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オレの記憶は消えてしまった訳じゃない。必要なアプリケーションがなければ開けないファイルのように、脳内のフォルダの奥で時を待っている。そうか、記憶の仕組みは、コンピューターとかなり似ているのかもしれない。当然か。そもそもコンピューターは、人間の脳に似せて作られているんだから。
「伊佐巳?」
オレが自分の考えに囚われてしまっていたせいか、ミオは心配そうに声をかけた。
「ああ、なんでもない。……このプログラムはたぶんゲームだと思う。だけどこのままじゃ動かない。動かないことは判るんだけど、それがどうしてなのか、今のオレには判らないんだ」
オレの言葉は、ミオには不思議に映っただろう。
「打ち込んだ文字を思い出して、それがゲームだってことも判るのに、何が原因で動かないのかが判らないの?」
「うん、そうなんだ」
「どうして?」
「今、オレが思い出したことは、この膨大な文字の並び方だけなんだ。だからオレは頭に浮かんだ文字を打ち込むことはできても、打ち込んだものが何を意味してるのか、それが判らない。もしもひとつひとつの文字が何を意味してるのかが判れば、動かせるように直すこともできるようになると思う。それも一緒に思い出せればよかったんだけど」
オレはいつのまにか、自分の記憶が戻らないことへの焦りやもどかしさを、それほど感じなくなっていた。
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オレの記憶のデータは今でもオレの脳の中に眠っている。
きっかけさえあれば、オレはそれを思い出すことができる。
その考えは、オレの気持ちを楽にしてくれた。なぜなら、きっかけを与えつづければ、いつかオレの記憶の全ては戻るはずだったから。
「おなか、すいたでしょう? こっちへ来て一緒に食べない?」
まるで子供にでも言い聞かせるように、ミオは言った。そういえばミオはオレが目覚めたときからずっとそんな態度を取り続けている気がする。そんなミオの態度を、オレも自然に受け入れていた。彼女のことを年上だと感じたあの感覚が、オレに不自然さを感じさせなかったのかもしれない。
ミオはオレが気付くのをずっと待っていたのだろう。おそらく自分ひとりで食事をとることもなく。
「そうだな。……ごめんね、ずいぶん遅くなっちゃって」
「あたしはいいの。ただ、あんまり根を詰めると、伊佐巳の方が壊れちゃうわ。何もかも急に思い出したりしたら、脳みそがショートしちゃうかもしれないもの」
オレは容量不足でフリーズしたパソコンの画面を思い浮かべて、ちょっとおかしくなった。
23
夕食はチャーハンだった。全体的に赤い色をしていて、よく見るとコンビーフが入っていることが判った。その他の具はタマネギだけだ。そのシンプルさはオレに、さっきの風呂場での出来事を思い出させた。
あくまで想像でしかなかったが、もしかしたらここはかなり物資が不足しているのかもしれない。それとも、オレの記憶の糸口になる何かがあるのだろうか。たとえば、記憶を失う前のオレの生活が、この部屋の質素さと共通するほどの貧乏だったとか。
味付けもざっくばらんだったが、味の方は見た目ほどは悪くない。いや、むしろおいしいとさえ思った。もしも過去にこのチャーハンを食べたことがあるとすれば、そのときもオレはこのチャーハンをおいしいと感じただろう。
「冷える前に食べたかったな。これ、うまい」
ミオは自分の食事にはあまり匙をつけずに、オレの食事風景を眺めていた。
「そう? あたしはもう少しコンビーフが少ない方がいいと思うけど」
「これはオレが前に食べたことがあるものなのか?」
「そういう質問には答えられないわよ。自分のことなんだもの、自分で思い出そうよ」
これは記憶をなくす前のオレの好物だったのかもしれない。だとしたら、オレはこのチャーハンをどこで食べていたのだろう。誰かに作ってもらったのか。それとも自分で作っていたのか。オレには、食事を作ってくれるような家族がいたのだろうか。
食卓と家族。オレの向かいに座っていたのは、いったい誰だったのだろう。ミオ……だとしたらかなり不自然だ。16歳の年齢差は、夫婦とも、親子とも、兄妹とも当てはまらない。
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叔父と姪。下宿人と大家の娘。ようやく匙をつけ始めたミオを見ながら、オレはミオとの関係を様々に想像した。友人の娘。再婚同士の連れ子。教師と生徒。義理の親子。
『義理の親子は結婚できないんだよ』
不意に、頭の中にフレーズが浮かんできた。初めてだった。初めて、記憶らしい記憶がよみがえったのだ。
「誰……だ?」
そう、声に出したオレに、ミオは不思議そうな表情を向けた。
「どうかしたの?」
「今、誰かの言葉を思い出した。誰かが言ったんだ。義理の親子は結婚できない、って」
そうだ。オレの目の前には誰かがいた。誰か……。たぶん、女の子だ。
ミオ、なのか? ミオがオレにそう言ったのか?
