連載小説「記憶」


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 パソコンの前に座って、プログラムのパスワード入力の画面までを呼び出した。オレの犯罪を裏付ける、J・K・C教育プログラム。内容はある程度想像がつく。オレが探らなければならないと思うのは、このプログラム全体から受ける嫌悪感、恐怖の正体だった。
「ミオ、君は見なくてもいいよ」
「伊佐巳?」
「内容そのものに君が見る価値はない。こんなものに教育されたらまともな人間になれない」
 ミオはくすりと笑った。どうして笑ったのか、オレには判らないけれど。
「判ったわ。言うとおりにする」
 オレは、パスワードを入力した。
 最初に出てきたのは、個人番号と名前の入力欄だった。適当な7桁の数字と、名前にいさみと入れてEnterを入力すると、再び画面が変わって、教科書で言うところの概要部分が表示された。
 そこに書いてあったのは、J・K・Cという会社の創業の歴史だった。親会社の城河財閥の創設は明治時代にまでさかのぼるが、太平洋戦争を経て城河基規の代に、高度成長期の波に乗って現在の地位を確立した。そこまでは、オレは冷静に読み進むことができた。オレを硬直させたのは、城河基規の死後の1文だった。
『基規の死後、数年の間、城河財閥は総裁不在の状態が続いた。しかし、城河基規の実の息子、葛城達也が14歳の若さで……』
 オレの記憶の扉を開けるカギ。キーワード。
 これだったのだ。オレの嫌悪感と恐怖の具現。『葛城達也』という名前が、すべてのキーワードだったのだ。
 オレの内部のコンピュータは、葛城達也という名前を入力したとたん、暴走を始めた。今までロックされていたたくさんのカギが、この名前ひとつでいっせいに外れたみたいだった。たぶん、オレは叫び声を上げていた。オレの脳の処理速度は、この暴走に追いつくことができなかった。
 オレの意識は途切れた。


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 色とりどりのパステルカラーが点滅している異空間。深緑、赤紫、赤、水色、紫、黄緑、藍、さまざまに移り変わる二重螺旋。漂っているのは、まだオレになっていないオレ。閉じ込められていた、綺麗な世界。
 音もなく、時間もなかった。だから変化は唐突に訪れた。いきなり、暗闇に放り出された。
 オレは、『オレ』になった。と同時に、暗闇に現われる風景。オレはその風景を受け入れる。最初に現われたのは、サングラスをかけた黒服の男だった。
 周りは広く殺風景な部屋。その部屋にいる、オレと黒服の男。オレは黒服の男を慕っていた。次に現われたのは髪の長い長身の男。オレはその男をきらいだった。男はオレを、殺風景な部屋から、別の小さな部屋へと連れ出していた。
 そこには女の子がいた。オレはその女の子を好きだと感じた。めったに笑顔を見せることはなかったけれど、時折見せる笑顔がオレにはまぶしかった。どのくらい、オレは彼女を見つめていただろう。不意に、彼女の姿も、風景も消え去り、周囲は再び暗闇に包まれていた。
「どうやら思い出したみてえだな」
 音のなかった世界に初めて飛び込んできたその声。
 オレは、声のした方を振り返って、それを見つけた。
 暗闇に浮かび上がる、美しいとすら言えるほどの、その顔。
「……そうか。お前が葛城達也だったんだな」
 オレの夢の中にずっと存在しつづけていた男。オレの恐怖と嫌悪をあおる存在。オレにそっくりな顔をした、オレの父親。
 葛城達也は、オレの実の父親だったのだ。
 思い出した。オレの生い立ちも、オレの家族も、オレが好きになった女の子のことも。
「お前がミオを死なせた……!」
 葛城達也は何も言わなかった。
 そして、オレは目を覚ました。


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「伊佐巳、目がさめたの?」
 オレの目の前には、1人の少女がいた。やわらかな声を持つ女の子だった。
「君は、誰?」
「ミオよ。しっかりして」
 違う。この子はミオじゃない。オレが知っているミオは、この女の子じゃない。
 いや、この子のことをオレはミオと呼んでいた。何かを忘れている。オレは今まで何をしていたんだ?
「伊佐巳、どうしたの? いったい何があったの? あたしの顔を覚えている? ここがどこだか判る?」
 しっかりしろ。オレは今まで何をしていた。ミオは……そう、ミオは死んだ。オレの目の前で、屋上から飛び降りた。
 達也に殺されたんだ!
「達也は……どこだ」
 少女は一瞬表情を曇らせた。
「伊佐巳、思い出したの……?」
「ここは、どこだ。研究所の中か?」
「……研究所……? 伊佐巳、いったい何を思い出したの? あたしに話して」
 ここが研究所だったとしても、オレの暮らしていた部屋ではないようだった。研究所の内部はどこも似たような部屋ばかりだったけれど、オレは自分の部屋を間違えたりはしない。
 達也はどこだ。オレは、ミオを死に追いやったあいつを許さない。達也を殺さなければ。達也はいったいどこにいる。
「お願い伊佐巳! あたしを見て。あたしの声を聞いて! いつもみたいに、あたしにすべてを話して!」
 少女の声は聞こえていたけれど、その言葉はオレにはまったく意味を持たなかった。


