第4話 両親
寝不足だったこともあって、その日の夜はとてもよく眠れた。つぎの朝、定刻に起きた僕達は、頭もすっきりと冴えわたり、気分よく食事に向かうことができた。渉もまた、幾分気分を取り戻していたので、いつもの朝と同じように挨拶を交わした。
食事にモノをとり、学校へいくと、今朝は慶にあうこともなかった。いつものようにカードを差し込んでナンバープレートを受け取り、教室まで辿り着く。どこもいつもと変わるところはなかった。僕と渉の教室は違っていた。それもよくあることで、特別ほかの日と違うところなど見つけられなかった。
ナンバープレートをはめこむ。耳慣れた音楽。人の記憶力や理解力を高めて、一番勉強に適した脳波を作り上げるという音楽。心休まるはずの音楽が、何故か僕の気持ちを刺激していた。僕の心をささくれ立たせる。僕はイヤホンを外して、音楽を聞くのをやめた。そして、首を延ばしてあたりを見回す。そして?
人はこんなに無気力な顔をしていただろうか……
僕の目に映るクラスメイトは、みんな目に光を宿した普通の顔をしていなかった。どこかどんよりとしていて味気なく、生きているのが不思議な顔をしていたのだ。これは違う。これは、僕の今まで暮らしてきた世界と違う。そう考えて、そしてふと思った。学校についたあたりから、僕は不思議な違和感に悩まされていた。どこがいつもと違うのか、無意識に探しつづけていた。それが、この目だったのだ。この、自分の意志というものを持たない、画一された意識。集団の中に取り込まれ、自分一人が死んだところで、世の中に何も変化は起きないということを知って、半ば諦めながら暮らしている人々。これが、僕の世界なのだ。僕も一昨日までこの世界にいた。きっと僕も、彼らと同じような目をして、集団の中に埋もれていたに違いないのだ。
僕は、自分の目が開かれてしまったことを知った。僕の目が、もう今までと同じように世の中を見ることができないということを。この集団の中で、僕はこれから生きてゆけるのだろうか。否、僕は生きてはゆけまい。僕は異質なものとなってしまった。人は異質な僕をさげすむだろう。もしかしたら狂ってしまったと思うかも知れない。いやそれよりも?
僕はきっと、この目に耐えることができないだろう。彼らの目を見ながら、彼らと同質になって生きるということが、僕自身できなくなってしまったのだ。きっと、僕は本当に狂ってしまう。今だって、ここにこれ以上いることができないと思っているのだから。
僕は一度はめこんだナンバープレートを外して、教室をでた。入口でプレートを返し、そのまま半ば駆け出すようにして家に帰った。家には父さんと母さんがいて、母さんは僕が帰ってきたことを驚いていた。父さんは、ただなにもいわず、僕を迎え入れてくれるような、そんな目をしていた。父さんは、僕が今まで見ていた無気力な人間とは違って見えた。
「父さん、僕は」
「話をしようか、母さんのいないところで」
「え? でも」
僕は母さんを振り返った。母さんは笑って、僕に心配するなという顔をしていった。
「いいのよ、裕。母さんは父さんに仲間はずれにされるのは慣れてるの。十五年前のときもそうだったわ」
「ちゃんと話しているよ。お前たちのことも」
「いつも結果がでてからですけどね」
父さんは笑って、母さんにいった。
「飲物を頼むよ。僕と、僕の息子の裕に」
「はいはい」
そうして父さんは自分の部屋へと歩き始めた。僕もあとをついて、父さんの部屋に入って、腰を下ろした。
「裕」
「はい」
「何を見たのか言ってごらん」
僕は少しためらったけれど、父さんの意志の強い目を見ていたら、全てを話しても大丈夫な気がした。そう、いつでも父さんは正しかった。僕の不利益になることは決してしなかった。
「学校の、僕のクラスメイトの、無気力な目。恐いくらいに同じ顔をしていたんだ。僕は今日までそんな事には気付かなかった。僕も同じ顔をしていたんだって思った」
僕は本当は泣きたかったのかも知れない。でも、僕は泣かなかった。父さんの前で泣くなんて事、できない気がしていた。そうだ。父さんは言ったんだ。僕のことを『大人』だって。
「確かにお前も渉もそうだったよ。だけど、イーグルの塔の話をしてから変わった。お前の目が、真実を見ることのできる目に変わったんだね。父さんは、今日裕が帰ってきて嬉しかったよ。僕の息子がまた一つ、大人になったって」
父さんの顔は、何故か今までの父さんの顔ではなくなっていた。そう、もう少し若い、僕達よりも少し大人の、例えて言うなら、少し年の離れた、兄のような。
「裕、父さんにも見えたよ。まわりの人間の無気力さ、同じ顔をした伝承者たち。ただ父さんは既に学生ではなかったから、お前のように逃げ出したりはしなかったけどね」
「父さんはどうして逃げなかったの? それよりも、どうして今まで普通に暮らしてこれたの? 僕は今日、気が狂うかと思ったよ。父さんはどうして、気が狂ったりしなかったの」
「それを答えるには、始めから話さなければならないだろう」
僕は父さんの言葉を待っていた。やがて、父さんは話し始めた。
