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この部屋で目覚めてから、ミオ以外の人間と会うのは初めてだった。だから、ミオが食器を片付けにドアを出ると、それだけで少し緊張した。オレにとっては数日前に会ったばかりの友人だ。だけど、客観的にはその間に17年の年月が流れている、
ミオはすぐに戻ってきた。そして、ミオの後ろから1人の男が入ってきたのだ。
……確かに、時間は流れていた。男はオレを見て微笑を浮かべた。その微笑みはオレが覚えているのと変わらない優しさを含んでいて、その男が確かにオレの知っているアフルだと判ったのだけれど……。なんと言うのだろう。年をとるというのは、その顔に内面の人間性を刻み付けてしまうことなのかもしれない。それまで生きてきたアフルの軌跡をおぼろげにでも察することができる。彼の17年は平坦ではなかった。そう思わせるような複雑さが、その顔に滲み出ていたのだ。
「……アフルか?」
「ああ」
「……老けたな」
オレがそう言うと、アフルはもっとはっきりした表情で笑った。
「お前ねえ。自分の顔を鏡で見てから言いなよ。老けたのはオレだけじゃないだろ?」
アフルは昔と変わっていなかったけれど、でも確実に変わっていた。どこがどうとはっきり言うことはできないけれど。
17年前に親友だったこの男は、今オレの味方になってくれる人間なのだろうか。
「見たけどさ。オレはさっぱりわからねえよ。自分がいきなり32だとか言われても、あれから17年経ってるって言われてもさ。……オレはアフルにいろいろ訊きたいんだ。オレが知らない17年の間に、いったい何があったんだ?」
「そう訊きたい気持ちは判るよ。でも、とりあえず座らないか? 立ったままだとオレが大変だ」
アフルはひょっとしたら10センチ以上もオレより小さかった。
ミオに視線で合図をした後、アフルはオレをベッドまで誘導して、縁に腰掛けた。
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ミオは椅子のほうに腰掛けて、成り行きを見守っていた。オレとアフルとは、例の巨大なベッドに腰掛けて、互いを見つめていた。
アフルは接触感応能力者だった。触れただけで相手の心の中を即座に読み取ってしまう。だから、アフルに触れるということは、すべてを見抜かれてしまうということだった。オレはそれでもかまわなかった。いつでもオレは、アフルに触れられることによって、自分の心の中、自分でも気付かなかった感情を知ることができたから。アフルはある意味オレのカウンセラーのようなものだったのだ。
だからアフルはオレの知識もすべて自分のものにしていたし、オレに与えられたコンピュータのパスワードも知っていた。他人の知識を余すところなく自分のものにできるアフルは優秀だった。逆に、他人の苦しみにも感応してしまうアフルは、いつも優しく、そして孤独だった。
「ミオ、ちょっと、席を外してもらえるかい?」
アフルはそう言ってミオを振り返った。椅子に腰掛けてこちらを見ていたミオは、少し微笑んでうなずいた。
「お風呂に入ってきてもいい?」
「いいよ。でも、下着姿でうろうろしないように」
ミオは苦笑いで返して、風呂場に消えていった。
ミオが完全に部屋からいなくなると、アフルは言った。
「彼女とは3年前に知り合って、それ以来の付き合いになる。オレは彼女の世話係だったんだ」
3年前。それは、ミオが父親と別れた、父親に置いていかれたのだと口にした、同じ時期だった。
「ミオの父親がここにミオを置いて、行方不明になったのか? 葛城達也のところにミオを置いて」
「まあ、そうなるね」
「3年前にいったい何があったんだ」
答えてもらえるかどうか、オレには判らなかった。しかし、アフルはミオよりもはるかに多くの権限を与えられているようだった。あるいはミオには判断がつかない微妙な部分の判断力を、葛城達也に信頼されていたのかもしれない。
