続・祈りの巫女
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リョウが、帰ってきたの? 10日よりも早く、しかも、ランドが大猟だって言うくらいの北カザム3頭を仕留めて。
ランドの言葉を聞いて、それが嘘じゃないんだってことが判っても、あたしはなんだか実感がぜんぜん湧かなかった。リョウは昨日の夜にはもう帰ってたんだ。あたしが、ベッドに入ってからもなかなか寝付けないでいた頃に。リョウは本当に狩りに行ってたんだ。あたしを嫌いになったから、村を出て行くことに決めたんじゃなかったんだ。
「どうするんだ? 会いに行くんだったらさっさと支度しろよ。オレが一緒に連れてってやるから」
ランドがそう言った頃には、カーヤは料理にひと区切りつけていたみたい。いつの間にかあたしのうしろに立っていた。
「ユーナ、行ってくれば? あたしの方はいいから」
「カーヤ……」
「朝飯がまだなのか。だがそれより早く会いたいんだろ? なあに、あいつはまだ寝てるかもしれないが、おまえの顔を見たら飛び起きるさ」
……なんだかあたし、自分がどうしたいのかぜんぜん判らなくなってしまっていたの。リョウが帰ってきたこと、理屈で考えたら嬉しくないはずなんかないのに、リョウに会いに行くために歩き始めることができなかった。こんな時、いつものあたしだったら、たとえランドやカーヤが引き止めたってぜったい宿舎を駆け出していたのに。気がついたらあたし、リョウに会いに行けない理由の方を数え上げていたんだ。
「リョウはまだ寝ているの?」
「ああ、たぶんな。だけど構うことはねえよ。オレのことは叩き起こしたじゃないか」
「でも、昨日遅く帰ってきたんだったら、獲物をさばいてもらったり、そういう用事はまだよね」
「毛皮と角だけだからさばくも何も……。ユーナ、おまえ、リョウに会いたかったんじゃないのか?」
ランドはあたしの様子に気が付いて、あからさまに不審そうな表情をして見せた。
あたしは、あんなに会いたかったリョウに自分が会いたくないと思っている理由が判らなくて、いつまでも立ち尽くしていた。
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あたしが動こうとしなかったから、けっきょくランドは少し怒った表情のまま帰っていった。そんなランドにお礼を言って送り出したあと、カーヤが食卓に朝食を運んできてくれて、あたしもテーブルにつく。自分がどうしてリョウに会いに行かなかったのか判らなかった。あたしでも判らないんだもん。カーヤもたぶん理解できなくて、テーブルの向かい側からあたしの顔を覗き込んでいた。
「どうしたのユーナ。どこか身体の具合でも悪いの?」
あたしは下を向いたまま首を振った。どうしてなんだろう。あたし、リョウに会ってしまうのが怖い。
「……ランドに悪いことをしちゃった。わざわざ知らせにきてくれたのに」
「そうね。でもあの人、そういうこと気にするような人に見えなかったわ。ユーナのことを気遣っているっていうより、たぶん自分がそうしたいからきたのね。きっと感動の再会を演出したかったのよ」
カーヤ、あたしが気にしないようにそんなことを言ってくれる。でもきっと本当にそう思ったんだろうな。ランドって昔から、あたしやリョウにおせっかいやいて、それをすごく楽しんでいるようなところがあったから。
「それにしてもユーナ、本当によかったわね。リョウが無事に帰ってきて」
あたし、カーヤのその声にほんの少しだけ悲しみを感じて、慌てて顔を上げた。カーヤは微笑んで、心からリョウの無事を喜んでいる表情であたしを見つめていた。その表情と声のギャップにすごく違和感を感じたの。カーヤ、どうして? あなたはリョウが帰ってきたことを悲しんでいるの?
