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オレはミオが興奮気味に話している理由があまりよく判らなかった。しかし、それがオレの記憶喪失の最大の謎であることは判る。そもそもなぜオレは15歳なのか。ただ記憶を失っただけならば、何歳でもよかったはずだ。たとえば32歳だって、たとえば10歳だって。
オレは全ての記憶のない状態で目覚めたのだ。下手したら産まれた直後の、言葉すらしゃべれない状態になることだってありえたのだから。
そうなんだ。オレの全ての感覚が15歳である必要だってない。オレの人生の中には、消灯が8時だったり11時だったりした時だっておそらくあったのだから。
「ミオ、オレの今は、本当に全部そのときのものなのか? 他の……たとえば、コンピューターの知識なんかも、そのときの記憶なのか?」
「そうね、それも話さなきゃ。伊佐巳が一番本格的にコンピューターをやっていたのは、最初の引越しの前だったの。引っ越してからも毎日やってたわ。でも、2度目の引越しのあとはしばらく離れてしまう。……さっき伊佐巳が作ったゲームは、1度目の引越しのあとに作ったものだと思う。なぜなら、伊佐巳が作ったゲームって、あたしが知ってる限りではたった1つだけなの」
「そのときも動かなかった?」
「いいえ。ちゃんと動いたはずよ。あたしはゲームの内容も聞いてるもの」
「その内容は教えてもらえないのかな」
「伊佐巳がどうして判らないのかが不思議だわ。アルファベットも数字も、全部伊佐巳自身が打ち込んだものなのに、どうして自分で判らないの? 文字の並び方を思い出すことができるのに、どうしてその意味を思い出せないの?」
それは、オレの方こそが教えてもらいたかった。
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たぶんオレはこの一連の会話にうんざりしたような顔をしていたのだろう。気分を変えるように、ミオは明るい表情になって言った。
「なんだか頭が痛くなっちゃいそうね。……消灯が12時なら、あと2時間くらいか。ねえ、伊佐巳、何かゲームでもしましょうか」
オレは驚いてミオを見た。ミオは父親と会うためにできるだけ早くオレの記憶を戻したいのだろう。ゲームなどで時間をつぶしていいのだろうか。
「今、この部屋にあるのは、紙と鉛筆くらいね。それだけで2人でできるゲーム、伊佐巳は知らない?」
ああ、そうか。オレの記憶はどんなきっかけで戻るかは判らないのだ。ゲームをすることが無駄にならない可能性だってある。
オレは紙と鉛筆でできそうなゲームを思い出そうとした。しかし、オレの中にもともとそういうデータがないのか、単にオレが思い出せないだけなのか、頭の中には何も浮かんで来なかった。
「知らない、らしいな」
「そう。……じゃあ、折り紙でもしない? さいわい紙ならたくさんあるの。千羽鶴だって折れそうなくらい」
折り紙……と聞いても、オレにはそれがなんなのかまったく判らなかった。
「折り紙、って?」
今度はミオのほうが驚いた顔をした。
「折り紙を知らない? 伊佐巳、あなたいったいなに人なの?」
「日本人……だと思うけど」
「32年間も日本人をやってきて、折り紙を知らないなんて、ものすごく恥ずかしいことよ! ……決めた。あたし、伊佐巳に折り紙を完全にマスターさせるわ」
オレはなぜミオがそんなことを言い出すのか、さっぱり判らずにいた。
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ミオは立ち上がって、さっき紙を取り出した引出しから、同じ紙を2枚出して持ってきた。それらをテーブルの上に置く。折り紙というものは判らないが、そういうからにはこの紙を折って何かをするのだろう。オレが何も判らずにいると、ミオは言った。
「それじゃあ、伊佐巳。この2枚の紙を、それぞれ正方形に切ってください」
まるで幼稚園児を扱うようだな。まあ、実際オレはほとんど生まれたばかりといってもいいくらいなのだけど。
仕方がないので、オレは2枚の紙を互い違いに重ねて、はみ出した細長い部分に折り目をつけて切り取った。
かなり大きな正方形の紙が2枚出来上がった。
「ありがとう。……では、まずはこの紙を3角形に折ってください」
にこやかにミオは言い、2枚のうちの1枚で紙を折り始めた。オレもミオの真似をしてもう1枚の紙でミオの言う通りに折っていった。いったいこれでなにを作ろうというのか。オレはミオに聞いてみた。
「ミオ、先に教えてくれ。オレはなにを作ってるんだ?」
「その説明がまだだったわね。今作ってるのは折鶴よ。鶴」
信じられなかった。この四角い紙が、本当に鶴になるというのだろうか。
「鶴、って、あの、飛んでる鶴だよね」
「そうね、飛んでる形に近いかしら。まあ、できてからのお楽しみよ」
