連載小説「記憶」


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 15歳のオレは何を望んでいたのか。今から17年前、オレの身体と心はともに15歳だった。そのとき、オレの前には「義理の親子は結婚できない」と話した女の子がいた。オレはもしかしたら、その子の恋人になりたかったのかもしれない。
 判らない。判らないけど、そんな気がした。本当は違うのかもしれない。オレは今ミオに興味を持っているから、都合よくそんな風に考えるのかもしれない。
 17年前のオレは、いったいどんな恋をしていたのだろう。
 オレが恋していた女の子は、ミオに似ていたのだろうか。
「朝食が終わったら伊佐巳は何をするの?」
 ミオが聞いてきたが、そもそもオレには予定など何もなかった。今のオレにできることといえば、パソコンをいじるか、せいぜい鶴を折るくらいなのだ。
「何も考えてない。オレは何かしなければならないことでもあるのか?」
「伊佐巳には仕事のようなものはないわよ。伊佐巳の今の仕事は、過去を全て思い出すことだもの」
「だったら、好きなことをしていていいんだ」
「そうね。欲を言えば、記憶を思い出せそうなことかな」
「だったらパソコンをやるよ。オレはたぶんかなりの時間をパソコンの前で過ごしていたはずだから。もしかしたら記憶を思い出すきっかけが見つかるかもしれない」
「それじゃあ、あまりやり過ぎないように時間を決めましょう。午前中はお昼までで、1時間に10分は休憩を入れること。午後は5時までね。それでいい?」
「判った」
「そうね。……それだったら、伊佐巳がパソコンをやっている時間、あたし、出かけてきてもいいかな。ちょっとやっておきたいこともあるの。もちろん、伊佐巳が休憩になるときには傍にいるようにするから」
 確かに、オレがパソコンに向かっている間何もせずにいるのは、殊のほか退屈なことだろう。


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「別に1時間ごとに帰ってこなくてもいいけど」
 オレがそう言うと、ミオはちょっと目つきを鋭くした。
 こんな顔もできるんだな。
「あたしが帰ってこなかったら、伊佐巳は休憩なんか絶対にしないわ。賭けてもいい」
 オレもそう思った。だけどそうとは言わず、両手を上げて降参した。
「判った。必ず休憩する。できれば目覚し時計か何かないかな」
「それも探してくるわ。……じゃあ、1時間後にまたくるわね」
 そう言って、ミオはトレイを片付けがてら、部屋を出て行った。オレは再びパソコンの前に座って、今度はさっきとは別のことを始めた。今までは自分の中のデータを打ち込むことをずっとしてきたけれど、今度はパソコンの内部を探ることに重点を置いていじり始めたのだ。オレはパソコンの知識はほとんどなかったけれど、今までの作業で少しはコツのようなものをつかんでいた。
 だが、いざ自分のやりたいことをやろうとすると、オレの頭はまったくといっていいほど働いてはくれなかった。今のオレに判るのは、アイコンをダブルクリックすると何かのソフトが立ち上がることとか、閉じるときにはバツ印をクリックすればいいこととか、その程度なのだ。ソフトが立ち上がったとしても、その使用方法はまるっきり判らない。ヘルプを読みながらひとつひとつ理解しようとするけれど、まず言葉の意味が判らない。オレがさっきまで使っていたのはどうやらソフトではなく、ソフトを作る方の機能だったらしい。それだけは判った。オレはパソコンのソフトをプログラムしていたのだ。