「これもユーナが毎日祈りつづけていたからね。ユーナの祈りが神様に届いたんだわ。おめでとう、ユーナ」
そうして顔を上げたままカーヤの声を聞いていたら、さっき声に悲しみを感じたことも嘘みたいに思えた。いったいどうしたんだろうあたし。なんだかすごく過敏になってるような気がする。
「ありがとう。……カーヤ、あたし、なんだか変なの。リョウが帰ってきたこと、すごく嬉しいのよ。でも会いに行きたくないの。……リョウのことが判らなくなっちゃった。あたし、自分のことも判らなくなっちゃったの」
カーヤは少し首をかしげるようにして、あたしを見つめていた。
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もしも今リョウと会ったら、あたしはどんな顔でリョウを迎えるんだろう。リョウはどんな顔をするんだろう。あたしはいつもリョウとどんな顔で会っていたの? たった8日間離れてただけなのに、自分がどんな気持ちでリョウと会ってたのか判らなくなっちゃったよ。
「ユーナの言ってることがよく判らないわ。リョウの事が好きかどうかが判らなくなったの?」
「ううん、リョウのことは好きなの。それはほんとよ。でも……カーヤにうまく説明できない。ごめんなさい」
カーヤはそれ以上訊かないでいてくれて、食事を始めたから、あたしもカーヤの朝食に匙をつけた。
食後、あたしは途中になっていた掃除を最後まで終わらせて、神殿の書庫に新しい本を借りに行った。書庫にはいつものように何人かの神官がいて、その場にタキはいなかったのだけど、本を借りて帰ろうとしたらちょうど入ってきたタキと顔を合わせることになったの。あたしは昨日まですっかりタキにお世話になっていたから、偶然会えたのを幸いにもう1度お礼を言ったんだ。
「おはよう、タキ。セーラの日記のことでは本当にありがとう」
「いいえ、どういたしまして。オレもいろいろ勉強になったよ。今日は? 3代目の物語を借りにきたの?」
「ええ、そうなの」
「祈りの巫女は勉強熱心だね。オレも見習わないと。……ところで、狩人のリョウは祈りの巫女の友達だよね」
あたし、思いがけずリョウの名前を聞いて、ちょっと驚いてしまったの。まさかここでリョウの名前が出るとは思わなかったから。
「そうよ。リョウがどうしたの?」
「やっぱりそうだ。そうじゃないかと思ってたんだ。実は今朝リョウが北カザムの毛皮を取ってきてね。これから引き取りに行くところなんだ。もしも祈りの巫女が知らなかったら教えてあげようと思ってたんだ」
「ランドが知らせにきてくれたから知ってたわ。ありがとう。でも、どうしてタキが取りに行くの?」
「他の動物は狩人の自由にしていいんだけど、北カザムの毛皮だけは神殿の管轄なんだ。村の入口に関所があってね、狩人は山へ出る時には必ず届けることになってる。何なら祈りの巫女も一緒に行ってみるかい? 神殿のいろいろな手続きを見るのも勉強になると思うよ」
そうか、タキはリョウが北の山へ行っているって、最初から知ってたんだ。
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タキはあたしにリョウのことを教えてくれなかったけど、それは別にあたしに意地悪をしていた訳じゃない。あたしはタキにリョウの相談なんかしなかったんだもの。でもなんだか悔しくて、タキと一緒に行くことは断った。一緒に行けばリョウと会えることは判ってたのに。
部屋に戻って、新しく借りてきた物語を読み始めたけど、内容がぜんぜん頭に入ってこなかった。冒頭の部分を何度も読み返して、それなのにけっきょく1ページも進まなかったから、途中で諦めて本を閉じてしまったの。心の中がもやもやしてる。今のあたしにはリョウのことと自分のことだけで、それ以外のことを考える隙間がなかったんだ。
リョウは今なにしてるんだろう。まだ寝てる? それとも、タキが言ってた関所に行って、神殿の手続きをしてるのかな。
帰ってきたのに、リョウは真っ先にあたしに会いにきてくれないの? あたしに会うことよりも神殿の手続きの方が大切なの?
