連載小説「記憶」


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 オレは、ミオのたとえ話が面白くて、夢中になってイメージしていた。
「古い記憶を思い出そうとするとき、2通りの方法があって、1つは物干し竿、つまり時間よね、そのときの状況を思い出そうとして、洗濯ばさみが以前そこにぶら下がってた洗濯物を、山の中から探し出すの。そのときに洗濯物の山がひっくり返されるから、1つ思い出すとその頃の思い出が次々思い出せたりする。逆に、洗濯物が洗濯ばさみを探すこともあるわ。偶然に断片的な記憶を思い出して、物干し竿に当てはめるの。デジャヴュとか、どこかで見たことがあるけどなんだったかな、なんて感じで思い出すときが、こんなイメージなの」
「古い記憶ほど思い出せなくなるのは、洗濯物が上に積み重なってくるから?」
「そうね。あと、物干し竿が長くなって、現在のある位置から遠くなるからかしら。それに、たぶん物干し竿も洗濯ばさみも古くなって、干しづらくなるのよ。伊佐巳は知ってる? プラスチック製の洗濯ばさみって、ものすごく壊れやすいんだから」
 ミオはいつの間にか、記憶の話というよりも洗濯物の話を楽しみ始めているように、オレには思えた。そんなミオはなぜか妙に活き活きしていて、つられるようにオレもなんだか楽しくなってきていた。こんなに活き活きと話すミオは初めてだった。おそらくミオの日常にはいつでも洗濯という仕事があって、その仕事をミオはとても楽しんでいたのだろう。
 記憶と洗濯には共通点といえるものは何もなかった。だが、オレはミオのたとえ話で、ミオがイメージする記憶というものをすんなりと理解することができたのである。
「あたしが伊佐巳の記憶について思ったのは、伊佐巳の記憶喪失はこの物干し竿の方がうまく働かなくなっているのかな、ってことなの。伊佐巳の『現在』って感覚が、物干し竿のちょうど15歳のところにとどまってしまっているような気がするのよ」


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 ミオがイメージする物干し竿の記憶。長く生きれば、記憶が積み重なればそれだけ物干し竿はどんどん長くなってゆく。オレは32年分の物干し竿を持っていて、その15歳の部分に今のオレがいる。そのあとの部分はオレにとっては未来だ。だけど、その未来は今のオレの未来じゃない。今ここにいるオレが未来をつむいでゆけば、また新しい物干し竿が15歳の部分から形成されるのだろうか。
 まてよ。オレは以前に記憶を置き換えられたことがあるとミオは言った。ということは、オレにはもう1つの物干し竿があるのだろうか。記憶を置き換えられる以前にあった正しい物干し竿と、置き換えられた偽物の物干し竿が。
 もしも全てを思い出したら、オレの記憶はどうなってゆくのか。もしも今オレが32歳までの正しい記憶を思い出したとして、ここにいる15歳のオレと、32歳のオレ、過去の15歳のオレの関係はいったいどうなってしまうのだろうか。
「ミオ、今の15歳のオレの物干し竿は、過去の15歳の部分につながってしまうのか?」
 オレの不安な声色を、ミオは察知したようだった。
「あたしを雇った人は、伊佐巳が記憶を思い出したら今の伊佐巳はちゃんとした時間軸につながる筈だって言っていたわ。つまり、32歳の物干し竿の後に、15歳の物干し竿がつながる、って」
「だったら、今はつながっていないのか?」
「本当はつながっているのだけど、伊佐巳には見えていないだけ。たとえば、あたしはパパと一緒に暮らしていた頃の夢をよく見るけど、夢の中のあたしは、今パパが傍にいないことなんか、ぜんぜん覚えていないわ。目覚めたときに思い出すけど、記憶のつながり方にそれほど違和感はないもの。もしも伊佐巳が記憶を取り戻したら、夢から覚めたようになるんでしょうね」
 そう言ったミオは、父親の夢のことを思い出したのか、少し切なそうに見えていた。


