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「ぇ……」
ほんの微かな声でミオがそう言って、しばしの沈黙が流れた。
それは一般的なこういうシチュエーションでの緊張感とはまるで違う、信じられないくらい重苦しい緊張だった。ミオの目は信じることを拒否するように見開かれていたし、半開きの口元は苦笑いすら浮かべようとしていない。次第にオレも同じ緊張に巻き込まれていった。心臓の鼓動は抑えきれない。ミオの目がうっすらと涙を浮かべてからは、なおさら。
ミオがオレのその言葉を予期していなかったのは明らかだった。そして、オレの言葉をけっして喜んではいないということも。
緊張は、ミオの方から破られた。
「……ごめんなさい。ちょっと」
ミオはオレから目をそらして、不意に立ち上がったと思うと、ドアのほうに向かっって駆け出したのだ!
「ミオ!」
オレがそう叫んだとき、ミオはビクンと身を凍らせて立ち止まった。
「……あの、あたし、伊佐巳のことが嫌いとか、そういうのじゃないから。……でも、今だけごめんなさい。少し時間をちょうだい」
振り返らずにそう言って、ミオはドアを出て行った。オレはしばらく呆然と、ミオが出て行ったドアを見つめていた。
オレの告白に対するミオの反応は、オレの予想を超えていた。だからオレはショックというよりもただ驚いて、何も考えることができなかった。フラれたのなら判るのだ。だけど、ミオはオレをフッたのではない。それ以前の問題なのだ。ミオは、オレがミオに告白しようなどとは、露ほども思っていなかったのだから。
ミオはオレを男だとは思っていなかった。それは前から感じていたけれど。
男に見えなかったのだとしたら、ミオはいったいオレを何だと思っていたのだろう。
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ミオは、オレの生い立ちのほとんどを知っている。たとえばオレに妻子がいたとしたら、オレが既婚者であるという理由で、ミオは自分の恋愛対象からオレを外すかもしれない。間接的であるとはいえ、オレは大量殺人に関わっている。もしもミオがそのことを知っていたとしたら、オレが殺人に関与したという理由は、ミオの恋愛感情を左右するのに十分だっただろう。
やはりミオは、オレの32年の人生を、今ここにいるオレ自身と切り離すことができずにいるのか。
感情は、理屈とは違う。ミオがたとえどんなにオレそのものを尊重すると誓ったところで、知っているという事実を動かすことなんかできない。
オレはまだすべてを思い出していない。もしかしたら、未だ眠っているオレの記憶の中には、あんな飛行機事故よりももっと恐ろしい記憶が眠っているのかもしれないのだ。
オレの告白に対するミオの態度は、思った以上にオレを深く傷つけていた。ミオが言った「あたしは今の伊佐巳が好きよ」という言葉によって生まれかけていた自信が、今の一瞬ですべて崩れてしまった気がした。過去の記憶を持たないオレは、自分の自信を裏付けてくれるものがひとつもない。オレがオレ自身を量る基準は、ミオの態度しかないのだ。
情けないと思う。ほんの少しミオが態度を変えただけでオレの感情は揺らぐ。このままではオレはミオにものすごい精神的重圧をかけてしまう。ミオはまだたった16歳の女の子なのだ。オレが幼いままでいたら、ミオのほうがおかしくなってしまうだろう。
昼食をテーブルに残したまま、ミオはなかなか戻っては来なかった。オレはミオが手をつけていない昼食を自分の分だけ食べて、ミオを待った。まずオレの方が変わらなければならない。オレがミオから自立しなければ、ミオを好きになっても認めてもらえるはずがない。
まずはこのオレこそが、完全なOSにならなければいけないのだ。
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ただ何もせずにミオを待っていることもないので、食後オレはまたパソコンに向き合った。オレの世界はミオに比べてもかなり狭い。目覚めて3日、この部屋から出ることもなく、話をするのはミオ1人だけなのだ。ミオは部屋の外に出て友人や多くの人間と話をして、世界を広げていける。オレが自分の世界を広げられるとしたら、パソコンの中しかない。
