続・祈りの巫女
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昼間は神殿の書庫でセーラの日記を読んで、夕ご飯のあとはリョウのために祈りを捧げる、そんな生活が続いていた。タキは1日の最初に日記を棚から出してくれて、それからは隣の部屋で自分の勉強や仕事をしていた。ときどき書庫には他の神官が出入りすることがあったけど、それだけで、あたし以外は誰もいなかったから、あたりは静かでずっと集中して日記を読むことができたんだ。もしかしたら、隣の部屋にいる神官たちも、あたしの邪魔をしないようにできるだけ静かにしていてくれたのかもしれない。
15歳頃のセーラの日記には、頻繁にアサが登場するようになっていた。アサは毎朝のようにセーラの宿舎にやってきて、早起きして森から摘んできた季節の花や、その年いちばん早い季節の果物や野菜なんかを置いていった。客観的に日記を読んでいたあたしには、アサが何か口実を作ってセーラと話をしにきていることが、すごくよく判ってしまった。セーラにもそれは判ってたみたい。だって、おいしそうな野菜を持ってきたアサに「これ、ジムのお弁当にぴったり」なんて思いっきり言ってたりするんだもの。
この頃のセーラはお昼近くなるとジムのためのお弁当を作って、ジムを探しに森の中へ入っていってる。物語ではジムに恋していたセーラの気持ちがたくさん描写されていたけど、日記の方ではジムとのことよりもアサとのことの方が多かった。もちろん、ジムとどんなやり取りをしたのか、そういうことも書いてあった。だけどそれは、「ジムとこういう話をしたことをアサに話した」というような書き方が多かったんだ。
物語を読むことで、あたしはたぶん少しだけ先入観を植え付けられていたみたい。だけどそれにしてもだんだんおかしいと思い始めていた。セーラは本当にジムに恋をしていたの? 確かに、ジムに毎日お弁当を届に行っていたのは本当だったし、アサがセーラに片想いしていたのも本当だったけど。
でも、あたしのそんな違和感も、セーラがジムに告白をするところまでだった。その日の日記はいつもの3倍以上あって、セーラがすごく悔しかったことや悲しかったことが切々と綴られていたんだ。
『 ―― 私はジムを手に入れたかった。ジムも私を愛してくれていると思っていた。最近少しだけ優しくなったのが私を愛し始めている証拠だと思った。 ―― ジムはもしかしたら、親友のアサの気持ちを考えていたのかもしれない。アサが私を愛していることを ―― 』
セーラは確かにジムに恋をしていた。そしてもしかしたら、ジムもセーラを愛していたのかもしれないんだ。
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あたしはこの日の日記を何度も繰り返して読んでいた。セーラがジムに告白して、でもジムは「オレとおまえじゃ合わない。おまえにはアサの方が似合ってる」と言って断った。ジムはアサの親友で、アサがセーラに恋をしていることを知っていたから、アサの気持ちを考えてセーラの告白を断ったのかもしれない。
あたし、このときの3人を自分の立場に置き換えようとした。あたしはリョウのことが好きで、親友のカーヤもリョウのことが好き。だけどあたし、カーヤのためにリョウを諦めたりできないよ。リョウに「あなたにはカーヤのほうが似合ってる」なんて ――
―― あたし、言ったじゃない! リョウに「どうしてカーヤじゃダメなの!」って!
