続・祈りの巫女
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あたしが実家に帰るのは本当に久しぶりのことだった。その前はまだ寒い頃で、この道にもまだ少し雪が残ってたのを覚えてる。神殿は遠いって言ったって半日も歩くわけじゃないんだから、本当はもっと頻繁に帰ってこられるはずなのに。あたしはこのあいだ母さまが帰りがけに言った、またいつでも帰ってきてね、って言葉を思い出して、ちょっと申し訳ない気持ちになっていた。
風景はあたしが暮らしていた時とぜんぜん変わらない。いつもの道を通って、ドアの前に立つ。ちょっと迷ったけど、ドアをノックすると、すぐに母さまの声が聞こえてきた。ドアを開けて迎えてくれた母さまに、あたしはちょっと照れた笑顔を向けた。
「あら、ユーナ」
「ただいま、母さま」
「まあ、久しぶりね。さ、入ってちょうだい」
家に入るとそこには籠に入った洗濯物が積んであって、あたしは母さまがお洗濯から帰ったばかりだったことを知った。母さまはあたしのためにお茶を用意してくれようとしたけれど、お茶ならマイラのところでいただいてきたし、母さまの仕事を邪魔するのも悪い気がしたから、いっしょに洗濯物を干すのをお手伝いすることにしたの。
「気を遣わなくていいのよ、ユーナ」
「ううん、いいの。だって神殿ではお洗濯なんかすることないんだもん。たまにはお手伝いしないと忘れちゃうわ」
「そう? それじゃ、お願いするわね。このところ裏のサジンの洗濯物も一緒に洗ってるの。覚えてる?」
「もちろんよ。元気にしているの?」
「最近ちょっと足が弱くなってね。でもまだまだ口は達者よ」
サジンは近くに住んでいるおじいさんで、もう70歳近くなるのかな。母さまはあたしのお洗濯が減ったから、その代わりにサジンの分を洗ってあげてるんだ。家の外の物干し台に行って、あたしは母さまのお手伝いをしながら、しばらく世間話に花を咲かせていた。お洗濯が思いのほか早く終わったからだろう、いつもよりも早く、母さまはお茶の用意をしてくれた。
母さまのお茶を味わうのも久しぶりで、あたしは改めて懐かしさのようなものを覚えていた。
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「お昼ご飯は食べていくんでしょう?」
「うん、そのつもり。今日はね、久しぶりに母さまのお手伝いをしようと思ってきたのよ」
「それは嬉しいわね。夜は? やっぱり神殿に帰るの?」
「今日は神殿には何も言わないで出てきちゃったから。ここに帰ってきたのも、本当はマイラのお祝いのついでなの」
「まあ、ついでにされちゃったのね。でも帰ってきてくれて嬉しいわ。ユーナがいないと、この家もずいぶん広いのよ」
あたしはまた、しばらく帰ってこなかったことを申し訳なく思った。母さまは父さまがいない間、この家で1人きりなんだ。今はまだ弟のオミがいるけど、オミだっていずれは独立するんだもん。そうなったら母さまは本当に1人きりになっちゃうんだ。
「今日はオミは? またソズと遊んでるの?」
母さまはお茶を一口飲んでから、静かに言った。
「このところね、オミは父さまの工房に行ってるのよ。父さまの仕事に興味があるみたいね」
あたしの父さまはガラス職人をしている。あたしは母さまの言葉に驚いた。
「オミはガラス職人になりたいの?」
「そうはっきりとはまだ決めてないみたいね。今はまだ父さまの仕事をうしろで見ていて、お掃除を手伝ったり、雑用をさせてもらっているらしいわ。だから朝は大変よ。母さまは2人の分のお弁当を作らなくちゃならないの」
あたしはしばらくは母さまの話に返事ができないくらい驚いていた。オミはあたしよりも3歳年下で、だからまだ11歳なんだ。あたしは小さな頃から祈りの巫女になるんだって言われて育ったけど、11歳の頃はたぶん、その仕事を一生やっていく心構えなんてぜんぜんできてなかった。リョウだってそんなに早く大人になんかならなかったよ。あたしが10歳くらいの頃にようやく狩人の見習いをはじめて、だからあたし、リョウと遊べなくなったのがすごく寂しく思えたんだ。
「ユーナが祈りの巫女になってから、オミは急に大人びたわね。男の子としての自覚が出てきたのかもしれないわ」
あたしの知らないところで、家族がどんどん変わっていく。あたしはその事実を初めて突きつけられたような気がしていた。
