続・祈りの巫女
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「最初に生まれた予言の巫女は、自分が生きている時代だけじゃなくて、それから先の、例えば今オレたちが生きている現代のことも予言できたのだと言われてる。予言の巫女には未来が見えたから、この未来のための礎をたくさん築いたんだろうね。彼女の予言によって神殿が作られて、後継者として守護の巫女、神事の巫女、予言の巫女の3人が生まれて、それを補佐する役目の神官の制度を作ったんだ」
あたしは、自分が予言の巫女の話を忘れていないことをタキに教えたくて、ちょっとだけ口を挟んでいた。
「のちに神事の巫女が祈りの巫女と聖櫃の巫女に分かれて、予言の巫女が運命の巫女と神託の巫女になったのね」
「そう。彼女の偉いところは予言の巫女の位を最下位に置いたことだ。だからのちに予言の巫女が運命の巫女と神託の巫女に分かれたときも、2人の巫女の位順はいちばん最後になってる。古代文字から新しく現代文字が生まれたのもぜんぶこの時代だ。……んまあ、要するに、オレたちはそんな話を神官になる前に聞かされる訳だから、神官は巫女を補佐するためのもの、っていう考え方が、頭に深ーく刻まれてるの。そもそも巫女がいなかったら、神官には存在する意味がないんだ」
タキの口調には、卑屈になったりするような感じはまったくなくて、むしろ巫女がいることを本当に喜んでいるような、そんな雰囲気があった。神官はずっと昔から巫女を助けてくれているんだ。そして、自分の名前が残ったり、名声が称えられることなんか何もないのに、学ぶことと人の役に立つことが嬉しいからずっと神官でいてくれるんだ。
「存在する意味がないなんて、そんなことはないわ。もしも巫女がいなくても神官はちゃんと村の人の役に立ってるもの」
「そうでもないよ。巫女がいるから神官は昔の書物から自由に学んでいられるんだ。オレはこの村に生まれて本当によかったよ。他の村に生まれてたら、オレもきっと畑仕事かなんかを一生やらなきゃならなかった。この村も、万が一巫女が1人もいなくなったら、他の村と同じように変わっていくんだろうね」
あたしには、この村以外の村がどんな風なのか知らなかったから、それ以上タキの言葉に反論することができなかった。あたしには知らないことがすごくたくさんあるんだ。他の村のことも、この村のことも、あたしはたくさん学ばなくちゃいけないんだ。
急だったから、タキはまだあたしにセーラの日記を読ませてもらう許可を取っていなくて、この日は日記を読むことができなかった。
あたしはタキと明日また会う約束をして、神殿をあとにしていた。
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今日もカーヤは夕食の時間を早くしてくれたから、あたしはまたリョウの家を尋ねていた。でも、リョウは家にいなくて、それどころか家の中は昨日あたしがきた時とぜんぜん変わってなかったの。リョウは昨日は家に帰ってない。そして、今日も1度も帰ってきてない。
暗くなるまで待っていたのに、けっきょくリョウは帰ってこなかった。リョウを待っている間、あたしはいろいろなことを考えてしまって、しだいに不安になってきていた。あたしと顔を合わせるのが嫌で誰かの家に泊まってるのかもしれない。それならまだいいんだけど、例えば狩りで怪我をして動けなくなってしまったとか、あやまって穴に落ちて誰かに見つけてもらうのを待っているとか。そういえばマイラが、リョウは大人になったら村を出て行くと思ってた、って言ったんだ。もしかしたら、2日前のあの出来事で昔の自分を思い出したリョウは、村にいるのが嫌になってどこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。
