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「とにかく、目は大丈夫? かなり疲れてるんじゃない?」
オレはいったん目を閉じてみた。目を開けているときには判らなかったが、こうして目を閉じると眼球の奥に鈍い痛みを感じる。オレは急激に自分の疲れを意識した。なるほど、暗闇でパソコンをいじることは、オレが想像した以上に目を酷使することらしいのだ。
「……ほんとだ。疲れてる」
「お願い伊佐巳、あんまり無茶なことはしないで。伊佐巳の健康管理もあたしの仕事なの。規則正しい生活をすることが心にも身体にも一番の栄養なのよ」
ミオはオレの健康管理までも雇い主に命じられているのか。オレがゆっくり眠るためには、ミオには別室で眠ってもらうのが最大の栄養なんだけど。
再び目を開けたオレににっこり笑いかけると、気がすんだのかミオは箪笥の方に移動していった。オレは何とはなくミオの動きを目で追っていた。箪笥の前まで行ったミオは、それがまるで自然なことなのだというように、いきなりパジャマを脱ぎ始めたのだ。
オレは慌てて目を逸らした。いったいなんなんだよ。どうしてオレの見てる前で着替えを始めようなんて思えるんだ!
「伊佐巳、あなたもいつまでもパジャマでいるなんてよくないわ。伊佐巳の着替えは下の2段に入ってるの。自分で選べる?」
目のやり場に困って、オレは下を向いたままもごもご返事をした。自分の心臓の鼓動がやけに耳につく。まさかミオに聴こえてはいないだろうけど。
ミオはオレのことを、幼稚園児だとでも思っているのか。確かにオレは生まれたてのように何も覚えてない立派な記憶喪失だけど、肉体的には32歳で精神的には15歳の紛れもない男なんだぞ!
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文句はいろいろあったけど、でも自分からそういう話を切り出せるほどオレは大人ではありえなかった。ミオはミオで、オレが何も言わないでいてそういうことに気付くほど敏感だとは思えない。もしもオレの心の動きが判っているなら、目の前でこんなにあっさりと着替えたりはしないはずだ。
それとも、ミオは慣れているのか。下着姿を男に見せることに。男の前で脱ぐという行為に。
夢の男の言葉がオレの頭の中に根付いてしまっている。ミオのことを疑うまいと思っても、あの嘲笑が否定する。だけど気になる事実には変わりない。オレはミオのことをもっと知りたい。
「ミオ……」
目を伏せたまま、オレはつぶやいた。他に人のいないこの場所では、どんなに小さな声であろうと相手に届かないということはありえない。
「何? 伊佐巳」
「恋人が、いるの?」
「え……?」
オレが顔をあげてミオを見ると、ミオは目を丸くして沈黙していた。唐突過ぎたのは判ってる。
しばらく沈黙していたミオは、このまま黙っていても事態が1歩も進まないことに気付いたのか、やがて言った。
「いない、と思うけど。……でもどうして?」
「思う? 自分のことなのにはっきりできないのか?」
「そうね、ごめんなさい。恋人はいないわよ。好きな人ならたくさんいるけど」
「好きな人?」
「ええ。ものすごい重圧を抱えて戦いながら生きてる人。パパがいない間、あたしの父親代わりだった人なの。そのほかにも、命がけであたしたちを守ってくれる人とか、自分を殺して他人のために尽くしてる人とか、あたしの周りにはすごい人たちがいっぱいいるから。……でも、どうして?」
オレはミオの問いに答えることができなかった。
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ミオの周りには、ミオが恋をしてもおかしくないすごい男たちがたくさんいる。オレにいったい何ができるだろう。ミオを守ることができるのだろうか。その男たちと対等に戦うことができる男に、オレはなれるのだろうか。
オレはここでなにをしている。ただ守られて生まれたばかりの赤ん坊のようにうろうろしているだけだ。やらなければ。でも、何を? オレは何をするはずだった? オレにはこんなことをしてる暇なんかなかったはずだ。