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 オレの今。それは32歳のオレから見れば、まるで夢のようなものなのだろう。ミオはそう言っているし、オレもそうなのだと思った。だけど、オレはここに生きている。現実に生きているんだ。
 オレは夢を見ているわけじゃない。オレにとっての現実は記憶喪失で15歳になってしまった32歳の男、もしくは、いつのまにか身体だけが32歳になってしまった15歳の男。今のオレはそれ以外ではなく、このオレ自身が現実のオレなんだ。
 オレは生きている。生きているからミオに恋もする。もしかしたら、いや恐らく、32歳のオレはミオに恋などしないかもしれない。だけど、15歳のオレは32歳のオレとは違うんだ。まったく違う人間なんだ。
 オレは今はじめてその可能性に気づいていた。今のオレにとって、32歳のオレの記憶はもしかしたら邪魔なものかもしれない。ミオに恋をして、たとえば恋人になれたとして、その後記憶を取り戻したオレはすでに結婚しているのかもしれない。ミオにこのかすかな恋を告白することは、それだけの覚悟を必要とする。オレが今生きているのは夢ではなく現実だ。ミオの人生も現実だ。記憶を取り戻したとき、まるで夢から覚めたときのように、すべてをなかったものとして片付けることなどできない。この時間を白紙に戻すことなんかできないのだから。
 オレは生きている。今のオレは、32歳のオレの為に存在しているわけじゃない。32歳のオレの記憶を正常に戻すために存在しているのでもない。そうでなければ、今オレがここに存在する意味がないのだから。
 オレは、オレの為に生きていいのだろうか。記憶を取り戻せば後悔するかもしれないけれど、それは今のオレではなく32歳のオレの後悔だ。そう、割り切ってしまっていいのだろうか。だけど、オレは32歳のオレを思い出すことができないのだ。
 

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「オレの“今”は夢じゃない」
 低く抑揚のない声でオレが言ったことが、ミオを驚かせたようだった。
「そう……よね。ごめんなさい。あたしも夢だなんて思ってないわ」
「ミオ、君はもしかしたら32歳のオレを知っているのかもしれない。知らないのかもしれない。だけど、今ここにいるのは15歳のオレで、32歳のオレとは全然別の人間なんだ。君が32歳のオレを知っているにしろ知らないにしろ、今ここにいるオレが32歳のオレとは関係ない、別の人格を持ってる1人の人間なんだって、君は認めてくれる? これからオレがつむいでゆく時間を、32歳のオレの時間と切り離して見てくれる?」
 生まれたばかりのオレの人格。記憶のないオレは、これから少しずつ自分というものを形成してゆく。その環境は今までのものとは違うはずだから、形成される人格も当然今までのものとは変わってしまうだろう。オレはこれからも自分の記憶を思い出すことを続けてゆくし、もしも思い出したのならばその人格は32歳の人格に吸収されてしまうのかもしれない。だけど、それは今のオレの人格が必要ないということじゃない。自分がなければ生きていくことなんかできるはずがない。
 壊れてしまった32歳のOS。オレがオレのコンピュータを動かすためには、新しいOSが必要なんだ。
「伊佐巳、あたしは最初からあなたを認めているのよ」
 ミオはそう言って、いたわるように微笑んだ。ああ、そうだったよ。最初からミオはオレを15歳の少年として扱っていた。
「伊佐巳は32年間の記憶を思い出さなければならないわ。でもそれは今の伊佐巳が必要ないって意味ではないの。あたしは今の伊佐巳が好きよ。だから壊れてほしくない。過去の記憶障害なんかで伊佐巳のすべての人格に壊れてほしくないのよ」


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 オレはなんだか頭がぼうっとして、そのあとのミオの言葉をあまり聞いてはいなかった。
「……本当に?」
「ええ、あたりまえよ。伊佐巳にはこんな記憶障害なんかに負けてほしくない。まだ32年しか生きていないのよ。伊佐巳にはこれからがあるんだもの」
「ええっと、そっちじゃなくて……」
 ミオが首を傾げてオレの言葉を待っていた。だからオレは余計に聞けなくなってしまった。ミオが言った「あたしは今の伊佐巳が好きよ」という言葉の意味を。
 たぶん、オレが期待するような意味ではないのだろう。当然だと思う。オレのほうがおかしいのだ。まだ出会って2日目の女の子に、恋心を抱いているなんて。
「15歳の男の子の伊佐巳を、あたしは好きよ」
 だからミオがそう言った時、オレの心臓はドキンと大きな音を立てた。
「今ここにいる伊佐巳は、32歳の伊佐巳とも、たぶん32歳の伊佐巳が15歳だったころとも違うわ。でも、そんな伊佐巳が存在していること、それだけであたしはあなたを好きだと思える。……あたしは絶対に忘れないわ。もしも伊佐巳の記憶が戻って、32歳になったとしても、ここに15歳の伊佐巳が存在していたって、そのことを絶対に忘れない。
 もしも伊佐巳が忘れてしまったとしても、あたしはずっと忘れないから」
 たぶん、ミオが言う好きという言葉は、オレがミオに思う気持ちとも、オレがミオに期待する言葉とも違う。どちらかといえば親が子供に対して抱くような気持ちなのかもしれない。だからかもしれない。オレはそのミオの言葉に安堵を強く感じた。そして思った。このミオの言葉を絶対に忘れたくないと。
 オレが忘れてしまったオレの記憶。その中には、オレが忘れたくないと感じた言葉がいくつあったのだろう。たぶんたくさんあったに違いない。オレの記憶はオレのものだ。思い出したい。オレの記憶はそのままオレの宝物なのだから。
 32歳のオレは、たぶん、たくさんの宝物を抱いている。