あの時のあたしにはカーヤが泣いているのがつらくて、誰よりもカーヤが大切だったから、あたしはリョウにそう言ったんだ。あの一瞬、あたしはリョウよりも自分よりも、カーヤをいちばん大切に思ったんだ。ジムが本当に心からセーラを好きだったとしたって、アサにセーラを譲る気持ちにならなかったとは言えないんじゃない? その時、本当に自分よりもアサの方が大切だって、そういう気持ちにならなかったとは言えないよ。
物語の中では、アサがセーラに恋して、セーラがジムに恋する。気持ちはそれだけしか書いてなかったけど、あたしが考えたよりもずっと、人の気持ちは複雑なのかもしれない。表面に現われたのはジムがセーラの告白を断ったという事実だけだったけど、その裏にあるのはもっと複雑な人の気持ちなんだ。
セーラはずっとジムに恋をしている。一途に恋をして、ジムのためだけに尽くしている。だけど、セーラの気持ちは本当はそれだけじゃないのかもしれない。表面に見えないところで、セーラの心は揺れ動いているのかもしれない。
あたしは更に日記を読み進めていった。アサは毎日のように口実を見つけてセーラに会いにきて、優しい言葉をかけていく。そういえば、こういうところリョウに似ているわ。リョウはアサのように、あたしを好きだから毎日きてくれてたのかな。ランドが言ってたみたいに毎日あたしを見張りにきてたのかな。それとも、あたしには判らない理由があるのかな。あたしが小さなリョウを傷つけた事実は変わらない。もしもリョウが村を出て行ったのでなかったら、あたしはリョウに訊きたいことがたくさんあるよ。
リョウがいなくなって5日目のこの日、独りきりの書庫で、あたしは誰も知られず静かに涙を流していた。
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セーラの日記もそろそろ終盤に近づいてきていた。セーラ17歳の夏はいつもよりも雨が少なくて、その分暑くて、湖の水位もかなり下がっていた。あとの時代になってからの研究では、それが予兆だったのではないかと言われてる。最初にその怪物が姿をあらわしたのは村の北側で、でもその時にはまだ怪物がどこからどうやってきたのか、ぜんぜん判らなかったんだ。
物語を読んだときには、すぐにも村人が神殿の山へ避難したように思えたけど、実際セーラの日記を読むと、怪物が現われてから村人が避難するまでに少なくとも5日以上はかかっていた。その5日間で犠牲になった人は60人くらいにのぼる。そのうち約40人は、避難が早ければ犠牲にならずに済んだ人たちだった。
セーラはその目で怪物を見ていなかった。だから怪物がどんな姿をしていたのかは噂でしか判らなくて、日記にも大きな怪物としか書かれてはいなかった。神殿がある東の山に避難してくる人や、怪我を負って運ばれてくる人たちの混乱の中、セーラは必死で状況を把握することに努めながら、でもほとんどの時間は神殿で神様に祈りを捧げることに費やしていた。
このとき、村全体でどんなことが起こっていたのか、きちんと把握していた人はおそらく1人もいなかったと思う。セーラの姿を見た村の人たちはみんな「夫と子供の仇を取ってくれ!」とか「この子の怪我を治して!」とか、たった1人しかいない祈りの巫女セーラに向かって自分の願いだけを訴えたの。セーラだって混乱していたのに。そのうちセーラは1日中神殿にこもるようになって、食事と寝る時以外はずっと祈り続けることになってしまった。
セーラに神殿の外の様子を伝えるのは、神官であるアサの役目になっていた。アサはセーラのために神殿の扉を閉ざして、セーラが外に出なければならない時にはボディガードのようなこともやっていたの。そのアサが、あるとき命の巫女が募った怪物退治に志願することをセーラに話した。その時、セーラとアサは、初めて喧嘩らしい喧嘩をしたんだ。
今まで、セーラの言うことは何でも聞いていたアサ。そのアサが、セーラの「私のそばから離れるなんて許さない」という言葉を聞かなかった。セーラがなにを言っても気持ちを変えなかった。あたし、心臓がドキドキしてきちゃったよ。だって、セーラの日記はまるで予言のようだったから。セーラはこのときアサが死んでしまうことを知らないはずなのに、まるでそれを予見しているかのように、アサのどんな説得の言葉にも耳を貸そうとしなかったんだ。