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 達也を探しに行かなければならない。
 なぜ、ミオを見殺しにしたのか。
 なぜ、ミオの自殺を止めなかったのか。
 あの時、オレがミオから目を離さなければ、ミオは自殺をすることもなかった。
 ミオを、達也と2人きりにさえしなければ。
「……伊佐巳、いったい何を探しているの? あなたは何をどうしたいの? ……お願い、あたしに話してみて。力になれるかもしれないわ」
 少女はそう言って、ふらふらと立ち上がりかけたオレの顔を覗き込んだ。そうだ。オレは今まで、この少女をミオと呼んでいた。どうしてオレは彼女をミオと呼んだのだろう。
 オレは何かを忘れている。オレの記憶は混乱している。ミオが死んで、そのあとオレは何をしていた? いつ研究所に戻ってきたんだ?
「ええっと……君は、誰?」
 彼女は複雑な表情でオレを見ていた。
「あたしは、ミオよ」
「君の名前もミオというのか? オレが知っている女の子と同じ名前だ」
「あたしの名前はあなたが付けてくれた。あなたがあたしのことをミオと呼んだの」
 少しずつ、オレは思い出していた。そうだ。オレが彼女をミオと名づけたんだ。
「君が、好きな名前をつけるように、オレに言った」
「ええ、そうよ。伊佐巳はあたしに、ミオの名前をつけてくれたの」
 空白の時間。ミオが死んだあと、オレは彼女と出会って、彼女にミオの名前をつけた。
 恐る恐る、オレは聞いた。
「ミオが死んで、どのくらい経ったの?」
「ミオが死んでから、17年経ったのよ」
 あまりの衝撃に、オレは息を詰まらせたまま、何も答えることができなかった。


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 タイムスリップしてしまった。
 オレは、記憶喪失になってしまった。
 ……いや、違う。オレは今まで記憶喪失だった。
 逆だ。オレは今、記憶を思い出したんだ。
「……全部は思い出せない。だけど、理論的にそう考えなければつじつまが合わない。オレは、死んだミオのことを今まで忘れていたんだ」
 少女は悲しそうにオレを見ていた。……なぜなのか、今、判った。彼女はオレのことを好きだと言った。そして、オレも彼女を好きになった。
 なぜ、彼女を好きになったのか、それは思い出せなかったけれど。
「伊佐巳、あなたは記憶喪失だったのよ。自分のこと、自分の名前すらも、思い出せなかったの」
 今のオレは、オレの人生を思い出している。オレが生きてきた15年間を。ミオが死んだ瞬間までを、克明に。
「今のあなたは、15歳の伊佐巳なのね? ミオが死んだ直後の、昭和60年9月の」
 ミオが死んでから17年が過ぎた。もう、ミオの死は遠い過去の出来事に変わってしまった。オレには生々しい現実だったけれど、客観的な現実の中では、ミオが死んだのは遠い過去の出来事なのだ。
「伊佐巳、あなたの15年間のこと、話してくれる?」
 おそらくオレは彼女にそれを話す義務があった。記憶のないオレをずっと見守ってきてくれた彼女に。
「オレは、達也の細胞を使って、研究所で培養された結果生まれた、達也のクローンだ」
 オレは彼女に、自分の生い立ちを話し始めた。