オレは何かをしなければならなかった。記憶を失う前のオレは、何か重大なことをするために生きていた。何か、世界を変えてしまうような、人の運命を変えてしまうような何か。
「伊佐巳?」
このときオレは何かを思い出しかけていたような気がする。ミオに声をかけられるまで、目の前の風景は無機質な白い壁やミオの心配そうな顔などではなかった。それは白昼夢と呼ばれるものだったのか。混沌としていて、不気味で、どこか恐怖を誘う感じだけが我に返ったオレの脳細胞の隅に残されていた。
「どうしたの? 眠いの?」
そうか。オレは眠りに引き込まれていたんだ。オレの中の闇であるあの男に呼ばれて。
「……ごめん。話の途中だったよね。やっぱオレ、少し眠いみたいだ」
「朝から変な話だけどもう少し眠る?」
「いや、大丈夫。変な夢見そうだし」
今の白昼夢は、オレの記憶なのだろうか。本当にオレは重要な何かをやろうとしていたのか。それとも、それらは全て思い違いで、オレの中の焦りが形を変えて表面に現れただけなのだろうか。
ミオの回りの男達は、いったいどんな態度でミオに接しているのだろうか。
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「伊佐巳、ひょっとして嫌な夢を見たの?」
ミオはなぜこんなに心配そうな顔でオレを見るのだろう。そんな目でみるほどオレは頼りないのか。ミオの回りの男たちに対しては、ミオはきっとこんなに心配することはないのだろう。
オレは頼りない。オレは、ミオには男に見えていないんだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫だ。別にあんな夢くらい、ただの夢なんだから」
もしかしたらオレは少しつんけんしていたのかもしれない。ミオはオレに近づいてきて、オレの肩をいたわるように抱いたんだ!
「伊佐……」
「さわるな!」
反射的に振り払ってから後悔した。オレはミオを傷つけようとしたわけじゃない。だけどミオは驚いたように、悲しそうに、振り払われた手を戻すこともせずに立ち尽くしていた。
「……ごめん。なんでもない。ちょっと、いらいらして」
ミオがオレの態度をどう感じたのか、オレに知る術はなかった。
「……何か、気に障ったみたいね。あたしの方こそごめんなさい。……食事、運んでくるわね。先に着替えていて」
そう言って、ミオは部屋を出て行った。オレはミオが戻ってくる前に着替えてしまおうと箪笥の前まで行く。着替えながら考えた。どうやって伝えたらいいだろう。オレの苛立ち。オレがミオを気にしているということ。オレのことをちゃんと見て欲しいこと。オレは子供じゃない、15歳の健全な男なのだということ。
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ミオはしばらく戻らなかった。オレはミオに謝る準備を完璧に整えて待っていたから、その緊張感が少し緩んでしまっていた。だからトレイに載せた食事を持ってミオが現れたとき、オレは少しタイミングをはずしてしまった。その間隙を縫ってミオが言ったのだ。
「ごめんなさい、なんかあたし、伊佐巳のこと年下だと思いすぎてたみたい。お姉さんぶってしまって。……ごめんなさい」
オレは謝るタイミングと、ミオに自分の気持ちを伝えるタイミングとを、同時にはずしてしまっていた。
「……オレのほうが悪かったんだ。ミオは一生懸命心配してくれたのに」
具体的なことを何ひとつ口にできないまま、朝食が始まっていた。食事は質素極まりなかった。白いご飯と、タマネギだけの味噌汁、おかずといえるのはタマネギをカレー粉で味付けただけのものだ。オレはそれでも構わないが、育ち盛りのミオにはあまりに質素すぎるだろう。もう少しまともなものはなかったのだろうか。
「ミオ、昨日も思ったけど、ここではあんまり物資が充実してないのか?」
あまりおいしくもないのだろう。僅かずつ箸をつけながら、ミオは答えた。
「あたしにはなんとも言えないわ。伊佐巳が全てを思い出してくれなきゃ」
ミオはオレに対する態度を決めかねているように見えた。さっきの出来事がオレとミオとの距離を少しだけ遠ざけてしまっていた。
さびしいと思った。これなら子供扱いされていた方がいい。