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でもよく考えてみれば、神官のアサは今まで勉強ばかりしていて、身体を動かすことには不慣れだったから、怪物退治にこれほど向いていない人もいなかったかもしれない。命の巫女にはもう1人神官が同行したのだけれど、その人が命の巫女の騎士だったことが今は判っている。でも、当時は一部の人以外誰も知らないことで、アサがセーラの騎士だってことも知られていないんだ。セーラはたぶん純粋にアサを心配していたんだろう。そして、アサがセーラのために怪物退治をしようとしたことは、疑いの余地がなかった。
その日から、セーラの日記の中にはほとんどアサしか登場しなくなってる。アサが、小さな頃からどんなにセーラに優しくて、どれだけアサに慰められたか。自分を好きでいてくれてどれだけ嬉しかったか。だからアサがセーラの言うことを聞かなかったのがどれほど悔しかったのか。このときのセーラには村の平和なんてどうでもよかった。ただ、アサが戻ってきてくれさえしたら ――
この日記を読めば誰にだって判ると思う。セーラはアサのことが好きだったんだ、って。物語の中でまるで愛する人が死んだ時のように悲しんだのもあたりまえなんだ。だって、セーラはアサを愛していたんだもん。日記にアサの記述が多かったのも、セーラがアサと過ごす時間をすごく楽しんでいたから。だったら、ジムへの気持ちが嘘だったの? ……ううん、ジムに恋をしていたのも、セーラには真実だったんだ。
アサが死んだことを神殿のセーラの元へ知らせにきたのはジムだった。ジムも親友の死にショックを受けていたとセーラは日記に書いている。このときのジムは優しかった。今まで、まるでセーラに優しくするのは自分の役目じゃないとでもいうように、セーラをそっけなくあしらっていたジムだったのに。セーラがアサを好きだって、ジムはちゃんと知っていたんだと思う。だからこのとき「オレにはアサの代わりはできないと思うけど」と言いながら、セーラを抱きしめたんだ。
この日の日記にセーラは「私はアサを失ったけど、ジムは失いたくない」と書いている。セーラはすごく日記を書くのが下手で、自分の気持ちをストレートに日記に表わすことも、もしかしたら態度に表わすことも苦手だったのかもしれないけれど、それでもこの日記から読み取れたことが1つあった。
セーラは、アサとジム、2人の人を愛していた、っていうこと。
そして、たぶんアサとジムの2人も、心からセーラを愛していたんだ。
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日記は、セーラが死んでしまう前日で終わっている。アサが死んだ翌日からこの日までの日記はほとんど白紙のようなもので、1日中神殿で祈っていたことしか書かれていない。たぶんセーラは日記を書く時間を削って、もしかしたら食べたり眠ったりする時間すらも削って、ひたすら祈り続けていたんだ。アサが守ろうとした村を救うために。
これはあたしの想像でしかなかったけど、そんなに外れていない気がするの。だって、セーラはジムを失いたくなかったんだもん。怪物が退治できなかったら、やがて神殿も怪物に襲われてしまうかもしれない。そうしたらジムだって死んでしまうんだ。セーラが祈ることで村を救うことができたら、セーラもジムと幸せになれたかもしれない。
でも、セーラは力を使い果たして死んでしまった。物語の中で、ジムはセーラの亡骸を一晩中抱きしめていた。セーラの日記を読み終えたあたしには、その事実はすんなりと納得できるものだったの。でも、どうしてこの物語を書いた神官は、他の人がちゃんと納得できるような形で物語を書くことができなかったんだろう。この神官は日記を読まなかったの? もしもちゃんと読んでいたら、あたしですら理解できたセーラの気持ちを理解できなかったはずはないのに。
日記を読み終えた日の午後、タキはあたしのために時間を割いてくれたから、あたしはタキにお礼と、日記を読んで判ったことを大まかに話し終えていた。この日記をタキは以前に読んでいたはずだった。それなのに、あたしが言った「セーラはアサを愛していた」ということに関して、あまり納得していないように思えたの。
「 ―― 確かに祈りの巫女が言うように、セーラの日記にはアサの記述が多いよね。だけどそれは神官であるアサと接する時間が長かったからじゃないのかな。だって、セーラは間違いなくジムを好きだったんだから」
