続・祈りの巫女



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 自分がうなずいた時のリョウの表情を、あたしは見ていなかった。恥ずかしくて、うなだれたまま顔を上げることができなかったから。あたしの両肩を掴んだリョウの手は、力を入れすぎたみたいで震え始めてた。あたしもたぶん痛かった。でも、そんな痛みはぜんぜん気にならなかったんだ。
 やがて、リョウはゆっくりと手の力を抜いて、あたしを掴むのをやめた。あたしも少しだけ落ち着いてきたから、やっとリョウを見上げることができたの。リョウの目はあたしを見ていた。いつものリョウとはちょっとだけ違う、でもすごく優しい微笑を浮かべて。
「ユーナ、いつまでもゆかに座らせておいてごめんね。ここへ座るといいよ」
 リョウはそう言ってベッドの隣を少し空けてくれた。あたしもまだ戸惑っていたけど、リョウの言うとおり、少し膝の砂を払ってからリョウの隣へ座りなおした。こうして隣に座ると、リョウはすごく背が高いんだってことに気がついた。ずっと知ってることなのに、ふとした瞬間、いつもあたしはそのことに気がつくんだ。
「オレに会いにきてくれたの?」
 そう、リョウが言ったから、あたしもここへくるまでに考えてたことを思い出していた。
「謝りにきたのよ。さっきはごめんなさい。リョウが帰ってきてくれたのに、あたし逃げたりして」
「ユーナが怒っててもしかたないよ。黙って狩りに行ったのはオレが悪いんだから。オレの方こそ謝らないと」
「ううん、さっきのは違うの。あたしあのあとランドとカーヤに怒られたもん。……あの時ね、リョウがすごくキラキラしてて、すごくきれいな笑顔で、まるで知らない人みたいに見えた。あたしが好きなリョウはこんな人じゃないって、そう思ったの。すごくドキドキして、それ以上リョウのこと見ていられなかった。だから逃げたの。リョウのこと怒ってたからじゃないの。だからごめんなさい」
 あたしが話している途中から、リョウは驚いたような、信じられないような表情であたしを見ていた。そして、あたしが言葉を切ると、唇を固く結んで反対側を向いてしまったんだ。リョウ、どうしたんだろう。カーヤは、あたしがこのことをリョウに話したら、答えはリョウが教えてくれるって言ってたのに。
 あたしがリョウに声をかけようと少し乗り出したら、リョウは逆にあたしから遠ざかるように座る場所をずらした。


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 あたしが謝ったのに、リョウは黙ってあたしに背を向けているだけだった。リョウ、まだ怒ってるの? こんなことで怒ったまま許してくれないなんて、いつものリョウじゃないよ。
「リョウ?」
 あたしがそう声をかけたら、ようやくリョウはぼそっと呟いたんだ。
「……ベッドになんか座るんじゃなかった」
「……え?」
「いや、なんでもない。……ユーナ、今オレが何考えてるか判る?」
 リョウは向こう側に足を組んで、横目であたしを見て言った。こんなリョウ、あたしは知らない。だから今リョウが何を考えてるかなんてぜんぜん判らないよ。そう思って、あたしが首を振ったら、リョウはまた視線をあさってに向けてしまった。
「判らないならそれでかまわないから、ぜったいそこから動かないこと。間違ってもオレに近づいたりするなよ。できれば黙って、今度はオレの話を聞いて。つまらなかったら途中で帰ってもいいから」
 リョウ、いったい何を怒ってるんだろう。あたしに、近づいたりするな、って。あたしが近くにいるのが嫌なくらい、リョウはあたしを怒ってるの? もしかして、あたしが内緒でリョウにキスしたのが、リョウはそんなに嫌だったの?
 そこまで考えてあたしはすごく悲しくなった。でも、そのあとすぐにリョウが話し始めたから、言われたとおりじっと動かないでリョウの話に耳を傾けたんだ。
「まず始めに、ユーナにはちゃんと謝らないといけない。オレ、ユーナに何も言わないで8日も村を空けたんだ。ユーナがすごく心配してくれてたことを今日ランドに聞いたよ。本当にごめん。最初にちゃんと話してから行くべきだった」
 そう、あたしに頭を下げた時だけ、リョウはあたしの方を向いた。あたしは自分の中ではリョウを許していたし、だからリョウの謝罪を受け入れずにいる理由はなかった。あたしが「次からはちゃんと知らせてから出かけて」と言って微笑みかけたら、リョウも少しだけ微笑んで、そのあと弾かれたようにまたあちら側を向いてしまった。