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祈りの巫女になった1年と少し前、あたしはこの家を出て、独立した。ここはもうあたしの家じゃないんだ。母さまも父さまもオミもあたしの家族だけど、あたしだってみんなの家族だけど、ここはもう、あたしの家じゃないんだ。
「母さま、寂しい?」
あたしが訊くと、母さまはちょっと首をかしげるようにして微笑んだ。
「そうね、少し寂しい気がするけど、子供が大人になるのはあたりまえだもの。ユーナはたった13年で祈りの巫女になってしまったわ。オミだってもう何年もしないうちにこの家を出て行ってしまう。親が子供を育てる時間て、本当に短いのよ。だからいつまでも寂しいなんて言ってられないわ。……そうね、これから子供を育てられるマイラのことが、少しだけ羨ましいわね」
母さまの話を聞きながら、あたしは母さまの話し方も前と違うことに気がついていた。もしかしたらあたし、少し敏感になりすぎてるのかもしれない。今まで気付かなかったことにすごくたくさん気付いてるの。もしかしたら、母さまはずっとそうしてきたのかもしれない。あたしが気付かなかっただけで、母さまはあたしが祈りの巫女になってからずっと、あたしをそう扱ってきたのかもしれないんだ。
いつの間にか、母さまはあたしのことを、1人の大人として見て話していた。あたしが12歳の頃は母さまはあたしに対して弱音を吐くようなことはしなかった。もともと母さまは簡単に弱音を言ったりしない人だったけど、今の母さまはほんの少し、あたしに対して弱いところを見せているから。
大人として扱われるって、こういうことでもあるんだ。あたしは誇らしく思ったと同時に、少しだけ母さまが小さくなってしまったような気がして、ちょっと寂しく思った。
「母さまだってまだ間に合うわ。だって母さま、マイラとそんなに違わないでしょう?」
あたしがそう言ったら、母さま本当に顔を赤くしちゃったの。
「ユーナ、あなたって子は……。マイラはね、特別なのよ。1人だけ授かった子供をたった5歳で亡くしてしまって、それでもずっと一生懸命に生きてきたから、神様が再び子供を授けてくださったの。母さまは2人も子供を授かって、その2人はこんなに大きくなって、今では自分の力で生きようとしているわ。母さまほど幸せな人は他にいないのよ。母さまにはもう神様は何も与えてくださらないわ」
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そうだ、母さまはいつも言ってたんだ。何もかもを欲張ってはいけない。何かをなくしても、一生懸命に生きていたら、それはきっと神様が見ていてくださるんだ、って。マイラの子供はあたしの祈りだけで生まれたんじゃない。マイラがずっと一生懸命に生きていたから、あたしの祈りを聞いて神様が授けてくださったんだ。あたしの祈りだけでも、神様の力だけでも、人間は幸せになんかなれない。自分で一生懸命にならなかったらだめなんだ。あたしができることって、一生懸命に生きている人がいて、その人のことを神様に知らせるって、たったそれだけのことなんだ。
「あたしは幸せな人のことを祈ってもダメなのね。でも、母さまのこれからの幸せを祈ることはできるわ」
「母さまのことはいいわよ。ユーナには村の人たちのことをたくさん祈って、できるだけたくさんの人を幸せにしてあげて欲しいわ。そうね、オミのことは祈ってあげて。怪我や病気をしないで、結婚して幸せになれるように」
「うん、判ったわ。これからはオミのことも祈るようにするわ」
あたしがこれからしなければならないこと。マイラが幸せになったときに見失ってしまったその答えはまだ見えないけれど、あたしは祈ることをやめちゃいけない。たとえ小さなことでも、少しずつ祈っていれば、少しずつみんなが幸せになっていくんだもん。それからあたし、もっと村の人と話をしなくちゃいけないんだってことにも気付いた。一生懸命生きている人がいても、あたしがそれを知らなかったら、神様に届けることだってできないんだから。
お昼ご飯は母さまと2人だけで、あたしはお手伝いをしながらまたカーヤが言ったことを思い出した。でも、あたしだって料理を練習しなかったらいつまでたっても上手にならないから、野菜に心の中で謝りながら包丁を握っていた。ごめんなさい、そしてありがとう。いつか必ず上手になって、おいしく食べてあげられるようになるからね、って。
オミも父さまもいない食卓は初めてだった。あたしはテーブルのいつものあたしの席で、なんとなく広く感じる食卓を見ながら、母さまの昼食を久しぶりに味わっていた。
