第3話 慶
つぎの日の朝、僕はとうとう一睡もできないまま、食事の時間を迎えていた。渉も眠れなかったであろう事は一目で判った。朝食にモノを取り、父と母が出かけたあと、僕と渉は二人の共同部屋に帰った。今日は学校のない日だった。
それから数界、僕と渉はコンピューターに向かっていた。中央管理局から送られてくる情報を流し見て、興味のある記事については詳しい情報を請求して読んだ。とくに今日は、メダカのキメラの話が載っていたので、それについての長ったらしい情報を読んでいたら、かなりの時間をつぶすことになった。情報については、ちょっともの足りないところもあったけど、これ以上の情報が欲しいとなると、科学者との直接対談になるので、お金がかかった。僕はそれだけで我慢して、コンピューターの画面を閉じると、ちょうど父さんが帰ってきた。
昨日はお互いに話をしようとはしなかったけれど、今日は違っていた。僕と渉は向かいあって、話し合いの体勢を取っていた。
「今僕がしなければならないことは、いくつかあると思うんだ」
昨日の沈黙の中で渉が見つけたことは、一つにこの事だったのだと思う。
「渉はそれを考えていたのか?」
「裕は違うのか?」
「僕のは、まだ形にはなってない」
「これも考えることの一つだと思う。僕は昨日はそのことばかり考えていた。自分の心の中のひっかかりっていうか、そういう物を全てなくしてしまったら、また別の答えが見えるような気がしたんだ。まず一つは、両親と生まれてくる僕達の弟か妹の事だ」
渉の話は具体的だった。僕は黙って聞いていることにした。
「僕達が成人したら、父さんと母さんはまた子供を作るつもりだって、前に言っていた。その時僕達は、できるだけ協力しようと思った。母さんが子供を宿して、生活する力が衰えたとき、経済的に支えてゆくことを了解したし、そのあと職場復帰するまで、子供の面倒もかわりばんこに見ようって約束した。そうすれば父さんも、僕達のときほど苦労しなくて済むからって。それに、子供が一人で生まれてくるとは限らないしね。双子を産んだ夫婦が、もう一度双子を産むってことは、充分に考えられることだから。だから僕達は、最悪の場合に父さん達がちゃんと生活できるかどうか、それを確かめなければならない」
渉の言い方は、まるで僕達がいなくても大丈夫かどうか、それを確かめようとしているように聞こえた。事実、渉の考えていることは、そういう事なのだろう。
「もう一つ、僕が考えていることがある。このことについては、僕は裕と話したことがなかった。だから僕は裕の気持ちを知らないし、裕も僕のこんな話を聞くのは初めてだと思う。もっと後でもいいと思ってた。だけど、昨日のことがあったし、今はっきりとさせないといけないと思ったんだ」
渉の目を見ながら、僕は不思議な感覚に捉えられていた。こんな目をした渉は、僕には初めてだった。
「言ってしまうよ、裕。僕は、慶と結婚したいと思ってる。裕は? 裕は僕と同じ気持ちか?」
僕はびっくりして、渉を見つめた。こんな事は想像していなかった。渉が、慶と結婚? 慶のことを好きだというのか? 父さんが母さんを好きなのと同じように。
「初めて聞いた。驚いた。そんな事を考えていたなんて」
「裕はどう思ってる? 裕も、慶と結婚したいと思ってるのか?」
「そんなこと、考えたこともなかった。僕は誰とも結婚したいと思ったことはなかった。だから、渉が慶と結婚したいというなら、僕は止めはしないよ。僕も慶は好きだから、慶が兄弟になるのに反対はしない。本当にそうなったら、それはすごく喜ばしいことだね」
渉は僕の話を聞いて、心のそこからホッとしたようだった。
「良かった。裕も同じ気持ちだったらどうしようかと思った。でも、そうと判ればこの事は僕だけの問題だ。僕は慶にプロポーズする」
「気が早いな。僕達はまだ結婚できる年じゃないよ。あと二年もある」
「慶にその気がなければ諦めがつく。僕の中にひっかかっている問題にけりがつけられる。それで充分だと思うんだ。そうやって一つずつ問題を消していくことによって、きっと本当の自分が判ってくるだろうから。僕はとりあえず、そうやって答えに近づいてゆくよ。今度は裕の話を聞かせて」