「地球が壊れたんだよ。3年前、1999年7月、大きな災害が起こって、地球上のほとんどの地域が壊滅的な打撃を受けたんだ」
それは、オレがまるで想像もしていなかった、大きな転換だったのだ。
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「いろいろなことがあったんだ。……日本もかなりの打撃を受けて、東京は壊滅状態。他の、海岸部に位置する都市や、山間部の町もかなりの被害を受けた。1番被害が少なかったのが、城河財閥、つまり、葛城達也の本拠地埼玉だった。災害の1ヵ月後には、葛城達也は日本の皇帝として名乗りをあげて、生き残った人々の救出を始めたんだ。医薬品や食糧、流通の確保。人々に完全な分業をさせて、それによって日本は復興の第1歩を踏み出した」
アフルによって語られるそれは、淡々としていたけれど、すさまじいものだった。オレは黙って聞いていた。どのようなものだったのだろう。オレにその記憶はなかったけれど、絶望に打ちひしがれる人々を想像することはできた。その想像は、実際の絶望とは、おそらく程遠いものであっただろうけれど。
「ただ、東京だけは、復興の対象にはならなかった。皇帝は東京を軍隊で閉鎖して、生き残っている人間を地上から一掃したんだ」
「……なんだって!」
東京の人々を救助しなかったのか? それだけでも許せない。なのに葛城達也は、それだけでは飽き足らず、東京の人間を殺したというのか?
オレは感情のままにアフルに掴みかかろうとして、すんでのところでとどまった。アフルは、触れることをしなくても、いつもある程度人の感情を読んでいる。感情のままにオレがアフルに触れれば、アフルが受ける衝撃は計り知れないものになるだろうから。そのくらいの理性は残っていた。
以前から、葛城達也は冷徹で人の命など顧みない悪魔のような男だと思っていた。しかし、そんなオレが想像もできないことを、奴はしていたのだ。災害にあった人々に何の罪があるだろう。東京は被害が大きかった。そんな中に残っていたわずかな人間たちを、葛城達也は何の理由もなく殺したのだ。
アフルは、オレの感情が落ち着くのを待っていたのだろう。やがて、オレが深呼吸をすると、再び話し始めた。
「ミオの父親は、ミオとともに、隔離された東京の地下にいた。そして、葛城達也を倒すために戦った。だけど、その戦いは彼らの敗北で、オレたち皇帝軍の勝利で終わった。……ミオは、人質なんだ。東京が再び決起しないための」
戦いに傷つけられ、戦いに馴らされていたミオ。彼女が仲間と呼ぶ人々。この建物に監禁されているミオの仲間は、災害で生き残り、3年前の決戦で人質になっている人々だった。
ミオにとってオレは、東京を隔離した葛城達也、その人の息子なのだ。
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オレを好きだと言ったミオの気持ちは、嘘ではないと思う。だけど、そこにいたるまでにいったいどんな葛藤があったのだろう。そうだ。ミオは、葛城達也のことも許していた。すべては過去のことだったのだと、オレを諭した。
ミオの3年間は、いったいどのようなものだったのか。人質として葛城達也に監禁された彼女にとって、オレの記憶を取り戻すことは、チャンスだったのだ。監禁生活から逃れるための、愛する父親に再び会うための。
なぜ、彼女は葛城達也を許せるんだ? どうしてオレを好きになれる? オレだったらできない。死んだミオを自殺に追い込んだ葛城達也を許すことができない。
「アフル……。お前はどうして止めなかったんだ。あいつが東京の人間を殺しているとき、どうして止めなかった」
うっすらと、アフルは微笑んだ。やはりアフルは変わってしまったのかもしれない。
「皇帝が正しいからだよ。オレはそう思うから」
「どうして人を殺すのが正しいんだ! 人の命より優先する正義なんかあるわけねえだろ!」
「それがお前だな、伊佐巳。お前は変わってないよ。32歳のお前も同じ考えを持っていた。そして、それがお前の限界だ」