ウィンドウズの画面から、オレは搭載されているアプリケーションを片っ端から開いていった。見たこともないソフトばかりで、オレはヘルプ画面や用語集などをディスプレイに重ねながら、ひとつひとつ食い入るように見つめ記憶していった。以前も感じたが、オレの記憶力はかなりいい方だった。ウィンドウズというOSの持つ法則性に気づいてからは、操作もスムーズになって、記憶するスピードも次第に増していった。
理解が進んでいくうちに、オレの中にはこのパソコンの内部のイメージが浮かび上がり、広がりを見せ、より詳細になった。フォルダのひとつひとつの情報が、オレの脳にコピーされてゆくようだった。そんな中でオレはとうとう外部のコンピュータに接続できると思われるソフトを発見していたのだ。ダブルクリックすると、アカウントとパスワードを入力する画面が立ち上がったのだ。
オレのアカウント。オレのパスワード。
あるいは、このコンピュータに当てられているアカウントは、オレの記憶の中には存在していないかもしれない。だが、もし仮にオレがミオを雇った男で、心の底からオレの記憶が戻ることを希望しているのだとしたら、オレの記憶の中にあるアカウントとパスワードを、このパソコンに割り当てているのではないだろうか。
オレが自分のアカウントとパスワードを思い出せば、もしかしたら他のコンピュータにアクセスできるのかもしれない。
今はまだ思い出せない。だが、思い出したとき、オレの世界はこの部屋などとは比べ物にならないほど、大きく広がってゆくだろう。
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とうとうミオが戻らないまま、風呂に入る時刻になっていた。オレは日課どおりに行動していたが、もしもこのままミオが戻らなければ、夕食はさっきミオが食べなかった昼食の残りになるだろうか。ともあれ考えても仕方がないから、オレは風呂に入った。身体を洗う動作は無意識にできるから、オレの頭は自然にミオのことを考えていた。
日課どおりであれば、今の時間はミオが雇い主にオレのことを報告しているはずだった。おそらくミオは雇い主に隠し事などしないだろうから、雇い主の男も、オレがミオに言った言葉をミオから聞いたことだろう。さっきはその可能性に行き着かなかったけれど、ミオが雇い主から受けている制限の中に、オレとの関係というのもあるのかもしれない。たとえば、オレと恋愛関係になってはいけない、というような。
その考えはオレにとってかなり都合のいいものだったから、ミオが帰ってきてオレに何らかのリアクションを見せるまで、そう信じていようと思った。
シャワーだけ簡単に浴びて、風呂から上がって着替えた。夕食までの時間、本当ならミオが帰ってくる時刻になっても、ミオは帰らなかった。オレはまたパソコンに向き合った。そうしていると、オレはミオとの約束を破ってしまいたくなる。あの、パスワードを入れなければ開けなかった、教育用プログラム。あれを再び試してみたくなったのだ。
あのプログラムは、オレの犯した犯罪を裏付けるもの。見てしまえばおそらく平常心ではいられないだろう。だけど、だからこそ、オレにとっては魅力的だった。パソコンのスイッチを入れたのは失敗だったらしい。オレはほとんど無理やりスイッチを切って、鶴を折った。
オレは以前鶴を折ったことがあるだろうか。そう思いながら、一折一折記憶を呼び覚まそうとしたが、折鶴に関してはオレの記憶を髣髴とさせるものはなかった。どのくらい折りつづけただろう。集中していたオレは、ドアが開くわずかな音に反応して、びくっと、背筋を緊張させた。
ドアの前に、ミオが立っていた。
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ほんの少し、ミオの表情は硬かった。思いのほか長時間部屋を開けてしまったことから、態度を決めかねているのかもしれない。オレはひと息吸って、吐いた。そして、リラックスした表情を作って、ミオより先に声を出していた。
「帰ってきてくれて助かった。オレ、もう、腹減って腹減って」
声におどけたようなニュアンスを含ませたから、ミオの表情もかなり緩んでいた。既視感がある。そういえば、オレの方からこんなふうに笑いかけるのは、初めてなのだ。
伊佐巳というキャラクター。もしかしたらオレは、かつてはこんなふうに人を和ませるキャラではなかったか?
