ。この葛城達也には、別の人格が存在する。
 オレを愛する葛城達也は、オレの記憶が戻ることを望んでいない。オレは記憶を取り戻すべきではないのか?
「伊佐巳、心を揺らすな。お前はすべてを思い出したいのではないのか?」
 アフルが言って、オレは気付いた。葛城達也の表情が変わっていた。うろたえきった顔から、不敵な笑いを浮かべたあの顔に。
「伊佐巳が揺れていてはオレは自分の力を発揮することはできないよ。葛城達也を消したいなら、奴の正体を知りたい、記憶を取り戻したいって、本気で願ってくれ。ここでは伊佐巳の意思がすべてなんだ」
「言っても無駄さ、アフルストーン。そいつには自分の意志なんてねえんだ。周りに流されて、周りの言うことを自分の意志だと勘違いしてやがる。情けねえ男さ。好きな女1人抱くこともできねえ」
「伊佐巳! 惑わされるな! お前は自分の意志でオレをここに連れてきた。自分のことをすべて知りたいからだろ?」
「アフルストーンが勝手につれてきちまったんだよな、伊佐巳。お前は何もしらねえままミオとヨロシクやってたかっただけじゃねえか。記憶なんか戻らなくてもいい、そう思ってたじゃねえかよ」
 オレの意思。オレの意思が問われている。オレは記憶を取り戻したいはずだ。そのためにここにくると決心したはずだ。たとえなにが変わろうと、ミオの存在がオレの中でどう変化しようと、それを受け入れると決心して、ここに来たはずだ。
 だけど今、オレは真実を恐れている。


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 オレが真実を恐れる気持ちはいったいどこからくるのか。オレの無意識は、ミオの正体を知っている。知っているからオレを恐怖で縛っている。すべてはオレの意思だ。ここに葛城達也がいることも。
 オレの無意識は、オレ自身がそれを知らずにいることを望んでいる。だけど、知らずにいたらそれですべてよくなるのか? 知っていても知らなくても、結局オレは苦しんでいるではないか。それならば、いったい何が違うというのか。知らずに苦しむのと、知っていて苦しむのと、マシなのは後者の方だ。今ここでオレが知らずにいたところで、知りたいという欲求は消えないだろう。それではオレは1歩も前には進まない。いつかオレは後悔する。ここで決心できなかった自分を許すことができなくなる。
 ああ、そうか。オレは以前、自分の出生が研究所の遺伝子研究によるものだと知って、衝撃を受けたことがある。そのときのショックをオレは覚えているんだ。だから、同じ衝撃を受けたくないんだ。
 だけど、知らない方がよかったとは、オレは思っていない。
「アフル、こいつを消してくれるか?」
 オレの心の動きはすべてアフルに伝わっていたのだろう。穏やかに微笑んだあと、アフルは再び葛城達也を見た。
「総裁葛城達也。あなたの役目は終わりました。もう、ここに存在する必要はありません。元の姿に戻ってください」
 葛城達也は不敵な笑いを崩しはしなかったけれど、その表情は、オレには悲しんでいるようにも見えた。
「オレを消したら後悔するぜ、黒澤伊佐巳」
「するかもしれない。だけど、消さなかった後悔よりは少しはマシなはずだ」
「……勝手にしろ」
 それが、オレの中にコピーされた葛城達也の、最後の言葉だった。
 葛城達也の輪郭は、しだいにぼやけていった。そして、周囲に煙のようなものが立ち込めてゆく。しかしその煙はいつものように拡散して消えてゆくのではなく、分子のひとつひとつが小さな音を立てて破裂するように消滅した。その消滅のときに光が生まれ、次々に破裂する分子の光は、やがて周囲を覆い、光のうねりとなっていったのだ。
 途中から目を開けていることすらできなくなっていた。小さな破裂音の集まりが鼓膜を叩くように続き、耳を塞がなければいられないほどになる。しかしそれらもほんの数十秒続いた後、やがて遠ざかるように小さくなる。目を閉じていたオレはゆっくりと目を開けた。周囲は既に暗闇ではなく、光に、満ちていた。
 そして、それまで葛城達也がいたと思われる場所には、男が1人、立っていたのだ。
「15歳の伊佐巳、アフルストーン、久しぶりだな」
 男は、32歳のオレの顔をしていた。