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 最終的には外部のコンピューターと接続したいのに、そのやり方がわからずに、オレはずっとパソコンの中のソフトに惑わされる羽目になった。やがてミオが帰ってきて、ほとんど集中していないオレを見て驚いたくらいだった。
「どこへ行ってたんだ?」
 答えてもらえないかとも思ったが、意外にあっさりとミオは教えてくれた。
「友達に会ってきたの。あたしの親友なの」
「この建物の中にミオの親友がいるのか?」
「親友もいるし、仲間も。あたしも伊佐巳と同じで、この建物から出ることはできないのよ」
 ミオとの短い会話で、オレはこの部屋の外、建物の内側で何が行われているのか、おぼろげながら知ることができていた。この建物の中には、ミオが仲間と呼ぶ人間たちが何人か、外に出ることもできずに暮らしている。監禁されているのか、それとも建物の外が危険だからなのか、それは判らない。だが、ここはオレが持っている常識の範囲に収まる場所ではないのだ。
 この部屋の外で何が行われているのか、オレは知りたいと思った。オレ自身はおそらく、この部屋からすら出ることはできないのだろう。外の情報を知る手がかりは、ミオと、このパソコンだけ。ミオから聞き出すことのできない情報は、パソコンから手に入れるしかないのだ。
「ミオ、君はこのパソコンの使い方を知ってるの?」
 ミオはちょっと困ったような顔をした。
「ごめんなさい。あたしの家、パソコンなかったのよね。だからあたしにはパソコンの知識はないのよ」
「説明書みたいなものもないかな。用語辞典でもいいんだけど」
「パソコンは伊佐巳の記憶と直接関わるものだから、あったとしても持ってくることはできないはずよ」
 やはり、必要な知識はすベて自分で思い出すしかないようだった。


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 10分でミオは部屋を出て行ったので、オレはまたパソコンに向かった。
 本当はさっきの続きをするつもりだった。だが、判らないことを続けるというのはあまり魅力のある作業ではなく、いつの間にかオレは今朝の続き、プログラムの作成を始めていたらしい。
 そうと気付いたのは、ミオがオレの肩を揺さぶって、キーボードがうまく打てなくなっていたからだった。集中力が切れて見上げると、ミオはまた少し困ったような顔で、オレを見つめていた。
「伊佐巳、今、何時だか判る?」
 パソコンの時刻表示を見て驚いた。時刻は既に午後2時を回っているのだ。
「何回も呼んだのよ。伊佐巳、あなた本当に自分の身体を気遣う気があるの?」
 そう言いたくなる気持ちは判った。結局オレは、一度何かを打ち始めると、全て打ち終わるまで外界の気配など一切感じなくなってしまうらしいのだ。
「ごめん、ほんとに」
 オレが素直に謝ると、ミオはため息をついて、諦めたように言った。
「判った。伊佐巳にパソコン中休憩するなんて、最初から無理だったのよ。いいわ。午前と午後、1つずつ打ち込んだら、それで1日の分にしましょう。いい?」
 ミオにしてみればそれでもかなり譲歩したのだろう。オレに否はなかった。オレがパソコンを始めると、どうやってもミオを1人にしてしまうのだ。でも、パソコンは今のところ、オレの記憶を探るのに1番可能性の多いものだった。これはオレの一部なのだ。触らずに1日を過ごすことなど、おそらくできはしないだろう。
「判った。ごめんね、本当に」
「あたしに謝らなくてもいいのよ。……すっかり食事が冷めちゃったわね。こっちにきて」
 昼食は、発泡スチロールの容器に入った弁当だった。どうやらこの食事も、オレの記憶のヒントになるものらしい。15歳のオレが毎日摂っていた食事を再現しているのかもしれない。だとしたらオレは、昼ご飯を持ち帰り弁当で済ませていたということになる。


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 オレの昼食はおそらく1人だった。15歳のオレの隣に一緒に食卓を囲む女の子がいたとしたら、その子が学生だったのか、あるいはオレ自身が学校に行っていたのか。どちらにしてもオレは1人で持ち帰り弁当を食べていたらしい。1日のほとんどをパソコンの前で過ごしていたのだとしたら、オレは不登校児だったのか、それとも、通信教育で学んでいたのかもしれない。
「今朝から作ってたプログラムはどういうものなの?」
 答えは、オレの脳の中にひらめくように現れた。
「企業用のプログラム……らしいな。名簿を作るソフトみたいだ」
「なんとなく判る気がするわ。名前や住所を入れるワクがあって、打ち込むと別の画面で名簿になるのね」
「そう。宛名ラベルの印刷ができたり、検索にも使える。オレはどこかの会社のプログラムを作る仕事をしていたのかもしれない」
 だとしたら、オレはすでに学生ではなかったのか。在宅勤務で、企業の下請けのようなことをしていたのかもしれない。それならば昼間1人で持ち帰り弁当を食べていたこともつじつまがあう。
「もう1つの方は何なの?」
 もう1つ、それはさっきまでオレが打ち込んでいたプログラムだ。
 なぜだろう。そのプログラムについては、オレのひらめきはまったくないのだ。動かしてみることはできるだろうか。たぶんプログラムには間違いはない。ゲームのときのように、動かないということはないだろう。
「判らないの?」
「ああ、判らない。どうしてだろう。判るのも不思議だけど、判らないのも不思議だ。……見てみればはっきりするよな」
「伊佐巳、1つだけ、約束してくれないかしら」