「僕はまだ答えを見つける方法も思いつかないよ。ただ、僕は渉とは少し方向性が違うかもしれない。渉はどちらかというと消去法だろう。僕の場合は一番大切なものを見つけようってところだから。でも、突き詰めれば同じかもね。まだ何も判らないけど」
僕は前にも思ったことを、また思いだしていた。考える前に行動する渉。とことんまで考えてから行動する僕。僕達の性格は違った。だから、僕は渉に焦りを感じる必要はなかった。僕は僕の方法で、いつでも真実を見つけることができた。今回もそうだ。渉には渉の答えが、僕には僕の答えがある。僕が渉の邪魔をする必要はなかった。
「裕、これから僕は慶の家に行ってくるよ。慶がいたらプロポーズしてくる。うまくいくように祈っててくれ」
「ああ。行ってらっしゃい」
渉が出て行ってしまったあと、僕は慶のことを考えていた。慶は同じブロックの、三件先に住んでいた。両親がいて、僕達とは違って、慶は両親の二人目の子供だった。同じ年だということもあって、僕達と慶は、小さいころから仲が良かった。学校へ一緒に通ったり、休日に一緒に読書をしたりしていた。慶も頭のいい子供だったので、僕達と同じくらいの速度で本を伝承していた。特に数字に強く、円周率や平方根を覚えては、先生に重宝がられていた。子供のころはほとんどそれで食べていた。いまでも、数学以外の本はほとんど伝承していないはずだ。きちょうめんで、頑固で、自分の将来に関しては人より深く考えていた。きっと、将来設計はしっかりしているんだろう。十六で結婚の話をするのだから、もちろんその後のことも全て考えた上で……。
僕は、渉が振られる気がしていた。相手がいるにしろ、いないにしろ、慶は不確かなものを求めはしないだろう。僕達は成人しても、二年か三年は結婚するつもりはなかった。その話を慶にもしたことがあった。慶にはきっと、僕や渉のことなんて、少しも見えてはいないだろう。
僕は渉に済まないと思った。昨日慶と話をしたあと、僕はいった。『少なくとも僕達じゃないよ』って。渉を傷つけてしまったようで、それだけが気がかりだった。
出ていってから五限(約八分)もしないうちに、渉は帰ってきた。
「慶と話はできたのか?」
「いや、今日は慶はいなかった。父親が家にいたから、慶の予定を聞いてきたんだ。学校から帰る時間にまたいってみるよ」
渉は手に持っていた袋を僕に渡した。慶のうちの近くに、お菓子の自動販売機が集まった一角がある。そこにおいてある袋だ。袋をあけると、中には一束のパンダが入っていた。
「ついでに買ってきた。半分ずつ食べよう」
「ありがとう」
パンダは、ストローのような細いビニールの管に、砂糖菓子の詰まったお菓子だった。四十センチほどある管を、五センチくらいに切って、そのまま口の中に放り込む。噛んでいると中身が溶け出してきて、それが甘くておいしいのだ。値段は十二本一束で、一回の食事と同じくらいだった。僕達はたまに買っては、半分ずつ楽しんでいた。渉が分けてくれた六本のパンダを、僕ははさみで切って、さっそく噛み噛みし始めた。渉も同じだった。
「なあ裕、僕が慶に告白したら、慶は何ていうだろう。僕とはもう口をきかないっていうかな」
そう言った渉は、僕が知っている渉より、ずっと弱々しく見えた。
「恐いの?」
「恐いよ。僕は慶に嫌われたくない」
「嫌いにはならないよ」
「なるかも知れない。そう思うと眠れない。明日は学校だって言うのに」
「OKするかも知れないよ。どっちにしても、今日確かめられるんだから、今夜は眠れるよ。大丈夫」
「断わられたってOKもらったって眠れないよ。そういうもんだろ」
「僕には判らないよ」
渉が僕に何を言って欲しくてそういう話をするのか、僕には判らなかった。だけど、自信なさげに話す渉を見ているうち、僕には判ってきた。渉が今、勇気を欲しがっているのだということ。
「ねえ、渉。僕達は頭がいいよね」
「僕はそう思ってるけど」
「頭はいいし、健康だし、経済的にも、個人だけを見たら豊かな方だよね。それって、結婚相手の条件としたら、最高な部類に入ると思わない? 僕達よりいい条件の人間て、そうそういるもんじゃないよ」
