続・祈りの巫女



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 たぶん、リョウも戸惑っていたのだと思う。送っていく、って一言だけ言って、あたしの前に立って歩き始めた。お互いにお互いの顔を見ることができなくて、しばらくは黙ったままで、あたしはリョウのうしろを歩きつづけていた。
 リョウは背が高くて、肩ががっちりしていて、背中が広かった。いつもあたしの頭をなでてくれる手も、さっきあたしの腕を掴んだ手も、すごく大きくて力強かった。リョウの後姿を見ながら、あたしはやっぱり、リョウのことを好きなんだって思った。さっき、カーヤが泣いてて、あたしはすごく悲しかったけど、でもやっぱりリョウをカーヤに取られたくなんかないよ。
 本当のリョウを知ったらリョウのことを好きじゃなくなるかもしれないって、そう思ったのが嘘みたいだった。リョウ、お願い、どこにも行かないでね。リョウはきっとモテるから、きれいな子や優しい子がいっぱいリョウに告白するかもしれないけど、その中の誰とも付き合わないでね。あたしがもう少し大人になるまで待ってて。あたし、ぜったい、リョウにふさわしい女の子になるから。
  ―― あたしが祈りの巫女になったあの時、リョウはあたしに、自分の過去について訊かれるのが怖かった、って言ってた。6歳の時に記憶をなくしてしまったあたしが、昔リョウがいじめっ子だったことを覚えていなかったから、リョウはずっとあたしに優しくすることができたんだ。もしかしたらリョウは、あたしが思い出せないでいた7年間も、ずっと怖かったのかもしれない。いつかあたしが思い出して、小さな頃リョウを嫌っていたみたいに、リョウを嫌いになってしまうかもしれない、って。
 本当に怖がっていたのはリョウの方なんだ。正直な自分を見せたらあたしがおびえると思って、あたしに嫌われると思って、それが怖くていつも優しさで自分を覆っていた。あたしはいつも、そんな優しいだけのリョウを見ているのが不安で、なんとなく怖いと思っていた。そんなあたしの不安もリョウには伝わっていたんだ。だから、リョウはもっと優しくなろうとしていたんだ。
 あたしはもう大丈夫。リョウがどんな自分を見せてくれても、それがリョウなんだって、素直に受け入れられる。あたしはもう小さな女の子じゃないよリョウ。だからリョウも、そんなに優しいリョウだけ見せてくれなくても大丈夫だよ。


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 いつか、リョウのお嫁さんになりたい。リョウのことをちゃんと判って、リョウを助けられる人になりたい。リョウが安心して笑ったり怒ったりできるような、そんなたった1人の人になりたい。
「……ここからは、1人で帰れる?」
 歩きつづけていたリョウは、立ち止まって、そう言ったあと振り返った。そこはまだ月明かりも届かない森の中で、リョウの顔をちゃんと見ることはできなかったけど、リョウが少しだけ微笑んでいることは判った。
「宿舎まで来てくれないの?」
「たぶん、カーヤはまだオレの顔を見たくないだろうから」
 そうだ、リョウはカーヤに告白されて断ったんだ。リョウはカーヤのことを好きじゃないって言ってた。リョウは誰が好きなの? あたしのことを好きでいてくれる? ほんの少しでも、あたしをお嫁さんにしたいと思ってくれてる?
 それとも、リョウの中ではあたしはやっぱりまだ子供のままで、小さなリョウを傷つけた、怯えた女の子でしかないのかな。
 あたしがリョウを怖がらなくなって、リョウもあたしを怖いと思わなくなったら、いつかお嫁さんにしたいと思ってくれるのかな。もしもあたしがリョウに告白しても、リョウはあたしを断るのかもしれない。あたしはカーヤや、物語のセーラのように、独りでベッドの上で泣くのかもしれない。
 帰りたくない。リョウを1人にしたくない。あたしがいないところで他の女の子と話しているリョウなんて、想像したくないよ。
「……判ったわ。大丈夫よ。もうすぐそこだもん。森を出たら少しは明るくなるし……」
「え……?」
 あたしが勇気をふりしぼって言った言葉が、少しだけ震えていて、声しか聞こえないはずのリョウにも判ってしまったみたい。両手を伸ばしてあたしの頬に触れた。リョウの大きな手が、頬に流れた涙のあとをなぞって。
「ユーナ、どうして……」
 その涙の理由は、あたし自身にもよく判ってはいなかった。