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「前にユーナには話したことがあるね。オレは子供の頃、ユーナがシュウとばかり遊ぶのが悔しくて、ユーナに意地悪ばっかりしてた。オレの我儘でユーナを傷つけてた。シュウが死んでからはユーナにずっと優しくしてきたけど、それで足りるなんて思ってなかったんだ。どんなにオレが優しくしたって、あの頃ユーナを傷つけてた事実に変わりはないんだ。昔のことを思い出したユーナは、最初は以前と変わらないように振舞ってたけど、そのうちどことなくオレを怖がるようになった。小さな頃、オレにいじめられてたことを無意識のうちに思い出してるんだ」
 リョウ、そんな風に思ってたの? 違うよ。あたしがリョウを怖いと思ってたのって、小さな頃のことを思い出したからじゃないよ。リョウがずっとあたしに優しくしてくれて、だけどその優しさの中に違うリョウがいるってことを無意識に感じてたからなんだ。本当のリョウは優しいだけじゃないんだ、って。でも、あたしはその違いをリョウにうまく説明できる気がしなかった。あたしは黙ったままだったし、リョウはあたしの顔をぜんぜん見ていなかったから、何ごともなかったかのようにリョウは話を続けた。
「だからオレはもっとユーナに優しくしたかった。優しくすればユーナはオレを怖がらなくなって、いつかは子供の頃のことを忘れてくれるって。でも……ユーナが言ったんだよな。優しくなくてもいい、って。優しいオレじゃなくてもいいんだって。その時オレ、ユーナに否定されたような気がしたんだ。オレはユーナにはもう必要のない人間なんだ、って ―― 」
「違うもん!」
 気がついたらあたしはそうリョウの言葉をさえぎっていて、驚いたリョウはあたしを振り返っていた。
「あたし、そんなつもりで言ったんじゃないもん! リョウがずっとあたしに優しくしてくれて、あたしは嬉しかったけど、でもそれってリョウがすごく無理してるみたいに見えたんだもん。本当のリョウはもっと怒ったり拗ねたり、たくさん心の中にあるのに、それをぜんぶ殺してたらそれはリョウじゃないんだもん。あたしは優しいリョウでいてくれるより、嫌なことはちゃんと怒ってくれるリョウでいて欲しかった。タキの話をしたら「オレの前で他の男の話なんかするな!」って怒って欲しかったんだもん。リョウのことが大好きだから、リョウの好きなことも嫌いなことも、あたしはぜんぶ知りたいよ……」
 一気に感情が高ぶってしまって、あたしは少し涙目になっていた。