「そうかな」
「そうだよ。もし僕達が中央管理局に結婚相手の選別を申し出たら、たくさん紹介してもらえると思う。そのあとは、顔の好みとか、性格とか、そんなことを基準にして決まるものなんだろうと思う。僕達は凶暴でもわがままでもないし、責任感も人並みにあるから、きっと幸せな結婚ができると思う。僕達は人に不快な印象を与える要素は持っていないだろ?」
「そうだな。僕は冷静に見て、裕を不快な人間だと思ったことはないよ」
「だからさ、慶に確かめてごらんよ。結婚したい相手がいるのかどうか。僕が見たところでは、七十パーセントの確率で、慶にはそんな相手はいないよ。あとは、渉の頑張りと、家庭の事情だけだろ。慶は成人したらすぐに結婚したいらしいし、僕達は成人したあと二年か三年くらいは結婚できない訳だから。これは、父さんや母さんともう一度話し合ってみればいい。渉の気持ちがしっかりしていれば、きっと許してもらえる。父さんは一度だって、僕達のためにならないことはしたことがないんだから」
「何だか、可能性がありそうな気がしてきた。僕の頑張りってどういうことだ?」
「さあ、一度くらい断わられたからって、諦めることはないと思わないか? 何度も話し合えば、慶の気持ちも変わるかも知れないって事だよ。こっちが誠意を見せれば、向こうだって誠意で返してくれるよ。渉の好きな慶は、そういう女の子だよ」
どうやら渉は浮上したようだったので、僕はこの話をやめる事にして、僕の頭の中をちらっとかすめたことについて話し始めた。
「渉はイーグルの塔について、どんな事を知ってる?」
「たぶん裕も知ってる事だけだと思うけど。?昔、災害があって、人が滅びかかったときに、火の国の神イーグルが、僕達の祖先を助けた。地上が治まったとき、火の国の人間は、イーグルを祀ってイーグルの塔を建てた。そのお礼にイーグルは火の国の繁栄を約束して、イーグルの塔に住みついた。それが二百年くらい前の話だろ。それからイーグルがどうなったのか知らない。今イーグルの塔を管理しているのは、地球の指導者、葛城達也の血筋の者たちだ。そいつらが、火の国を良い方向に導いてる。政治から情報管理にいたるまで、全てそいつらが行ってる。僕が知ってるのはその程度のことだよ」
「イーグルの塔にいった人間はもう帰って来られないって言ってたけど、それだったら政治はどうやってるんだろ。コンピューター回線か何か使ってるのかな」
「おおかたそうだろうな。どっちにしても、イーグルの塔は閉ざされていて、僕達には伺い知ることはできないよ。行ったが最後、帰ってもこられない」
「でもさ、イーグルの塔に行った人間ていうのは、いったいどうなったんだろう。殺されたのかも知れないけど、もし殺されていなかったんだとしたら。新しい仕事を与えられたって事も考えられるよ」
「そうだな。そうだとしたら、イーグルの塔の仕事について調べるのも悪くない。イーグルの塔の仕事は、かなり多岐に渡ってる筈だ。食料の生産についても関わってるし、かなりの人数が働いてると見ていいよな」
「そうだよ。だって、中央管理局はイーグルの塔へ行くことの許可を出してるんだ。これは裏を帰せば、イーグルの塔が志願者を募集してるってことも考えられる訳だ。もしそうでないなら、許可なんか出す必要はない訳だから」
「変わり種を処分してる可能性もあるけどな」
「イーグルの塔に行きたいって人間は変わり種かな。僕はそうとも限らない気がするけど」
「好奇心の強い人間か、世を儚んでる奴だろ。好奇心は、ある種の人間たちにとっては、邪魔以外の何物でもないだろうから。好奇心て、あんまり歓迎された言葉じゃないよ。今はあんまり使わないけど、『好奇心、猫を殺す』なんて言葉もあるくらいだから。僕は、過ぎた好奇心は持たない方が賢明だと思うよ」
「僕がイーグルの塔に興味を持つのが気にいらない?」
「そうは言ってない。ただ僕は、裕がつらい目にあったりするのはいやだ」
「渉は偽善者だな」
「そうだよ。僕は偽善者だ。だから平気で言える。裕に危害を加える奴は、ぶっ殺してやる。そいつが、父さんと母さんと慶以外なら」