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 初めてだった。理屈で考えたら悲しいことなんか何もないのに、あたしは感情に流されるように涙を流していた。もう夜も遅いのだから、あたしもリョウも家へ帰るのはあたりまえだった。リョウには仕事があって、昼間狩りに出掛けたり、他の人と話をしたりするのもあたりまえのことだった。その中にはきれいで優しい女の子だっているかもしれない。今まではそんなこと、ずっとあたりまえだと思ってきたのに。
 リョウが帰ってしまうのが悲しかった。こんなこと、リョウを困らせるだけだったのに。
 いつまでも泣いてたら、またリョウに子供だって思われちゃうよ。
「ユーナ、ごめん。オレが悪かったから」
 あたしの頬に触れたまま、リョウは片膝をついて、そう言った。
「……どうして謝るの? リョウは何も悪くないの。あたしが勝手に泣いてるだけなの。どうして自分が悪くないのに謝るの?」
「そうかもしれないけど、でもやっぱりオレも悪いんだ。……もし、宿舎に帰るのが嫌だったら、ユーナが帰りたいところへ送っていくから。……両親のところがいい?」
 そうか、リョウ、あたしが突然泣き出したのが、カーヤと顔を合わせるのが嫌なんだって、そう思ったんだ。リョウがカーヤの名前を口にしたすぐあとにあたしが泣き出したから。
 それであたしも気がついていた。カーヤと仲直りをしなくちゃいけない。今日、ちゃんと仲直りできなかったら、これから先一緒に暮らしていくのがすごくつらいことになっちゃうもの。
 ようやくあたしの気持ちが感情から離れてくれた。自分で涙をぬぐって、リョウの両手を頬から引き離して握り締めることができた。
「リョウ、心配してくれてありがと。でも、カーヤはあたしの友達だから、自分でちゃんと仲直りしなくちゃダメなの。リョウがカーヤの気持ちにこたえられなくても仕方がないのに、さっきはリョウのこと怒鳴っちゃって、ほんとにごめんなさい。リョウの気持ちはリョウのものだもん。リョウがカーヤを好きにならなかったからって、あたしがあんなこと言うべきじゃなかったの」
 あたしはそうリョウに話しながら、リョウにはもっと他に言うべきことがあるような、そんな気がしていた。