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 ミオが雇い主への報告があると部屋を出て行って、オレは風呂に入った。風呂から上がってミオを待っている時間はかなり手持ち無沙汰で、オレは昨日の続きの千羽鶴を折り始めていた。最初の何枚かは手順を確認しながら折っていたけれど、そのうち何も考えなくても自然に折ることができるようになってからは、オレは鶴を折りながら、自分の頭の中を整理し始めた。この方法は思った以上に有効で、単純作業というものは頭脳労働を促進させる効果があるのだと、オレは改めて知ることになった。
 そうしているうちにミオは戻ってきて、夕食の前にミオも風呂に入っていた。それだけならまだいい。問題は、風呂上りのバスタオル姿のままオレの視界をうろうろすることだ。できるだけそちらを見ないように折鶴に集中していたら、その日オレ1人だけで24羽も折り上げてしまっていた。
 ミオはオレのことを子供だとでも思っているのだろうか。それとも、そういう考えに思い至らないくらい、彼女は無垢な存在なのだろうか。
「伊佐巳、カレーライスは嫌い?」
 いつの間にか匙の動きが止まっていたからだろう、食卓の向こう側で、ミオが言った。夕食は何の変哲もないカレーライスだった。食べてみたらそれがレトルトのカレーであることがわかったけれど。
「いや、嫌いじゃないよ」
 ミオを心配させないために、オレはカレーライスを口に運んだ。昼食が遅かったせいかあまり腹が減っている感じはない。この部屋はある程度の広さはあるといっても所詮はただのワンルームだ。こんな狭い空間でほとんど身体も動かさずにいたら、それほど腹も減らないだろう。
「ミオ、ここで運動しても大丈夫かな」
 ミオはあっさりと答えてくれた。
「この建物、かなりじょうぶよ。多少どたばたしてもぜんぜんかまわないと思うわ。食後は運動してみるの?」
「ちょっと試してみたいことがあるんだ」


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「試してみたいこと?」
別に隠すつもりはなかったのだが、口にしていいものか少しのためらいがあった。その場ではオレは何も言わず、食後、トレイを片付けに出てゆくミオの後ろで準備運動をはじめる。ミオはすぐに戻ってきた。そして、身体を動かすオレの隣で、ミオも準備運動をはじめたのだ。
 二人ともすでにパジャマ姿で(恐ろしいことに色違いだった)オレが適当に身体をほぐす動きにあわせて、なぜかミオも同じ動作をした。そして、オレが昨日と同じ空手の動きを始めると、ミオはそっくりオレの真似をしたのだ。
 オレの身体は空手の型を覚えていた。隣のミオも、オレとまったく同じ動きで、ほとんど遅れることもなく型を作っていた。どうやらミオは空手を知っているのだ。少しの驚きを胸に型を終えると、ミオは晴れやかな感じで笑った。
「なんか身体を動かすのって気持ちがいいわね。久しぶりよ、運動なんてしたの」
「君は空手を知っているの?」
「習ったことがあるわけではないの。みようみまねでね、型だけは覚えてたみたい」
「それにしては上手だったけど」
「……そうね、今の、ちょっと嘘。パパと会えなくなってから、毎日練習していたの。いつか必要になる日がくるかもしれないから」
 16歳の女の子が、空手に必要性を感じている。明るく話すミオを見ながら、オレは複雑な気分だった。オレはミオの事情も、この部屋の外で何が行われているのかも、何も知らない。だけど、ミオを戦士に変えてしまう何かがここにはある。ごく普通の16歳の女の子に、それが必要だという理由で空手を習得させてしまうような何かが。
「伊佐巳も上手ね。空手を習っていたの?」
 まるでオレが記憶喪失であることを忘れているように、ミオは聞いた。こうした質問がオレの記憶を不意によみがえらせることが以前あったけれど、今回はオレの頭の中に何かが浮かんでくるということはなかった。