「ええ、セーラがジムを好きだったのはあたしも本当だと思うわ。でも、アサのことも好きだったのよ。だからアサが死んだ時にあんなに悲しんでいたの」
「アサはセーラとは幼馴染だったからね。幼い頃からずっとそばにいた人が死んだらやっぱり悲しいよ。祈りの巫女だってそうだろ?」
タキの言葉にあたしはシュウが死んでしまったときのことを思った。でも、シュウが死んだのはあたしがまだ本当に小さな頃だったから、タキの言うことに納得できるだけの材料にはならなかった。
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「ジムもセーラとは幼馴染だったのよ。この3人はみんな幼馴染で、セーラはずっと一緒に過ごしたジムとアサに恋をしたのよ。それはぜんぜんおかしなことじゃないわ」
幼馴染に恋をすることは、ぜんぜんおかしなことじゃない。だって、あたしはリョウに恋をしているもの。もしもシュウが生きていたら、あたしはシュウにも恋をしたかもしれない。
「おかしいよ、祈りの巫女。セーラが恋をしていたのはジムなんだ。それが本当なのに、どうしてアサにも恋をできるんだ? だって、2人の人間に同時に恋をするなんて、そんなことあるはずがないじゃないか」
タキは少しむきになってそう言って、あたしを驚かせた。そうか、タキはセーラが同時に2人に恋をしていたことに納得ができなかったんだ。そう、確かに普通は人は1人の人間に恋をするものだけど、でも、ジムへの恋とアサへの恋、いったいどちらが偽物だったというの? 日記を読んだら判るよ。この恋はどちらも本物で、セーラはジムの心もアサの心も、両方欲しいと思ってたんだ。
「タキは、セーラが2人の人間に恋をしないと思うの?」
「そう思うよ。だって普通、恋は1人の人間にするものだから」
「だったらどうしてセーラはアサが死んだ時にあんなに悲しんだの? アサが怪物退治に行く時にあんなに必死になって止めたの?」
「それは、アサが大切な幼馴染だったからだろ? 誰だって自分の近くにいる人に死んで欲しくはないよ」
「それなら……もしもセーラがジムを好きじゃなかったと思ってこの時の日記を読んだらどう? それでもタキはセーラがアサを好きじゃなかったと思える?」
タキはしばらく沈黙したあと、日記のあたしが言った部分を読み始めた。タキは何回か繰り返し読んでいたから、あたしは辛抱強く、タキの反応を待っていた。
やがて、タキが顔を上げたとき、その表情は少し困惑しているように見えた。
「……祈りの巫女は、セーラがジムとアサ、2人を同じくらい愛していたと思うんだ」
どうやらタキも、あたしが言っていることに耳を傾ける気になってくれたみたいだった。
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「タキの言うように、普通は人は1人の人間に恋をするものだと思うわ。でも、セーラは2人に恋をしたのよ。欲張りだったのかな。セーラは、どちらか1人の心だけじゃなくて、2人の心が欲しかったのよ」
あたしも、今までのタキの反応を見ていたら、なんとなく判ったの。どうしてこの物語を書いた人がそれに気づかなかったのか。これを書いた人も、ずっと書き直してきたたくさんの神官たちも、きっと不思議に思いながらも2人に恋をするのはおかしいから、セーラがジムだけに恋をしていたことにしてしまったんだ。
「それは、新しい解釈だね。でもオレはあんまり信じたくないよ」
「どうして?」
「どうしてかな。例えばオレがジムで、セーラが自分に一生懸命恋をしてくれているときに、同時にアサの方をも好きだったなんて思いたくない。自分を好きな女の子にはやっぱり自分だけを好きでいて欲しいよ。そう、信じていたいよ」
そう、か。このセーラの物語、あたしはセーラになって読んでしまうけど、タキはジムやアサになって読むんだ。タキの言うとおりかもしれない。もしもリョウがあたしを好きだと言ってくれたとして、でもその時リョウがカーヤのことも同じくらい好きなんだとは思いたくないもの。
ジムは、たぶんセーラのそういう気持ちをぜんぶ知っていたんだ。だからセーラを愛していたのに受け入れることができなかった。アサ、あなたもセーラが自分を愛していることを知っていたの? それとも、セーラが自分を愛していることを知らなかったから、まるで自殺するようにセーラの前からいなくなることで、幸せにしてあげようとしたの?