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 リョウに見送られて、あたしは神殿への坂道を登っていった。森を出る時に1度振り返ると、リョウがずっとそのまま動かずにあたしを見送っていてくれることに気がついた。また、少しだけさっきの悲しい感情がよみがえりそうになったけど、それを振り払うようにリョウに背を向けて、早足で森から離れた。神官たちの宿舎脇から、神殿前の広場を大きく回って祈りの巫女の宿舎前まで来る頃には、あたしの頭の中からリョウはいなくなって、カーヤのことだけでいっぱいになっていた。
 宿舎の中はしんとしていて、あたしが出て行ったときと少しも変わらないように思えた。念のためノックをして中に入ると、部屋の灯りもそのままで、カーヤが部屋から出たりした様子もなかった。本当はどうなのかな。それは判らなかったけど、カーヤがあのあと部屋から飛び出してどこかへ行ってしまったとは思えなかったから、あたしは台所に立って、カーヤのための夕食を作り始めたの。
 ジャガイモさん、カーヤみたいに上手に料理してあげられないけど、許してね。カーヤは今お腹を空かせているはずなの。カーヤのために、今あたしにはあなたが必要だから。
 野菜を手にとって、そのたびに一言ずつ心の中で声をかけて、包丁で刻んで、鍋に入れた。ご飯が少しだけおひつに残ってたから、それもスープの中に放り込んで、リゾットにしちゃう。ジャガイモとハムのリゾット。味を調えてお皿に盛って、カーヤの部屋をノックしたあと、返事を待たずにあたしは部屋の中に入っていった。
「カーヤ、お腹すいたでしょう? ……あたし、カーヤみたいに上手に作れてないかもしれないけど、よかったら食べてね」
 ベッドの方で、かすかに人が動く気配がした。
「……ユーナ、あなたって、本当にずるい子」
 あたしが意味を掴みかねて返事ができないでいると、カーヤはベッドから起き上がって、お皿を置いた机のところまで歩いてきた。開け放したドアからの灯りでカーヤの表情が見える。泣き腫らした目に、今はっきりと笑顔を浮かべていた。
「料理であたしを釣るなんて卑怯よ。だって、あたしが料理を食べずに捨てられる訳なんかないじゃない。それに……さっきからジャガイモが訴えてるのよ。カーヤ、ユーナを怒らないで、ユーナのことを許してあげて、って」
 カーヤの表情を見て、あたしはカーヤとの仲直りがうまくいったことを感じていた。


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 場所を食卓に移して、あたしの分の食事もお皿に盛り付けて、テーブルに向かい合わせに座って食事をはじめていた。もうとっくに夕食の時間じゃなくなってて、そろそろ眠る時間の方に近かったのだけど、あたしたちはゆっくりとあたしが作った食事を味わっていた。
「……あたしね、なんだかすごい勘違いをしてたみたい。あたしはいつも、ユーナと一緒にいるときにしかリョウと話したことがなかったから、リョウは誰にでも優しいんだ、って、思い込んでいたの。今まであたしに微笑みかけてくれてたのも、あたし自身に微笑んでくれてるんだと思ってた。……でも、ぜんぜん違った。リョウは、ユーナに微笑んでいただけだったの」
 あたしは、あたしがいない時のリョウなんて知らない。リョウは、あたしがいる時といない時とで、違う人になってしまうの?
「カーヤ、リョウに何かひどいことを言われたの?」
「ううん、ひどいことを言われたとか、そういうことじゃないの。なんだかうまく説明できないけど、リョウの態度とか視線とか、まるであたしに興味がないみたいだった。……ユーナがそばにいる時は違うの。あたしと話す時にはちゃんとあたしを見て、何か質問をすれば真剣に答えて、微笑んでくれた。リョウにとっては、あたしはユーナの友達で、それ以上じゃないのね。そのことがね、今日はっきりと判ってしまったの」
 カーヤの話だけでは、あたしはリョウがどういつもと違っていたのか、ちゃんと想像することができなかった。
「ねえ、ユーナ。ユーナはリョウのことが好き?」
 あたしは、少しだけ迷ったけれど、カーヤにはきちんと話さなければならないと思って言った。
「うん、大好き」
「それじゃ、もしもリョウを好きな人がいて、その人と結婚した方がユーナと結婚するよりもリョウが幸せになると思ったら、ユーナはその人にリョウを譲ってあげるの? リョウの幸せのために身を引くの?」
「譲ってなんかあげない! そりゃ、カーヤの方がお料理も上手で、あたしよりずっとリョウを幸せにできるかもしれないけど、それだったらあたしも料理を勉強して、その人よりずっとリョウを幸せにできる人になるの。リョウは誰にもあげないんだから!」
 あたしがそう言ったとき、カーヤは苦笑いのような表情を見せた。