「お前は変わった! オレが知ってるアフルは絶対にそんなことは言わなかった。葛城達也に洗脳されたのか」
「お前が知ってる17歳のオレは世の中のことをあまりに知らな過ぎた。葛城達也という人に出会って、オレはそれを知った。洗脳されたという言葉とは少し違うよ伊佐巳。オレには葛城達也という存在の正しさが判ったんだ」
「それが洗脳だって言うんだ!」
誰もが、葛城達也の味方をする。オレと奴とが対立したとき、必ず奴を選ぶ。オレは間違っているか? 東京の人間を殺したことに怒りを感じるオレは間違っているか? 間違っているはずはない。だけど、親友のアフルでさえ、オレを選ばないのだ。
アフルはため息をついて、少し悲しそうな表情で、言った。
「お前の感情が高ぶりすぎてる。今日はこれ以上は無理だな。また明日くる」
アフルはオレの味方にはならない。少しの失望。だけど、少しだけだ。オレはいつも同じ失望を味わいつづけていたから。
「明日、お前の記憶を戻してみる。オレにできるかどうかは判らないけど」
そう言って、アフルは部屋を出て行った。
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失望を感じていたから、アフルの最後の言葉は意外で、オレには複雑だった。確かにアフルにならできるのかもしれない。葛城達也は有数の精神感応者だったけれど、アフルの接触感応の能力には及ばなかった。アフルになら、葛城達也が消したオレの記憶を蘇らせることができるかもしれない。
だけど、オレは本当にアフルを信じていいのだろうか。アフルはオレの本当の記憶を戻してくれるのだろうか。記憶を取り戻すと言って、オレを洗脳したりはしないだろうか。
少し、整理してみようと思う。葛城達也はオレの記憶を消してこの部屋に監禁した。そして、ミオを雇ってオレの記憶を取り戻そうとした。ミオが言った理由は、オレの記憶障害を直すためだ。オレは15歳のときに1度記憶を塗り替えられていて、その時の記憶障害が今のオレの精神の破綻を招きかねなかったからだった。
オレが15歳のときに記憶を塗り替えたのは葛城達也。その時のオレは、愛する少女「ミオ」を失った悲しみから立ち直れなかった。葛城達也はオレを立ち直らせるためにその記憶を消した。1日前、オレが15歳までの記憶を思い出すことができたのは、別の女の子を好きになって、本当の意味で「ミオ」を失った衝撃から立ち直ったからだ。新しく現われたミオを好きにならなければ、15歳までの記憶を取り戻したとき、同じ悲しみに耐えられなかっただろう。
葛城達也がミオを雇ったのは、オレに、彼女に恋をさせるためだ。そして、葛城達也の思惑通り彼女に恋をしたオレに、過去の記憶を封鎖させておく理由はない。あとは残ったすべての記憶を思い出させればいい。そのためにアフルを使おうとしていたとしても矛盾はない。
だけど問題は、なぜ葛城達也がそれをするか、だ。オレの記憶障害が葛城達也にどんな意味を持つのか。オレが精神の破綻を招いたとして、葛城達也にどんな不利益があるというのか。オレはいつでも奴を殺そうとしていた。そのことについてオレは自分を疑っていない。たとえ記憶がなかったとしても、オレが奴を殺そうとしていたのは、絶対に間違いのないことなのだ。
自分を殺そうとする人間。その人間の精神破綻は、葛城達也にとっての利益ではないのだろうか。オレは奴の中に、オレに対する愛情があるとは絶対に思えない。オレの精神破綻を食い止めるためにこれだけ大掛かりなことをする理由が、葛城達也にあるのだろうか。
そうして、オレが考えつづけていると、ミオは風呂から出てきた。
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「アフルは帰ったのね。……伊佐巳、何かあったの?」
あたたまったミオの頬は上気していて、濡れた髪とうなじになぜか艶かしさを感じてしまう。それは昨日までは感じていなかったことで、だから新鮮な驚きだった。呆然と見惚れていた。なんでもない、髪を少し乱暴に拭く動作でさえも今のオレの目には色っぽくて、さっきまで考えていた記憶のことなど一瞬にして吹き飛ばしてしまった。
