71
消灯の時刻にはかなり早かったのだが、ミオはほとんど無理やりオレをベッドに就かせた。昨日あまり眠っていなかったからすぐに眠くなるかとも思ったが、あいにく眠気が訪れることはなく、オレは薄目をあけてミオの様子をうかがっていた。
食卓になっているテーブルで、ミオはノートに何かをつけていた。それはもしかしたらオレの記憶の観察日記のようなものなのかもしれない。それが終わると、眠った振りをしていたオレの眠るベッドに、ミオはもぐりこんできていた。
こうなるとオレも眠るどころではなく、気配でミオを観察しつづけた。自分が目覚めていることをできるだけ悟られないよう、息を殺して微動だにしない。そんな時間がどのくらい流れただろう。やがて、ミオが眠ってしまったらしい寝息が、オレの耳にも届いてきていた。
これでオレも眠ってしまえば、今日も何事も起こらずに1日を終えることができる。明日のことはわからないけれど、今日という1日は無事に終えることができるのだ。
ところが、そうはならなかった。というのは、眠ってしまったはずのミオが、何か言葉を口にしたからである。
「……」
最初、ミオが目覚めてしまったのかと思って、オレは身を硬くした。しかしそうではなかった。ミオは眠りながら言葉を発していたのだ。
恐る恐る、ミオを起こさないように、オレは身体を起こした。そして、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるミオの輪郭を見下ろした。上掛けを握り締めて、何かをつぶやいている。夢でも見ているのかもしれない。聞き取れない言葉を何とか聞きたくて、オレはミオに近づいて、耳を寄せてみた。
ミオの声は、まるで泣き声のようにか細く、悲しげだった。
72
「………………」
どこにいるの、パパ。
ミオのかすかな声は、繰り返しそうつぶやいていた。上掛けを握り締めて涙を浮かべているその様子は、まるで小さな子供のようだ。夢の中で、ミオは父親を探している。起こしてあげたほうがいいのだろうか。だけど、たとえ現実に戻ったところで、彼女の傍に彼女が求めるパパはいない。
オレには、彼女にパパを返してあげることができる。彼女の最愛のパパは、オレが記憶を取り戻せば彼女の元に戻ってくる。今すぐに会わせてあげることだってできるのだ。オレの、32年分の記憶さえ取り戻すことができるならば。
オレには何もしてあげられない。記憶を取り戻す以外のことなら何でもしよう。できることなら何でもしてあげたいと思う。記憶を取り戻すこと以外なら、今すぐにでもしてあげられるのに。
涙を浮かべて孤独と戦うミオが愛しかった。滲んだ涙を拭うために手を伸ばした。頬に触れ、指先に濡れた感触があった。その時だった。ミオがオレの手に自分の手を重ねたのは。
「……パパ……」
目覚めたのではない。彼女は夢の中で、父親の手を見つけたのだ。
「……パパ……会いたかっ……!」
オレの手を握り締めて、夢の中のミオは心の底からほっとしたような、オレが見たこともないような至福の微笑を浮かべていた。胸に痛みが走った。彼女が求めているのは、オレであってオレではない。
オレは、ミオのことが好きだ。
名前も知らない、出会ったばかりの少女。オレの半分しか生きていない小さな女の子。ひとつ年上でしっかりしていて、だけど、精一杯の愛情で、全身で父親を求めている少女。
73
今このときだけ、オレは彼女の父親になれるだろうか。彼女を、せめて夢の中だけでも、幸せな気持ちにさせてあげられるだろうか。
「……ここにいるよ」
名前は呼ばず、眠るミオをオレは抱き寄せた。やわらかくて、小さくて、壊れてしまいそうだった。ミオは目覚めることはなく、たどたどしいしぐさでオレの背中に腕を回してきた。頭の中に危険を知らせる警鐘が鳴り響く。オレは必死で自分に言い聞かせた。オレは今ミオの父親なんだ。ミオはオレの娘なんだ、と。
「パパはここにいる。ずっとお前の傍にいる。もう絶対にお前を独りにしないから。安心して眠りなさい」
小さな声でつぶやきながら、オレは次第に不思議な気分になっていた。以前もこんなことがあったような気がする。もしかしたら、オレには子供がいたのかもしれない。確かに32歳ならば子供がいても不思議はない年齢だ。