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「……リョウ、勝手に自分だけで考えて、あたしのこと判ったような気になって、必要ないなんて言わないでよ。リョウがいなくて、もう2度と帰ってこないかもって、おかしくなりそうだったんだから。リョウがいつもいつも優しかったら、リョウが怒っててもあたしには判らないんだよ。知らない間に傷つけてるかもしれないって、そんなこと思ってたら、あたしリョウに何も言えなくなっちゃうよ。リョウがいない間あたし本当に怖かった。リョウのこと傷つけて、でももう一言も謝れないのかもしれないと思って……」
 目に、たくさん涙がたまってて、リョウがそっと手を伸ばして頬に触れた時、一筋ずつこぼれ落ちた。リョウがすごく戸惑ってるのが判った。感情が高ぶりすぎて涙が出ちゃうなんて、すごく子供みたいで嫌だったけど、でもこれがあたしなんだ。リョウに子供のように扱われて、リョウの恋人にはまだまだふさわしくないって思われても。
「……たぶん、ユーナの言うとおりだな。オレは自分で勝手に考えて、ユーナのことを判ったような気になってた」
 リョウは、あたしの涙をずっとぬぐっていた。ゆっくり、たぶん必要以上の時間をかけて。
「ユーナは誰のことでも一生懸命で、夢中になると他のことなんか何も見えなくなる。カーヤのことでも、泣きながらオレに怒鳴り込んでくるくらい一生懸命だった。だから、ユーナがオレのことで一生懸命になってくれるのも、その延長なんだって思ってた。ユーナがオレのことを好きだって言ってくれるのは、オレがずっとユーナに優しくしてきたから。そう思い込んでた」
 そうなの? あたし、リョウは誰にでも優しいから、あたしへの優しさが他の人に向けたのと同じなのかどうか悩んでた。同じようにリョウも、あたしが誰のことでも一生懸命だから、リョウに向けた一生懸命も他の人と同じだと思ったの?
 カーヤに言われた、あたしは自分の気持ちが伝わりにくい人なんだ、って、もしかしたらこのことだったのかもしれない。
「あたし、リョウのこと他の人と同じになんか思ってなかったよ。あたしは父さまも母さまもカーヤも好きだけど、リョウを好きなのとはぜんぜん違うの。カーヤが頭が痛いって言えばすごく心配だけど、リョウのことはなにもなくても心配なの。ほかに心配事が何もなかったら、気がつくとリョウのことを考えてるの。あたし、もっと大人になったら、いつかリョウのお嫁さんになりたい。そう思ってるの」
 あたし、もうぜったいに誤解されないように、心のぜんぶの想いを込めてリョウに言った。あたしがそう言ったあと、リョウは唇を固く結んで、あたしから目をそらした。そして、しばらく沈黙したあと、突然リョウは勢いよくベッドから立ち上がったんだ。


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「送っていく」
 そう一言だけリョウは言って、あっという間に寝室から出て家の外まで歩いていってしまった。あまりの出来事に呆然としちゃったよ。あたし、またリョウを怒らせるようなことを言ったの? またリョウは何か誤解したの? あたしはリョウのお嫁さんになりたいって言ったんだよ。これ、どう解釈してもぜったい誤解できないと思うし、リョウがあたしと結婚したくないと思ってたって、それなら「オレはユーナと結婚する気はない」って言えばいいだけだと思うんだけど。
 もちろん、そんな言葉を言われたらあたしは悲しい。リョウの目の前でわんわん泣いちゃうかもしれない。そうか、リョウは優しいから、もしかしたらあたしを悲しませるのが嫌でその言葉を言えないのかもしれない。あたしを傷つけたくないから、どう言えばいちばんあたしが傷つかないか、それを今独りで考えてるのかな。
 んもう、結果が同じならどう言ったって同じだよリョウ!
 あたしも部屋から出て、家の外にリョウのうしろ姿を見つけて、気配に気づいたリョウが歩き始めたそのうしろをついていったんだ。
 リョウの歩き方はゆっくりで、あたしにどう話をしようか考えているのが判った。あたりはもうかなり暗くなりかけていて、道が見えないほどじゃなかったけど、でもうっかりしていたら段差につまづいて転んでしまいそうだった。リョウはずっと下を見たまま考え込んでいたけど、やがて大きく溜息をついて、やっと最初の一言を話した。
「ユーナ、オレは勝手に考えて、ユーナに必要とされてないと思った」
 ……そうか、さっきあたしがリョウの言葉をさえぎっちゃったから、リョウはその続きを話し始めたんだ。リョウにはまだ言いたかったことがあるんだ。今度は邪魔しないように、あたしはもう何も話さないって、心の中で自分の口を縫い付けた。
「オレがユーナに毎日会いに行ってたのは、ユーナに何かあった時に助けたかったから。毎日ユーナの話を聞いてたら、ユーナに何かあったときにはすぐに判ると思ってた。ユーナに必要とされる男でいたくて、だから夏の狩りのことも話さなかったんだ。だけど、そんなことを続けてても、けっきょくユーナはオレを必要としてなかった。このとき、オレはもうどうしたらいいのか判らなくなっちまって……。恥ずかしいことだな。オレは、何もかもから逃げ出したくて北の山へ行ったんだ」