そんなことを思ったらいてもたってもいられなくて、暗くなった坂道を駆け上がって、宿舎に飛び込んだ。宿舎の中には驚いて目を見開いたままのカーヤがいた。あたしは何の前置きもしないで、いきなりカーヤに叫んでた。
「カーヤ! リョウが帰ってないの。リョウがいなくなっちゃたの!」
カーヤはあたしを見てずいぶん驚いたみたい。そういえば坂道で何回か転んだから、服が汚れてたり破れてたりしたのかもしれない。
「落ち着いてユーナ。リョウが家にいないの? まだ帰ってないだけじゃないの?」
「違うの! リョウ、昨日も帰ってないの。リョウは独り暮らしで誰も一緒にいないんだもん。どこかで倒れてたりしても気付いてもらえてないかもしれないよ!」
あたしがそれだけ焦っていたのに、カーヤはぜんぜん焦ってなくて、あたしはなんだかそれがすごく腹立たしく思えた。のんびりした動作でコップに水を注いで、テーブルのあたしの席に置いて言った。
「まずは水を飲んで。話はそれから」
あたしは、今までカーヤとは一緒に暮らしてきたから、カーヤがこういう言い方をしたときは、言う通りにするまで何も進まないことが判ってしまっていた。しかたなく、あたしはテーブルからコップを取り上げて、水をぜんぶのみ干した。少しだけ落ち着いたかもしれない。そうして顔を上げると、カーヤはほっとしたように笑顔を見せた。
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「今までリョウが2日くらい帰ってこなかったことってなかったの?」
「ないわ。カーヤだって知ってるでしょう? リョウはほとんど毎日あたしの宿舎にきてくれてたのよ」
「そうだったわね、ごめんなさい」
カーヤは苦笑いを浮かべて軽く会釈をした。今まで1度もリョウが帰ってこないなんてなかったから、あたしはこんなに心配してるの。
「どうしようカーヤ。リョウはもしかしたらずっと帰ってこないかもしれないわ」
「そんなことないわよ。リョウがユーナに何も言わないでいなくなる訳ないじゃない」
「でも! マイラが言ってたんだもん! リョウみたいな子は大人になると村を出て行っちゃうんだって」
「たとえそうでもユーナにはお別れを言っていくわ。それは信じられるでしょう?」
カーヤに訊かれたから、あたしはリョウのことを考えた。でもリョウがほんとにあたしにお別れを言ってくれるかどうかなんて、今のあたしにはぜんぜん判らなかった。リョウのことが判らなくなっちゃった。リョウのこと、ぜんぜん思い出せないよ!
「ねえ、ユーナ。リョウは狩をしに行っていなくなったんでしょう? だったら、昨日一緒に狩をしていた人とか、ううん、そのとき一緒じゃなくても、同じ狩人の仲間になら、リョウは何か言ってるかもしれないわよ。何も知らなくても行き先の予想くらいつくかもしれないし。もしも本当にリョウが事故に遭って動けなくなってるなら、いなくなってることも知らせておいた方がいいと思う。誰か、狩人の人に知り合いはいないの? その人に相談してみたらどうかな」
そうか、ランドなら何か知ってるかもしれない。リョウはここに引っ越してくる前はよくランドと飲みに行ってたもの。あたしに話してくれなかったことでも、ランドになら何か話しているかもしれない。
「カーヤ、ありがと! あたし、ランドの家にいってみる!」
そうしてあたしが再び宿舎を飛び出していこうとしたら、うしろからカーヤに呼び止められたの。
「ちょっと待ってユーナ! ちょっとだけ。今、灯りを用意するから。……こんなに夜おそく他所様の家を訪ねるのに、それ以上汚れたら失礼だわ。家に入れてもらえなくなるかもしれないわよ」
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ランドはリョウやあたしの実家の近くに住んでいて、そこはあたしがまだ小さかった頃に新しく建てた家だった。結婚してからもう何年か経つはずだけど、確かまだ子供はいなくて、夫婦で2人で住んでるんだ。ランドの奥さんはミイで、近所では有名なノロケ名人だったの。ランドは外ではミイの悪口ばかり言ってたけど、本当はすごく仲のいい夫婦みたいだった。