オレには子供がいるのだろうか。子供がいるのならば当然妻もいるはずだ。オレは恋をして結婚して、子供をもうけたことがあるのだろうか。
何も思い出せなかった。考えているうちに、さっきの子供がいたかもしれないという感覚も、ただの錯覚のような気がしていた。そうだ。子供に添い寝をしたことがあったとしても、それが自分の子供かどうか。他人の子供だったかもしれない。
今、ミオに恋するオレは、その恋を邪魔する過去を思い出したくない。自分に妻子がいたのだとしたら思い出さないでいたい。ずっとミオの傍にいたい。
いつの間にか、オレは眠ってしまっていた。
その夜、オレはあの悪夢を見なかった。
74
「……伊佐巳、そろそろ起きない?」
その、柔らかな声が、オレの目覚めを促していた。目を開けると、すぐ目の前に少女の笑顔がある。あの時と同じだ。オレがこの狭い世界に生まれ直した、あの時と。
「……おはよう、ミオ」
「おはよう、よく眠っていたわね」
枕元に、昨日ミオが調達してきた目覚し時計があった。時刻を見て驚く。既に9時を回っているのだ。
「起こしてくれなかったのか?」
「声はかけたのよ。でも、伊佐巳は昨日あまり眠っていなかったから、そんなに積極的には起こさなかったわ。もっと早く起きたかった?」
ミオの声を聞きながら、オレは少しずつ昨日のことを思い出していた。初めて、ミオの涙を見た。ミオを抱きしめて眠った。オレはミオの身体を抱きしめることで安心していた。まるで傍らにあることが当然なのだというように。
ミオには悪夢を寄せ付けない見えない力があるのかもしれない。
「起床時刻は6時。……これも15歳のオレの日課なのかな」
「そうよ。1度目の引越しのあとの起床は6時だったもの」
「明日からはもう少し規則正しい生活をしたいな」
ミオは既に着替えを終えていて、それどころか朝食のしたくもすべて終えていた。オレは少しだけほっとした。ミオより遅く起きれば、ミオの着替え風景に悩まされることはないわけだ。
朝食は味噌汁とサバの缶詰だった。手早く着替えて食事も終えると、昨日と同じようにミオは聞いた。
「伊佐巳は今日は何をするの?」
オレは、昨日思ったことを試してみたいと思っていた。
「昨日作ったプログラム、あれを見てみたいと思う」
75
もしかしたらオレの記憶障害を悪化させてしまうかもしれないプログラム。ミオは反対するかとも思った。しかし、割にあっさりと、ミオは許可してくれたのだ。
「わかったわ。食器を片付けてくるから、少しだけ待っててね」
ミオがトレイを持って部屋を出ている間に、オレはパソコンのスイッチを入れた。2人分の椅子を用意して、画面の変化を見つめる。機械から発する微妙な音を聞いていると、内部でどんな動作が行われているのか、想像することができる。ミオはすぐに戻ってきたから、オレはキーボードの操作を開始した。
「これから何を見るの?」
「とりあえず、名簿を開いてみる」
言いながら、オレは昨日保存したファイルのうち、おそらく名簿だと思われるファイルを指定して動作させた。微かな音とともにアプリケーションが立ち上がる。画面に浮かんできたのは、オレが想像したとほとんど違わない、何の変哲もないごく普通の名簿だった。
初期画面が入力画面なのは、データが1件も入っていないからだろう。オレは名前の欄に「いさみ」と入れて、F4に割り当てられた入力ボタンを押した。すると2件目のデータを入力する画面が現れる。そこには「みお」と入れて、終了ボタンを押した。
入力を終了した後の画面は、表になった名簿だった。1行に1人が割り当てられて、今はオレが入力した2行だけが表示されている。しかし、オレが目を奪われたのは、表のほうではなかった。右上の方に小さく表示された、おそらく会社のロゴマークのようなもの。
十字架の中に赤い宝石がついたようなデザインだった。オレの心臓は次第に速度をはやめていった。この十字架は、人を縛るためのものだ。赤い宝石は縛られた人間の心臓だろうか。
オレはこのマークを知っている。間違っても親しみを覚えるような記憶ではない。この不吉な感じは、オレの視線をくぎ付けにして、しばらくの間オレを呪縛しつづけていた。
76
「何か……思い出したの……?」
遠慮がちなミオの声が、オレを我に返させた。まだ心臓の鼓動は収まらない。あのまま呪縛が解けなければあるいは何かを思い出したのだろうか。どちらかといえば魂を抜かれていたような気がする。