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 もし、今の季節が夏じゃなくて、北の山という狩場がなかったら、リョウはあたしが思ってたように本当に村を出て行ってしまったのかもしれない。あたしはあの時リョウに、そのままのリョウでいて欲しいって言ったつもりだった。もう、シュウの真似をしなくてもいいよ、って。そう言ったつもりだったのにその思いはちゃんと伝わってなかったんだ。
「北の山の狩りは汚いんだ。いや、別に北の山が汚れているとか、そういうことじゃなくて。……オレたち狩人の仲間でも、今年は北カザムを5頭も狩ってやったんだとか、自慢する奴がいる。だけどそいつは北カザムを殺しただけで、食べてないんだ。オレは、動物を食べてやれない狩をするのが嫌だっだ。冬の北カザムだけだって村の通貨はまかなえるから、オレはただ殺すだけの夏の狩りへは行きたくなかったんだ」
 口を閉ざして、黙ったままだったけど、あたしは言いたかった。リョウ、あなたは悲しいくらいに優しいよ。リョウのこの優しさは、けっしてシュウの真似をしてる訳じゃないよ。母さまが言ってたじゃない。リョウは、人と関わるのが難しくて、でもとても素直な子供だったんだ、って。
「だけど、実際に狩をしてみて思ったんだ。夏の狩りは毛皮のためだけに北カザムを狩る。それはすごく汚いことで、オレにとっても嫌な仕事だった。でも、そういうことをしなければならない時もあるんだ。オレはうまく言えないけど、狩人になったからには、そういう狩りの汚い部分もぜんぶ背負わないといけない。それが狩人の責任なんだ。……ユーナ、オレは独りで生きるだけなら、その日の食料になる分だけ動物を狩れば生きていける。生きている獣に命がけの勝負を仕掛けて、それに勝った時に初めて明日の命をつなげることができる、そういう生き方でいい。でも、誰かと生きようと、誰かを守ろうと思ったら、それだけじゃ済まされないんだ。オレ独りなら着るものだって動物の毛皮で十分だけど、産まれた子供にやわらかい布を着せてやることはオレにはできない。誰かを守るってことは、そういう汚い仕事もできる強さがなければいけないんだ」
 そう言葉を切ったそのとき、リョウは初めて振り返っていた。リョウの笑顔は薄闇の中でもはっきり判るくらいキラキラしていて、あたしはまだドキドキしてきちゃったんだ。
「北の山に行ってよかったと思う。オレも誰かのために何かが出来るんだって、自信が持てるようになったから」