朝が早い農家や子供のいる家の中には明かりが消えている家もあったけど、ランドの家はまだ明かりがついていた。ノックをすると、夜が遅いからかちょっと間があって、ドアの小さな隙間からミイが顔を覗かせた。あたしが持っていた灯りで自分の顔を照らすと、やっと気付いて扉を大きくあけてくれたの。
「ユーナ、どうしたの? こんなに夜遅くに」
「ごめんなさいミイ。ちょっとランドに相談があってきたの。ランドはいる?」
「まあ入ってちょうだい。ランドね、さっきまで起きてたんだけど、もしかしたら寝ちゃったかもしれないわ。今起こしてくるから」
「あ、それならいいわ。明日もっと早い時間に出直してくるから」
「違うのよ。今夜は真夜中に出かけたいからそれまで起きてるんだ、って、さっきまで寝ないで頑張ってたの。ちょうどいいから話し相手になってあげて。帰っちゃ嫌よ」
そう言ってミイは寝室の方に行ってしまったから、あたしはその間に灯りを消して、さっき転んで汚れてしまったところをちょっとだけ叩いた。ほどなくして寝室から出てきたランドは狩人の仕事着のままで、ちょっと機嫌が悪そうに頭をかきむしっていた。
「なんだ、ほんとにユーナじゃないか。珍しいな。リョウと喧嘩でもしたのか?」
そう言いながらランドが食卓に腰掛けたから、あたしも隣の椅子に座って言った。
「リョウが家に帰ってないの。昨日も帰ってこなくて、今日もいなかった。今までは毎日帰ってきてたのよ。もしかしたらどこかで怪我をして動けなくなってるかもしれないわ。お願いランド、リョウを探して。リョウを助けてあげて!」
ランドはふっと顔を上げて、眠くて機嫌が悪いのが明らかに判る目をしてあたしを見つめた。そのあとうしろを振り返って、部屋の隅で繕い物をしていたミイにお茶を頼んだ。そのお茶が運ばれてくるまでの間、ランドは一言も口を利こうとはしなかった。
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ミイが運んできたお茶を1口すすって、深いため息をついたあと、おもむろにランドは話し始めた。
「ユーナ、塩がどこからくるか知ってるか?」
突然予想もつかなかったことを言われて、あたしは驚いてしまった。しばらく沈黙があって、どうやらあたしが答えなければランドは話を進める気がないんだってことに気付いたから、しかたなくあたしは答えていた。
「北の山に岩塩の層があるんだって聞いたわ。前に家族で行ったピクニックの時に父さまが言ってたの」
「へえ、意外なことを知ってるな。だけど、今この村で使ってる塩は岩塩じゃないんだ。まあ、オレもそんなには詳しくはないんだが、この村を出てずっと南の方に行くと、水の代わりに塩が溜まった湖があるんだそうだ。その湖の塩を行商人がこの村に運んできてくれて、それをオレたちは料理に入れて食べてる。つまり、いまこの村で使ってる塩は、ぜんぶ他の村からの輸入品なんだ」
なんだかランドの話はリョウのこととはぜんぜん関係ないみたいだった。あたしが知りたいのは、リョウが今どこでどうしているのか、それだけだったのに。
「それがリョウとどういう関係があるの?」
「まあ、黙って聞きなよ。行商人は他の村からこの村に塩を運んできてくれるが、もちろんタダって訳じゃない。塩と行商人の労力の代わりに、こっちの村からも何かを出さなきゃならない訳だ。でも、他の村にもたくさんあるものを出したって、行商人は喜ばないよな。そこでオレたち狩人の出番になる。この村でしか手に入らなくて、行商人がいちばん喜んでくれるのが、北カザムの毛皮なんだ。この毛皮は他の村でもかなり高い値段で取引されるらしい。……値段て言っても判らないかな。まあ、簡単に言えば、北カザムの毛皮とそこらにいる普通のカザムの毛皮とでは、行商人が交換してくれる塩の量が10倍以上も違うんだ」