「つまり、僕は四番目な訳だ」
「裕も含めて、四人が僕にとっての一番なんだ。それが、偽善者の僕に言える最高のことだよ」
「ごめんね、偽善者だなんて言って。そう口に出して言ってしまった僕の方が、よっぽど偽善者だったよ」
僕は素直にあやまった。渉が笑って、僕は許されたことを知った。僕は渉が好きだった。渉は僕にとって、許された場所だった。渉になら何でも言えた。それは、僕が嫌いにならないかぎり、渉も僕を嫌いにはならないということを、きっと本能で知っていたから。何を言ってもかならず許されるということを、肌で感じていたから。
「父さんだったら僕や渉よりもイーグルの塔について知ってるだろうか」
「そう思う。長く生きてるし、きっと調べただろうから。自分で調べろと言われるかも知れないけれど」
「調べ方くらいは教えてくれるさ。帰ってきたらきいてみることにしよう。渉は、女性の口説き方についてでも聞いてみたら?」
「ああ、そうするよ。僕もこんな事は初めてだから、経験者の話も聞いてみたい。裕じゃあてにならないからな」
渉はそう言って僕をむっとさせた。僕は、もう渉と話すことはないと思って、コンピューターに向き直った。
「昨日からのニュースを見るよ。渉はどうする?」
「僕もそうする。結局昨日はなにもできなかったしね。ほかにもいくつかしておきたいことがあるし」
そうして二人は別々に、自分のコンピューターと会話し始めた。
僕と渉は下に行って、父さんと顔をあわせた。
「お帰りなさい、父さん」
「ただいま。二人とも食事は?」
「まだ。父さんは?」
「うちで食べようと思ってそのまま帰ってきたところだ。すぐ食事にしよう」
「うん」
僕と渉はカードをとりにいったん戻って、もう一度おりてくると、父さんは既に食事を並べていた。父さんの食事はウチだった。
僕達の食事もウチで、渉の機嫌が少し良くなった。
「父さん、食べおわったら話があるんだけど」
渉が言った。父さんは一言
「食べおわったらな」
と言ったきりで、それで僕も渉も話をするきっかけを失って、黙って食べつづけていた。
やがて食事が終わり、父さんが部屋へ引っ込むと、僕と渉は父さんのあとを追って、父さんの部屋に入った。
座ってすぐに、渉は言った。
「実は、イーグルの塔について知ってる事があったら教えて欲しいんだ」
「知っていること?」
「僕達が知らないこと」
「そうだな……イーグルの塔は、火の国の最高機関だ。国の全てについて、あの塔では管理運営している。国内の政治や報道についてのことは知っているだろう。そのほかにも、外交に関してもイーグルの塔では行っている。火の国のほかにも国があることを、お前たちは知っているか?」
僕と渉はかぶりを振った。そう、僕は知らなかったのだ、火の国以外の国があるということを。そう、良く考えてみたら、火の国のほかに国があったところで、少しも不思議なことはなかった。地球の大きさは知っている。この広い地球に、火の国の人間だけが住んでいるだなんて、考えづらいことだった。
「そうか。……世界には、おそらく数百の国があるだろうと思う。これについては父さんやお前たちが読むことのできる図書には一切書いてはいないから、父さんの想像でしかないのだが。そして、火の国は国として、そのいくつもの国と交易しているんだ。食べるものや着るもの、日常に必要なもの全ては、様々な国から輸入しているし、火の国も輸出をしている。その間の様々な取り決めや、通貨の交換、政治的な駆け引きについても、全てはイーグルの塔で行っている。父さんは少なくとも、イーグルの塔で働く人間は一万人を超えていると思っている」
父さんが語る話は、災害前の世界に似ていた。大小様々なたくさんの国、たくさんの人種、たくさんの言葉、僕達が習った災害後の歴史には、それらは一切でてはこなかった。そうだ。僕達が習った歴史には、火の国のイーグルという神が、心正しい人々を救ったということではなかったか。イーグルは火の国の神だ。火の国の神が、ほかの国の人間も救ったというのだろうか。
「父さん、イーグルと今の話とは矛盾する」