「他には? 何も思い出さない?」
「……ごめん、判らない。そう言ったのが女の子かもしれないって漠然と思うけど」
「義理の親子は結婚できない、か。伊佐巳が今15歳だとすると、あの人かもしれないわ。ちょっと待ってて」
ミオは箪笥のところへ行って、引出しから1枚の紙を取り出して戻ってきた。あの箪笥にはあんなものまで入っているのか。
「伊佐巳はね、15歳の頃に3回、引越しをするの。ちょっと書いてみるわね」
ミオは鉛筆で、紙に1本の線をひいた。その中ほどに印と、「引越し1」の文字を書く。その隣にもうひとつ印と「引越し2」の文字。更に隣に「引越し3」。簡単だったが、それはどうやらオレの年表らしかった。
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「この後にも何回か引越しをするけど、とりあえずそれは置いておくわね。最初の引越しから2回目の引越しまでの間は2週間もなかった。そのあとも同じくらいで伊佐巳はまた別のところに引っ越してしまうの。この2回の引越しで、伊佐巳はそれぞれ別の人と出会うことになった。伊佐巳にとっては2人ともとても印象的な人よ。あたしは伊佐巳がその人たちと交わした会話までは詳しく知らない。でも、たぶんさっきの言葉は、その2人のうちのどちらかが言ったんだと思うわ」
15歳のオレ。今のオレが思い出したその言葉が、15歳のオレが聞いた言葉なのだとしたら、発言者は少なくともミオではない訳だ。
「本当に? もしかしたら最近のオレが聞いた言葉かもしれないじゃないか」
「可能性はあるわね。でも、「義理の親子が結婚できない」なんて、普段誰でも使う言葉じゃないわ。伊佐巳が今まで出会った人のデータはあたしほとんど持ってるの。それらと照らし合わせると、こんな言葉を使いそうな人って、この2人くらいしか考えられないのよ」
ミオの言葉に、オレはなんだか顔が赤くなってしまった気がした。なぜなら、オレがこの言葉を思い出したきっかけは、ミオとの関係をいろいろに想像しながら、「結婚」を頭において考えていたからなのだから。
「2人とも、女の子だった?」
ミオはちょっと困ったような表情を見せた。
「うーん、できればそういう確認はしないで欲しいな。今回はあたしが教えちゃったようなものだけど」
ミオはもしかしたら雇い主からいろいろな制約を受けているのかもしれないと、オレは思った。
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ミオを雇った人間は、いったいオレに何を思い出させたいのだろうか。オレの中に眠っている、32年分の膨大なデータ。その多くの経験の中に、ミオの雇い主が必要とするデータがあるのかもしれない。オレのそれまでの記憶を奪い、ミオを雇ってまで思い出させようとする重要な何かが。
その記憶は、オレやミオにとって、いったいどんな意味を持つものなのだろうか。
「伊佐巳、もう食べないの?」
気がつくとオレは呆然と意識の中に沈みこんでいた。皿の上には最後の一口が残ったチャーハンがある。
オレはその一口を掻き込んで、ミオを振り仰いだ。
「……ちょっと、考えてた。ミオを雇った人は、オレの記憶を取り戻すためにこんなに広い部屋を用意したり、ミオを雇ったりしてる。そこまでするのは、そいつにとってオレの記憶が必要だからってことだろ? なあ、ミオ、教えてくれ。オレの記憶にはいったいどんな秘密があるんだ?」
ミオは一瞬目を丸くしたけれど、やがて小さく笑った。それはまるっきり年下の男の子に対するほほえましさをあらわしたような表情だった。
「秘密なんかないわよ。あたしが聞いていた伊佐巳の経歴は、本当にごく普通のものだもの」
「だけど! 君が知らないだけかもしれないじゃないか」
「そうね。……だったら、もし万が一、そういうことがあって、伊佐巳の身に危険が及ぶようなことがあったら、あたし、精一杯伊佐巳のこと守るわ。だから、あたしのことを信じて」
そういったミオは、オレが今まで見てきたどんなミオとも違う、少女のはかなさの中に強さを秘めた、女戦士のように見えた。
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まるで意外だった。オレは今まで、ミオは普通の16歳の少女なのだと思っていた。ごく普通の家庭に生まれ、両親の愛情に包まれたごく普通の幼少期を過ごし、少し前まではごく普通に高校に通っていただろう、どこにでもいる16歳の女の子。オレの世話のために雇われてからは学校へは行っていないのかもしれないが、これまでの彼女を見ていて、普通の少女と何かが違うという印象はオレは持たなかったのだ。
だけど、今の彼女は違った。
彼女は、確かに戦士なのだ。彼女の心は戦う者のそれなのだ。どこがどう違うと言葉に表すのは難しいかもしれない。ただ、ミオの傍らにはいつも戦いがあり、戦いに慣らされ、戦いに傷つけられてきたのだ。
オレにはそれが判る。おそらく、オレも戦う者だったからだ。オレの身体は戦いに慣らされ、そして精神は戦いに傷つき鍛えられている。