「……」
「実際は北カザムの毛皮1枚欲しいがために、行商人は何人かで組んでやってきて、山道を背負って上がってこられるだけの塩と、通貨ってヤツを置いていく。その通貨は他の行商人に渡すと、村で作ったり取ったりできないいろいろな品物になって戻ってくる。つまりだ、オレたち狩人は、村の人たちの食卓を支えると同時に、より豊かな生活をも支えている、って訳なんだ」
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ランドに黙って聞くように言われたからだけじゃなくて、あたしはもう口を挟むことができなくなってしまっていた。ランドの話は今まであたしが1度も聞いたことのない話で、だから理解するだけで精一杯だったの。
「北カザムってのは、寒いところが好きでな。冬から春にかけてはこの村の近くでも見られるんだが、夏が近づくと北の山の上の方に移動しちまう。しかも、春と秋に抜け毛の時期があって、毛皮の質が変わっちまうんだ。だから、北カザムの夏毛皮ってのは希少価値が高くて、冬毛皮の3倍くらいの値段がつくんだ。同じ北カザムを1頭狩るなら、誰だって夏毛皮の方が効率がいいことは判るよな。そこでオレたち狩人はみんな、毎年夏になると何日か村を離れて、北カザムの群れを追って北の山に入るんだ。……前置きが長くなっちまったが、要するにリョウも、今年は北カザムを追うことにしたんだと思うぜ。あいつもとうとう本気になったってことだ」
そう、ランドが言葉を切って、テーブルの上のお茶を一気に飲み干した。あたしも1口お茶をいただいて、お茶と一緒に何とか話を飲み込むことができた。狩人は、毎年夏になると北の山に北カザムを狩りに行くんだ。リョウは今まで1度も行ったことがなかった。もしかしたらリョウは、あたしと毎日話をするために、今まで山へ行かなかったの?
「ランド、ランドも毎年行ってるの?」
「だいたい行ってるかな。んまあ、ヒヨッコの頃はそれどころじゃなかったが、リョウの年頃にはもう行ってたぜ。それだけじゃないぞユーナ。狩人の仕事は獣の都合でコロコロ変わるんだ。 ―― ミイ、オレは先月何日くらいおまえと夕飯食ってた?」
ランドがそうミイに聞くと、ミイはちょっと顔を上げただけで答えた。
「さあ、10日もなかったかしらね。ランドが他の村にもう1つ家族を作ってたって、あたしはぜんぜん驚かないわ」
「とまあ、狩人はこんな風に奥さんにやきもちをやかせることもあるって訳だ。ユーナもリョウと結婚する気があるなら、少しは慣れるんだな。1日や2日帰ってこないくらいでそんなに騒ぐなよ。リョウに恥をかかせることになるんだぞ」
―― すごくショックだった。リョウは、あたしと毎日話をするって、ただそれだけのためにすごくたくさんの仕事を犠牲にしてきたんだ。リョウはあたしに毎日話をしてくれたけど、北カザムの毛皮のことも、夜中にする狩があるってことも、何も教えてくれなかった。あたしはそんなことさえ教えてもらえなかったんだ。
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帰り道はランドに送ってもらえることになって、月明かりの中ランプを照らしながら、ランドと並んで歩いていった。あたしは黙ったままで、ぜんぜん話をする気力が出てこなかった。リョウが、あんなに毎日話しにきてくれたのに、肝心なことは何も話してくれてなかったんだって判ったから。リョウにとってあたしは、恋人はおろか、対等に話ができる人ですらなかったんだ。
やがて、沈黙に耐えられなくなったのか、ランドが話し掛けてきた。
「なんだかユーナを見てたら、ミイと付き合ってた頃のことを思い出したよ。……なあユーナ、ミイって美人じゃないだろ?」
……あたし、時々ランドのこと信じられないよ。なんで自分の奥さんのことそんな風に言えるわけ?