「ユーナは? 最近はどう? リョウは元気にしているの?」
訊かれて、あたしはなにから話をしようか、少し考えてしまった。
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「リョウは元気よ。今でも毎日あたしの宿舎に話しにきてくれるの。仕事の方も順調みたい」
あたしの様子が変わったことに気付いたのだろう、母さまはちょっと笑顔を曇らせた。
「リョウのことで何か心配事があるの?」
「ううん、心配事ってほどでもないの。ただね、……さっきマイラにちょっと相談してきたの。ねえ、母さま。リョウは小さな頃、あんまり素直な子供じゃなかったの?」
母さまは記憶を辿るように少し視線をそらした。
「……そうね、シュウが亡くなるまでのリョウは、少しだけ難しい子供だったわね。でも母さまはそんなに悪い子だとは思ってなかったのよ。たぶんそういう大人たちの気持ちを、リョウは他の子よりも少しだけ敏感に感じる子供だったのね。だから母さまにはそんなに反抗的じゃなかったの。……思い出したわ。まだ、そうね、ユーナが4歳にもならない頃、母さまはリョウにお菓子を渡して、ユーナと一緒に食べてちょうだいね、って言ったことがあるの。リョウはしばらくして戻ってきて、シュウが一緒だったから食べられなかった、って、渡したお菓子をぜんぶ返してくれたわ。その時のリョウったら、とても悔しそうでね。
大人ならね、リョウがお菓子を持っていったときにユーナとシュウが一緒にいたら、3人で食べればいいと思うわ。べつに母さまはリョウに、ユーナと2人だけで食べて、なんて言わなかったんだもの。でも、リョウは母さまが言った、ユーナと一緒に食べてね、っていう言葉を、2人だけで食べて欲しい、って解釈したのね。だからリョウはとても素直に母さまの言ったことを守ろうとして、でも守れなかったから、母さまに謝りにきたのよ」
あたしは、母さまの話を聞きながら、小さかったリョウの姿が見えたような気がした。
「母さまね、リョウがかわいそうになっちゃって。いろいろ考えたんだけど、けっきょくその時はお菓子を半分だけリョウに渡して謝ったの。この次はシュウの分も作っておくわね、って。それをどう思ったのかは判らないけど、リョウはちゃんと小さな声でお菓子のお礼を言ってたわ。難しい子だったけど、でもリョウはとても素直な子でもあったのよ」
母さまの話であたしは、小さなリョウがどうして反抗的だったのか、少しだけ判ったような気がしていた。
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リョウはきっと、すごく不器用な子供だったんだ。
自分の気持ちを大人たちに話したり、判ってもらったり、そういうことがすごく苦手で、でも判って欲しかったから、わざと素直じゃない子供になってたんだ。
あたしに意地悪したのも同じなんだ。あたしがシュウと遊ぶことだけに夢中で、ぜんぜんリョウの方を見なかったから、あたしに自分を見て欲しくて意地悪ばかりしていたんだ。
「リョウはね、ユーナ。他の子よりもほんの少しだけ要領が悪かったのだと思うわ。大人は素直な子供の方が愛情を注ぎやすいと思うから、子供もそれを察して自然に素直になっていくものよ。そういう子供が多いから、大人もリョウのような子供にどう接すればいいのか、よく判らないのよ。だから心にもないことを言ってしまったり、きつい態度を取ってしまったりして、リョウ自身もどうすればいいのかよく判らなくなってしまったのね。あの頃はリョウの周りにいたみんなが不運な悪循環に陥っていたのだと思うわ」
そうか、リョウにはきっかけが必要だったんだ。
素直になれば大人に愛されることが判るきっかけ。人に優しくすれば、同じ優しさをもらえることが判るきっかけ。そして、そのきっかけが、シュウが死んだことだった。リョウは変わりたかったんだ。だからシュウのようにあたしに優しくしようと思って、それをきっかけにして、まわりと溶け込める優しい人間に変わっていったんだ。
「母さま、リョウはね、シュウを失ったあたしのシュウになろうと思ったの。それって、リョウにとってはいいことだったのね」
母さまは笑顔だったけど、少しだけ、笑顔の中に困惑を含んでいた。
「そうね、結果的にはいいことだったのかもしれないわ。でも、母さまは小さな頃のリョウも大好きだったから、あのリョウが大人になるところも、少しだけ見たかったわね。……もちろん、今のリョウも母さまは好きよ。勘違いしないでユーナ」