「……ごめんなさい、突然出て行っちゃって。あたし……」
「話はあとにしよ。とにかくオレは飯が食いたい」
テーブルに置き放してあったミオの分の昼食を手渡すと、ミオは器用にドアを開けて出て行った。すぐに別のトレイを持って戻ってくる。オレはそのトレイを受け取って食器をテーブルに並べた。オレというキャラクターがそうするのはごく自然なことだった。
初めてここで目覚めたとき、オレは自分がどう行動すればいいのか、まったく掴めなかった。何をしていても、どこか自分ではないような気がした。きっかけは自分自身の記憶をほんの少し思い出したことなのだと思う。ミオを好きだと思って、ミオに恋をすることが1番大切なのだと知って、オレは少しずつだけれど、自分の人格を掴み始めている。
おそらくミオも気づいただろう。今のオレが、それまでのオレとは、微妙に違っているのだということを。
「……何も言わないで出て行ってしまってごめんなさい。伊佐巳がさっき言ったこと、あたし、すぐには考えられなくて」
食事に手をつけることなく、ミオは話し始めた。
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「前に伊佐巳にも話したことがあると思う。あたしには親友がいて、その子といろいろ話してた。……詳しく話せないけど、あたしたちは今、とても切羽詰った事情があって、あたし自身、誰かを好きになったり、そういうことを考える余裕はなかったの」
ミオに告白したことを後悔はしていなかったけど、オレの告白が、余裕のないミオの現状を乱してしまったことは確かだった。伝えられただけでもよかったかもしれない。そう、思った。
「でも、あたし、彼女に言われた。余裕があるかどうかなんて、恋愛にぜんぜん関係ない、って。伊佐巳の気持ちはちゃんと受けとめるべきだって。だから、あたし、自分の気持ちを考えた。あたし自身が好きなのは誰なのか、って」
ミオは、初めて見るように、オレに微笑んだ。
「あたし、伊佐巳のこと、好きになってもいいかな」
心臓が止まるかと思った。
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オレはたぶん、信じていなかった。ミオがオレを好きになるはずがないと思っていた。オレは記憶喪失で、過去を一切思い出せない分子供だったし、ミオに八つ当たりしたこともある。それに、オレは昔、好きな女の子に答えてもらったことなど、おそらくなかったから。
「あ……あの……」
予期していた展開じゃなかったから、みっともなくもオレはうろたえてしまって、満足に言葉を選ぶことができなかった。ミオだって、オレのこんな反応は予想外だろう。喜ぶというよりも驚いてしまった。ミオはいったい、オレの何を好きになろうと思ったのか。
「伊佐巳……? もしかして、気が変わっちゃったの?」
「そんなことない! オレはミオを好きなの、ぜんぜん変わってねえよ!」
オレが慌てて言ったら、ミオはやや大げさな感じでほっとした表情を作った。
「あー、びっくりした。伊佐巳の気が変わってたらどうしようかと思ったわ。あんなにたくさん悩んで、やっと一緒に生きよう、って思ったのに。あたしの時間を返して、って叫ぶところだったわ」
ミオは、ほんの少しだけ、今までと違った。
ミオが素直になった。今まで素直じゃなかったということではなく、自分の気持ちの中にあるいろいろな感情を、いい感情も悪い感情も平等にオレに見せてくれるように変わったのかもしれない。
一緒に生きるって、どういうことだろう。世界でたった1人の存在というミオの1番大切な席を、オレに与えてくれるということ?
今までミオの父親が占めていたその位置を、オレに変えてくれる……?
「もしも、オレの記憶がすべて戻っても、ずっと傍にいてくれる、ってこと?」
おそらく父親のことが頭をかすめたのだろう。一瞬だけミオの表情は曇ったけれど、すぐに笑顔に戻っていた。
「伊佐巳の記憶が戻って、万が一伊佐巳が変わってしまっても、あたしは変わりたくない。伊佐巳のことを好きな自分でいたい」
ミオのその言葉で、この数時間ミオが何を悩んでいたのか、おぼろげながらつかんだような気がした。
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ミオは、記憶が戻ったあとのオレの気持ちが変わってしまうことを恐れていたのかもしれない。
オレの過去をすべて知っているミオ。オレには想像がつかないけれど、すべてを思い出した後もオレの1番がミオであるという保証はないのだ。ミオがそれを恐れたということは、32歳のオレには既に恋人がいるということなのだろうか。
いや、もしもそうだとしたら、ミオはきっとOKなんかしなかった。……ダメだ。オレの貧困な想像力ではピッタリくる図式を見つけることができない。
「ミオ、実はオレ、少しだけだけど思い出したことがある」
「本当?」
ミオは喜びを素直に顔と声に出した。