折り進むうち、最初は同じだった筈のオレとミオの紙は、だんだん別のものになっていった。ミオはものすごくきれいに作るのに、オレの紙は折れば折るほど変に歪んでいくのである。やがて完成することはしたが、オレが折ったものはほとんど紙のかたまりとしか思えなかった。ミオのはちゃんと鶴に見えるのに、オレのを見て鶴を連想する人間はいないだろう。
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「初めて折ったんだもの。誰だって最初の鶴はこんなものよ。そんなに暗くならないで」
オレの中にむくむくと悔しさが湧きあがってきた。ミオはあんなに簡単に折ることができたのに、倍の人生を生きているはずのオレが折った鶴はまるで幼稚園児のいたずらだ。ミオは32年も日本人をやっていて、折り紙を知らないのは恥ずかしいことだと言ったじゃないか。おそらく折り紙は日本人なら誰でもできることなのだ。誰でもできることがオレにできないなんで、オレのプライドが許さなかった。
「ミオ、オレはいったい何が悪かったんだ? どうしてこんなにミオと違ったものになったんだ?」
「そうね、一番大きいのは、角をちゃんと合わせてなかったことよ。角をきちんと合わせて、折り目をしっかりつければ、それだけでずいぶんきれいに見えるものよ」
「もう一度やってみる」
オレは今度は自分で引き出しの中から紙を少し多めに持ってきた。今度は2枚重ねたりせず、最初に三角形に折ったあと、はみ出した部分を切り取って正方形にする。オレの記憶力は割にいい方らしく、折り方の順番は既に頭に入っていた。二つ目の鶴は、ミオが折った鶴にかなり近い形にまでなっていた。
「ほら見ろ。オレはやればできるんだ」
なんだか得意になってオレは折ったばかりの鶴を目の前に掲げた。ミオはなにがおかしかったのか、くすりと笑った。
「さすが。伊佐巳の辞書に不可能はないわね」
「もう1つ折ればもっときれいにできるよ」
「でも、この大きさでこれ以上作るのはあんまりだわ。今度はもっと小さな紙で作らない?」
確かに、オレが今折った鶴は羽を広げたサイズが30センチもありそうな、巨大なしろものだった。ミオが折った1羽とオレが折った2羽だけで、テーブルの上はほとんど占領されている。
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「ねえ、伊佐巳。この紙をできるだけ無駄にしないようにたくさんの正方形にするとしたら、どうやって切ればいいかしら」
まるでクイズを出された気分だった。オレは少し考えて、言った。
「この紙は短い方の長さを1とすると、長い方は1.414……になるから、整数比だとおよそ5:7になるんだ。だから、短い方を5分の1にして、長い方を7分の1にすれば、だいたいだけど正方形になると思うよ」
「1枚で35枚の正方形ができる、ってことね。だったら、正方形の紙を1000枚作ろうと思ったら、紙は何枚必要になる?」
「28枚で980枚できるから、あと1枚使えば1000枚になるかな。でも、どうして1000枚なんだ?」
「折鶴はね、1000羽作ると願いがかなうの。1枚1枚に想いを込めて、1000羽作って、糸で繋げてね、病気の人のお見舞いや、がんばっている人の応援の意味を込めてプレゼントするの。千羽鶴、って言うのよ。これから毎日少しずつ、千羽鶴を折っていかない? 伊佐巳の記憶が早く戻るように」
ミオはオレを振り仰いで、いたわるように見つめながら言った。そうか、ミオも多分、願いを込めたいのだ。離れている父親が元気でいるように。1日でも早く父親に会えるように。
鶴を折るだけでオレの記憶が戻るとは思えない。でも、それがミオの願いならば、オレはかなえてやりたいと思った。
「1000羽の鶴か。……気が遠くなりそうだ」
「そうかな。2人で1日10羽ずつ折れば、たったの50日で終わるのよ。けっして折れない数じゃないわ」
「そうだね」
もしもこの鶴が1000羽になったとき、オレの記憶は戻るのだろうか。オレが生きてきた時間の全てを取り戻すことができるのだろうか。
このときオレは、自分の記憶の中に潜む不吉な可能性については、まったく思いもしなかったのである。
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暗く、ぼんやりしたところを、オレは漂っていた。
再びオレはここに戻ってきた。夢の中。オレの記憶が沈殿した無意識に通じる唯一の通り道。相変わらず右も左も判らなかったが、オレは自分が下だと思う方向に向かって、静かに移動してゆく。風景は変わらないから本当に移動しているのかどうかは定かでない。だが、この場所のどこかに、オレの記憶は眠っている。記憶の全貌を直接見ることができるとしたらここしかないとオレは思っていた。