―― なんだか判った気がする。あたし、リョウに会いに来て欲しいんだ。あたしの方から会いに行くんじゃなくて、リョウの方から来て欲しいんだ。だって、あたしはランドやタキにリョウのことを聞いたけど、リョウ本人から聞いた訳じゃないんだもん。リョウが突然いなくなってしまった理由も、リョウが帰ってきたってことも、リョウの口から直接聞きたいんだ。
なんかあたし、だだっ子みたい。リョウは仕事をしてるのに、そばにいてくれないことを拗ねてるの。子供みたいに聞き分けのないことを思ってるの。こんなんじゃ、リョウがあたしを子供の頃と同じように見ていたとしてもあたりまえだよ。
リョウを好きな自分が悔しい。リョウがあたしを子供のように見ているのが、すごく悔しいよ。
今、リョウが会いに来てくれたら、あたしはいったいどんな顔でリョウを迎えるんだろう。
「ユーナ、お昼ご飯ができたわよ」
カーヤに呼ばれて、あたしは自分がものすごく長い時間ずっと考え込んでいたんだってことに気がついた。あたし、午前中ほとんど何もしないで、ずっとリョウのことを考えてすごしちゃったんだ。
食事の間、カーヤは必要なことを話すだけで、あたしに何も訊ねたりはしなかった。あたしはまだ何も話すことができなかったから、そんなカーヤの心遣いをとてもありがたく感じていた。
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昼食のあともあたしは部屋にこもって、3代目祈りの巫女の物語を読んでいた。やっと少しだけ頭が落ち着いてきて、午前中はぜんぜん入ってこなかった物語の方も、ようやく少しずつ進めることができるようになっていた。リョウはまだ頭の中に残っていたけれど、それだけで頭の中がいっぱいになるほどじゃなかったみたい。そうしてしばらく読書を続けていた時だった。突然、カーヤが部屋のドアをノックしたんだ。
「ユーナ、ユーナ、ちょっと出てきて。早く!」
あたしはすぐに気がついて、部屋のドアを開けて言った。
「どうしたの? 何かあったの?」
「いま外でタキが教えてくれたのよ。リョウがあとからくるんだって。もうそこまできてるの。せっかくだから迎えてあげましょうよ」
あたしはカーヤに腕を引かれて、あっという間に宿舎の外に連れ出されていた。あたしは突然のことでまだリョウにかける言葉の1つも考えてなかったから、自分でも訳が判らないくらい戸惑ってしまっていたの。心臓がドキドキして、すごく緊張してるんだってことが自分でも判った。これからリョウに会うんだ。リョウが、9日ぶりにあの道を登って、あたしに会いにきてくれるんだ。
夏の初めの日差しは強くて、少しの風に揺られる森の新緑がきらきらと色を変えている。その森の間の道からリョウがやってくる。あたしはずっとその道を見つめていた。最初に見えたのはランドの横顔。そのうしろからゆっくり歩いてきたリョウは、日差しの眩しさにほんの少し目を細めて、やがてあたしを見つけて微笑んだんだ。
「ユーナ!」
リョウの表情がみるみる変っていくのを、あたしははっきりと見ることができた。微笑んで、あたしの名前を呼んで、そのあとリョウは満面の笑みを浮かべた。なんのかげりもない、どこにも力が入っていない、すごく自然な笑顔。その表情は自信に満ちていて、1つのことをやり遂げた喜びに輝いていたんだ。
あたしが知っていたリョウとはまるで別人みたいだった。それ以上、あたしはリョウを見ていることができなかった。知らず知らずのうちにあたしはカーヤの手を振り払って、宿舎に逃げ帰ってしまっていた。
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宿舎に駆け込んで、そのまま自分の部屋のドアを開けて飛び込んだ。心臓がドキドキ言ってる。ベッドに崩れ落ちるように突っ伏して、あたしは少し落ち着けるように、大きな深呼吸を何度もした。それでもなかなか心臓の鼓動が収まらなかった。日に焼けて真っ黒になったリョウの顔が、強い日差しに映えてすごく綺麗で、その笑顔が眩しくて、あたしはどうしたらいいのか判らなくなってしまったの。