もう1度ロゴマークを見つめてみる。マークそのものはありふれたものだ。オレは十字架に赤い宝石と感じたけれど、別の人が見ればローマ字のtとcをデフォルメしたようにも見えたかもしれない。ごく普通の会社のロゴマークだった。やはりオレが感じた不吉なものは、このマークそのものではなく、それにまつわるオレの記憶が原因だったに違いない。
「……うまく思い出せない。もう少しで思い出せる気がするのに」
「あせらないで。まだ3日目なんだもの。もっとゆっくり時間をかけてかまわないのよ」
ミオが言うことはおそらく本心なのだろう。だけど、オレは知っている。彼女はオレが一瞬でも早く記憶を取り戻して、父親に会える瞬間を望んでいることも。
名簿のソフトをしばらく探ってみたけれど、それ以上オレの記憶にかかるものはなかった。
「もう1つのプログラムの方を見てみるよ」
「……そうね、判ったわ」
そのプログラムは、名簿の何倍もオレに不吉な予感を抱かせるものだ。それはミオも感じていたらしい。おそらくミオは知っているのだ。オレが作ったあのプログラムがどんなもので、それを見ることでオレが何かを思い出すかもしれないということを。
ハードディスクが動作する微かな音がして、プログラムは目を覚ました。
全体にグレーの、のっぺりとした画面が現れる。中央に文字と1行の入力部。文字列には、パスワードを入力するように指示があった。
77
その瞬間は、何の前触れもなく急激に訪れた。
オレの記憶の回路。そのどこがどう繋がったというのだろう。きっかけはおそらく、あの十字架のロゴマークだ。このプログラムを開くためにはパスワードが必要だった。そのパスワードを、オレは思い出したのだ。
そして、そのパスワードを思い出した瞬間、さまざまなことがオレの頭の中を通過していった。パスワードにまつわる、多くのエピソード。夢の中のあの男が言ったことは、あながち間違いではなかったのだ。オレは過去に罪を犯している。直接手を下したわけではなくとも、オレが重大な犯罪に関与していたのは、間違いなかったのだ。
何ということだろう。オレは自分のことはまだ思い出せなかったけれど、オレが関わっていた組織のことを思い出したのだ。
パスワードは、その会社の社名の略号。それを打ち込んだとき、オレはもっと深くその罪状について知ることができるだろう。
もしかしたらオレは半分意識がなかったのかもしれない。ミオの声は、まるで別世界の言葉のように聞こえた。
「パスワードを入れなければ、開くことができないの?」
ほとんど無意識のうちにオレは答えていた。
「……そうらしいな」
「判らない?」
その質問にオレは答えることができなかった。そのプログラムを見てみたいという好奇心よりも、自分が思い出したことに対するショックのほうが大きかった。答えないオレをミオは自分なりの解釈で理解したようだった。
「そう、それならどうしようもなさそうね。残念だけど」
それ以上画面を見ていたくなくて、オレはプログラムを閉じた。
ミオに対して初めて嘘をついてしまったことが、オレの心の奥に小さな棘のように引っかかって、取れなかった。
78
『J・K・C』
それが、オレが思い出したパスワードだった。
「……ミオ」
オレがそう呼ぶと、ミオはいつもの笑顔で答えた。
「なに?」
「……ごめん、少し1人で考え事をしてもいいかな」
ミオはちょっと意外そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔に戻っていた。
「判ったわ。お昼まで外に出てる。連絡が取れなくなるけれど、いいかしら」
「2時間くらいだろ? 大丈夫だよ」
子供扱いは相変わらず抜けていないらしい。記憶喪失とはいっても精神年齢はもう15歳なのだ。いったい何が心配なのだろう。
ミオを見送って、オレは記憶を辿り始めていた。思い出したことは言葉にすればそれほど多くはない。それよりも、自分が抱いていたプログラムへの嫌悪感や不吉な感じを裏付けるものの正体を、漠然とだけれど知ることができたのだ。
J・K・Cは、オレが所属していた組織の表向きの社名だ。商事会社ということになっている。しかし実態は産業スパイのようなものだった。