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 リョウの笑顔にドキドキする。やっぱりあたし、リョウのことが好きだよ。あたしはリョウを諦めなければいけないの? リョウにとってあたしは小さな女の子のままで、だからリョウが誰かと恋して結婚するのを黙って見ているしかないの?
 泣きたくないのに、リョウの笑顔を見ていたらすごく悲しくなった。泣いてもリョウを困らせるだけなのに。リョウ、もういいから早く言ってよ。どんな言い方でもいいよ。あたしのことはただの近所の女の子で、好きになることはできなかった、って。
 頬に涙が落ちた時、リョウは一瞬のうちに表情を曇らせて、ちょっと苦しそうな顔を見せた。そして次の瞬間、リョウはいきなりあたしの腕を引いて、大きな身体に包み込むようにあたしを抱きしめたんだ。
「ユーナ、ユーナ……」
 耳元で聞こえたリョウの声はすごく苦しそうだった。抱きしめられたあたしはもちろんびっくりして、しばらく呼吸が止まってしまった。リョウの胸に力いっぱい押し付けられたあたしも苦しかった。リョウ、いったいどうしたの?
「……いつもそうだユーナは。オレが、いったいどんな気持ちでおまえのこと見てるかなんてぜんぜん気づかないで、あんなところであっさりキスしてみたり、あんなこと言って……」
 ……リョウ、怒ってるの? いったい何を怒ってるの? ……頭がボーっとして、なんだかちゃんと考えられないよ。リョウの匂いがする。息が苦しくて、身体の力が抜けていくみたい。
「どうしてこんなタイミングで泣くんだよ! この ―― 」
  ―― 気がついたとき、あたしの唇はリョウの唇にふさがれてた。
 びっくりして、息が苦しくて、無言のままあたしは少し抵抗した。だって、あたし今の今まで泣いてて、だから鼻で息できなかったの。口がふさがれちゃうともうどうしようもなくて、しまいには片手でリョウの胸を叩いて必死でリョウに教えようとした。リョウはすぐには気づいてくれようとしなくて、でも抵抗を続けていたら、やっとリョウはキスを止めてくれたんだ。
 身体が自由になったあたしは、何度も大きく呼吸をした。リョウはあたしを抱きしめるのもやめていて、やっとあたしが顔を上げた時には、また背を向けて歩き始めてたの。


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「リョウ、待って!」
 せっかくリョウがキスしてくれたのに、あたし最悪。きっとリョウ怒っちゃったよ。そんなに早足じゃなかったけど、リョウが普通の歩き方で歩いたらあたしは小走りでついていくのがやっとで、必死で追いかけながらリョウの背中に声をかけた。
「ごめんなさいリョウ。あたし、泣いてたから鼻で息できなかったの。リョウは泣いたことがないから判らない? 泣くとね、涙が鼻水になっちゃって、鼻が詰まっちゃうのよ。だから怒らないでリョウ。リョウがキスしてくれたのが嫌だったんじゃないの」
 言いながら、あたしはまた泣きたくなっちゃったよ。リョウが初めてしてくれたキスだったのに、あたし、もっとちゃんとリョウのキスを感じたかったよ。
 そうして少しの間リョウを追いかけていたら、やがてリョウはぴたっと足を止めた。
「リョウ?」
「……あ、うん。ごめん。ちょっとオレ、自分に驚いてた」
 リョウは片手で頭を抑えて、そのまましばらくじっと考えているみたいだった。あたしもリョウの言葉の意味が判らなかったから、うしろからリョウを見守っているしかできなかった。
「外を歩いたら少しは頭が冷えると思ったんだけど。……ごめんね。危うくユーナを窒息死させるところだったな」
 そう言って再び振り返ったリョウには、さっきあたしを抱きしめた時の雰囲気なんか微塵もなかった。なんか、リョウがあたしにキスしてくれたなんて、まるで嘘だったみたい。でも、あたしを見てほんの少ししたとき、リョウの表情はまた変わって、なんだかすごく幼い顔で拗ねたように見えたんだ。
 そんな表情で、リョウはゆっくり近づいてきて、そっとあたしの肩を抱いたの。
「やっぱり、顔を見ちゃうとダメだな。……狩りから帰ってきて、ユーナに会ったら最初に言おうって思ってた。なんかいろいろあってタイミング外れたけど、おかげでずいぶん言いやすくなった。
  ―― ユーナ、オレと結婚して欲しい」