その答えは、今のあたしにはもう判らない。アサは神官だから日記をつけていないし、ジムはそもそも字を書けなかった。……ううん、違うよ、あたしは幸運なんだ。物語を読むことができて、タキの親切でこうしてセーラの日記も読むことができたんだもん。物語では判らなかった本当のセーラに触れることができたんだもん。あたしはタキに感謝しなくちゃいけないんだ。
「タキ、ありがと、セーラの日記を読ませてくれて。物語だけを読んだときより、あたしずっとセーラが判った気がするわ」
あたしがそう言うと、タキは少し照れたような微笑を返してくれた。
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あたしがこのところ毎日書庫に通っていたのは、もちろんセーラの日記を読むためだったけど、もう1つの理由はリョウがそばにいない不安を紛らわせることだった。セーラの日記を読んで、セーラのことだけを考えていたら、その間だけでもリョウのことを忘れられると思ったから。でも、毎日書庫に通って、カーヤと夕食を取って、夜神殿でリョウの無事を祈るのを忘れたことはなかった。リョウがいなくなってからもう8日も経ってるのに、あたしはリョウがいないことに慣れることができなかった。
リョウ、リョウはずるいよ。毎日きてくれてたら、あたしだってリョウが毎日くることに慣れちゃうよ。リョウがいなくなってあたしはこんなに寂しいのに、リョウは平気なの? 8日も帰ってこなくて、あたしの顔を見なくて、それでもリョウは平気でいられるの?
一緒にいる時も、離れてからも、あたしはどんどんリョウのことを好きになってる。それなのに、リョウの中ではあたしはずっと小さな女の子のままで、あたしが誰と結婚してもぜんぜん気にしないでいられる。平気で遠くの山に出かけられる。あたしに何も言わないで出かけて、あたしが心配しないと思ったの? リョウはあたしのことを心配してくれなかったの? リョウがいなくなっても、あたしがずっと平気でいられるって、本当にそう思っていたの?
あたしはそんなに強い女の子じゃないよ。リョウがそばにいなかったら、寂しくて死んじゃうかもしれないよ。リョウは、あたしが死んでも平気なの? アサとセーラが死んで独り残されたジムのように、いつかは別の女の子と結婚して幸せになるの……?
「ユーナ、ユーナ。お願いよ。もう少しだけ食べて」
顔を上げると、カーヤが心配そうに覗き込んでいた。テーブルの上のスープはすっかり冷えてしまっていていた。カーヤを心配させたくないから、あたしはスープをすくって飲もうとするのだけど、あたしの喉は物を飲み込むことを忘れてしまったみたい。お腹だってすいてるはずなのにぜんぜん判らない。ちゃんと食べなかったら、せっかくあたしのために料理されてくれた野菜たちに申し訳ないよ。
「……ねえ、カーヤ。子供の頃って、泣いていると喉の奥が痛くなって、息が苦しくて、一生懸命息を吸ったり吐いたりしなかった? どうしてこんなに苦しいのか判らなくて、どうやったら泣き止むことができるんだろう、って」
「そうね、あたしもそうだったわ。今はそんな風に泣くことなんてないけど」
「あたし、今泣いてないのに、喉だけが苦しいの。だから泣き止むこともできないんだ」
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書庫から帰ってきて、カーヤの夕食を食べようとすると、あたしはいつも苦しくなる。夕方はいつもリョウが来てくれてた時間だからかな。リョウがいないことを思い出してしまうから。
「リョウが行ってから何日くらい経ったのかしら」
「今日で8日よ。腕のいい狩人ならもう帰ってる頃なんだって。でもリョウは初めてだからたぶん10日かかるってランドは言ってた。狩りが成功しなくても、それ以上は村を空けない決まりなんだって」
「それならあと2日じゃない。あと2日でリョウは帰ってくるのよ。ユーナがそんな顔をしてたらリョウだって心配するわ」