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「昭和45年5月28日、オレは達也の先代、城河基規の遺伝子研究によって、達也の細胞から生まれた。オレが生まれたころは達也はまだ城河財閥の総裁ではなくて、2年後、14歳の達也が城河財閥を乗っ取ってから、オレは達也の腹心の三杉に育てられた。オレの事実上の父親だ。三杉はオレを、将来達也の片腕にするために、思想教育とコンピュータを完璧に叩き込んだ。研究所の中から1歩も外に出ることはなく、オレは達也に指示されたプログラムを作りつづけていた。15歳の9月、ミオに会うように命令されるまで」
 目の前の少女は、それまでただ黙って、オレの話す言葉を聞いていた。瞳に悲しみをたたえていた。
「ミオはどんな女の子だったの?」
「ミオは、4歳の時に達也の養女になった、もともとは施設にいた孤児だった。オレは5歳のときに1度ミオに会ったことがあるんだ。確か1歳半くらい年上だったんだけど、コンピュータの扱いも下手だったし、いつも仏頂面で、オレはミオのことを嫌っていたんだ。だから正直あまり気が進まなかった。10年経って、成長してからも、ミオの仏頂面はぜんぜん変わってなかった。だけど……たぶん、オレの方が変わっていたんだと思う。ミオは嫌な奴じゃなくなってた」
 昨日まで、ミオはオレの傍にいた。思い出そうとしなくたって、ミオのことは鮮明に思い出せる。ミオは、一般的に言う美人でも、かわいい女の子でもなかった。身長にして20センチは違うオレと同じくらいの体重があったし、顔の造作も、例えば女の子が10人いたら、10人とも自分のほうがマシだと思うような細工をしている。ミオに関しては、一目ぼれという要素で好きになる人間はまずいないだろう。頭もそれほどよくなかったから、尊敬という要素もほとんどありえないだろう。
「ミオのことを口で説明するのは難しいよ。オレは、ミオの内側に入った人間だ。達也の養女になって、達也に歪められて生きてきたミオの境遇が、オレの同じ部分と重なった。オレとミオは同じ運命の兄弟だった。それだけではないと思うけど。……オレはミオを好きになったけど、ミオが好きだったのは、達也だった」
 そのことをオレが知ったのは、オレの時間でほんの数日前のことだった。


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「なぜ、ミオは……」
 自殺したのか。そう、問いたかったのだろう。少女は言葉を濁していた。
「いろいろ複雑なことが絡み合ってて、一言では説明しきれないし、オレにも全部判ってる訳じゃない。ただ、ひとつ言えるのは、ミオは達也の冷徹さに、ものすごく心を痛めていた、ってこと。達也は、死を実感できない。愛する人間が死ぬことがどういうことなのか判らない。だから、ミオはそれを達也に教えたかったんだと思う……」
 自殺に踏み切ったミオを、達也は止めなかった。オレはそこまで見抜けなかった。もしも判っていたならば、一瞬だって目を離したりはしなかったのに。
 たくさんの人間が、オレに忠告した。ミオは死人の目をしていると。
「もう、いいわ、伊佐巳。今日はこれでおしまいにしましょう」
 オレが黙ってしまったからだろう。ミオと名乗る少女は、オレに言った。
「いろいろあって混乱したはずだもの。今日はゆっくり眠って、また明日話を聞かせて」
 オレ自身、この少女に訊きたい事はたくさんあった。だけど、オレが混乱しているのも本当だ。眠れば、少しは整理できるかもしれない。
「判った。言うとおりにするよ、ミオ」
 初めてオレは少女の名前を呼んだ。だからかもしれない。彼女は、ほんの少し微笑を浮かべた。
 ベッドに入り、眠りにつくと、まるで待ち構えていたかのように悪夢が現われた。


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 夢の中、無意識が、黒い色で表現されるのはなぜだろう。暗闇で人はものを見ることができない。見えないことの象徴ならば、白でもいいはずだ。何色でもいい。紫でも、ピンクでも。
 理論的考察と帰結。その夢の中にいながら、オレは習慣でものを考えていた。暗闇に恐ろしさを感じることはなかった。そうだ。オレが恐ろしいと感じたのは、嵐の夜の雨の音だ。あの時、初めてミオの傍らで眠った。恐ろしさに耐えかねて、ミオを腕枕した。
 ああ、そうか。黒い色は光の反射がまったくない状態のこと。それは、ものが存在しない、無であるということの象徴。光だけ、あるいはものだけでも、色は存在できない。逆にいえば、たとえこれが暗闇だったとしても、ものか光のどちらか、もしくはその両方が存在しているかもしれないのだ。
「ここにはお前のすべてがあるさ」
 背後から聞こえた声に振り返ると、そこには葛城達也がいた。ここはオレの内部。その中に、オレが記憶する葛城達也がいる。オレの脳の中に葛城達也はコピーされている。だけど、オレが記憶する葛城達也は、こんな顔だけが煙のようにぼやけた化物だ。
「オレの記憶はどこにある。お前はそれを知ってるのか?」
「知ってるさ。だけど、それを見つけてどうするつもりだ。お前は既に記憶を取り戻した。それで十分じゃねえのか?」
「まだ半分以上残ってるんだよ!」
 どうしたら、この葛城達也にダメージを与えられるだろう。ミオはオレを人間コンピュータだと言った。オレには知恵も力もない。今のオレにはこいつを倒すことができない。
「お前を消し去るためには記憶が必要なんだ。そこをどけ。オレの記憶がある場所へ、道を明けるんだ」
「記憶が戻ったって無駄さ。俺は殺せねえ。……ま、いいだろ。好きなだけ見ればいいさ」
 葛城達也は一瞬にして消え去った。そして、遠くにぼんやりと、何かが現われていた。