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 肩を抱いたリョウの息はすごく近かった。さっき、リョウはその唇であたしにキスしてくれたんだ。それが初めて実感として押し寄せてきたみたいで、あたしは急にリョウに肩を抱かれているのがすごく恥ずかしい気がしたの。リョウがこんな風に肩を抱いてくれるの、今までだって何回もあったのに。優しく肩を抱いてくれて、頭をなでてくれて、そのときあたしはすごく元気が出てきたんだ。
 なんか、今までとはぜんぜん違う世界にいるみたい。リョウの手の感触も、まるで初めて触れているみたい。こんな風に思えるのはあたしが変なの? リョウは今どんなことを思ってるの?
「……小さな女の子だって言ってたよ。あたしが他の人と結婚したら、あたしの家族も守ってくれるんだ、って」
 初めてのリョウに戸惑ってしまって、あたしはそんな返事をした。
「それは嘘。オレ、ユーナのことがずっと好きだった。ユーナがシュウのことを好きだったときも、シュウが死んでシュウのことを忘れてた時も、オレはユーナのことしか見てなかった。ずっとユーナと結婚したかった」
 嘘、ついてたの? リョウ。あたしがリョウのこの言葉で、すごく悲しい気持ちになってたのに。
「小さな女の子だなんて最初から思ってない。ユーナのことは、オレはずっと1人の女として見てた。オレが男だから、ユーナは女なんだって。だけどそんなこと言ったらユーナが怯えそうだったからね。いつも、顔を見るたびにオレはユーナにキスしたくて、でもユーナがオレのことをそう思ってくれてなかったら逃げられちゃうだけだし」
「……そんなの、知ってたらあたしこんなに悩まなかったよ」
「それはオレも同じ。ユーナが悩んでくれてるって知ってたら、夜中に大酒飲んで壁に頭打ちつけながら絶叫したりしなかった」
 そう、リョウが言ったその姿を思い浮かべて、あたし思わず吹き出していたの。リョウはそんなことしてたの? 確かにリョウの家のまわりには誰の家もないから、夜中どんなに絶叫しても誰にも笑われたりしないけど。
 リョウは、そんなちょっと恥ずかしい自分も、あたしに見せていいって思ってくれたんだ。
「それで? オレと結婚してくれる?」
 耳元でリョウにささやかれて、あたしは自然にうなずいていた。


100
 山の道は日が沈むのもすごく早くて、それほど時間が経ってる訳じゃないのに、足元はもう見えなくなり始めていた。リョウがあたしの手を引いて、転ばないように気を遣いながらゆっくり歩いてくれる。これがあたしだけのリョウだよ。いつかあたしはリョウと結婚して、毎日この道を神殿に通うようになるんだ。
「あたし、リョウの家に帰るようになるのね。毎日神殿の宿舎に行って、でも帰る家はリョウの家になるの」
 このときリョウは振り返らなかったけど、つないだ手を握り締めることで答えてくれた。
「早くその日がくるといいな。……リョウ、いつ結婚するの?」
 リョウは足を止めて、振り返って笑ってくれた。その笑顔にドキッとする。あたし、リョウの笑顔にしばらく慣れそうにないよ。
「……ユーナが16歳になって、オレが20歳になったら」
 あたしが16歳になって、リョウが20歳になったら ――
「2年後の……、秋……?」
「そう。2年後の秋。それ以上は待たないから」
 あたし、あと2年と少しでリョウのお嫁さんになれるんだ! 早くその時がくればいいのに。
「ユーナ、今、泣いてない?」
 リョウがちょっと困ったようにそう言って、あたしは言われた言葉を不思議に思ったけど、今は泣いてはいなかったから素直にうなずいた。そうしたら、リョウはゆっくり顔を近づけてきて、そっとキスしてくれたの。胸の中がかっと熱くなって、心臓がドキドキして、あんまり幸せでめまいがしそうだった。
「……きっと、あと2年経ったら、ユーナはもっときれいになってるだろうな」
 リョウが顔を赤くしながらそう言って、あたしはちょっと吹き出すように笑った。リョウだって今よりずっとかっこよくなってるよ。あたし、頑張るから。リョウのお嫁さんにふさわしくなれるように。
 みんなに頼りにされる祈りの巫女になって、お料理もお裁縫も誰にも負けないように練習して、リョウが自慢に思える女性になるんだ。

  ―― リョウが今までくれた優しさを、これから少しずつ返していけるように。
 そんなあたしの想いは、リョウの微笑みに背中を押されて、いつか現実になるような気がした。




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