「どうしてそんなこと言うのよ。ミイはすごく素敵な人じゃない」
「いや、ミイは美人じゃないんだ。あの頃オレに気があった女の中でいちばん美人じゃなかった」
そう断言されちゃったから、あたしはそれ以上何もいえなかった。
「ミイは、オレがもらってやらなかったら、もしかしたら売れ残っちまってたかもしれないんだ。オレはあの頃がいちばん必死だったな。早く一人前になってミイをもらってやらなきゃって、本気で狩人の仕事に打ち込んで、必死で腕を上げてた。だってな、オレが結婚するって言って、もし回りに、まだおまえに結婚は早すぎる、って言われたら、最低あと1年は結婚できなくなっちまうんだ。そんなことになったら、ミイは他の男のところに嫁に行っちまうかもしれないじゃないか。オレ、それが無性に嫌で。死に物狂いで仕事して、まわりに一人前だって認めさせようとしてた」
……そうか、ランドが言う「美人じゃない」って、別にミイをバカにしてる訳じゃないんだ。ランドはちゃんとミイのことを愛してるんだ。口ではいろんな悪口も言うけど。
「ユーナ、リョウもな、もしかしたら本気で焦り始めたのかもしれないぜ。リョウは今でもなかなか腕のいい狩人だが、まわりが認めるのはやっぱり、北カザムの夏毛皮を今年何枚取ってきた、なんていう実績だからな。毎日おまえを見張ってるだけじゃダメだと思ったんだろ。 ―― どんなヘチャだって、年頃になればそれなりに綺麗になるもんだからな」
そんな、ランドの余計な一言で、あたしは思わずランドをうしろから殴り倒しそうになっていた。
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ランドは宿舎までちゃんと送ってくれたから、あたしはランドにきちんとお礼を言って、部屋でまだ寝ないで待っていてくれたカーヤにも簡単に報告した。カーヤはそのまま眠ってしまったけど、あたしはカーヤを起こさないように1人で準備をして、神殿でリョウの無事を祈ったの。北の山へ行ったのなら、リョウはそんなに早くは帰ってこないから。山へ入るだけで2日、3日目から北カザムの群れを探し歩いて、ものすごく運がよくて早く狩りが成功しても往復5日はかかるんだって、ランドは話してくれたんだ。リョウは北の山に入るのは初めてだったから、群れの位置がそんなに早く判るとも思えないし、たぶん10日くらいは帰ってこないだろうっていうのがランドの予想だった。
あたしは、リョウの狩りの成功は祈らなかった。ただ、リョウの無事だけをずっと祈りつづけた。狩りが早く成功すればそれだけ早く帰ってきてくれるけど、成功するかしないかはリョウの問題だったから。リョウは自分の力を試しに行ったんだ。だからあたしはそれを邪魔しちゃいけない。ランドも、夏の初めのほうが真夏よりもずっと狩りがしやすいんだって教えてくれたから、あたしはリョウを信じて待っていることにしたの。
でも、リョウが本当に北の山に行ったのか、それともこの村から出て行ってしまったのか、心の片隅であたしは疑っていた。どうしてリョウは何も言わないでいなくなったんだろう。北の山へ行くんでも、村から出て行くんでも、ひとことあたしに言ってくれたらこんなに心配しなくて済んだのに。
「 ―― どうしたの? なにか心配事?」
気がつくと、そこは神殿下の書庫で、あたしはタキに顔を覗き込まれていた。今日からあたしは、セーラの日記をタキに読ませてもらっていたんだ。
「あ、ううん、なんでもないの。ちょっとボーっとしちゃったみたい。ごめんなさいタキ」
「オレのことはいいんだけどね。もしかして祈りの巫女、昨日ちゃんと寝てなかった?」
「ちょっとだけ夜更かししちゃったの。でも大丈夫よ。続けましょう」
タキはそれ以上訊かなかったけど、ちょっといぶかしそうにあたしを覗き込んでいた。
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2代目祈りの巫女のセーラが日記をつけ始めたのは、あたしの時と同じ、巫女の儀式を受けたその日からだった。その記念すべき日の日記から読み始めたんだけど……。この頃のセーラって、たったの1行しか書いてないの。最初の日は「これから毎日こんなの書くなんてかったるい」だった。
「ねえタキ、かったるい、ってどういう意味?」