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「ミオ。オレは君にとって守るべき存在なのか?」
ミオはオレを見つめたまま何も言わなかった。
「オレは今どんな状況に立たされてるんだ? 誰か、オレを害するような人がいて、ミオはそんな人からオレを守ろうとしてるのか? だからミオはオレに対して保護者のような立場になってしまうのか?」
そうだとも、違うとも取れるような表情で、ミオは沈黙を続けた。
「それって、もしかして君の雇い主の人……」
「違うの!」
オレの言葉を遮って、ミオは続けた。
「あの人はそんなこと考えてないわ。純粋に伊佐巳の記憶を取り戻したいと思ってる。伊佐巳のことを、本当に心配してるの。だから……そんなこと考えないで。あたしを信じて」
「何も教えてくれないで信じろって方が強引だと思うけど」
オレは引っ込みがつかなくなってしまっていた。だが、そんなオレの言葉に、ミオは少し態度を変えたのだ。
「……そう、かな。そうよね……」
もしかしたら少しは具体的な話を聞けるのかもしれない。オレは微かな希望を持った。そんなオレに、ミオは静かに話し始めた。
「雇い主のことについて、1つだけ教えてあげるわ。……彼はね、伊佐巳の身内なの。だから、伊佐巳のことが心配で、伊佐巳の記憶障害がすごく心配で、この部屋を用意して、あたしを雇ったの。彼は何年も前からこのことを計画してた。あたしは何度も彼と話し合って、伊佐巳の記憶をどうやって導いていくか、詳しく伝えられたの。だから……お願い、あたしと彼を信じて。伊佐巳のこと、1番心配してるのは、間違いなく雇い主の彼だってこと」
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ミオは雇い主のことを信頼している。ミオの言葉からオレが1番強く感じたのはそれだった。オレの中にそもそも最初からあった雇い主への不信感。しかし、ミオの言葉がオレの不信感を拭い去ることはなかった。オレの感覚が拒否しているのだ。もしかしたらそれは、ミオが雇い主を信頼しているという、そのことが原因だったのかもしれないけれど。
雇い主はオレの身内なのだと、ミオは言う。彼というからには男なのだろう。ミオの雇い主はオレにとってどういう存在なのだろう。兄弟か、父親か。誰か、オレのことを心配している人が、本当にいるのだろうか。
雇い主はミオの恋人なのかもしれない。ミオがオレのことを男だと思えないのは、オレが恋人の兄弟で、いずれ義兄弟になるからだとしたら。
オレの想像は絶望的な方角に向かって拡大してゆく。自分のことをほんの少しでも思い出せたなら、もっと自分に自信を持てるのだろう。
「その人のことを、ミオは好きなんだな」
オレの言葉には、ミオはなんの躊躇いもなく答えた。
「好きよ。ちょっと変わってるけど、あたしには優しい人だから」
「なら、彼がミオの恋人なんだ」
「……どうしたの? 今朝からそんな話ばかりだわ。伊佐巳は何が何でもあたしに恋人を作りたいみたい」
ミオの態度は、オレを子供扱いしていたあの時までのものに戻りつつあるように見えた。そんなミオにほっとしている自分を知った。矛盾していると自分でも思う。俺はミオに男として見てもらいたいのに、子供扱いされることを心地よく感じているんだから。
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ミオに言われなくても判ってる。オレが言ってることは、さっきからおかしなことばかりだ。オレが本当に知りたいのはミオに恋人がいないこと。オレがミオを好きになっても、報われる可能性があるってことだから。
ミオのことを好きなのかどうか、自分ではよく判らない。なついてるだけかもしれない。ここにはオレとミオしかいない。もしも他にも女の子がいたら、オレはミオじゃなくその娘を選んでいるのかもしれない。
だけど、今ここにいるのは、本名も判らないミオという女の子ただ1人なんだ。
「恋人はいないのか? 本当に?」
「残念ながらね。今のところそんなに欲しいとも思わないけど」
「でも、好きな人はいるんだろ?」