ミオの、オレを守るという言葉には、過剰ではない自信が見え隠れしている。
「オレを、守ってくれるのか?」
「おかしいかな。こんな小娘にこんなこと言われたら、プライドにかかわる?」
ミオの言う通りかもしれない。だが、オレはその言葉に安らぎの心地よさを感じた。
「ちょっと意外だった。そんなにオレは頼りないかな」
「それはないわよ。状況を何もかも理解してる伊佐巳なら、これほど頼りになる人はいないわ。でも、今の伊佐巳は言ってみれば生まれたばかりの子供と同じだもの。どんな大きな木だって最初は小さな双葉から育ってゆくのよ」
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本当にミオの言う通りだとしたら、オレはこの32年間を無駄に過ごしてきた訳ではないということだ。生きてきた過程で最初に本当の記憶を奪われたときも、オレは地に足をしっかりつけて、自分の力で歩いてきた。
今のオレにそのときと同じことができないはずはない。オレは必ず、この困難も克服できるはずなんだ。
「ミオ、差し支えない範囲で、君のことを話してもらうことはできない? 君の生い立ちとか、家族の話とか」
ミオはちょっと困ったようだった。
「そうね、……どこまでなら話せるかな。あんまり伊佐巳の記憶を刺激するようなことは話してはいけないことになってるのよね」
オレが思った通り、ミオはオレとの会話について、雇い主からかなりの束縛を受けているのだ。
「それは、オレとミオに過去のかかわりがあったってこと?」
「伊佐巳、それって誘導尋問よ。お願いだからあたしから情報を引き出そうとしないで」
そんなつもりで言ったのではないのだが、オレはひとつ頷いた。
「家族のこと、か。……あたしね、パパがいるの。もう3年くらい会ってないんだけど」
具体的な話を始めたミオに、オレは気持ちが高ぶるのを感じた。
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「あたしはね、男手ひとつで育てられたの。ママはあたしが生まれる前に死んでしまったから。あたしの世界にはパパしかいなくて、パパと一緒にいるときが一番好きだった。……3年前だわ。あたしがパパと引き離されてしまったのは」
話している間中、ミオはなんとも切なそうな、遠い目をしていた。オレはミオの言葉の重みを感じた。きっと、言葉にあらわすことができないくらい、ミオは父親を愛していた。
「それで? 父親の居所はわからないのか?」
「だいたいは判ってるわ。でも、今は会うことができないの。……こんなこと、言ってもいいのかな。もしもね、あたしが伊佐巳の記憶を取り戻すことに成功したら、あたしを雇ってるあの人は、あたしとパパを会わせてくれるって、約束したの。パパを自由にしてくれる、って」
ミオの父親は拘束されている。やはりオレが思った通り、ミオを雇っている人間は悪人なのだ。
オレの記憶が戻れば、ミオは父親に会うことができる。最愛の父親に。
オレの記憶を取り戻すことは、それほど簡単な仕事ではないのだろう。下手をすれば数年単位の時間がかかるのかもしれないのだ。オレに会うまでの時間にミオはオレの人生の全てを記憶した。かなりの労力と時間を必要とする仕事なのだ。
そこまでしてもミオは父親に会いたいのだ。もしもオレの記憶が戻ったら、ミオはもうオレなど見向きもしないで父親の元へと走るのだろう。
オレの記憶が戻った瞬間、ミオの中からオレは消える。
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だけど、オレは記憶を取り戻さなければならない。オレ自身のためにも、このミオのためにも。
だけど、ミオの傍にいたい。
「……オレが力になれればいいけど」
「心配してくれるの? でも、あたしは大丈夫よ。伊佐巳の記憶は必ず戻るし、そうすればあたしはパパに会えるんだもの。だから、焦らないでゆっくり思い出しましょう。32年分もいっぺんに思い出せる訳ないもの。
話は変わるけど、伊佐巳はいつも何時ごろベッドに入るの?」
尋ねられて、オレの頭にふっと答えが浮かび上がってきた。それはさっきの感覚とかなり近い感じだった。さっき、「義理の親子が結婚できない」という幻聴を聞いた時のように。誰かが言ったのだ。「消灯は12時」と。
「ミオ、まただ。オレの中で誰かがしゃべった。「消灯は12時」。……なんでだろう。オレの頭の中に誰かが住み着いてる感じだ」
「消灯は12時、か。伊佐巳の消灯が12時だったのは、一番最初の引越しから次の引越しまでの間よ。すごいじゃない。伊佐巳は今15歳だって言ったけど、これではっきり判った。伊佐巳は今、1回目の引越しから2回目の引越しの間の時間にいるんだわ。
伊佐巳は記憶を失って、自分で時間を選んでるのよ。こんなにはっきり。伊佐巳がこの時間に戻ったことは、たぶんとても重要なんだわ。たとえば、この時間に失ってしまった何かを、伊佐巳自身が取り戻そうとしているとか」