母さまの言うこともなんとなく判る気がした。でも、あたしにたくさん優しくしてくれて、あたしに祈りの巫女になる自信をくれて、それからもずっと励ましてくれたのは優しく変わったリョウだったから、あたしはリョウが変わってくれてよかったと思った。
小さなままのリョウだったら、あたしはリョウを好きにならなかったかもしれない。
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あたしは少し臆病になってたみたい。マイラと話したときには、本当のリョウのことを知りたいと思ったのに、母さまと話したあとはなんとなく今のままでもいいような気がしてしまっていた。自分の気持ちにどんどん自信がなくなって、怖くなってしまったのかもしれない。本当のリョウを知ったら、あたしの中からリョウを好きな気持ちがなくなってしまうような気がして。
あたしはずっとリョウを好きだったから、その気持ちがなくなってしまったら、あたし自身も何かがなくなってしまうような気がしたから。
そのあと、あたしは母さまに、一緒に暮らしているカーヤのことや、神殿の草むしりのときにタキにしてもらった話、昔の物語のセーラとジムの恋の話なんかを夢中になって話していた。時々お布団を取り込んだり、お茶を入れ替えたりしながら、母さまもあたしの話にずっと耳を傾けていてくれた。あんまり夢中で話しすぎて、あたしはお日様が傾いてきていたことにもぜんぜん気付かなかったの。母さまがそろそろ夕食の支度をしなければって、席を立ってから、ようやくあたしはそのことに気がついていた。
「たいへん、もうこんな時間なんだ。母さま、あたし、帰らなきゃ」
「やっぱりお夕飯は一緒に食べていけないのね。もうすぐ父さまとオミが帰ってくるのよ」
「ごめんなさい。本当は会いたかったけど、暗くなってからだと道が見えないの」
「父さまが帰ってくればランプがあるんだけど……。そうね、あんまり引き止めてもユーナが困るものね。父さまには母さまが伝えておくわ。またいつでも帰ってきてね」
「うん、ありがとう」
そうして母さまにお別れを言って、あたしはできるだけ急いで、暗くなり始めた道を神殿へ戻っていった。急いだ甲斐があってどうにか真っ暗になる前には神殿に戻ってくることができたけど、この時間だとそろそろカーヤが夕食を作り終える頃で、もうリョウは帰ったあとだってことに気がついた。あたし、またリョウのことすっぽかしちゃったんだ。明日こそは謝らなくちゃって思って、ただいまを言いながら宿舎のドアを開けた。
だけど、宿舎の中は真っ暗で、カーヤがいるはずの台所には誰もいなくて、それどころか、夕食の支度さえもできていなかったの。
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「カーヤ……?」
あたしはちょっと不安に思いながら、ドアを入って、とりあえずテーブルの上にかけてある灯りに火を入れた。それからカーヤの寝室をノックする。返事はなくて、だから念のためと思ってドアに手をかけて、ゆっくりと開いていった。この部屋も真っ暗だったけど、ベッドの上にかすかに人の気配を感じたから、あたしは部屋に一歩踏み入ってまた声をかけた。
「カーヤ? いるの?」
返ってきたのは、あたしにはぜんぜん予想できない言葉だった。
「入ってこないで!」
あたしはただ驚いてその場に立ち尽くした。思いもかけない、カーヤの鋭い声。しかもカーヤのその声はまるで泣き声のようだったの。あたしはしばらく絶句してしまって、そんな、緊張をはらんだ沈黙の中に、やがてかすかにカーヤのすすり泣きが聞こえてきた。カーヤに何かあったんだ。あたしも心臓がドキドキしてきて、でもとりあえず何があったのか聞き出さなきゃと思って、恐る恐るカーヤに声をかけていた。
「カーヤ、どうしたの? ……何かあったの?」
カーヤは、もしかしたらずっと泣いてたのかもしれない。しゃくりあげているような声で言ったの。
「……ごめんなさい、ユーナ。あなたが悪いんじゃないって判ってる。リョウが、あたしのこと、なんとも思ってなくたって、それは仕方がないことなの。だって、あたしが勝手に好きになったんだもの。でも、あたし、判ってるけど、今はユーナの顔を見たくない。お願い、ユーナ、出て行って。このままだとあたし、ユーナにひどいことを言いそうだから……」
ベッドに顔を伏せたまま、カーヤは途切れ途切れの言葉で、そう言った。
カーヤは、リョウのことが好きだったの? あたしには何も言わなかったけど、カーヤはずっとリョウのことを見ていたの?