オレはその組織のプログラマーだった。最初に見た名簿や、その他の企業用のプログラムも多く作っていたし、それ以前にはコンピュータを組み立てるようなこともやっていた。だけど、オレのもっとも重要な仕事は、工作員を育成するための教育用プログラムの作成だ。パスワード入力の画面を見てすべてを思い出した。オレは犯罪者を生み出すためのプログラムを作っていたのだ。
J・K・Cが犯した犯罪は産業スパイだけにとどまらない。オレが思い出したのは、ある飛行機事故だった。組織の工作員は、たった1人の人物を消すために、自らも乗り込んだその飛行機を、無関係の多くの人間ごと墜落させたのだ。
直接手を下した人間と、オレと、いったいどれだけ違うというのだろう。
夢の中の不気味な顔が言ったことは間違っていなかった。オレは過去に数百人の人間を殺した殺人者だったのだ。
79
テレビで見た飛行機事故の映像がよみがえっていた。昭和60年8月。日本の山中に墜落した大型ジャンボ。オレの記憶は混乱していた。思い出した映像はオレが関わった事故とは違うものだったはずだ。しかし、その映像を思い出したことで、オレが15歳だった17年前、いったいどんな時代に生きていたのか、わかったのだ。
オレの今は、昭和60年9月だ。その時代の映像が怒涛のようにあふれ返って、オレの脳を撹乱する。椅子に座っていることが耐えられないほど肉体のバランスが失われて、オレは床に突っ伏した。脳みそから流れ落ちようとする記憶たちを必死でつなぎとめることに、全神経を使った。
タイガース。ロス疑惑。あふれる昭和60年という時代の記憶から、オレ自身の記憶を探した。そう、事件が起こったのだ。例の飛行機事故ではない。飛行機事故そのものは2年前の昭和58年に起こっていて、そのときに死んだ犠牲者の遺族が、オレが所属する組織を窮地に落としいれようとしたのだ。
その事態の収拾に、オレは努めた。オレの隣には1人の女の子がいた。何という名前だっただろう。彼女はミオに似ていなかっただろうか。
『***はどうして平気で人を殺すんだ? あたしにはわからない……』
思い出したのは、彼女の言葉だった。以前に思い出した『義理の親子は結婚できない』と話した声と、同じ雰囲気をもっていた。彼女の名前は? 彼女が口にした人物の名前は……?
思い出せ! 今なら思い出せるかもしれない。オレはたぶん彼女と暮らしていたのだ。たぶんオレは彼女に恋をしていた。だけど、彼女が好きだったのはいったい誰だった……?
昭和60年9月。ミオの言葉によれば、オレはほんの2週間程度しかその場所にいなかった。おそらくオレにとって重要な意味を持つ時代だったのだ。記憶を失ったオレが、もう一度取り戻したいと思うものを求めて、生まれなおしてしまった重大な何かが。
いつの間にか、オレは見失ってしまった。1人の少女の輪郭は次第にぼやけて見えなくなってしまっていた。
80
揺り起こされる振動で、オレは目を覚ました。
「伊佐巳、伊佐巳、大丈夫?」
床に突っ伏していたオレは、ほとんどミオに抱き起こされるような格好で身体を起こした。
夢を見たような気がする。あの不気味な顔の夢ではない。15歳だったオレが暮らしていた、ほんの2週間の夢。
夢の全貌を覚えているわけではない。その夢の中でオレが幸せだと感じたのは、1人の女の子に恋をしていたから。
「どうしたの? 何かあったの? ……もっとはやくくればよかった。こんなときにあたし、そばにいないなんて」
怒涛のように流れていったたくさんのオレの記憶。おそらくそのショックで精神の糸が切れたのだろう。その記憶たちの大部分はオレの頭の中から失われていた。こうして目覚めて、頭の中の整理がついて、判ったことがひとつだけある。オレがなぜ15歳の伊佐巳として生まれてきたのか、オレがこれから何をしなければならないのか、その理由。
オレが取り戻したいと願ったのは、あの2週間の恋だ。
「ミオ……」
「ん? なに?」
ミオはオレの頭を抱きかかえている。オレは自力で起き上がって、ミオの前に座った。オレがしっかりと起き上がったから、ミオはずいぶん安心したように見えた。いつもまっすぐな瞳でオレを見つめる少女。
今のオレが恋をしたのは、この女の子なんだ。
「オレは、ミオのことが好きだ。オレの恋人になってくれないか」
オレのこの科白は、ミオの表情を瞬く間に硬直させた。