「父さんはお前たちと同じように、中央管理局でイーグルの塔の話を聞いた。それからの父さんは、最初こそはイーグルの塔のことなど思いもしなかったけれど、一日たち、二日たちしていくうちに、そのことが妙にひっかかって離れないことを知ったんだ。そして、父さんも判らないことを放置しておける性格じゃなかったから、イーグルの塔のことを調べ始めた。それは、イーグルの塔にいきたいという気持ちがさせたことじゃなくて、ただ、自分に知らないことがあるのが許せなかっただけなんだ。そして調べてゆくうちに、父さんは、ほかの国があること、そして、ほかの国にはほかのイーグルでない神がいることをつきとめたんだ。
父さんは悩んだ。イーグルの嘘と、それを傘にかぶってはびこる権力者たち。火の国の人間たちは、その一部の権力者のために働かされた、たんなる労働力でしかなかったのだ。父さんにはそれが我慢できなかった。それについて調べが纏まったのが、中央管理局に行ってから一ヶ月くらい過ぎた時だった。そして父さんは知る。ほかの人間たちとはかけ離れてしまった自分がいることに。普通の人たちは疑問にも思わないだろう。だいたい、食事が片寄ったくらいで疑問を持つ人間はいないのだから。そして、父さんの前には道が二つできる。イーグルの塔に行くか、このままお前たちと暮らしてゆくか。そして父さんは、お前たちと暮らし、今までの生活を守ることを決める」
僕は気がついていた。父さんは三か月考えたと言ったけど、それでは計算があわなかった。あと二か月は、どこへ消えてしまったのだろう。
「それからの父さんは、何とかこの生活になじもうとしていた。もちろん父さんは母さんやお前たちを愛していたし、仕事も好きだった。だけど、父さんの生活はものすごい無理を必要とした。そんな生活を二か月間続けていた父さんを見兼ねた母さんが、父さんに言ったんだ。『どうかイーグルの塔に行って下さい。もしも私たちのことが原因で行かないのなら、私は必ず二人の子供を育てて見せます。心配はしないで下さい。今のあなたは、行きたい気持ちを私たちのために押し殺して、本来の自分を見失っています。どうか、思うとおりに生きて下さい。そうして生きるあなたこそが、私の理想のあなたです。私は必ず、二人の子供を守り通して見せますから』いまでも一言一句覚えているよ。その時に思ったんだ。父さんは今までの二か月間、自分を回りにあわせて変えようとしていたんだとね。だけど、それは違うんだ。父さんは、自分が自分のままで、この世界に関わってゆかなければならない。自分が自分でいられる場所を見つけて、そこにゆくことも一つの道だ。でも、自分が自分でいられない場所で、それでも自分でいつづけることも、それも一つの道なのだ。父さんは、それは困難な道だと思ったけれど、母さんやお前たちと生きることを選んだ。お前たちが心配だったというよりも、父さん自身がお前たちといたかったんだ。父さんはお前たちを必要としていたし、お前たちにとって、父さんは必要な人間でいたかった。そして、お前たちが父さんと同じ立場になって苦しんだときに、助けになりたかった。今回のことだけではないよ。父さんは人間として、お前たちの役にたちたかったんだ。お前たちだけじゃなく、タシタに住む、全ての人間たちのために」
ああ、僕の父さんは、なんてすごい人間なのだろう。僕の父は、そして僕の母は、どんな環境にいても、自分自身でいることをやめないだろう。こんな世界にいて、狂うこともなく、いつでも自分自身でいようとした父、そんな父を助け、一度父がいなくなれば、必ず僕達を守って見せると言った母。僕は、こんなにすばらしい両親に育てられたのだ。僕は、できるだろうか。例えどんな環境にいても、自分自身でいつづけることができるだろうか。
「裕、父さんの話を聞いて、お前がどう思ったのかは知らない。お前がどんな道を選ぶのかも判らない。もしかしたら、父さんには見つけられなかった、第三の道を歩むのかも知れない。それは裕、お前が決めることだ。父さんたちは、お前が考えた末に出した答えならば、どんな答えであろうとも支援してやろう。だから、お前は未来だけを見つめなさい。そして、ゆっくりと考えなさい。そして、なにか助けが必要になったら、いつでも父さんに相談しなさい。父さんはいつでも、お前たちの味方になるだろう」
そんな父さんの言葉に、僕がある種の感動を覚えていたとき、扉が開いて、母さんが入ってきた。話が終わるのを待っていたのかも知れない。トレイには、二人分の飲物が乗せられていた。
「お話しは終わったの?」
「ああ、今終えたところだ。十五年前の話をしていた」
「そう。裕にもそんな話が判るようになったのね。あのころはまだ生まれて間もない子供だったのに」
「そうだよ。私たちの子供は、一人で物事を考えられる大人になったんだ。喜ばしいことだな。この分だと、三人目を作るのはもう少し早くても大丈夫そうだ」
「そうね。父さんがそう思うのだったら」
父さんと母さんがあまりに楽しそうだったので、僕はそのまま部屋を退出した。