「少しだけなんだ。オレにとっての今、15歳だった時代が昭和60年9月で、ロス疑惑のニュースを読んだ。8月だったか、飛行機事故があって、500人以上亡くなった。それと、オレはたぶん、1人の女の子と暮らしていたってこと」
「すごいじゃない。そんなに思い出してたの?」
「まだあるんだ。……あの、例のプログラムのパスワード、思い出した」
そう言った瞬間、ミオの表情がわずかに引き締まった。
「……そう。それで、伊佐巳はどうするの? プログラムをもう一度開いてみる?」
訊かれて、改めて考えた。オレはあのプログラムを見てみたいと思っていた。今でも変わらない。だけど、オレは今やっと、ミオに気持ちを打ち明けることができたばかりだ。
「今日はもういいよ。それより、オレの記憶の事を教えて」
その答えを聞いて、ミオもほっとしたような顔をした。
「すごく正確よ。……伊佐巳は昭和60年の9月、1度目の引越しをしたの。飛行機事故が起きたのは8月だった。1度目の引越しのあと、ロス疑惑の容疑者が逮捕されて、伊佐巳もそのニュースを読んでいるわ。女の子と暮らしていたのも合ってる。それ以上、思い出したことはあるの?」
オレが思い出した最も重要な部分については、ミオに話すのは少しためらわれた。
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臆病になっているのは、ミオに嫌われてしまいたくないという思いがあるから。だけど、ミオはおそらく、すべてを知っている。知っていてなおかつオレを好きになると言ってくれたのだ。話してもいいはずだった。理屈で割り切れるものならば。
「ないこともない。だけど、漠然としすぎてて、言葉にできないんだ」
「……あまり楽しいことではなさそうね。いいわ。無理に訊かないから」
「もっとちゃんと思い出したら話すよ」
もしかしたらミオは察したかもしれない。オレが隠し事をしているということを。
32歳のオレなら、あるいは、17年前のオレでも、もう少し上手に嘘をつけるのだろうか。
2人の間にしばらくの沈黙があった。ミオは微笑を浮かべながらオレを眺めていたが、不意に思い出したように含み笑いをもらした。
「なんだか不思議ね。今朝までと何も違っていなくて、会話もそのままなのに、どこか違う気がするの。……小学生くらいのころ、自分に恋人ができたらどうなるのかな、って、いろいろ考えてたわ。映画館でデートしたり、アイスクリームを食べながら街を歩いたり、自転車で2人乗りして出かけたり。いろいろな場面を想定して、シュミレーションしてたみたい。……現実って、ぜんぜん違う。もちろん伊佐巳とはどこかに出かけたりはできないけれど、たとえそうじゃなくても、現実の恋愛は違うんだと思う」
ミオの言葉の方が不思議な気がした。女の子の考えることは不思議だ。オレはどんな恋愛を夢見ていただろう。17年前は? 今は?
どちらも同じだ。好きな女の子の夢をかなえてあげたい。ミオの小さな夢をかなえるためにはどうすればいいのだろう。
「ミオはどうしたいの?」
「あたし? ……どうしたいのかしら。今はあまり判らないわ。でも、伊佐巳のこと、もっと知りたいと思う」
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「ほかには?」
「そうね。ずっと一緒にいたいかな。伊佐巳のことをもっと好きになりたい」
オレはあまりにいろいろなことを考えて、その中にはかなりよこしまなものもあったから、ミオの言葉にどう反応していいのか戸惑ってしまっていた。確かに嬉しいのだけれど、素直に喜べないようなところがある。オレにはミオをつなぎ止めておくだけの自信がない。
ミオに嫌われるのが怖い。ミオはオレを軽蔑するかもしれない。ミオがいなくなってしまうのが怖い。
「伊佐巳はどうしたいの?」
「ミオに嫌われたくない」
オレは正直に言った。そんなオレを、ミオは笑った。
「どうしてそんな心配するのかしら。あたしが聞いてる伊佐巳は、そんなに臆病じゃなかったのに。あたしが伊佐巳を嫌いになることがあるとしたら、そのときはきっと自分自身も崩れると思う。あたしは、伊佐巳を好きな自分に、自信を持っているもの」
オレは、自分に自信をもつことができずにいる。オレには過去の記憶がなくて、だから自信を持つだけの材料もない。だけど、今、思った。オレにすべての過去がなかったのは、オレが初めて目覚めたあのときだけだ。今のオレには、あの瞬間から積み重ねてきた、3日間の記憶がある。
果たして、オレの3日間は、オレの自身の裏づけになるようなものだったか? 暗い過去はほんの少し思い出した。その過去に対する今までの対処に、オレは自信をもつことができるか?
オレの過去はこれからのオレが作る。ミオが今自信を持てるのは、おそらくこの数時間を悩んだ経緯があるからだ。オレを嫌いになるときにはミオ自身も崩れる。それだけの覚悟が、ミオにはある。
「ミオ、ごめん。ありがとう。……オレ、あのプログラムを開いてみるよ」