連載小説「記憶」


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「感覚は記憶とは違うのか?」
「そうね。あたしにもよく判らない。でも、たぶん記憶よりもっと深いところに根付いてるものなのよ。確かに伊佐巳は男性だもの。さっきあたしに名前を付けてくれたときも、伊佐巳はちゃんと女の子の名前を付けてくれたわ。これもきっと、感覚的な行動なのよね」
 記憶はないけど感覚はある。そうだ。オレは常識という言葉を何度か使った。オレの常識もたぶん感覚に属しているんだ。もしも感覚が失われていたなら、オレはミオが女の子であることも、まあ、美人ではないがかわいい子であることも、判らなかったことだろう。
「それじゃ、もう1つ質問。伊佐巳は何歳ですか?」
 オレは感覚にしたがって、答えていた。
「15歳……くらいだと思う」
 ミオはちょっと意外そうな顔をしたけれど、やがて含み笑いをもらした。
「では、3つ目。あたしは何歳くらいに見える?」
「そうだな。オレと同じか……少し上くらい」
「少し上くらい、ね。それじゃ、伊佐巳に鏡を見せるわ。驚かないでね」
 ミオは、用意していたのであろう鏡を、オレの方に向けた。オレはその鏡を覗き込んだ。


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 驚くなというミオの言葉は、オレにはまったく効果がなかった。その瞬間、オレが目にしたのは、15歳の少年の顔などではなかったのだ。
 オレの中に再び恐怖が湧きあがってくる。これが、オレの顔。まさかと思って否定しつづけていた、夢の中の男の声。その言葉はあるいは正しかったのかもしれない。
 オレの顔はまさしく、あの男の顔そのものだったのだから。
 オレは絶句したまま硬直していた。鏡の中のオレも、引きつった驚愕を浮かべていた。恐怖と侮蔑の顔。オレが最も嫌悪した、あの顔。
 20台後半くらいに見える男は、オレの感覚とは全くずれた容姿をしている。
「……驚くのも無理はないわ。15歳の男の子がいきなり大人の男の人になっていたら、タイムスリップでもしたのかと思うわよね。だけど、これが今の伊佐巳なの。年齢は32歳のはずよ」
 32歳。オレは本当に32歳なのか? だとしたらオレはなぜ自分のことを15歳だなどと思っているんだ? オレの中の感覚は、これほどまでに信頼できないものなのか?
「これ以上見ないほうがいいわ」
 そう言ってミオは鏡を隠してしまった。


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 オレは鏡の代わりにミオの顔を凝視していた。ミオはまだ少女だった。セミロングの髪をおかっぱの形に切りそろえて、大きすぎもせず小さすぎもしない眼に少しの哀れみを浮かべていた。彼女の方が少し年上なのだと思っていた。しかし現実は、オレの方がはるかに年上だった。
「ミオ、君は今いくつ?」
 オレを安心させるように、ミオは微笑んで言った。
「16よ。……今気がついた。あたしって、伊佐巳のちょうど半分なんだ」
 オレはなんだか自分が急に老け込んだ気がした。倍も年の違うオレのことを、ミオはオジサンだと思っているのだろう。
「信じらんねえ。なんでオレが32なんだよ」
「それを思い出して欲しいのよ」
 ミオのその言葉を聞いて、オレが最初からずっと感じつづけていた違和感の正体がようやくわかった。ミオは、オレが目覚めるずっと前から、オレが記憶喪失であることを知っていたのだ。ただ眠っている人間を見て、その人間が記憶喪失であるに違いないなどという判断を下すことなど、どんな名医にだってできはしないはずだ。記憶喪失は、本人の意識があって初めて判ることなのだから。
「ミオ……。オレの記憶を奪ったのは、君なのか……?」


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 ミオはしばらくは何も言わなかった。オレはミオの目をじっと見つめつづけていた。はぐらかされてしまう訳にはいかなかった。再び同じ質問を彼女に投げかけるほどの勇気が、オレにはないかもしれないから。
 ミオは目を逸らさずに、やがて口を開いた。
「簡単に、説明するね。……伊佐巳はずっと昔、自分の記憶を別の記憶にすり替えられてしまったことがあるの。それまで生きてきた経験を、全然別のものにされてしまった。それからの伊佐巳は、その偽物の記憶の上に、新しい記憶を重ねてきたの。伊佐巳のその時の記憶障害は、やがて伊佐巳の精神を崩壊させてしまうかもしれなかった。事実最近もその兆候があった。……あたしね、ある人に雇われてるの。その人は言ったわ。伊佐巳の記憶障害を治すためには、偽の記憶を全て消してしまう必要がある、って。偽の記憶と、その上に積み重ねられてきた伊佐巳自身の本物の記憶、その全てをいったん全部白紙に戻して、そのあと本物の記憶だけを思い出す。その方法でなければ伊佐巳の記憶障害は治らないって。……だから、彼は伊佐巳の記憶を全て消さなければならなかったの。
 あたしは、伊佐巳の記憶を取り戻すために雇われたの。伊佐巳が記憶を取り戻すまで、傍にいて手助けするわ」
 ミオの言葉に、オレは驚きと喜びと、少しの落胆を感じていた。