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「わからないけど、身体が覚えてる。コンピュータのときと同じなんだ」
「ちょっと、違うかもしれないわよ。これを見て」
 ミオが手にしたのは、例のオレの年表だった。直線の真ん中には引越し1から引越し3までの印がある。その中で、今のオレの意識があるのは、引越し1から引越し2の間、消灯が12時だったこの期間なのだと、ミオは言ったのだ。
「15歳のころ、伊佐巳は空手を習ってはいないの。伊佐巳が空手を始めたのは、17歳になってからなの」
 そう言って、ミオは印と引越し4の文字、その少しあとに17歳の年齢と、空手の文字を書き加えた。
「15歳のオレは空手を知らないのか?」
「知識としては知っていたと思うわ。でも、実際に身体を動かしたことはなかったはずよ」
「それならどうして15歳のオレが空手の動きをできるんだ?」
「それはたぶん、人間の脳の仕組みのせいだと思うわ。知識と運動とは根本的に記憶の仕方が違うのよ。知識の場合は、たとえば記憶したものが間違っていて、あとでそのことに気がついた場合、間違っていた記憶も正しい記憶もすべて残るようになっているの。でも、運動については違うの。練習して、うまくできるようになったとき、うまくいかなかったときの記憶はすべてなくなってしまう。だから一度成功してしまえば、それができなかったころの脳に戻ることはないわ。もちろん、練習を続けなければやがて成功したときの記憶も失われてしまうけれど。
 伊佐巳の身体の記憶は、知識の記憶とは別の場所に蓄えられているのだと思うわ。だから知識の記憶が失われている今でも、なくならずに残っているのよ」
 肉体の感覚。運動能力は感覚に近い。そうか、オレの感覚が残っていたのも、感覚と肉体の記憶がかなり近いところにあったからなのかもしれない。コンピュータは日々進歩を続けている。オレの内部のコンピュータは、32歳までの進化を経た、最新式のCPUが使われているんだ。


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 最新式のCPUの上で動く、17年前のOS。要するにオレはそういう存在なのだ。この状態を物干し竿にたとえることはできなかったけれど、オレは今はっきりと自分というものをイメージすることができていた。
「ということは、オレはかなり最近まで空手をやっていたことになるな」
「そうだと思う。毎日型を作っていたから、今も型を作ることができたのね」
 おそらく初めてだった。ミオがオレのことについて、「思う」などというあいまいな言葉を使ったのは。
「……もしかして、君は最近のオレのこと、わからないのか?」
 この質問はミオにとっても意外だったらしい。だが、その様子で、オレは自分の憶測が間違っていないことを知ったのだ。
「君はオレのことをすべて知っているんではないのか?」
「……日常の細かいことまではそれはわからないわよ。本人しか知らなかったこともあるもの」
 そう言ったミオの表情と声にごまかしを感じたのは、あるいはオレの考えすぎだったのか。
「あたしが伊佐巳の経歴として聞いているのは、全部ほかの人が話したことなの。伊佐巳の周りにいた人から聞いたことをつなぎ合わせて話しているだけ。だから、もしかしたら本当の伊佐巳の経歴とは少し違うかもしれないわ。でも、前にも話したけど、あたしを雇っている人は伊佐巳の身内なの。だから、大人になってしまってからの最近のことは少しあやふやかもしれない。でも、伊佐巳が独立するまでのことについては、かなり信憑性があると思わない?」
 人間が饒舌に何かを強調する時は、別の何かを隠そうとしている時だ。ミオは無意識にそうしているのか。もしかしたらミオ自身、自分がいったい何を隠そうとしているのかわからないのかもしれない。


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 ミオが何かを隠していることは、そもそも最初から漠然と感じていた。だいたい彼女は自分の本名さえ明かしてはいない。ミオが言っていることは間違ってはいないのだ。ひとりの人間の人生の、そのすべてを他人が知ることなんてできるはずがないのだから。
 隠したいことがあるのだったら、ミオは今言い訳をするべきではなかった。だけど彼女はまだ16歳で、他人に嘘をつくテクニックが完成されるには少々若すぎるのだろう。そういうオレは15歳の感覚を持ちながら、他人の嘘を見破るテクニックを備えている。これはオレの15歳の経験なのか。それとも32歳の経験なのだろうか。
 今のオレにはどちらとも判断がつかなかった。それに、ミオが嘘をつこうが隠し事をしようが、今のオレにはどちらでもいいことだった。今のオレに唯一できることは、自分自身の記憶を取り戻すことだけなのだから。
「そうだな。どっちみち細かいことは自分で思い出すしかないわけだし」
 それ以上追及しなかったオレに、ミオは心の中でかなりほっとしたように見えた。
「ということは、オレの空手の記憶は、32歳ころの記憶なんだ。オレが17歳で空手を始めて、その後もずっとやってきたってことは、オレにも空手をやる必要性があったってことなのかな」
「たぶん、そうなんでしょうね。理由はあたしにもわからないけれど」
 空手をやることで、オレは何かから身を守ろうとしていたのかもしれない。オレにはたぶん、空手をやるだけの重大な理由があった。自分を守ろうとしたのか。それとも、自分以外の誰かを守ろうとしていたのだろうか。
 すべてを思い出せばわかる。オレにはもしかしたら、全身全霊をかけて守らなければならない人がいたのかもしれない。

 

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