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 オレはしばらく奴の顔を見つめていた。その顔は現実のオレが鏡の中に見ていた顔と同じだった。少し印象が違うと思えるのは、精神年齢がオレと奴とでは17歳の開きがあるからなのか。それはよく判らない。だけど、オレはその男が自分であると確信した。
 実際のところ、オレと奴とはまったく違うものだった。オレは15歳までの記憶と、ミオと過ごした5日間の記憶を持っている。32歳の黒澤伊佐巳は、偽物の15歳までの記憶と、その上に積み重ねられた17年間の記憶を持っているはずだった。オレと奴とに共通する記憶というのはまったくないのだ。お互いに不完全で、どちらも本当の黒澤伊佐巳ではないのだ。
 それでもオレは、奴を自分と同じものだと感じた。そしておそらく、奴も同じように感じているはずだった。
「やっと、出てきてくれたね。32歳の伊佐巳」
 アフルが言った言葉に、伊佐巳は照れ笑いのような表情を浮かべた。オレは奴に会ったことはないはずなのに、その表情になぜかなつかしさのようなものを感じた。オレはかつては奴であったし、奴はオレの未来だ。共通するものがなくてもそう思えることが不思議だった。
「32歳の伊佐巳」
 オレは伊佐巳に語りかけた。伊佐巳は複雑な表情でオレを見ている。
「お前はオレとひとつになることが嫌だったのか?」
「……嫌じゃない。ただ、正直な話、オレはお前とひとつになるのが怖い」
 その一言だけで悟っていた。奴もオレと同じなのだ。オレはミオの正体を知ることを恐れた。奴が恐れたのは、偽物の記憶を植え付けられた15年間に経験した、本物の記憶に隠された真実なのだ。
 なんてことだ。奴が葛城達也を使ってまでオレを遠ざけようとしたのは、17年前のミオの死への、無意識の恐怖だったのだから。
「オレも、怖かった。……だけど、オレとお前とはひとつのものだ。2人がひとつにならない限り、黒澤伊佐巳にはなれない。未来が来ない」
「未来、か。……15歳の伊佐巳、お前はオレの過去でありながら、未来でもあるんだな」
「お前もだ。オレの過去で、オレの未来なんだ」
 15歳のオレと、32歳のオレの距離は、知らず知らずのうちに少しずつ縮まっていった。どちらかがどちらかに近づいたのではなく、互いに歩み寄ったのでもない。少しずつ、互いを隔てていた空間が消滅していった。そんな感じだった。
「オレは、ミオを愛している」
 奴がそう言ったとき、その言葉が互いの距離を埋めた。
「オレもだ。ミオを愛している」
 オレの言葉が、2人の伊佐巳の距離を縮めた。
「「ミオの幸せだけを願っている」」
 そう、2人が声を合わせたとき ――

  ―― 空間は、すべて消滅した。


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 存在していたのは、1つのコンピュータだった。無限のハードディスクと最新のCPUが搭載された、わりに高性能な部類に入るコンピュータだ。だけどハードディスクの中身はまだ空のままだ。時間のない空間の中でコンピュータは待っていた。やがてインストールが始まる、その瞬間を。
 時間は変化をつれてきた。小さな刺激というファイルがハードディスクの中に生まれ、増殖していく。増殖はすさまじいスピードで行われ、「オレ」はやがてそのコンピュータが「黒澤伊佐巳」という名前であることを知った。そう、このコンピュータが「オレ」なのだ。インストールされ、少しずつまとまりを見せてゆくファイルたちはオレの記憶。記憶は集まり自我を形成する。「オレ」は少しずつ「黒澤伊佐巳」になる。
 「オレ」の記憶の再インストール。1度フォーマットされたハードディスクの中に、ファイルは正確に「黒澤伊佐巳」の時間軸をたどってインストールされてゆく。生まれる前の記憶から、生まれたあと、言葉を覚え、自分の名前を覚え、自己が個であることを知り、自我が生まれてゆく。オレは自分の歴史をたどりながら自分というものを形成してゆく。記憶を消された15歳までのインストール。そのあと、植え付けられた偽の記憶と、その先に生き続けていった、17年間の記憶。
 32歳のオレ。再び葛城達也に記憶を消された記憶。そのあと出会ったミオとの記憶。そして、ほんの一瞬前に経験した、32歳の伊佐巳と15歳の伊佐巳との融合 ――
 その時、オレはすべてを知った。
 15歳の伊佐巳と32歳の伊佐巳。その2人の伊佐巳が本当に恐れていたのはなんだったのか。過去の記憶を取り戻して、融合を果たして、「オレ」は初めて知ったのだ。2人が恐れていたものの本当の意味は、互いの記憶を持たないそのどちらにも判らなかったのだということを。2人の記憶が融合して、初めて判った。「オレ」が、出会ってしまったのだ。
「「ミオを愛している」」
 2人の伊佐巳が言う。判っている。「オレ」が本当の黒澤伊佐巳なのだから。
「「ミオの幸せだけを願っている」」
 同じ言葉を声を合わせて言った。2人は同じことを願っている。だから2人は1人の「オレ」になることができたのだ。アフルはこの結果を予期していたのだろう。そして、2人の伊佐巳は、無意識にこの結果を恐れていたのだろう。
 「オレ」はどうするべきなのか。「オレ」はこの結果に出会ってしまった。2人の伊佐巳が心の底から恐れていた、この結果に。