あんなの、リョウじゃないよ。あんなにキラキラしてて、こんなにドキドキするリョウなんてあたしは知らないよ。あたし、リョウがあんな風に笑ってくれるなんて思ってなかった。ううん、リョウがどんな顔をするかなんて、あたしはぜんぜん想像してなかったんだ。
「ユーナ、どうしたの? いきなりいなくなっちゃうなんてユーナらしくない」
心配してくれたんだろう、カーヤがドアを入ってくる。あたし、自分の部屋のドアを閉め忘れたんだ。突っ伏したままのあたしを見て、カーヤはちょっと驚いたみたいだった。
「どうしたのユーナ。……泣いてるの?」
あたしは顔を伏せたまま何回も首を振った。それで少し安心したのかな、カーヤはあたしの隣に膝をついて、肩に手を乗せて言った。
「ダメじゃないユーナ。せっかくリョウがユーナに会いにきてくれたのに」
「……あんなのリョウじゃないもん。あたしの知ってるリョウじゃないよ」
「どうしたの? まさか怒ってるの?」
あたしはもう1度首を振った。その時、今度はちゃんとドアを開ける音がして、すぐにランドの声が飛び込んできたんだ。
「ユーナ! おまえなんだって逃げるんだよ。せっかくオレが感動の再会を見ようとこんなところまでリョウについてきてやったってのに」
ランドはずかずかとあたしの部屋まで入ってきて、カーヤの反対側からベッドに腰をかけた。
「ねえ、ユーナ。どうして逃げたりしたの? リョウのことを怒ってるんじゃないの?」
「なんだよおまえ。リョウを怒ってるのか? そりゃ、おまえに何も言わずに狩りに出かけたのはあいつが悪いかもしれないが、その程度のことでいちいち怒ってたら狩人の嫁はつとまらないぞ」
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カーヤとランドに挟まれて、あたしはなんだか2人に責められているような気がしてきたの。あたし、確かにリョウのこと、少し怒ってた。でもあたしが逃げたのは違うんだもん。あたしが怒ってたことなんか、リョウの顔を見たら全部吹き飛んでしまってたの。
「……リョウ、おかしいよ。変だよ。なんでリョウはあたしに笑いかけるの? あんな顔で笑ってるの、あたしのリョウじゃないよ」
あたしはまだ顔を上げることができなかったけど、でも気配で2人が顔を見合わせたのが判った。
「なんでリョウはあんなにキラキラしてるの? どうしてこんなにドキドキするの? すごく眩しくて、あんなリョウずっとなんて見てられないよ。どうしてランドは平気なの? あたしだったら、あんなリョウと一緒に山をのぼってなんかぜったいこられないよ」
あたしが一気にそう言ったあと、ランドは身体の力を抜いて、ふうっと、大きく溜息をついたみたいだった。それから少し時間があって、今度はもっとゆっくりとした口調で、ランドが話し始めた。
「それはな、ユーナ。リョウがおかしいんじゃない。おまえの方がおかしいんだ」
そう、ランドの言葉を聞いて、あたしはほんの少しだけ顔を上げかけた。
「おまえは本当に大バカだな。あんな態度とったら、誰だっておまえがリョウを怒ってると思うじゃないか。おまえが逃げちまったから、リョウはユーナが自分を怒ってるって、落ち込んでたぞ。いいか、ユーナ。自分がしたことの責任は自分で取れよ。リョウは今日と明日はずっと家にいる。オレが聞いたんだから間違いない。おまえは今日か明日のうちに自分からリョウの家に行って謝れ。いいな!」
そのままランドはベッドから立ち上がって、宿舎を出て行った。玄関を出る時に一言、
「あー、ばかばかしい。くるんじゃなかった」