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 他人の脳に、偽者の記憶を植え付ける。過去の経験をまったく別のものにすり替えてしまう。本当にそんなことができるのか。オレの記憶を消してしまうなどということが、なぜできるのか。ミオは、オレの記憶を消した人間に雇われている。記憶が戻るまでずっとオレの傍にいてくれるけれど、それはオレを慕っているからではなく、ただ単に雇われているから。
 オレの記憶が戻ったとき、ミオはオレの前から消えてしまう。
「ミオ……君は誰……?」
 ミオは意外なことを聞いたと言う風に、ちょっと目を丸くした。
「あたし? ……なぜ?」
「君の事を教えて。オレは君のことがちゃんと知りたい。本当の名前は何で、オレとどんな関わりがあるのか。君はただ雇われただけの他人なのか? それとも、オレに関わりのある人間なのか?」
 オレの感覚は残されている。その感覚がオレに教えてくれる気がするのだ。ミオは他人とは思えないほどに慕わしい。あるいは、これは単にオレの思い違いなのかもしれないけれど。
 諦めたように、ミオはため息をついた。
「困ったな。あたしは伊佐巳を伊佐巳と呼ぶことや、ある人に雇われていることを教えてあげることはできるんだけど、あなたが今までどんな人生を歩んできたかとか、あたしがあなたと関りのある人間なのかとか、そういうことはあなたに教えてあげられないの。あたしはもしかしたらあなたと関ったことのある人間かもしれない。全くの他人かもしれない。でも、それを知るためには、伊佐巳は全てを思い出さなければいけないの。失ってしまった記憶を、全部」


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 もし、記憶を取り戻したら、オレは彼女を思い出せるのだろうか。それとも、彼女が全くの他人であることを思い知らされるのだろうか。
 思い出したい。だけど、もしも彼女が他人だったら……。
 彼女に他に恋人がいることを知ってしまったら……。
 倍も年が離れているオレは、彼女にはきっとオジサンにしか見えないだろうから。
「落ち込まないで、伊佐巳。大丈夫。ちゃんと伊佐巳の記憶は戻るわ。あたし、ずっと傍にいて助けてあげる。もしも伊佐巳が1つ、記憶を戻したら、その記憶がいつ頃のものなのか、それを教えてあげる。その記憶が伊佐巳が何歳頃の記憶なのか、それだけを教えてあげる。そうやって少しずつ記憶がよみがえったら、伊佐巳の年表が作れるわ。全部を一度に思い出さなくても、自分が生きてきた時間を実感することができるはずよ」
 何も思い出せないことにいらいらする。このいらいらは、たぶん、記憶を完全に取り戻さなければおさまらないだろう。だけどオレは思ってしまうのだ。記憶を取り戻さないうちは彼女はずっとオレの傍にいてくれる。思い出してしまうのが怖い。彼女がオレの傍から消えてしまうのが怖い。
「ねえ、あんまりいろいろ考えない方がいいわ。それに、今は時間的には夕方だけど、パジャマのままベッドにいるなんて不健康だわ。とりあえずお風呂に入ってこない? 日常のことをいろいろやることだって、記憶を取り戻す手助けになるはずだわ」
 オレは、全てを先送りにして、ミオの提案を受け入れることにした。


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「伊佐巳がお風呂に入っている時間は、あたしの雇い主への報告の時間にしてもいいかな。だいたい1時間くらいで帰ってこられると思うの」
 オレが頷くと、ミオは笑顔を残して部屋を出て行った。ミオが出て行ったドアと反対側のドアの向こうにシャワー室がある。服を脱いで、オレはシャワーのしぶきの下に立った。
 身体の感覚にはかなりの違和感がある。オレの感覚は十五歳のものだった。たとえば視点。おそらくオレは15歳の頃よりも身長が伸びているのだ。身体が重く感じるのは体重が増えているせいなのか、それとも長い時間眠っていたためなのか、それは判らない。自分の身体をひとつひとつ点検すると、オレがかなり身体を鍛えている部類の人間なのだということが判った。
 記憶は全く戻っていないけれど、オレは自分という人間を想像することができる。たとえば、オレの身体つきは何か特定のスポーツをやっていたという感じではない。どちらかと言えば格闘技系だ。シャワー室もかなりの広さがあったので、オレは裸のままそれらしい動きをしてみた。無意識に動く身体を、頭の中で観察する。下半身を低く取って騎馬立ちの姿勢から拳を突き出す。弧を描くように敵の攻撃を払って手刀で一撃。空手の動きに一番近いようだった。蹴りも試してみたが、足刀蹴りは思いのほかきれいに決まった。
 ミオの言うことは間違っていない。頭を悩ませるだけでは記憶は戻らない。ほんの少し身体を動かしただけで、自分が空手を学んだことがあることが判ったのだ。その記憶は全くよみがえってこないけれど、少なくとも自分が何に興味を持っていたのか、それを知ることはできる。自分の感覚を確かめるだけで、自分という人間がどういう種類に属しているのか知ることができるのだ。