「帰ってこないかもしれないわ。ランドはリョウが狩りに行ったんだって言ってたけど、本当は村を出て行ったのかもしれないもの」
「そんなはずないわ。ユーナがリョウを信じなかったら、リョウにフラレちゃったあたしはどうすればいいの?」
そうだ。カーヤだってリョウのことを心配してないはずないんだ。それなのにあたしはいつも夕方になるとカーヤに心配をかけてるの。そのたびにカーヤはあたしを慰めようとしてくれて、カーヤだってうんざりしてると思うのに。それなのにいつもカーヤは慰めてくれる。あたしがちゃんと食べられるように、いつもおいしい夕食を作ってくれるんだ。
この日、あたしはずいぶん時間をかけたけど、なんとかぜんぶ食べ終えることができた。食後は準備をして神殿に祈りに行った。村がいつまでも平和であること。弟のオミが幸せになること。そして、リョウが無事でいること。神殿にはあまり長い時間は留まらないことにしていた。なぜなら、禁を破って自分の幸せを祈りそうになってしまうから。
どうしてあたしは祈りの巫女なんだろう。もしもあたしが祈りの巫女じゃなかったら、ただのユーナだったら、祈りの巫女にお願いできるのに。どうかあたしを幸せにしてください、リョウの心をください、って。
でも、セーラはとうとう自分の幸せは祈らなかったんだ。母さまだって自分の幸せを祈って欲しいとは言わなかった。そうだ、カーヤも、1度だってあたしに願い事を言ったことがなかったんだ。
カーヤに幸せになって欲しい。あたしは、うしろでずっと見守ってくれているカーヤに気づかれないように、いつもの祈りにカーヤの幸せを付け加えた。
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2代目祈りの巫女の物語を読み終わったから、今度は3代目の祈りの巫女の物語を読むことになっていた。あたしは12代目だから、その前の11人すべての物語を、あたしは読まなければいけないの。祈りの巫女になってからの最初の1年は先輩の巫女たちにいろいろ教えてもらっていたけれど、今は自分で勉強の予定を立てて進めていかなければならないんだ。書庫の神官に本を借りたり、調べ物を手伝ってもらったり、何もかも自分で計画を立てないといけないんだ。
昨日は新しい本を借りてこなかったから、朝食前のひととき、あたしはお部屋の拭き掃除をしていた。まだ神官は書庫にいないはずだもの。そんな時だった。突然前触れもなく、玄関のドアを叩くノックの音がしたのは。
「はーい、ちょっとだけ待ってて。今手が離せないの」
カーヤがそう返事をするのが聞こえたから、たぶん料理の途中なんだってことに気付いて、あたしが部屋から出て玄関のドアを開けた。外にいた人の顔を見て驚いた。だって、ランドは今まで1度もあたしの宿舎にきてくれたことなんかなかったから。
「喜べユーナ、リョウが帰ってきた。オスの北カザム3頭仕留めてだ。大猟だぞ」
あたし、一瞬ランドの言うことが理解できなかったよ。リョウが帰ってきたの? オスの北カザム3頭……?
「……帰ってきた? ほんとう……?」
「ああ、本当だ。おまえをかつぐためだけにオレがこんなところまでくる訳ないだろ? 昨日遅く帰ってきて、どうやら山を上がってくるだけの体力が残ってなかったみたいだな、そのまま実家に泊まった。今朝出掛けに聞いて真っ先に知らせに来てやったんだ。感謝しろよ」
そう、たたみかけるようにランドに言われて、あたしはなんだか呆然と聞き流すことしかできなかった。そんなあたしの様子にイライラしたんだろう。ランドはちょっと怒ったような表情になって言った。
「ちゃんと反応しろよ! リョウが戻ったんだぞ。しかも初めてとは思えない成果だ。そりゃ、この時期オスのほうが狩りやすいのは間違いないし、8日もかけりゃオレだって3頭くらいは狩れる。だけどな、そういうことじゃねえだろ、おまえとリョウにとっては」
あたしは、まだ何も考えることができなくて、ランドのイライラした声を聞いているだけだった。
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