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 ミオは真剣な瞳でオレを見ていた。その様子で、このプログラムこそがオレの記憶に直接関わるのだと直感した。
「プログラムを見るとき、このプログラムに関わらずどれでもだけど、絶対に1人では見ないで欲しいの。必ずあたしが傍にいるときに見るって、約束して」
「それは、このプログラムがオレの記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないから?」
「それは判らない。このプログラムの内容を見て、伊佐巳の記憶が戻るのか、それとも何も思い出さないのか、それはあたしにも判らないの。でも、もしかしたら、記憶が戻るだけじゃなくて、もっと違うことになってしまうかもしれない。たとえば、伊佐巳の記憶障害がもっと悪化してしまうかもしれないの」
 なんとなく、判った。オレの記憶には自分でも気付かない自己防衛が働いている。企業用の顧客管理プログラムについて思い出せたのは、それがオレの記憶に関わりのない、それをオレが思い出しても何の危険もないプログラムだったからだ。それが、もうひとつのプログラムは、思い出したら記憶障害が悪化するほどの危険性を秘めている。オレの無意識はそういう記憶をブロックして、簡単にアクセスできないようにしているのだ。オレの脳は危険な記憶とそうでない記憶とを分類して、オレ自身の精神の崩壊を予防しているんだ。
「わかった。約束するよ」
「ありがとう、伊佐巳」
 オレの好奇心は1秒でも早くこのプログラムを開いてみたいと訴えていたが、そう約束したからには、ミオがその時だと判断するときまで開かずにいられるだろう。確かにこのプログラムにはオレの感覚が拒否する何かがあるのだから。


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 食後はミオはでかけてしまったから、オレはまたパソコンに向かって文字を打ち始めた。文字を打っているオレの後ろで、もう1人のオレが見守っている。見守るオレは文字を解析しようとしていた。知識は間違いなくあるのだから、見ているうちに何か判るかもしれないと思ったのだ。
 画面はオレの想像以上にすばやくスクロールしてゆく。打ち間違いというものもなく、カーソルが戻ることはなかった。数字とアルファベットの羅列が最初はまったく読めなかったが、そのうちに少しずつ特徴が見えてきた。オレはどうやら16進法を使ってプログラムを作っているらしい。
 もっと判りやすい言語なら解析することもできるのかもしれないが、思い出せない上に16進法ではお手上げだった。打ち込んでいるときの気分が相当胸糞悪いことから考えると、このプログラムは先ほどオレが理解できなかったプログラムと同じか、その続きというようなものらしかった。
 連続した、同じ傾向のプログラム。それはいったいどういうものなのだろう。もともと1つのプログラムであったのなら分割する必要はない。違うプログラムならば、これほど似ている意味がない。
 オレはしばらく考えて、1つの答えに行き当たった。構成そのものはほとんど同じものだけれど、内容が少しずつ連続して変わるもの。それは教科書などによく見られる傾向だった。これはもしかしたら、教育に関わるものなのかもしれない。
 オレは誰かを教育する目的で、プログラムを組んでいたのか。
 その誰かがたとえば1人なら、プログラムなど組む必要はない。プログラムの最大の利点は、ディスクを大量にコピーできることだ。オレは不特定多数の人間を教育するためのプログラムを作っていたのだろうか。