「うーん、面倒とか、疲れるとかいう意味かな」
「セーラは日記をつけるのが嫌だったのね。次の日のこれは? ―― ジムのクソッタレ」
「この日はジムと喧嘩でもしたのかな。クソッタレは相手を罵倒する時の言葉だよ。普通女の子が使う言葉じゃない。セーラの日記にはよく出てくるけど、この言葉を物語の中でどう訳すか、オレたちの中でもけっこう議論になったね。 ―― オレたちだって、祈りの巫女に変な言葉を覚えて欲しくなかったし」
タキは苦笑しながらそう話してくれた。物語は当時の神官が書いたものだけど、中に出てくる言葉は書き直すたびに現代の言葉に置き換えられてて、当時そのままの文章じゃないんだ。そういえば物語のセーラはあんまり口汚い言葉を使ってなかったっけ。それって、タキたち神官があたしに変な言葉を覚えて欲しくなかったからなんだ。
最初の1年くらいはずっとそんな感じで、日記を読んだだけではその日セーラにどんなことがあったのか、ぜんぜん判らなかった。1年を過ぎる頃にようやくまともな文章も出てくるようになって、でも5行とか3行とか、セーラの気持ちの手がかりになるようなことはあんまりなかった。
「よくこんな日記であの物語を書くことができたわね」
「こういう文章でも、オレたちにはすごくいろいろなことが判るんだよ。例えば『今日は午後アサがヤクの実を届けにきた』ってあるだろ? ヤクの実はこの当時、神官が山へ採りに行ってたんだ。まとめて採ってきたヤクの実をそれぞれの宿舎に配って、各自で精製して油にしてた。今はヤクの実は村で栽培して、宿舎では精製された油を受け取ってるだろ? こんなセーラの日記だって、当時の生活を知る大切な手がかりになるんだ」
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タキの話にはなるほどとうなずいたけど、それはあたしが知りたいこととはちょっとだけずれていたから、あたしは一言、そうね、とだけ返事をして、再び日記に目を落とした。日記は物語よりもずっと長かったから、あたしはジムとアサの名前だけを拾うようにして次々ページをめくっていく。3年目になるとだいぶ長い文章も出てくるようになったから、たぶんセーラはこの頃になってやっと日記を書くことに慣れてきたんだ。この頃のセーラの主な日課は、午前中は先輩の巫女や神官にさまざまなことを教えてもらって、午後は村へ出かけていろんな人たちと話をして、夕方神殿で祈りを捧げる、っていうのが多かったみたい。その日おもしろかった勉強のことや、興味深い話をしてくれた人の話が時々書いてあって、そういうものが何もなかった日の日記は「いつもとおなじだった」で済ませていた。
ジムとアサの話はなかなか出てこなかった。物語では13歳のセーラはもうジムに夢中だったはずなのに、14歳になってもセーラの日記にあんまりジムの名前は出てこなかった。時々出てきても「今日はジムに光の届かない深い森での方角の見分け方を教わった」とか、「毒キノコを籠に入れてジムと喧嘩した」とか、あんまりジムに恋をしている感じの文章じゃなかったんだ。
「ジムとの恋の経緯があんまりないのね」
あたしが呟くと、今まで黙って見守っていてくれたタキが答えた。
「もうちょっとあとの方になるとけっこう出てくるよ。おもしろくないなら飛ばしたら?」
「それならいいわ。あたし、できるだけ飛ばしたくないの。セーラの小さな変化を見逃したくないから」
そうなんだ。セーラは日記を人に読ませるためになんか書いてないんだもん。物語ほどおもしろくなくてあたりまえなんだ。あたしが知りたいのはセーラの真実なんだから。本当のセーラはいったいどんな気持ちで毎日を過ごしていたのか。今まで読んだところだけでは、それはあまりよく判らなかったけど。
「ねえ、タキ。もしも退屈ならタキは自分の勉強をしてていいわよ。だいぶ言葉の意味も判ってきたし、1人でもちゃんと読めるから」
タキは少し考えていたけれど、やがてふっと微笑んだ。
「そうだね、祈りの巫女の邪魔になっても悪いし、隣の部屋で仕事をしているよ。判らないことがあったら遠慮なく呼んでね」
タキはそう言って、おそらく仕事に必要な本と道具を持って、隣の作業部屋へ引き上げていった。
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