と呟いて。ランドの気配がなくなったから、ようやくあたしも顔を上げることができた。見上げるとカーヤがあたしを見つめていて、その表情には苦笑いが浮かんでいたんだ。
「セーラの恋愛では鋭くて驚いたけど、ユーナは自分のこととなるとからっきしなのね。ランドの言うとおりよ。本当にばかばかしいわ」
「……カーヤも、あたしがおかしいんだと思うの? あたしって大バカなの?」
「ええ、そう思うわ。いいからリョウのところへ行ってらっしゃいよ。今のユーナの気持ちを話したら、答えはリョウが教えてくれるわ」
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それでもしばらくはうだうだ悩んでいたのだけれど、そのうち呆れたカーヤに宿舎を追い出されてしまって、しかたなくあたしはリョウの家への坂道を降り始めた。最初にリョウを見たときのようなドキドキは落ち着いてきていたけど、少しでもリョウを思い出すとすぐに復活してしまいそうで、あたしは道の途中何度も立ち止まってしまった。この道、リョウがあたしが歩きやすいようにって、坂の急なところには階段をつけてくれたんだ。小さな川には橋をかけて、リョウの家の前にある1番急な坂道には、階段に手すりもつけてくれたんだ。
リョウはあたしのところに毎日会いにきてくれた。だけど、それよりずっとたくさんの時間を、あたしのために費やしてくれてる。リョウが作った道をゆっくり歩きながら、あたしはリョウが真っ先にあたしに会いにきてくれなくて悔しかったことを、とても恥ずかしく思ったんだ。だって、リョウがいなかったのってたったの9日間なの。そんなの、リョウがあたしにくれた時間と比べたら、ほんとにわずかな時間だったんだ。
自分のために時間を使ったら、たった9日間でもリョウはあんなにキラキラできる。ランドはあたしがおかしいって言ったけど、やっぱりリョウは少し変わったよ。ランドは気づいてないのかな。それとも、リョウはランドにはいつもあんな笑顔を見せていて、あたしが今日初めてその笑顔を見ただけだったのかな。
あたし、リョウがどんなに変わっても、ぜんぶ受け入れようって思ったのに。リョウに変な態度を取ってまたリョウを傷つけちゃったよ。ちゃんとリョウに謝らなくちゃ。リョウに謝って、あたしが思ってることぜんぶ、リョウに話すんだ。
そう、心を決めてあたしは、リョウの家のドアをノックした。でも家の中から返事はなくて、あたしはちょっと迷ったけど、ドアをそっと開けてみた。テーブルの上にはリョウが使っている狩りの道具が積んであって、いつもはきれいに整備しているのにまだ手をつけてないみたいだった。寝室のドアも開いたままで、覗き込むとゆかに靴が脱ぎ散らかしてあって、ベッドの上にリョウが仰向けで眠っているのが見えたんだ。
音を立てないように、あたしはリョウの寝室へ入って、ベッドのそばに膝をついた。そのまま、疲れて眠るリョウの寝顔を、しばらく見つめていた。
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最初、黙ってリョウの部屋に入ってしまったことがちょっと後ろめたかったけど、リョウの顔を眺めているうちにいつしか忘れてしまっていた。目を閉じて眠るリョウは何の表情も浮かべていなくて、耳を澄ましてもほとんど寝息が聞こえないくらい静かだった。狩人は動物に気配を悟られちゃいけないから、普段もできるだけ静かに行動するんだって。匂いを残さないようにお風呂には毎日入るし、だからリョウもきれい好きで、山にいる間に伸びた髭も下の家でぜんぶ剃ってきたみたいだった。
もともとリョウはそんなにふくよかじゃなかったけど、それにしても少し痩せたかもしれない。黒く日焼けして、無駄な肉がすっかり落ちて、精悍な顔つきになった気がする。それとも日に焼けたからそう見えるだけなのかな。なんだか今までよりもずっとかっこよくなったような気がするよ。