「あ、うん。……アフルは明日もう1度くる。その時にオレの記憶を戻すって」
ミオは首をかしげて、上目遣いでオレを見上げた。
「……アフルが記憶を戻すの? それで、伊佐巳はなんて言ったの?」
「何も言ってない。言う前に出て行ったから」
オレの様子がおかしいことをミオは気付いたのだろう。肩にタオルをかけたまま、オレが腰掛けたままのベッドに近づいて、覗き込んだ。まるで心を覗かれているようだった。だからって、いまさら目をそらすこともできない。
まずい。絶対にまずい。せめて今夜だけでも、ミオにどこかで寝てもらうわけにはいかないだろうか。例えばミオの親友がいる部屋とか、ミオがもといた部屋とか。監禁室はそれほど快適な部屋ではないかもしれないけれど、隣に狼が寝ているベッドよりはずっとマシなはずだから。
「伊佐巳? アフルに何を言われたの? よかったらあたしに話してみて」
「あの……さ、ミオ。……前に話してくれた親友の女の子、元気にしているの?」
突然流れに関係のないことを言われて、ミオはちょっと戸惑っているようだった。
「……うん。さっきも会ってきたけれど、特に何も変わってなかったわ。元気よ」
さっき会ったばかりなら用事なんか何もないだろうな。オレはその先言葉に詰まってしまった。頭がパニックで何の口実も浮かんでこない。
「それがどうかしたの? ……なんだか少し変……」
ええい、面倒だ!
目の前に中腰になってオレを覗き込んでいたミオの両肩を掴んで、ベッドに押し倒していた。抵抗感はほとんどなかった。ミオは声を失って、目を丸くしたまま硬直してしまった。
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ベッドに両手をついて、オレはミオを見下ろしていた。オレの腕の長さと同じだけの距離にミオの顔があって、オレを見上げたまま表情を硬くしている。押し倒した目的を忘れそうになった。オレは自分で思っているよりもずっと、感情で行動する人間だ。
「あの……な、ミオ。オレは今、ものすごく危険な状態だって自覚がある」
ミオは目を細めた。その瞳の奥でどんな感情が動いたのか、オレには理解できない。
「このままミオと同じベッドに寝たりしたら、たぶんそういうことになると思う。オレはいつでもミオとそうなりたいと思ってるし、だから、途中でやめることはできないと思う。……もし、ミオがそれを望んでないとしたら、今夜は別の部屋で眠ってくれないかな。……もちろんオレが別の場所で寝てもいいんだけど、それも無理だろうと思うし」
瞬きをしていないことに気付いたのかもしれない。ミオは目を閉じで、ゆっくりと目を開けた。そんな仕草でさえも誘われているように感じる。何でもいい。どんな結論でもいいから、早く出してくれ。
「……ごめんなさい。あたし、あまりに急だから、何も考えてなかった」
そう……だろうな。昨日告白して、今日初めてキスをして、そんなに急にいろいろ考えてる訳ない。
「そういうこと、嫌だとか、そういうのではないの。……ただ、心の準備だけ、少し時間をもらえるかな」
正直言って、オレはほっとしていた。
ミオの反応は、普通の女の子の普通の反応だと思うから。悪夢の中の葛城達也の言葉なんか信じてない。だけど、もしも今、ミオが許してくれてたとしたら、オレの中で何かが揺らいでしまったかもしれない。
「あたしはここにくる前は親友と同じ部屋で過ごしていたの。彼女のところに泊めてもらうわ。……明日の朝、またくる」
「うん、判った」
オレは身体を起こして、ミオが起きる動作を助けた。そうして立ち上がると、ミオはやっと笑顔を見せた。
「ありがとう、伊佐巳。……大好きよ」
ミオの、後姿を見送った。
今夜はそうすんなりとは眠れそうになかった。