「そうとは限らないさ。それぞれの国には、それぞれの神がいる。その神々がそれぞれの人々を救ったと考えれば、つじつまをあわせることはできる。大切なのはそんな事じゃないだろう、裕。もっと考えてごらん。?父さんの話はこれだけだ。ほかに聞きたいことはあるのか?」
「例えばの話だけど、僕と渉が今いなくなったら、父さんたちはどうなるだろう」
父さんは考える風も見せずに言った。
「生活はできる。父さんも母さんもかなり苦労はするだろうが、お前たちのときもやったことだ。二人で協力していけば、子供を育てることはできるだろう。お前たちはもう大人だ。自分の道は自分で決めなさい。父さんや母さんのことは考えなくていい。ほかには?」僕は父さんの質問に答えた。
「僕はない」
「僕はもう一つある。これは僕だけの問題だから、裕には関係ない」
「父さん、ありがとう。僕は部屋で一人で考えてみるよ」
そうして、僕は一人で部屋に帰った。父さんの言ったことを考えるために。
父さんの言葉について、僕はいくつも感じるところがあった。まず一つ。僕はうれしかった。父さんが最後に僕達に言ってくれたこと。成人していなかった僕を、父さんは大人だと言ってくれた。父さんは僕達を認めてくれているのだ。そして、父さんはいつでも、僕達のためにならないことはしない。僕達がもし、父さんたちと離れたいと思っても、そのことを受け入れてくれると、それを許してくれると言ってくれた。ここに来て、僕達に自由に選ぶことを許してくれたのだ。例えば僕達がイーグルの塔に行っても、例えば僕達が成人と同時に結婚しても、父さんは僕達の門出を祝ってくれるだろう。笑って送り出してくれるだろう。それがうれしかった。僕達が自由だということを教えてくれて、僕はとても嬉しかったのだ。
渉が言った『ひっかかり』は、僕にはもうないのと同じだった。もちろん、心情的に僕は父さんや母さんや渉とはなれたいとは思っていないから、それをひっかかりとしてあげることはできる。だけど、物理的な問題としてのひっかかりは、僕にはなくなった。あとは、僕の心が決めればいい。だから僕は、これから全てのことに関して検証してゆく。僕の心が今、あるいは将来に渡って、いったい何を求めているか、それを考えなければならない。渉のやり方は消去法だけど、僕のやり方は違う。僕は、心の求める方向に従う。
僕は、イーグルの塔の矛盾について考えていた。僕達は、神としてのイーグルを崇める教育を受けている。僕達は実際イーグルは火の国を救った神で、イーグルの塔は正しいことを貫いているということを信じている。僕達はイーグルの臣民で、イーグルというのは唯一無二の神だった。火の国にイーグル以外の神は存在しないし、イーグル以外は神ではなく人間だ。それは、イーグル以外には、この世に神はいないということを信じていたからだ。それがどうだろう。この地球には、火の民以外にも人間がいるのだ。そして、彼らは彼らで、独自の神を頂いているという。(ほかの国の人間がイーグルを崇めているということも考えられるけど)イーグルが唯一無二の神ではないとすると、それはもう神じゃない。なぜなら、神とは一つでなければならないからだ。神が二つあるならば、教えも二つなければならない。教えが二つあれば、それは真実が二つあるということだ。二つの真実を持って、神は神同士で争うだろう。神の争いは人の争いとなり、やがてこの世は自らの神を旗印に争う仇同士となるだろう。二つの真実を前に、人は争わずにはいられない。神の教えが絶対であればこそ、争いは不可欠となる。そして、イーグルの教えは、人同士の争いを禁じていた。これは、大いなる矛盾だ。そして、神には矛盾など許されないのだ。それが神というもので、矛盾がないということが、神の必須条件なのだから。