「たくさんいるけど、恋人になりたいような人はいないわね」
本当か嘘かわからないけど、オレはかなりほっとしていた。
「だったら、1番好きな人は誰? 雇い主の男か?」
「それなら決まってるわ。あたしの1番好きなのは、世界にたった一人、あたしのパパ」
そう言った時のミオの表情を、オレはしばらく忘れることができないだろう。
ミオはオレの目を見ていた。まっすぐな視線で、でもけっしてオレ自身を見てはいなかった。ミオが見ていたのは、オレを通り越したその先。おそらくオレの後ろに幻として存在していたのだろう、彼女の父親だったのだ。
ミオは父親を愛している。彼女の愛情はその深さにおいて誰に恥じることもないだろう。オレは知っていたはずだった。彼女の愛情の全ては、今、父親の存在に注がれているのだ。
恋人を探している余裕なんか彼女にはないのだ。ミオは今父親に会うことだけで精一杯。たぶん、オレが入り込む隙間なんかないのだろう。
オレのことを本気で考えることなど、今の彼女に出来るはずがない。
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「ミオにとっては、パパが恋人なんだ」
「そうかな。……あたしはたぶんファザコンなのね。将来パパみたいな人と結婚したいの」
ミオの父親。オレの想像力はあまり働かなかった。
「ミオのパパはどんな人?」
ミオはしばらく考え込んでいた。
「……人に説明しようとすると難しいわね。何でもできて、何でも知ってて、誰にでも頼りにされる人。パパはあたしの自慢のパパなの。優しくてね、でも考え方とか行動とか、絶対矛盾してなかった。ちょっと子供っぽいところとかもあって。それに若いのよ。まだ30台だし」
話を聞いているうちにオレはどんどん落ち込んできていた。ミオの恋人になろうとするなら、オレはその男を超えなければならないのだ。まだ30台? 冗談じゃない。オレだってもう32歳なんだ。
「そんなすごい人もいるんだな。オレがあと何年か経って、ミオのパパと同じ年になっても、そんな風にはなれそうもないや」
「それは判らないわよ。伊佐巳はまだ15歳なんだもの。いくらでもすごい人になれる可能性はあるわ」
「オレはもう32歳なんだろ?」
「それは肉体年齢でしょう? 可能性って、精神年齢が決めるものだと思うわ。今の伊佐巳は15歳で、その可能性は15歳の男の子の可能性じゃない。伊佐巳には16歳のあたしよりも1年分多い可能性が広がっているのよ」
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ミオが言っていることが、オレには理解できなかった。
「それって、どういうこと?」
「うーん、あたしも受け売りなのよね。……つまり、肉体年齢と精神年齢が一致してる人間なんて、世の中には数えるほどしかいないのよ。たとえば、あたしは13歳のときにパパと別れて、それ以来パパとは1度も会ってないの。だから、パパに関するあたしの精神年齢は、13歳のままで止まってしまってるんだわ。もしも今パパと会ったら、あたしはたぶん13歳の頃のあたしに戻ってしまうと思う。伊佐巳も同じなんじゃないかしら。伊佐巳は記憶をなくして、15歳という年齢を選んだけど、それは伊佐巳の精神年齢の何かが15歳で止まってしまったからじゃないのかな。だから伊佐巳は15歳の今から始められるの。止まってしまった時間を動かして、少しずつ16歳になって、17歳になって、最後には肉体年齢と一致させる。その間の可能性は、15歳の男の子のもので、けっして32歳の大人の人のものではないんだわ」
15歳のときにオレがなくしてしまったもの。
15歳のときにオレが止めてしまった時間。
記憶をなくしたオレは、その15歳の時間を取り戻すためにここにいる。そのときのオレが成長させられなかった自分の中の何かを見つけるために。
それを探さなければ、もしかしたらオレの記憶は戻らないのかもしれない。漫然と時を過ごしているだけでも、一生懸命記憶だけを思い出そうとしても、それがなければオレはずっと不完全なままなのか。
15歳のオレの可能性はどんな未来につながっているのだろう。もしかしたら、ミオの恋人になれる可能性だって、ゼロではないのだろうか。