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その暗闇はいつも、耳がつんと詰まるような沈黙の世界だ。気がつくといつもオレは漂っている。変化がない間は時間も存在しない。そして、変化と時間を運んでくるのは、いつもその男だった。
煙のようなもやの中から姿をあらわす。嘲笑のような笑みを浮かべながらしだいにはっきりとしてくる輪郭は、今日はいつもと違って顔だけの化け物ではなかった。オレはこの男を鮮明に思い出した。その、やや長めの不揃いな髪も、沼の底のようににごった色の瞳も。なぜ、オレはこの男が自分にそっくりだなどと思ったのだろう。確かに顔のつくりはよく似ていた。だけど、オレはこんなに不気味な、人の嫌悪感を逐一刺激するような表情はしないはずだ。
姿を現わした葛城達也は、低く笑いつづけ、静寂を吸収した。
「クックックッ……もったいねえ事をするじゃねえ。ミオを抱かなかったのか? いい味だってのによ。……それとも抱けねえ理由でもあるか」
勝手に笑っていればいい。オレはもうこいつに惑わされたりはしない。オレがミオの正体を知らないからどうだというのか。こいつだってミオの正体など本当に知りはしないのだ。
「なんだってオレが何も知らねえなんて思えるのかね。オレはずっと知ってるさ。あの女の正体も、てめえがどれだけあくどい事を重ねて生きてきたのかも。……てめえは知りたくねえだけさ。あの女が、絶対にお前を好きになるはずなんかねえってことを」
「黙れ! きさまにミオのことをとやかく言う資格なんかねえ! 2度とミオのことを口にするな!」
この男がミオのことを口にするたび、オレの身体に悪寒が走った。ミオを「あの女」と言うたびにミオが穢されている気がした。どうすればこいつを消すことができる? こいつはいつもオレを惑わして、本当の記憶からオレを遠ざけている。
「何を思ってんのかねえ。伊佐巳、お前がオレを殺せるわけがねえだろ。オレが人間なら、てめえはただの虫ケラじゃねえかよ。虫ケラが人間にかなう訳がねえじゃんか。……クックックッ、オレは絶対にお前に記憶を渡さねえよ。なんたって、てめえの記憶を消したオレだからなあ」
こいつはオレが作り出した人格だ。オレの記憶を阻む存在として、オレ自身が生み出した。オレの無意識に存在しているのがその証拠だ。だから、絶対に消す方法はあるはずなんだ。
オレの記憶を阻む者。そういう存在をオレ自身が認めているから、こいつは存在している。確かにこいつが言う通り、オレは記憶を取り戻すのを恐れているのかもしれない。なぜ、それを恐れるのか。オレに恐れる理由などあるのか。
オレの心を読んでいるのだろう。ニヤニヤ笑いながら、葛城達也は言った。
「判らねえなら教えてやるさ。てめえはあの女のことを思い出すのが怖いのさ。あの女が、お前を好きになるはずがねえってことをな。……あの女は、お前が愛しちゃいけねえ女なんだよ。他の誰でもねえ。あの女だけが、お前には許されねえ女なのさ」
どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。
おそらく、オレが恐れているのがミオに関してなのだという、それだけは真実のような気がした。
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オレの無意識は、この男の存在を認めている。その理由はオレには判らなかったけれど、おそらく記憶を消される前のオレには判っていたのだろう。判っていて、それが必要であるという理由で、男にオレの記憶を見張らせている。記憶を失う以前のオレは、記憶が取り戻されることを恐れている。
本当にオレが戦うべき相手は、32歳のオレ自身だ。だけど、記憶を取り戻せないオレが、32歳のオレ自身と戦うすべなどあるはずがない。糸口が見出せない袋小路にいるのだ。いったいどうすれば、オレはオレ自身を取り戻すことができるだろう。
1つだけ、理解していた。この男が葛城達也の姿を取るのは、オレが葛城達也に勝てないからだ。オレは今まで1度も葛城達也に勝てたことがなかった。32歳のオレが監視者として葛城達也を選んだのは、オレが奴を看破できないことを知っていたからなのだ。