そうしてしばらく見ていたけど、リョウはぜんぜん目を覚ます気配がなくて、さすがのあたしも少し飽きてしまった。どうしよう、このまま目を覚ますのを待ってた方がいいのかな。それとも、今日のところは諦めて、明日もう1度来た方がいいのかもしれない。
あたりはそろそろ日が傾いて、リョウの寝室の窓からも夕日が差し込み始めていた。部屋の中はゆっくりと赤く染まっていって、無防備なリョウの顔にも夕日が当たっている。リョウの浅黒い肌に、夕焼けの光が当たって、あたしはまた昼間のドキドキを思い出してしまっていた。やっぱりあたし、リョウのことが大好きだよ。
ちょっとだけなら、触っても大丈夫かな。
大丈夫よね。今までずっと目を覚まさなかったんだもん。黙ってたらリョウにだって判らないよね。
あたし、本当に慎重に、ゆっくり、リョウの顔に近づいていった。息を止めて、間近になってしまったリョウのまぶたを見つめる。ドキドキしながら、そっと、リョウの唇に触れてみたんだ。ちょっと触れただけだったのに、そこからじわっと胸の中が温かくなって、でも少し恥ずかしくて、あたしはそれ以上リョウに触れていることができなくなってしまったの。
リョウに、キス、しちゃった。なんだかものすごく大切な宝物を手に入れた気分だった。あたし1人だけの大切な秘密。この秘密は、リョウにもカーヤにも、ぜったい誰にも打ち明けないんだ、って。
なのに、そう思った次の瞬間、リョウの睫毛がかすかに揺れて、リョウは目を覚ましたんだ。
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あたしがちょっと焦りながらリョウを覗き込んでいた時、リョウはぱちっと目を開けて、とたんに驚いた表情を顔に浮かべた。それから勢いよく上半身を起こしたから、リョウはベッドの向こう側の壁に頭をぶつけてしまったんだ。だけどそんなことにはぜんぜん気がついてないみたいだった。頭を抑えることもしないで、驚いた表情のまま、あたしを見つめていた。
「ユーナ……。今、オレにキスしてた……?」
やだ、リョウ気がついてる! あたし、自分がしたことの恥ずかしさで、ほとんどパニックに陥っていた。
「あ、あの、ごめ、ごめんなさ……」
「謝らないで! ……お願いだ、ユーナ、頼むから」
リョウはあたしの肩を掴んで、あたしの言葉をさえぎった。リョウの顔が間近になってしまって、でも両肩を掴まれたあたしはベッドの前に膝をついたまま逃げることもできなくて、まともにものを考えることもできなくなってしまった。リョウが怒ってるよ。それだけで、あたしにはリョウが言ってることなんて、ぜんぜん耳に入ってなかったんだ。
「あの、だから、そんなつもりじゃなくて、起きてるなんてぜんぜん思わなくて……」
「言い訳を聞きたいんじゃないんだ! ユーナ、ほんとにオレにキスしたのか?」
「えっと、……ごめんなさい」
「謝るなって! オレ、このことだけはぜったいユーナに謝られたくない!」
そう半ばリョウに怒鳴られるみたいになって、あたしは思わず口をつぐんだ。あたしの頭はパニック状態で、口を開いたらもうごめんなさいしか出てこなくなっちゃってた。でも、謝れば謝るほどリョウは怒るんだもん。心臓がドキドキして、リョウの顔をずっと見つめているしかできなくなって、あたしをじっと見つめていたリョウはやがて少しだけ息をつくように視線をそらしたんだ。
「……ごめん、ユーナ。大きい声を出して。……1つだけ、首を振るだけでいいから教えて。今、オレにキスした……?」
秘密にしようって思ってた。ぜったい誰にも教えないって。でも、しょうがないよ、本人に見つかっちゃったんだもん。あたしは恥ずかしくて、でも謝ることもできなかったから、少しだけ顔を上げたリョウの視線を避けるように1つ、うなずいた。
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