矛盾、すなわち嘘。僕は、イーグルが嘘をつく理由を考えた。人は、理由がなければ嘘はつかないものだ。そして、嘘がある以上、イーグルはもう神ではなく、人なのだ。イーグルの嘘は一つである。すなわち、自分が唯一無二の神であるということ。そして、その嘘をつく理由とは……。僕は少し考えて、けっこう簡単にその答えに行き当たった。イーグルは、火の国の人々を一つにまとめ上げておきたかったのだ。そのために、イーグルはいくつもの嘘をついた。火の国の民が、唯一救われた民だと教えた。ほかに国が存在することを隠していた。イーグルの塔の仕事を隠していた。では何のために。人が何かするときには、見返りを期待する。イーグルは、火の国の人たちから利益を得ているのだ。どういう利益かは判らない。だけど、僕達はイーグルの利益のためにここにいる。僕達は、僕達の食事になるために生きている動物たちと同じ存在……
この考えは、僕にとって衝撃的なことだった。それに、はっきりいって、おもしろい考えではなかった。だから僕は、この考えを少しどこかにおいておくことにした。僕の今していることは、つぎに生まれてくる父さんと母さんの子供が男か女かを思い悩んでいるようなものだった。そんなことは、生まれてみなければ判らない。イーグルのことも、今の僕には判らない。
それからほんの少しして渉が帰ってきたので、僕は渉に聞いてみた。
「渉、父さんからいい知恵を授かったの?」
渉はちょっとゆううつそうな顔でいった。
「何をいわれたのか良く判らない。ただ判ったのは、誠意を持って接するって事だけだよ。あとのことはさっぱりだ」
「実際にやってみれば判るんじゃないの?」
「それから判っても遅いよ」
「でも、今日告白してくるんだろ? 父さんがそれでいいって言ったんだったら、それでいいじゃないか。あとは慶の気持ち次第だよ。一度断わられたくらいじゃ、渉は諦めないよね」
「時間がかかるのは覚悟してるよ。要は僕を結婚相手の候補にいれてもらえればいいんだから。どうせ結婚できるのは二年先だ」
「父さんからは結婚の許しをもらったのと同じだからね。まあ、頑張って来なよ」
「他人事だから気楽でいいなお前。僕なんか、心臓の動悸が止まらない」
「止まったら困ると思うけど」
「裕!」
どうやら渉を怒らせてしまったと知って、僕は口をつぐんだ。それから、僕はまた別のことを考えようと思ったんだけど、渉が落ち着きなくうろついていたので、ゆっくりものを考えるどころではなかった。熊になった渉を横目で見ながら、僕は溜息をついた。早く慶が帰ってきて、渉が出かけてしまえばいいと思った。
そうして無意味な時間が過ぎてゆき、やっと渉は出かけていった。僕は、必死に元気づかせて送り出してやらなければならなかった。
渉が出かけてから、僕はこの国のことについて考え始めた。国のことというより、今の僕の生活圏にある、僕の世界についてだ。今の僕は、学校に通いながら図書を伝承している。僕は図書を伝承するのが好きだった。記憶するのに使うエネルギーは大変なものだったけれど、伝承することで、僕は今までになかった知識を得ることができた。僕が今まで知らなかった世界を、図書を通じて知ることができた。そこには様々な世界があった。図書の数と同じだけの真理、並べられた公式、ヌクレオチド鎖の美しい構図、なにもかもが、僕を刺激し、喚起させた。そう、僕の将来の夢は、科学者になることだ。僕は、真理を知りたかった。人の心とか、複雑な社会とか、あやふやなものを僕は好まなかった。理路整然とした真実、公式にあてはめさえすればいつでも正しい答えを得られるもの、僕が求めたのはそういうものだ。だから僕は科学者になりたかった。僕の夢は、遺伝子の秘密を全て解き明かし、新しい生命を作り出すことだったのだ。
自分では伝承者より科学者の方が向いていると思った。僕は理論的な人間で、結果から原因を突き止めたり、その逆も好きだった。隠れた真実があるならば、僕は納得できるまで突き詰めて考えていたい。僕が生命の神秘に挑もうとしたのは、それが一番奥深い真実のような気がしたからだ。道半ばで僕の生命が終わるならば、それは見果てぬ夢だ。僕は、果てる夢など見ていたくはなかったのかも知れない。
それが僕の夢だった。それなのに、一度自分の世界というものに疑いを抱いてしまった今、その夢は急速に色あせてしまっていた。何故だか判らない。判らないということに、僕はひどい不快感を隠し切れなかった。そして、感じる焦り。遠くで嘲笑が聞こえる気がしていた。それは、イーグルという神の笑い声なのかも知れなかった。