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「だったらリョウは誤解しているわ。だってリョウ、言ってたもの。ユーナはまだ自分の事をそういう風には見てないだろう、って」
 ……どうして? だって、あたしはずっと言ってたよ。リョウのことが大好きだ、って。リョウだってずっと判ってるって言ってくれてたのに。
「それからこうも言ってたわ。もしもユーナに好きな人ができたら、その人がユーナを幸せにできる人なら、ユーナの気持ちを尊重する、って」
 ……それ、あたしも前に聞いたことがあるよ。12歳のときにあたしが訊いた言葉。もしもあたしが他の人と結婚したら、リョウはその人とあたしと、両方守ってくれるんだ、って。
 リョウの気持ちはあの頃と変わってないんだ。あたしはどんどんリョウのことを好きになってるのに、リョウにとっては、あたしはまだ小さな女の子のままなんだ。
「カーヤ、あたし、リョウに好かれてないのかな」
 そう言ってしまってから、あたしはカーヤがリョウに断られたばかりなんだってことを思い出した。こんなこと、今カーヤに相談することじゃないのに。
「ごめんなさいカーヤ! 今のなしにして!」
「いいわよ。あたしはずっと考えてきて、こうしてユーナと話してみて、やっぱりリョウのことは諦めなきゃいけないんだって判ったから。……あたしにはね、リョウのことはよく判らないけど、もしかしたらリョウはとても自分に自信がないのかな、って、そんな風に思えたの。もしもね、ユーナがこれからずっと、リョウと一緒に生きていく決心があるなら、あたしはユーナの方から告白した方がいいと思う。ユーナのそういう気持ちをきちんとリョウに伝えなかったら、リョウはずっと誤解したままかもしれないわ」
「あたし、リョウに言ってるのよ。リョウのことが大好きだ、って。今日もちゃんと言ってきたのよ」
「それもたぶん伝わってないわ。賭けてもいい。……自分では判らないのね。ユーナはね、そういうことが相手に伝わりにくい人なのよ」
 あたしには、カーヤが言う「相手に伝わりにくい人」という意味がぜんぜん判らなくて、首をかしげた。


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 あたしはできればずっとリョウと一緒にいて、結婚してリョウの家族になって、そのうち子供が生まれて、いつまでも幸せに暮らせたらいいな、って思ってた。昨日、マイラや母さまにリョウの話を聞いて、そのあとほんの少しだけリョウの本心を見ることができたから、リョウがどんな人なのかは判ったような気がしていたの。小さな頃、リョウは回りの人に自分を理解してもらえなくて、すごく傷ついて、だからシュウの真似をすることで愛される人になろうと思った。シュウの真似は今でも続いてるんだ。だから本当のリョウはまだ小さな男の子のままで、理解されないままで、今でもずっと傷ついているんだ。
 もしもリョウがシュウの真似をして優しい人にならなかったら、あたしはリョウを今みたいには好きにならなかったかもしれない。逆に意地悪で嫌な男の子だと思い続けてたかもしれない。でも、あたしだってだんだん大人になって、マイラや母さまがリョウを理解しようとしたように、リョウを理解しようとしたかもしれないんだ。そして、すごく時間がかかっても、いつかはリョウを好きになったかもしれない。
 リョウの心の中には傷ついたままの小さな男の子がいる。あたしのためにあたしのシュウになろうとしてくれたリョウは、傷を癒すチャンスを失ってしまった。大人になっても本当の自分をまわりに見せることができなくなってしまった。小さなリョウを傷つけて、リョウを変えてしまったあたしが、こんどはリョウの傷を癒してあげなければいけないんだ。
 あたしはリョウにたくさんの優しさをもらったんだもん。次はあたしがその優しさをリョウに返す番。本当のリョウのままでいてもリョウはちゃんと愛される人なんだって、あたしが教えてあげなきゃいけないんだ。
 朝、目が覚めてからベッドの中で昨日のことを復習したあと、ようやくあたしは身体を起こした。カーヤはもう起きていたみたいで、台所からは朝食を作る包丁の音が聞こえていた。あたしがドアを開けると、カーヤは振り返って、あたしに微笑んでくれた。
「おはよう、ユーナ。昨日はちゃんと眠れた?」
 そう言ったカーヤは笑顔だったけど、カーヤの方はちゃんと眠れてないことがあたしには判ってしまった。
「おはようカーヤ。あたしはよく眠れたわ。昨日は久しぶりに歩き回ったから疲れちゃってぐっすりよ」
 あたしも、なんとなく本当のことは言わない方がいい気がして、眠りにつくまでにちょっと時間がかかったことは黙っていた。