不意に、なんの前触れもなく、暗闇が揺れた。
あいつがくる。オレに嘲笑を浴びせ、オレの神経のささくれを際立たせるために存在する、あいつが。
「よお、少しは何か思い出せたのかよ」
靄のようなものから顔だけを出現させて、奴が言う。オレの悪意。オレの闇。奴に勝てなければオレは永遠に記憶を取り戻せない気がした。闇よりも強い光を持たなければ、オレはいずれ奴に飲み込まれてゆくだろう。
「オレの名前は伊佐巳だ。32歳になる。だからオレはてめえとは違う。てめえの名前を教えろ」
奴の顔は、オレをバカにし切ったような歪んだ表情で笑った。
「お前はそれを思い出したんじゃねえ。あの女に聞いただけだ。あの女……ミオ、とか言ったな。誰にでも媚を売るあばずれ女だ」
ミオのことを言われて、オレはカッと頭に血を上らせた。
「ミオはお前が気安くどうこう言えるような女の子じゃない! 訂正しろ!」
「必要ねえな。だいたいお前、あの女のこといったいどれだけ知ってるってんだよ。あの女が今まで何人の男とヨロシクやってきたか、どんなアブノーマルセックスしてきたか、てめえはなにを知ってんだよ。イった時の声なんかすげえぜ。こっちが白けちまうくらいな」
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「うるせえ! 黙れって言ってんだ!」
オレに腕があったなら奴を殴り倒していたところだ。身体があるなら、ぶるぶると怒りに震えていることだろう。聞いているだけでミオを穢している気がした。いわれのない汚名であることは判っていても、いや、本当はオレがそう信じているだけなのだ、というわずか1パーセントの汚点のようなものがオレの中に染み込んでしまった。こんなただの顔の言うことで自分の気持ちが揺れることが腹立たしかった。
「てめえはなーんにも知らねえんだよ。自分がどんだけあくどい事を重ねてきた社会のクズだったか、ってこともな。ほんっと、幸せな奴さ。何もかも思い出さねえでいられんだからな」
しっかりしろ。これは夢だ。夢の中では願望も不安も全て実現する。こいつが口にしていることは全てオレの不安が生み出した幻想だ。ミオのことも、オレのことも、無意識のオレが不安に思っているからこそ、この男が口にするのだ。
こいつはオレの無意識の恐怖を糧にして存在している。だとしたら、オレが自分の中の不安を消し去り、自分自身を信じることができれば、この顔は存在できなくなるはずだ。
「オレの悪事だと? そんなものがあるなら言えるはずだ。オレは今までどんな悪事を重ねてきた」
男は無気味に笑っただけで何も言わなかった。
「それみろ。てめえにはオレの悪事なんて、ぜんぜん判っちゃいねえんだ。知ってたら言える筈だ。どうした。答えろよ」
目を細めて、男は笑っていた。以前にも感じた男に対する恐怖が蘇る。この恐怖も全て幻想だ。こんな奴を恐れる必要なんて、オレにはない。
「ふふふ……。そんなに知りてえのか? だったら教えてやるよ。……お前は、**********だったんだ」
男の言葉を聞き取ることができなかったのは、オレの無意識の恐怖か。
その瞬間、オレは再び目を覚ましていた。
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目覚めた瞬間は自分のいる場所を把握することができなかった。夢の中とほとんど変わらない暗闇があたりを包んでいる。しかし、現実であるとはっきり感じられる空気はあったし、夢とは決定的に違い、オレは自分の肉体を持っていた。徐々に周囲に目がなれてくる。あたりはほぼ完全な暗闇だったが、自分がベッドに寝ていることや、明かりのついている時に見ていた部屋の状況などは、確認することができた。
オレの夢はオレの記憶を元にして作られている。だから、オレが知らないことが夢に出てくることはありえない。夢から覚める直前にあの男がなんと言ったのか、おそらくオレは聞き取れなかったのではなく、知らなかったのだ。オレが何者であるのかオレは知らない。だから、オレの記憶から作られた夢の住人であるあの男も、オレが何者なのか知っているわけはないんだ。
思わせぶりなあいつの態度は、オレの不安が具現化したものだ。ミオを悪く言ったのも、オレが無意識に恐れていたことを言い表したに過ぎない。オレは、ミオがあいつの言うようなあばずれであって欲しくないと思っているのだ。オレはミオに、そういう方向での興味を抱いている。
ふと、気配に気付いて振り返ったまま、オレの思考は止まってしまった。オレの視線の先にはミオがいた。ミオは、オレと同じベッドの上で、健やかな寝息を立てていたのだ。
(……嘘だろ)
しばらくオレは自分の目を信じることができなかった。確かにこの巨大なベッドは2人の人間が互いに干渉し会わずに横になることは可能だ。だけど、だからと言って、16歳の女の子が32歳の男のベッドで寝るか普通!