あるいはオレは、記憶を取り戻すべきではないのかもしれない。15歳のオレは、32歳のオレに従うべきなのか。
17年間のオレの記憶は、オレを不幸にするだけなのかもしれない。
「相変わらず情けねえ男だな、黒澤伊佐巳」
吐き捨てるように葛城達也は言った。その不気味な声がオレを苛立たせる。確かにオレはこいつに勝てないかもしれない。だが、記憶を取り戻さない限り、オレは毎晩こいつの薄笑いに悩まされつづけることになるだろう。
たとえ32歳のオレがどれだけ熱望しようとも、オレは無意識の中で葛城達也と共存することだけはできないだろう。32歳のオレが、監視者として葛城達也を選んだのだとしても、その判断は間違っていた。オレはいつでも真実の探求だけはやめないだろうから。たとえ勝てないと判っていたとしても、記憶を失ったまま平然と生きていくことなど、オレにはできないのだ。
「葛城達也、オレはお前だけは許さない。17年前にミオを殺したお前だけは」
「殺した? あいつは勝手に死んだんだろ」
「3年前、東京の人たちを殺した。オレはお前の存在だけは絶対に許さねえ。……必ず消してみせる。たとえ、本物の葛城達也の手を借りたとしても」
このときオレは決心していた。状況のすべてをアフルに委ねようと。アフルが葛城達也の手先だということは判っている。だけど、今のオレにとって、17年間の記憶以上に大切なものなどないのだ。
ミオという1人の少女。記憶を取り戻すことで彼女の存在の意味がオレの中で変化したとしても、オレはオレ自身の記憶の方を選んでしまっていたのだ。
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いつもの起床時刻より早く、オレは目覚めていた。身支度をして、朝の体操をして、ミオを待つ。だけどミオは現われなかった。少し気にはなったけれど、おそらく朝食の時刻までには現われるだろうから、オレは気持ちを切り替えてパソコンのスイッチを入れた。
そういえば、昨日アフルに会った時、このパソコンについては何も訊くことができなかった。だけど、3年前に地球が壊れてしまったということは、それまで発達してきたパソコンのネットワークというものは既に存在しないのだろう。オレが知らない17年間のうちに、そのネットワークはどれだけ発達していったのか。おそらくオレの想像が及ばないほどの進化を果たしたのだろう。
昨日できなかった階層の探索をオレは始めた。すると、そこでいくつかの気になるファイルを見つけたのだ。今のオレがファイルをいじることは危険なので、中を確認することはせず、場所だけ覚えて次を探索した。そうしていくつかのファイルをピックアップして、食事の時間が近づいてきた頃、やっとミオが現われていた。
「ごめんなさい、伊佐巳。あたし、寝坊しちゃって」
ミオはおそらく、昨日まではゆっくり眠ることもできなかったのだろう。
「そんなことだろうと思ってた。おはよう、ミオ」
「おはよう、伊佐巳。とりあえず食事にしましょう」
ミオがトレイを運んできて、朝食が始まった。食べながら、ミオは少し心配そうな表情で言った。
「朝食が終わったら、あたしがアフルを呼びに行くことになってるの。……それでいい?」
ミオは何を心配しているのだろう。オレがミオを忘れるかもしれないと? 記憶を思い出したら、オレはミオを好きな気持ちさえ、忘れてしまうのだろうか。
「オレが信じられない?」
オレが言うと、ミオは笑顔で首を振った。信じていて欲しいと思う。確かにオレは年下だし、頼りないかもしれないし、ミオが信頼するパパとは似ても似つかないかもしれないけど、ミオを好きな気持ちはきっと、誰にも負けないはずだから。
「アフルを呼んでくるわ」
そうして、トレイを持って部屋を出て行ったミオが再び戻ってきたとき、ミオのうしろには、昨日よりも少し疲れたように見える、アフルの姿があった。
アフルはオレを見上げ、オレが知る優しそうな笑顔で微笑んだ。