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 朝食をはさんで、あたしはまた日課の物語を読み始めた。セーラの物語はもう終わりに近づいていた。17歳になったセーラのもとに、ある日災厄が訪れる。北の連山の中腹にある湖から、大きな怪物が姿をあらわしたの。
 永い眠りから目覚めた怪物は村を襲って、不運な村人が何人か怪物の餌食になってしまった。村の人たちは神殿のある東の山まで逃げてきて、神殿までの道はジムたちきこりが中心になって山から切り出した木材を使って封鎖した。怪物はたった1頭なのに、小さな人間の力ではどうすることもできなかったんだ。セーラは昼も夜もなく必死で祈りを捧げた。村を、災厄から救うために。
 命の巫女が怪物を村から追い払うために志願者を集めて、その中には神官のアサもいた。セーラのためにアサは自ら怪物と戦って、その戦いで命を落としてしまったの。アサはずっとセーラに恋をしていて、でもアサの恋は最期まで報われなかったんだ。物語を読みながらあたしは涙が止まらなかった。そしてセーラも、アサの死に、初めて大切な人が死んでしまうことの悲しみを知ったんだ。
 物語の中、セーラの心の描写には、アサに対する想いがたくさん綴られていた。その描写は最愛の人を亡くした時に匹敵するもので、あたしはセーラがジムではなくアサに恋をしていたような錯覚に陥っていた。まるで、セーラがアサを追って死んでしまいそうな風にも思えたの。どうしてなのか判らなかった。だって、セーラが恋をしていたのは、間違いなくジムの方だったんだもん。
 この物語は祈りの巫女の物語だったから、命の巫女が怪物をどう退治したのか、そのあたりの詳しいことは書かれてはいなかった。ジムは村のみんなを守ることだけに力を尽くして、祈りの巫女であるセーラはずっと祈ることで戦いを続けて、やがて怪物が再び湖の中へ沈むのとほぼ同時にセーラも力尽きてしまう。そんなセーラの亡骸をジムは一晩中抱きしめていた。セーラが、心安らかに眠れるように。
 この日、あたしは丸1日をかけて、長かったセーラの物語を読み終えることができた。セーラと一緒に怒ったり、悲しんだり、まるで自分がセーラになってしまったかのように物語の中に入り込んだ。最後もすごく感動的で、ジムがセーラを抱きしめているところではやっぱり涙が出てきちゃったけど……。でも、なぜかあたしにはどうしても納得できなかったの。アサが死んだ時にどうしてセーラはあんなに泣いたのか。最後にどうしてジムがセーラを抱きしめたのか。
 セーラの日記には、このあたりのことがいったいどんな風に書いてあるんだろう。カーヤに夕食に呼ばれて生返事を返しながら、あたしはタキにぜったいセーラの日記を読ませてもらおうって、そう決心していた。