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 オレは風呂場に来た本来の目的を思い出して、身体を洗った。風呂場にはシャンプーや固形石鹸は一切なく、袋詰の粉石鹸が置いてあるだけだ。その袋にも説明書きのようなものは一切なかったので、オレはしばらく迷った末、その粉石鹸で身体も髪も洗うことにした。泡を流してよくよく見回してみると、壁面も足元も全てコンクリートに白いペンキを塗っただけのもので、よくありがちなタイルや小物置のような、いわゆる装飾類のものはひとつも置いてはいなかった。
 部屋もベッドも、風呂場の面積も、まるで高級マンションかと思うほどの広さがあるというのに、備品がほとんどないこの風呂場は異様な光景だった。風呂場から出て改めて回りを見回して驚いた。部屋にあったのは、例の巨大なベッドのほかには、一組のテーブルと椅子、小さな箪笥と、部屋の隅の方にひっそりとパソコンが一台あるだけだったのだ。
 ここは、いったいどこなのだろう。
 オレの記憶を取り戻すためだけに用意された、特別な部屋だとでもいうのだろうか。
 窓はひとつもない。外界との唯一の接点であるドアは、そこだけがまるで未来都市の一部であるかのように、電子ロック式で暗証番号を入力しないと開かないような構造になっている。あのドアはミオにしか開くことができないのだろう。オレは完全に閉じ込められているのだ。おそらく、オレが記憶を取り戻さない限り、あのドアの外に出ることはできないのだろう。


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 ミオを雇った人間は本気なのだ。オレを閉じ込め、オレの記憶を取り戻すためだけにこれだけの広さの部屋を用意した。オレの記憶にはいったい何があるのだろう。オレが記憶を取り戻すことが、ミオを雇った人間にどんな利益をもたらすというのだろう。
 オレの記憶には、どんな秘密があるのか。
 オレが生きてきたという32年間の間に、いったい何があったというのか。
 思い出したい。早く思い出して、この殺風景な部屋から飛び出したい。
「……パソコン……?」
 オレが外の世界を知るチャンスがあるとすれば、それはあのパソコンしかないんじゃないのか?
 もしもあれが、外の世界につながっているものならば。
 オレはテーブルのところから椅子をひいて、パソコンの前に座った。
 ほとんど無意識の動作だった。パワースイッチを入れて、画面の変化を見つめる。かすかな音とともにハードディスクが目を覚ます。その音を聞いているだけで、オレの心が躍った。
 そうだ。これはオレの一部だ。
 オレの記憶装置。オレの仕事場。オレの自由な時間を支配していたもの。オレの相棒。
 オレの生活の中に根付いていたものだ。これがなければ、オレはオレじゃなかった。
 それからのオレは、まるでそのパソコンのパーツの一つになってしまったかのように、ただキーボードを打ち続けた。


  20

 プログラムの最終行を打ち込んであたりを見回すと、テーブルに肘をついてミオがオレを見つめている視線と合った。
 オレはいったいどのくらいの時間、文字を打ちつづけていたのだろう。そして、ミオはいったいどれだけの時間、オレを見つめていたのだろう。
「ミオ……いつからここに?」
「さあ、かなり前からであることは確かね。夕食がすっかり冷え切っちゃったもの」
 オレはパソコンの画面の時間表示を見た。はじめた時間を確認してはいなかったが、表示は午後9時を回っている。オレが目覚めたときにミオが夕方だと言っていたその言葉が事実ならば、少なくとも2時間はパソコンに向かっていた計算になる。
「ごめん、ぜんぜん気がつかなくて」
「すごい集中力だったわよ。回りでパタパタ動いても反応ゼロだもの。覗き込んだの気付かなかった?」
「いや、ぜんぜん」
「指を見てても画面を見てても何をやってるか判らないくらい速かったの。すごいのね。いったい何を作ってたの?」
 その時のミオの質問に対する答えが、オレの頭の中から不意に湧き上がってきた。覚えていないはずの記憶。この、画面上の文字の羅列もそうだ。オレの中にはたくさんのデータが眠っている。きっかけさえ与えてやれば、オレはそれらを思い出すことができるんだ。

 

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