空気の振動がオレ自身の鼓動を伝えてくる。それまでのベッドの寝心地はけっして悪くはなかった。だけどそれは、隣にミオがいることを知らなかった時までだ。この巨大なベッドは、今のオレには眠るのに最悪の場所と化していた。
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夢の中の顔が言った言葉を思い出す。試してみたくなる。あの男の言葉が真実であるのか。
オレがあんな奴の誘惑に乗せられてどうするんだよ。
あいつはもしかしたら、オレと一体化したいだけかもしれないのだ。オレがあいつの言葉をまに受けたら、オレという人格はあいつに乗っ取られるかもしれない。どんな理由でも構わない。あいつの言うことは1つも信じてはいけないんだ。
これ以上ここで眠ることなんか、オレにはできそうになかった。だからと言ってこんな暗闇の中で何もせずにいたら、オレは夜が明けるまでずっと、ミオの寝息に悩まされつづけるだろう。明かりをつけてはミオを起こしてしまう。しばらく考えて、オレは暗闇の中、手探りでパソコンに向かった。
スイッチを入れると、わずかな音とともに画面があたりをぼんやりと照らし出す。その明かりを頼りに椅子を探し、パソコンの前に座った。オレが思った通りだった。オレはすぐにミオを忘れることができた。
何かをしたいと思うとオレは何をするにもどうしたらいいか判らなかったが、何も考えずに座っていたらやるべきことは自然に身体が覚えていた。自分の指が次々と画面を変えてゆく様を見ながら、もう一人のオレはそんな自分の行動を観察する。空手のときと同じだった。オレの肉体は完璧にコンピューターの操作を覚えているのだ。
数字とアルファベットと記号。オレは打ちつづけながら、その意味を思い出そうとした。しかし、肝心なことは何も思い出せない。その記号の意味も、オレがいったいなにを作っているのかも、全てはオレの指以外記憶しているものはないのだ。
オレは失望を抱えながら、まるでオレ自身が1つのコンピューターになってしまったかのように、無機質な記号を打ちつづけていった。
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どのくらい、オレはキーボードを打ちつづけていたのだろう。
我に返ったのは、耳元で聞こえるその声が伝えてくるのがオレの名前なのだということに気付いたときだった。
「伊佐巳! ちょっと伊佐巳! あなたいったいなにしてるの!!」
半分朦朧としたように、オレは声のする方を振り返った。顔を見てもしばらくは誰だか判らなかった。怒ったようにオレを睨みつけているのがミオだと知って、オレは自分が何をしてミオに睨まれているのか、朦朧とした頭でしきりに考えていた。
「伊佐巳! あなた……いったいどのくらいの時間こんなことしてたの! まさか眠ってないんじゃないでしょうね!」
ああ、そうか。ミオはオレがパソコンに夢中になっていたことを怒ってたのか。
部屋の中には明かりがついている。おそらく、時間的にはもう朝なのだろう。振り返って画面の時刻を確認して、今が午前7時過ぎなのだと知った。
「あ、ええっと、眠ったことは眠った。夢も見たし」
「起きたのはいつ? 5時? 6時?」
「……ごめん、確認してない」
ミオはどうしてこんなに血相変えて怒るのか。確かにオレの睡眠時間はそれほど長くなかったかもしれないけど、この程度のことで今すぐどうなるというものでもないのに。
「まあ、慣れないベッドであんまり眠れなかったかもしれないのはしょうがないと思うわ。だいたい伊佐巳は昨日の夕方まで眠ってたんだもの。でも、明かりもつけないでパソコンをやってるなんて、あなた自分の身体を何だと思ってるのよ! こんなに身体に悪いことないわ!」
なるほど、ミオはオレが暗闇でパソコンをやっていたことが気に入らなかったらしい。
だけど、ミオが眠っているあの状況で、オレにあれ以上の何ができたというのだろう。