どうしてこんなに心が苛つくんだろう。胸になにかがつかえているような重苦しさ。なにかをし残しているときのような、あるいは、なにかを後悔しているときのような、そんな独特のもの。そういう時、僕はいつも原因となるものをさぐった。そして、たいていの時は、原因が判って重苦しさは氷解する。ところが今日のそれは、いくら考えても原因が判らなかった。僕はその重苦しさの原因を、しばらくのあいだ考えつづけた。しかし、どんなに考えたところで、僕の心は晴れなかった。
やがて渉が帰ってきた。渉の様子で、僕は慶の答えが判るような気がしていた。
「お帰り、渉」
「ただいま」
「どうだったの?」
渉は無言で僕の前に座った。何かいいたそうだけど、言葉にできないようだった。
「渉、慶にはなんて切りだしたの?」
僕の質問に答えようとするように、渉は口を開いた。
「まずは、慶の将来設計について、もっとはっきりいえば、結婚相手について聞いた。そうしたら僕には関係ないって言われた」
「それで?」
「僕の気持ちを伝えた。僕が慶と結婚したいと思ってるってことを言った。慶は、悪いけど僕の気持ちには答えられないって」
渉は落ちこんでいすぎて、僕にはどうする事もできなかった。僕は渉が悲しかった。何とかしてあげたかった。だけど、僕に何かできる筈はない。
「理由は聞いたんだろ」
「聞いたよ。慶が言うには、僕は今まで慶にとっては友達だったから、結婚相手として僕を見ることはできないんだって。それと、僕や裕の将来設計についても触れたから、僕は、そのことについては心配いらないって話した。慶は見合いするつもりだっていってた」
沈黙が重かった。慶は、渉が嫌いなのだろうか。いや、そんな筈はない。僕達はいつも、どの友達よりも仲がよかった。喧嘩をしたこともあるけど、それでどちらかを嫌いになるとか、そういうたぐいの喧嘩じゃなかった。僕は、慶が渉を嫌いなはずはないと、自信を持って言えた。それを、渉に伝えたかった。
「慶は渉を好きだよ」
「さっきまではそう思ってたけど、今は思えない。僕は慶に嫌われているんだ」
「そうじゃないって。ただ、今はまだ渉の気持ちを聞いたばっかりだから、渉の気持ちについて考えるだけの余裕がなかったんだよ。ゆっくり考えてもらえばいいじゃないか。渉にはあと二年あるんだろ」
「すっかり自信がなくなった。もうこれ以上、慶に冷たい言葉を掛けられるのはいやだ。裕、僕は諦めたい」
「渉が後悔しないんだったら、僕はかまわないけど。ただ、渉はきっと一生思うよ。もっと努力して、慶の心をとことんまで惑わせればよかったって。結果的に慶の気持ちが変わらなかったとしても、それを確かめなければ、渉は後悔するよ。渉は、こんな事に負目を持ってはいけないと思うよ」
渉は、ほとんどなきそうな顔で考え込んでいた。僕は、今自分が言った言葉が、果たして本当に正しいことなのか判らずにいた。もちろん僕は、今の僕が一番正しいと思ったことを言ったのだ。でも、それが渉にとって正しいことなのかどうかは判らない。もしかして渉は、このまま諦めて、あとで思い出として残してしまう方を望んでいたのかも知れない。僕はそう長いこと生きている訳じゃないから判らないけど、全ての傷は、時が癒すものなのだという。今日の渉の傷は、時間がたつにつれ薄れるだろう。わざわざ傷口を広げて、塩を塗りこむことはないのかも知れない。
だけど、しばらく考えていた渉は、やがて顔を上げていった。
「裕のいうとおりかも知れない。今の僕は、自分のひっかかりを整理するために慶に告白したんだ。今諦めたら、しばらくこのひっかかりは消えないだろう。それじゃ何にもならない。明日学校から帰ったら、二度目のチャレンジをするよ」
この時僕は、何故か渉を羨ましいと思った。たった一人の女性を愛するということ。そのために、これほどまでに努力できる自分を発見できた渉。こんなチャンスを与えられた渉を、僕は最高に羨ましいと感じた。僕にはなかった試練。同じ環境で、一緒に育ってきた双子の、兄の方にだけ与えられた絶望。
僕は、渉に生まれたかったと思った。それは、初めて僕が感じた想いだった。