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 暗闇に浮かんだぼんやりとしたものを目指して、オレは空間を移動していった。なかなか近づいていかない。おそらくそれがあまりに巨大すぎたからだろう。それでも少しずつ全体像が現われてきていた。
 水道管のような、数本の管の形をしていた。全体に透明で、目盛りのような縞模様が入っている。何本かの管がくっつきあって人の形のようだ。オレはさらに近づいていった。近づくと、全体を見ることは困難になった。どんなものにたとえることもできないくらい、巨大なものだった。
 これか何の象徴であるのかわかった。オレの夢の中で管の形をとるそれは、オレの記憶のイメージそのものだ。あの、ミオと名乗る少女の言った物干し竿。そのイメージからオレ自身が組み立てた、オレの記憶の象徴。
 その1本は、今のオレ自身だ。ためしに近づいて、空洞の中をくぐってみる。外から見ると目盛りのように縞模様が入っていたけれど、中に入るとそれが管に描かれた螺旋であることが判る。オレはすぐにその管の中から出た。この管は、今のオレが見る必要はない。
 その隣にあった1本の管。それはとても短くて、今オレがくぐったものよりもさらに透き通っている。オレはその管に近づき、中をくぐった。そしてそれが、ほんの少し前までの、ミオと名乗った少女と過ごしていた、たった3日間のオレの記憶であることを知ったのだ。
 オレ自身の中に、その記憶は鮮明によみがえっていた。あの少女との3日間のことが、詳細にオレの内部に記録されていった。そのときのオレの感情、なぜ、彼女を好きになったのか、その過程すらも。そう、オレは、こんなに暖かい感情を、彼女に対して抱いていたのだ。
 オレは、彼女のことが好きだ。その感情そのものは、死んだミオに対するものとは微妙に違う。だけど、どちらも真実だった。オレはもう、ミオを悲しませたりはしたくない。


  100

 記憶の管は、あと2本残っていた。ミオとの記憶を完全に思い出したオレは、その2つのうちのどちらかが偽の15歳までの記憶で、もうひとつが15歳から32歳までの記憶であると推測した。どちらが先でもかまわない。これをくぐれば、オレはすべての記憶を取り戻すことができるのだ。
 オレは一方の管に近づいて、さっきやったのとまったく同じ方法で、管の中をくぐろうとした。ところが、その管は硬く、オレの意識をはじき返したのだ。もう片方の管も同じだった。何度やってもダメだった。
「クックックッ……。無駄なんだよ。てめえにその壁は破れねえさ」
 背後に、いつの間にか葛城達也が浮かんでいた。ゆらゆらと密度を変えながら歪む。
「どうしてだ。なんで破れねえ」
「さあな。てめえが本気で思い出そうとしてねえからだろうよ。そんなにあの女の本性を知るのが怖いのかよ。ったく、お笑いだぜ。お前はあの女の正体を、ちゃんと知ってるってのにな」
「……なんだと……!」
 言葉の意味を追求する前に、葛城達也は消え去っていた。もう、記憶の管も見えない。あたりは完全な暗闇に包まれていた。
 オレが、ミオの正体を知っている? 葛城達也の言葉などまともに信じてはいけない。だけど、それが本当ならば、オレは記憶を失う前にもミオのことを知っていたのだ。

 現実の、あの殺風景な部屋のベッドで意識を取り戻したとき、やはりミオはオレの隣で静かな寝息を立てていた。
 寝顔はまだ少女のあどけなさを残していて、気持ちが暖かくなってくる。死んだミオの寝顔はもっとだらしがなかった。ここにいるミオは、世界で1番かわいい女の子に見える。
 この少女が、今のオレの1番好きな女の子なんだ。
 本当に自然な気持ちで、オレはそう思った。
 
 

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