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 このところお日様が沈むのがだんだんゆっくりになってきて、昼間の長さが長くなっていた。でも、それにしてもカーヤがあたしを夕食に呼んだ時間は、いつもよりもずいぶん早い気がしたの。今日はあたしも気をつけていて、お昼ご飯だってちゃんと食べることができたから、あたしの身体を気遣ってくれた訳でもないみたい。テーブルにお皿を運び終えてにっこり笑いかけるカーヤに、あたしはあたりを見回しながら訊いてみた。
「今日のお夕飯、こんなに早いの?」
 今はまだ夕方にも早い時間で、このまま食事を終えたとしても、まだ十分外を歩き回れそうな感じだった。
「ちょっと時間を変えてみたのよ。かまわないでしょう? お勉強ばっかりでユーナもお腹が空いたでしょうし」
 カーヤがそう言ったから、あたしはまたセーラの物語の感動がよみがえってきて、お夕飯のことでカーヤを追求する気持ちがすっかり消えてしまっていた。食卓でカーヤの夕食を頬張りながら、息もつかない感じで話し始めたの。
「今日ね、やっとセーラの物語が読み終わったのよ。最後がすごく感動的だったの」
「ほんと、おめでとうユーナ。頑張ったわね」
 それから食事の間はずっとセーラの物語をカーヤに話しつづけて、食べる方がお留守になってちょっと時間もかかっちゃったけど、やっと食事も終わりかけていた。そのとき、あたしの話が一段落ついたのを見計らって、カーヤが静かに言ったの。
「ユーナ、もしかして気付いてない? 今日はリョウがきてないのよ」
 カーヤに言われなくてもあたしも気付ていた。でも、あたしには今日はリョウがこないだろうって判ってたから、そんなに気にはしてなかったんだ。リョウは、カーヤの心の傷が完全に癒えるまで、あたしの宿舎にくることはないと思うから。
「リョウはまだカーヤと顔を合わせるのが気まずいみたい。心配しないでカーヤ。そのうちまたきてくれると思うわ」
「ユーナがそうのんきだから心配なのよ。お願いユーナ。今日はあなたの方からリョウに会いに行ってあげて」
 そうして溜息をついたカーヤに、半ば追い出されるようにあたしは宿舎をあとにした。リョウの家への暗くなりかけた道を歩いている間、不意に、カーヤが夕食を早くしてくれた理由を理解していた。


60
 けっきょくこの日、あたしはリョウに会うことができなかった。リョウの家までたどり着いても中には誰もいなくて、しばらくは帰ってくるのを待ってみたけれど、リョウはなかなか帰ってはこなかったんだ。最近はあまりなかったのだけど、以前のリョウは酒場でランドとお酒を飲むこともあったから、あたしはそれほど気にしていなかった。リョウだって、昨日みたいなことがあったら、誰かとお酒を飲みたくなるかもしれないと思ったから。
 翌日、あたしはセーラの物語を書庫に返しに行って、そこでタキと少し話をした。タキは書庫の隣にいくつかある作業部屋の方じゃなくて、わざわざ書庫の中に1ヶ所だけある作業机を他の神官に空けてもらって、そこにあたしを通してくれたんだ。作業していた2人の神官は快く場所を空けてくれたから、なんだかあたしの方が恐縮しちゃったの。そうタキに言うと、タキはにっこり笑ってあたしに言った。
「祈りの巫女は気にしなくていいんだ。神殿や神官は、もともとは巫女のためにできたんだから。ここでは神官よりも巫女の方が優先なんだよ」
 あたし、今までそんなこと考えたこともなかったから、ちょっと驚いてしまったの。確かに神官たちはいつも巫女には親切だったけど、そんな決まりがあったなんて思ってもみなかったから。
「神官はいつも巫女に譲らないといけないの? そんな決まりがあるなんて知らなかったわ。どうして?」
「別に決まりがある訳じゃないんだけどね。みんな自然にそう思ってるんだ。祈りの巫女はこの村に最初に生まれた巫女の話を知ってる?」
 この村に最初に生まれた巫女の話。それは、あたしたちが巫女になったとき、最初に話してもらう物語だ。まだ、この村ができたばかりだった頃、初めて生まれたのは予言の巫女。小さな女の子は、言葉を覚える頃にはもう予言の力を持っていて、この村を巫女のいる村へ導く第1歩を築いたんだ。
「予言の巫女の話を知らない巫女はいないわ。あたしもそのくらいは覚えてるよ」
 あたしがちょっとだけふくれて言うと、タキは苦笑いで返した。


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