今日、リョウがここへ来て、カーヤはリョウに告白したんだ。そして、リョウはカーヤを断ったんだ。
知らず知らずのうちに、あたしは宿舎を飛び出していた。そして、リョウの家へ向かう坂道を駆け下り始めたんだ。
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真っ暗になった坂道を駆け下りている間、あたしは自分で自分の心が判らなかった。自分が何を考えているのかも。ただ、あんな風に泣いているカーヤを見るのが初めてで、傷ついたカーヤの泣き声が耳について、あたしの心の中から離れなかった。
リョウの家のドアを勢いよく開けた。リョウは食卓に座っていて、あたしを見ると驚いて目を丸くした。
「リョウ! カーヤを泣かせないでよ!」
テーブルの上にはお酒の瓶と杯。その杯を握ったままリョウは動きを止めた。
「カーヤはあたしの友達ですごくいい子なんだから! 料理が上手ですごく優しいんだから! どうしてカーヤじゃダメなの? どうしてカーヤを泣かせるのよ!」
そう、リョウに怒鳴りつけている自分の声を聞いて、初めてあたしは自分が泣いていることに気付いた。目の前が涙で曇ってしまって、あたしは両手でにじんだ涙をぬぐった。そうしてもう1度リョウを見る。
リョウの様子が変わっていた。あたしがあまり見たことのない、本気で怒ったような表情をして、あたしを睨みつけていた。こんなリョウを1度だけ見たことがあった。あの時だ。あたしが、禁じられた森の中で沼にはまった時、差し伸べられたリョウの手を拒んだあの時1度だけ見せた、リョウが本気で怒った顔。
息が止まるくらい怖かった。いつもリョウは優しくて、あたしはリョウの微笑んだ顔しか知らないから。それなのにあたしはずっと、訳もなくリョウを怖いと思っていたの。いつも優しかったリョウを、なんとなく怖いと思っていたの。
これが、本当のリョウ? あの優しさの向こうには、こんなに怖いリョウがいたの……?
「ユーナ、おまえ、自分がなにを言ってるか、判ってて言ってるのか?」
あたし、本気でリョウを怒らせたんだ。こんなにリョウが怖くなるくらい、優しかったリョウがこんなに変わってしまうくらい。
「オレにどうしろって言うんだよ。カーヤがどんなにいい子だって、好きでもない女と付き合えるわけないだろ。オレにあれ以上の何ができるって言うんだ! オレがどうすればおまえの気が済むんだよ!」
怖くて、あたしはいつの間にか、リョウの家を飛び出していた。
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できるだけ早くそこから遠ざかりたかった。だけど家の外は真っ暗で、目に涙がにじんでて、なかなか思うようには進めなかった。リョウが、あたしのために作ってくれた手すりのついた階段。その階段を途中まで上がった時、いきなりうしろから腕を掴まれて心臓が止まるかと思ったの。
「ユーナ、待って!」
リョウの声だった。あたしは掴まれた手を引き離そうと少し腕を振りながら再び走り始めようとしたけど、リョウの力は強くて、いつの間にか両方の腕をうしろから掴まれていたの。
「逃げないでくれ、ユーナ。頼むから。……ユーナごめん。オレ、酒に酔ってて、少しおかしくなってた。ユーナにあんなこと言うつもりぜんぜんなかった。本当なんだ。……これからもっと優しくする。今までよりもっと優しくなるから。お願いだユーナ。オレのこと怖がらないでくれ。優しい人になるから。もっと優しい人になるから……」
あたしは、リョウの声を聞きながら、しだいに心が落ち着いてくるのを感じた。途中からは逃げるのもやめていた。背中を向けたあたしには見えなかったけど、リョウはあたしの両腕を握ったまま、その場に膝をついてしまったみたい。まるで、あたしに土下座しているみたいに。
今初めて、リョウがどんな人なのか、本当に判ったような気がする。だからあたしは、もうリョウを怖いとは思わなかった。そのまま、あたしはリョウを振り返らなかった。リョウが今どんな表情でいるのか、想像ができてしまったから。
「……優しい人じゃなくてもいいよ」
あたしの言葉を聞いて、リョウが顔を上げて息を飲む気配がした。
「さっきはごめんなさい。あたし、リョウがいつもと違うからびっくりしたの。でも、ずっと一緒にいて、時々リョウが怒った顔を見たら、たぶん慣れちゃうと思うわ。それどころかきっと、あたしもたくさん言い返して、大喧嘩ができると思う。あたしはリョウのことが大好きだから、ちょっとくらい喧嘩しても嫌いになんかならないもん。……あたしは怖くないから、優しい人じゃなくても大丈夫よ」
いつの間にか、リョウはあたしの両腕を掴むのをやめて、立ち上がっていた。
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