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 ただ黙々とキーを打ちつづけるオレを見守りながら、もう1人のオレはプログラムの内容を見てみたいと思った。1人では見ないとミオに約束した。だったら、ミオがいるときに見ればよいのだ。
 もしも本当にこれが教育に関わるプログラムならば、15歳のオレが他人を教育するためのプログラムを組んでいたことは奇妙だった。おそらく原本のようなものがあって、それをデータに直すような仕事だったのだろう。だとしたらさっきの顧客管理も、学生を管理するためのものだったのかもしれない。オレは学校関係のプログラムを任されていたのか。
 無意識と意識の2分化を、知らず知らずのうちのオレは経験していた。キーボードを打っているのは無意識のオレ。それを見ながらあれやこれや考えているのは、オレの意識だ。いや、意識というのは少し違うかもしれない。なぜなら、このときのオレには外界からの刺激というものを一切受け付けていなかったのだから。
 無意識のオレと、意識と無意識の狭間にあるオレ。例えていうならばコンピュータとOSのようなものだった。OSのオレはコンピュータの内部を監視している。やがて、コンピュータ=無意識が作業を終えたとき、オレの意識(さしずめアプリケーションソフトか)が回復して、周囲の状況を認識し始めていた。
「……ミオ?」
「ここにいるわよ」
 無意識から意識への移行。それまでも幾度か体験してきたことだったけれど、こんなにはっきりと観察したのは初めてだった。同時に知った。オレの記憶が不自由なのは、無意識のエラーでも意識のエラーでもなく、その狭間、OSのエラーなのだということを。


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 オレはしばらくの間ミオの顔を見つめていた。あまり長い間そうして見つめつづけていたから、ミオは小首をかしげてみたり、照れたように微笑を浮かべたりしていた。しかしオレは実際のところミオの表情に心を奪われていたわけではなかった。オレの中にそれまでなかったはずの知識が蘇っていることに気付いて、知識の再点検作業をしていたのである。
 オレは自分の無意識を監視しながら、ごく自然にOSという言葉を使った。意識を取り戻して改めて記憶を辿ると、今まで理解できなかったコンピュータの内部構造のようなものが、自然に理解できていることに気付いたのである。このパソコンのソフトの使い方は今でも判らない。だが、もっと深い部分、MS−DOSの階層の原理などは理解できるのだ。
 いや、たぶん、オレは最初から知っていたのだ。オレの中にはこのパソコンの知識はないけれど、他のパソコンの知識がある。用語や使い方を思い出せないのは、思い出せないのではなく、知らないから。
 そうか。パソコンの技術は日々進化しているから、このパソコンに使われている技術を15歳のオレが知らなくてもあたりまえなんだ。
「ミオ、このパソコンのOSはウィンドウズっていうの?」
 オレが沈黙を破ったことで、ミオは幾分ほっとしたように見えた。
「OSという言葉は知らないけど、ウィンドウズって言葉なら知ってるわ。ええ、たぶんそうだと思う」
「それって、窓と関係ある?」
「あると思うわよ。ソフトが窓みたいに開くから、そういう名前になったみたい」
「オレはこのOSは知らないんだ。ってことは、オレが15歳だった17年前には、まだできていなかったってことなんだろうか」


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 パソコンのことをほとんど知らないミオにしてみれば、オレの質問はまるっきり理解できないものだったのだろう。
 ミオは困ったように苦笑いして、返事を濁した。
「あたしも少しパソコンを勉強した方がいいみたいね」
 どうやら、パソコンに関してはミオはまったく当てにならないようだった。オレは少し別のことを考えて、ミオに言った。
「オレはパソコンを扱ってみて、自分の記憶の構造がコンピュータにすごく似ていることに気がついたんだ。だけど、コンピュータに時間という概念はないだろ? どのソフトでもアプリケーションがありさえすれば、たとえどんなに古いデータだって開くことができる。そういう意味ではパソコンに記録されたデータは平等なんだ。そう考えれば、たとえばオレは15歳だけど、15歳以降の新しい記憶だって、15歳以前の記憶と同じように再生されるはずなんだ。なのにオレは15歳よりも前、実際には15歳前後の記憶しか思い出せない。それって、すごく不思議なことじゃないだろうか」
 オレの言葉を、ミオはかなり正確に理解してくれたようだった。
「伊佐巳のイメージはパソコンなのね。あたしはちょっと違うみたい。あたしの記憶に対するイメージって、言ってみれば物干し竿、なのよね」
「ものほしざお?」
「うーん、それが1番近い、ってことかな。伊佐巳が言った時間の概念ね、それが物干し竿で、記憶そのものは洗濯物みたいなもの。物干し竿は時間とともにだんだん伸びてゆくの。その竿には洗濯ばさみがたくさんついてて、記憶がぶら下がってるのね。ある程度時間が経つと、古い記憶は洗濯ばさみから外れて、下に山積みになっていくの。新しい記憶が古い記憶の上にどんどん積み重なってゆく感じかしら」

 

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