 再インストールの終わったコンピュータは、既に再起動を始めていた。


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 現実に引き戻され、目を開けたとき、オレは例の巨大なベッドに寝かされていた。最初に目に入ったのは目を閉じたアフルの顔。ずっとオレの状態をモニタしていたのだろう。目を開けたアフルはオレの頭部に添えられていた手をゆっくりと外して、少し疲れたというような笑みをもらした。
 覗き込んでいるミオの姿も視界の隅にちらりと見えた。だけどそちらはあえて見ないようにして、オレは身体を起こし、アフルに言った。
「あれから5日……で、間違いないのか? オレにはもっとブランクがあるか?」
 いつもの優しい微笑を浮かべて、アフルは答えた。
「大丈夫だよ。それ以上のブランクはない」
「コロニーの連中はどうなってる。オレが眠ってる間に取り返しのつかないことにはなってないか?」
「おととい、コロニーのボスと皇帝との会談が持たれたよ。その後の彼らの処遇については皇帝はまだ結論を出していない。ただ、その会談で皇帝はかなりの手ごたえを得たとオレは思ってる。たぶん、皇帝はコロニーのボスの命を助けると思う」
 アフルの言葉でオレは多くの心配事の1つを解消できて、いくぶんほっとした。だけどまさかそう簡単に皇帝葛城達也がコロニーを解放する訳がない。
 コロニー ―― あの悪夢の災害によって東京に置き去りにされた人々は、敗戦後3年目の今から5日前、再び決起したのだ。3年前の雪辱を果たすべく、武器を揃え、綿密な作戦を携えて。
 だけど、結果は誰もが予想したとおりだった。コロニーは再び敗れ、オレたちは皇帝の囚われ人となったのだ。
「お前は聞いているんだろ。葛城達也はいったいどんな条件をつけた」
 アフルはほとんど迷わなかった。コロニー側のオレに、皇帝の考えを漏らすという行為に。
「コロニーの残党の中に希望者がいれば、皇帝は保護を約束すると思う。人質になっていた人もそうでなかった人も条件は同じだ。だけど、コロニーのボスと側近の駄蒙、それに、黒澤伊佐巳の3人についてはまったく別の話だ。……革命の責任を取る人間が皇帝には必要なんだ」
 全員が殺されても文句の言えない状況なのだ。それが3人だけで済むのであればめっけものだ。……オレは、今まで17年もの間、葛城達也に逆らいつづけてきた。オレの命1つですべての人の命を救うことができる。オレはいつでも覚悟はできている。
「……で、葛城達也はオレを殺すことに決めたんだな」
 ボスの命を助けるのであれば、それしかない。しかし、アフルは答えなかった。答えることができなかったのだ。
「グ……ゲホッ! ……グブブッッ!!」
 突然、アフルは身体を折って、咳と一緒に大量の血液を吐いたのだ。


50
「アフル!!」
 オレはあわててベッドから跳ね起きた。そして、既にベッドにうずくまるようにして血を吐き続けているアフルの身体を支え、背中をさすった。アフルの様子は尋常ではなかった。すぐに医者を呼ばなければ。だけど、オレがこの部屋を出ることはおそらくできない。
「ボサッとするな! すぐに医者を呼んで来い! 今すぐだ!!」
 部屋の中央、テーブルのところで半ば呆然としたままだった少女に向かってオレは叫んだ。
「……は、はい!」
 そうしている合間にもアフルの吐血は止まなかった。少女があわてて部屋を出て行く気配を感じながら、オレはアフルの背中をさすりつづけた。いったいどこから出血しているというのか。血液は塊になってまるで溢れるように口内から大量に吐き出されてくる。量が尋常ではないのだ。既に1リットル以上もの量を吐き出している。
「アフル、しっかりしろ! 今医者を呼んでる! がんばるんだ!」
 オレはその様子に絶望を覚えた。このままでは間違いなく、アフルの命はなくなるだろう。
 その時、不意に音が消えた。
 アフルは変わらず血のかたまりを吐き続けている。その音も、アフルを励ましつづけている自分の声も消えた。その意味はすぐに判った。アフルがオレの聴覚の神経を支配していたのだ。
「大丈夫だ。オレの身体は既に寿命が尽きてきてる。オレの内臓はもうボロボロなんだよ」
 音のなかった世界に、アフルの声が割り込んでいた。アフルは今しゃべることができない。アフルはこの苦しみの中にいながら、オレに話し掛けるためだけにオレの聴覚に自分の声を割り込ませているのだ。
「いいから、話し掛けるな! 無駄な力を使うな」
「皇帝葛城達也は絶対にお前を殺したりはしない。なぜなら、皇帝は彼女を愛しているからだ。彼女を悲しませるようなことは、皇帝はできない。彼女がお前を愛している限り、皇帝はお前に手出しをすることができないんだ」
 アフルが言う彼女がいったい誰を指しているのか、オレには判った。だけど信じられなかった。葛城達也が他人を愛することがあるなどと言うことは。
「頼む、伊佐巳。彼女を大切にしてやってくれ。彼女を、愛して ―― 」
 この時、オレは背後に異様な気配を感じて振り返った。
 オレのうしろには、いつの間にか皇帝葛城達也が現われていたのだ。


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